(三)
――こぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くやもしほの 身もこがれつつ
一見、藻塩を焼くのと恋に焦がれる身を重ねた歌。
けどそれは、この世界にはないはずの、百人一首の歌。
つまり、歌を詠んだ(ってかパクった)関白が転生者なのか?
別に転生者が年配であってもおかしくない。オレぐらいの年齢でなきゃダメだなんてルールはない。
身分があってもオッサンでも別に構わない。
けど。
(よりによって、関白かよ)
マズい。
誰に敵認定されても、「かかってこいやあっ!! ゴルアァ!!」と内心気勢を上げてたんだけど。それが関白に……、関白となると、「かかってこなくても結構でございます。はい。イキってごめんなさい」。ジャンピング土下座つき。
だって、関白だぜ?
この国を統べるのは、帝だけどさ。実際の権力を掌中に収めてるのは、関白。
今の帝だって、先々代関白だった雅顕の祖父の娘、ようは雅顕の叔母の子だし。いわゆる摂関政治、外戚、閨閥政治ってやつ。雅顕の父親も娘、承香殿の女御を入内させ、次代の帝を生むように仕掛けていた。もちろん、今関白も同じ。姉の麗景殿の女御で失敗したから、妹藤壷の女御を入内させた。今の帝に子どもが生まれたら、またその子に雅顕か右近少将の娘が入内するんだろう。血が濃くなりすぎる不安はあるが、それが今の政治形態なんだから仕方ない。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
この世界はオレの世界だもんね。満月のように、欠けることもない、最高のオレ様の世界だもんね――みたいな歌を詠んだヤツがいたが、今の関白の状態はそれに近い。いや、孫皇子が生まれてないから、満月一歩手前。とりあえず甥が帝なので、ほぼほぼ盤石。かったい石の上にお座りでやんす。
そんな人に対して、ペーペー六位蔵人がどう太刀打ちすりゃあいいんだよ。
関白が「あ、コイツ気に入らねえわ」ってなったら、明日にはペイッて内裏から追い出されちまう。追い出されたらまだいい。「あ、コイツ気に入らねえや」で、明日はゴロリとオレの体が鴨川の土手に転がって、頭がカプカプ流れていくかもしれねえ。頭と体、永遠の別れ。
そんなおっそろしい権力の塊、関白。ソイツに目ぇつけられるとなると……。
「どうしたの、兄さま。元気ないわね」
いつものようにいつもの承香殿の東の廂。
いつものようにいつもの果物剥き係。けど……。
「柑子、嫌いなの?」
今日のご進物は、柑子。剥いてやらなくても、各自で剥ける。
「いらないなら、わたしが食べてあげるけど?」
「いる」
考えるのをやめて、柑子の皮むきに集中。柑子は、尻の辺りに指をブスッと刺すと皮が剥きやすい。
「なあ、彩子」
「なに?」
「本当にここに残らなきゃダメか?」
刺した親指。そこから丁寧に、ゆっくりと皮を剥いていく。
「ここに残って女御の恋愛を応援しないとダメか?」
オレがここにいる理由。
帝と女御の恋に気づいた彩子が、その行く末を見守りたい、応援したいと言い出したから。
薄情と言われるかもしれないけど、オレにしてみれば、そんなのどうなろうと構わない。関白の願う通り藤壷の女御に子が生まれても、承香殿の女御が帝とラブラブになっても。そのせいで、誰がどうなろうと。
「オレと一緒に、どこかの国に行くとか。そういうの、ダメか?」
柑子から顔を上げ、彩子を見る。
「どうしたのよ、兄さま」
柑子を一房咥えたままの彩子の顔。
「最近の兄さま、なんかヘンよ」
「オレが変なのは、いつものことだろう」
「うん、それはそうなんだけど……」
あ、少し否定してほしかった。
関白に目をつけられたオレ。オレがどこかに逃げたとしても、ゴロリと河原に転がることになっても、次にターゲットにされるのは彩子だ。オレがいなくなっても、彩子がオレからなにか聞いているかもしれない。そう思われたら、彩子も河原にゴロリの運命になってしまう。
彩子をここに置いていくわけにはいかない。だから。だから――。
ピュッ――。
「ふぎゃっ!! さっ、彩子っ!?」
うつむいた顔にかかった何か。目をこすり、顔をしかめながら彩子を見る。
「しっかりしてよ、兄さま」
彩子の手には、折り曲げられた柑子の皮。って、引っかけられたのは柑子の皮汁?
どうりで、目がシカシカするわけだ。
何度こすっても、目が痛い。涙出ちゃう。
「仕事でどんな失敗をしでかしたのか知らないけど。兄さまらしくないわよ」
いや、仕事で失敗したわけじゃなくてだな――。
「兄さま。悩んでることがあるなら、ちゃんと話して。そりゃあ、わたしじゃ全然役に立たないかもしれないけどさ。それでも一人で悩んで抱え込まないでよ。せっかくの兄妹なんだよ? 少しぐらいは頼ってよ」
「彩子――」
「兄さまっていっつもそうだよね。何か知らないけど、一人でウンウングルグル悩んでさ。いきなりトチ狂ったこと言い出すの」
「と、トチ狂っ――?」
「悩んで煮詰まるぐらいなら、少しは相談してよ」
「さや――ンガッ」
開きかけた口に柑子、一房。彩子の指がねじ込んだ。
「ねっ」
ニッコリと笑顔つき。
その笑顔を見ながら、ねじ込まれた柑子を咀嚼する。
やっぱ、敵わねえな。
「それに。わたしが頼りにならなくっても、他にも頼れる人はたくさんいるじゃない」
「頼れる人?」
「ほら、兄さまの子分? 弟子の武士とか、この間来てた検非違使とか」
ああ、忠高と史人のことか。
「それに。それにね……ま、雅顕さま……とか」
おいこら、彩子。どうしてそこでポッと顔を赤らめるんだ? 伏せ目がちに、両手の指を組んだりするな。乙女チックすぎて気持ちわりい。
「兄さまの悩みを雅顕さまにご相談して。その解決に向けて、お手を借りるの。そしたらさ、『彩子どのは、なんて兄想いの素晴らしい女性なのだ』って思っていただいて。そこから『そんな情の厚い方とこそ、恋を育みたいものよ』とかなんとか……。キャー!! やだもう!! わたし、どうしようっ!!」
バシ、バシ、バシッ!!
「たっ、ゲホッ、叩くな!! ゲホッ」
勝手に妄想して照れるのはわかるが、照れてこっちの背中をバンバン叩くんじゃねえ!! 飲み込みかけた柑子、思いっきりむせた。
「わかった。わかったよ。オレももう少しだけここで頑張ってみる」
「なんかあったら、わたしも一緒に土下座してあげるから。安心して、兄さま」
「オレが謝るのが前提なのかよ」
「どうせ兄さまの悩みなんてそんなもんでしょ。にっちもさっちも行かなくなって、ドツボにハマってさあたいへん!! みたいな」
「うわ、ひでえ」
目尻に滲んだ涙を拭う。
まったく。
目はシカシカするし、喉は柑子のせいでイガイガする。
散々な目に遭った。散々な励まし方。
けど。
「ありがとな、彩子」
その髪をクシャッと撫でる。
キョトンとした彩子の、滑るような柔らかな髪。
「兄さま?」
――腹が決まる。
関白だろうが、なんだろうが、かかってきやがれ!! オレはここで全力で――
「――わり。尾張。尾張の!!」
「ひゃいっ!!」
飛び上がった声が裏返った――って、なんだよ。おじゃる麻呂かよ。
廂の間に立っていたのは、いつもの雅顕ではなく、極臈おじゃる麻呂。
なんでわざわざ承香殿に? そしてどうしてそんな肩で息してんだ?
「お主、早う襲芳舎へ行くぞ」
「へ? は? 襲芳舎?」
「鳴神が参るのじゃ!!」
鳴神?