(二)
「やあ、彩子どの。邪魔するよ」
にこやかに、こちらへ向かって歩いてくる人物。頭中将、藤原雅顕。
承香殿の女御の兄なのだから、ここに現れてもおかしくない人物だけど。
(やべっ!!)
焦る。
いくらなんでも、廂で瓜食う姿を見られるのは大変にマズい。瓜にかぶりついてるのもマズいが、女性、女房がそんなところに姿を晒していることがもっとマズい。仮にも女御つきの女房。はしたないと叱られるか?
「すまないね、兄妹で歓談しているところを」
「いえ、お気になさらず」
あ、すげえ速さ。あっという間に、御簾内に入った彩子。それも瓜の器だけちゃっかり持って。御簾の篠の目からのぞく彩子は、女房らしくすまして座っている。誰が瓜なぞ食しておりましたの? って顔。脇に瓜の器はあるけど。
とりあえず、お叱りもないし、彩子も瓜もちゃんと飲み下せたみたいだな。ンガ、ングッとならず、よかったよかった。
「今日の宴のことでね。少し成海を借り受けたいのだが、いいだろうか」
「どうぞ、ふつつかな兄ですが、それでもお役に立つのであれば」
こら、彩子。人を物かなんかみたいに、勝手に貸し出しすな。
「ありがとう」
そして、雅顕!! お前も勝手に借り受けるな。オレは物じゃねえんだぞ。
文句の一つや二つ言ってやりたいけれど、そこはガマン。ンガ、ングッと飲み込む。だって、コイツ、オレの上司だし? オレたちの家がお仕えする相手だし?
長いものには巻かれておく。グルグルグルグル、シッカリきっちり巻かれとく。偉きゃ白でも黒にする。それが上の者って奴なんだから、従うしかねえよなあ。
ってことで、瓜剥き係兼愚痴聞き係から、頭中将お仕え係に変更。ヤツが歩いていく後ろを付き従う六位蔵人の職務復活。
「今日の宴にね、歌を詠まなくちゃいけなくなってねえ」
前を行く雅顕が言った。
「歌、ですか?」
「お題は〝夏〟なんだがねえ」
「はあ……」
だから?
「恋歌ならつらつらと思い浮かぶんだがねえ」
「はあ……」
それで?
「成海、頼むよ」
つまりは、「代詠み、ヨロ!!」
「――また、ですか?」
「うん。いつもすまないね」
いや、そこ、ニッコリ言うとこじゃないからな。
「また」を強調してやったのに、笑って返されてしまった。少しも悪いと思ってない満面の笑み。「すまない」とすら思ってねえだろ。
軽く心のなかでムッとしながら付き従う。渡殿を通って、清涼殿へ。途中滝口の武士たちが、いかめしい顔つきで立っているのが見えた。
(夏。夏……ねえ)
むさくるし もののふの顔 見たりなば 暑苦しくて 脇汗びっしょり
……は、さすがにダメだから。
春過ぎて 夏来るらし もののふの 赤ら顔には 汗水タラリ
……も、ダメだから。ってか、めんどくせえ。
軽く目を閉じ、指でこめかみをグリグリ。よみがえれオレの記憶。
「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」
これでどうだ。
「うーん。悪くないけど、〝夏〟って直接的すぎないかい? 〝奈良の〟って平城の都に流れるのは佐保川だろう? 佐保川は小川ではないし、禊などするのもどうかと思うよ」
ってことで却下。
――いや、「ならの小川」は「大和国の奈良の小川」ではなく、「京の都、上賀茂神社の奈良社の前を流れる小川」なんだけどな。
説明面倒だから黙る。というか、文句はオレじゃなくて定家に言ってくれ。
そして、次。次? つぎ。つぎぃぃぃ?
頭が半回転しそうなほどひねってみる。
「五月待つ 花橘の 香を嗅げば……」
えーっと。えっと、後半、なんだっけ? 勢い込んで詠んだものの、ど忘れした。
「――もとなかかりて 安寐し寝さむ」
なんか混じった!! でもこれでいいや。どうだ!! 納得しろ!!
「ふむ。五月待つ 花橘の 香を嗅げば もとなかかりて 安寐し寝さむ――か。悪くないな」
お? 気に入ったか?
「成海は、かの藤壷の女房どのことを知っているのか?」
「へ? いや、全然……」
どうしてその話になる?
「彼女の薫物がね、橘の香りなのだよ」
――知らんがな。
半眼、ジト目のオレに大笑いする雅顕。
「いや、あれはよい香りであった」
だから知らねえって。
「御簾越しに、ほのかに漂う橘の香り。篠の目の隙間に、燭台の灯りのおかげでほんのり浮かび上がる彼女の姿。豊かに流れるような黒髪、襲ねの色目も素晴らしかった。彼女を思い出させる橘の香り。そうだな、あの香りを嗅げば、美しい彼女を思い慕われて、眠ることなどできそうにない」
ええーっと……。
どこから突っ込もう。
ウットリと目を閉じて、冗長に、陶酔するように語られてもなあ。
「あのぅ、お顔は拝されたのですか?」
美しいって表現をするのなら、「見た」んだよな? そのわりに、香りとか髪とか袿の色目しか言ってねえけど。
見て、男女のそういうことを、「イヤン、アハン、そこはぁ。ダメ、ダメ、イク~ン♡」みたいなことをして、「美人」って認定したんだよな? 彩子のためにも、この中将が藤壷女房と「した」のか「してない」のかだけでも知っておきたい。「した」のなら、彩子には絶対秘密。極秘事項。
「顔は知らぬよ。扇で隠されていたからな」
やっぱり。普通、普通はそうだよな。御簾の内に収まったって、顔は扇で隠すよな。どうかすると几帳の後ろに隠れて完全防御。女性が誰かに顔を見せるなんて、よっぽどのことだし。彩子みたいに御簾内どころか、廂の間で瓜にかぶりつくなんてのは、規格外だよな?
そして、この中将は「会う」以外のことはしていない、と。
「それでオカメヒョットコだったらどうするんですか」
「オカメヒョットコ?」
「尾張の言葉で、不美人、ブサイクって意味です」
「彼女は美人だ。詠む歌も素晴らしいし、添えられる花も手蹟も美しい。美人に違いないよ」
――末摘花だったら面白いのに。
その自信ありげな顔に、そんなことを思う。ことに及んでその不美人すぎる顔に驚いて、こけつまろびつほうほうの体で逃げ出す中将。あ、面白そう。
「五月待つ 花橘の 香を嗅げば――か。良い歌だな、中将の」
「主上」
その声に雅顕が笑いを収め、代わりに頭を垂れる。もちろんオレも。
清涼殿の東の廂。そこに庭を眺めるように立っていたのは、この建物の主。この日の本、和国を収める若き帝。
「その歌は、尾張が詠んだのか?」
「はい。僭越ながら、わたくしめが」
〝尾張〟というのはオレのこと。帝はオレのことを父親の官職、〝尾張国国司〟から〝尾張〟と呼ぶ。雅顕のことだって頭中将だから〝中将〟。帝であっても誰かの名前を直接呼んだりしないのが、ここでの流儀。
「なかなか良い歌詠みだな」
「恐れ入ります」
そこは、オレの手柄じゃないけど。オレ、知ってる和歌を混ぜ混ぜしただけだし。だけど、ここはオレの手柄にしておく。すまん。誰か知らない元の歌詠み。
「花橘。――橘、か」
あれ? 意外と気に入られた?
何度も口ずさむ帝。咀嚼するみたいに、そこだけくり返す。
「主上も花を愛でにいらしたらいかがです?」
その様子を見た雅顕が言い出した。
「飛香舎は、今花の盛りを迎えております。良き香りを愛でるためにも今宵おいでになるのもよろしいかと」
こら待て。
飛香舎って、藤壷のことじゃねえか。
花を愛でる。つまり、藤壷の女御のところに、そういうことをしにいってもいいんじゃない? って、敵に塩を大量に送りつけるようなことするな!! お前が推すべきは、実妹、承香殿の女御の方だろうが!!
「主上!! 飛香舎はあらゆる花が咲きすぎて、香りが入り混じってとんでもないことになっております。ここは一つ、楚々と花を一輪咲かせている承香殿などいかがでしょう」
僭越も不躾も身分違いも知るか!!
推せ、推せ、承香殿!! 彩子のためにも帝のお越し、承香殿ワッショイ!!
「承香殿……か」
あ、メッチャ嫌そうに顔しかめられた。
そうだよな~。うん。わかっちゃいたけど、やっぱりな~って気になる。
帝は、承香殿の女御を嫌っておいでだもんなあ。
帝が愛されたのは、麗景殿の女御。
帝の御子を孕まれ、里下がりした先で急逝した麗景殿の女御。
病死? 蛭? それとも呪殺? 毒殺? はたまた承香殿の女御による絞殺?
どれが正解なのかは知らないが、麗景殿の女御は子を孕んだまま亡くなり、帝は承香殿の女御を嫌悪された。
噂の真偽は知らないけど、まあ、あの女御ならお気に召さないのも、わかるっちゃあ、わかる。オレも一度だけご尊顔を拝する……、ようは会ったことあるんだけど、ニコリともしなければ、お喋りペラペラなんてこともなかった。
「アナタが、尾張の。……そう」
これだけ。
そりゃ、女御さまが下々、ギリ参内が許されただけの六位蔵人と話すなんてありえないけどさ。それでも「アナタが、尾張の。……そう」は、ないんじゃないか? 「……そう」で、なに? オレを見て何を思った? って訊きたくなる。(何も思ってない、庭の石ころ見た程度の感慨だったらどうしよう)
まあ、美人だったけど。
黙っていたら(ってか全然喋らない人だけど)、年上シットリ美人なんだよな、あの女御さま。
あの女御さまなら、噂はともかくとしても、会っても話も弾まないし、面白くないだろうけど。帝が行きたくないって思うのも仕方ないかもしれないけど。
「花の色は うつりにけりな いたづらに。承香殿の花も、今、盛りを迎えて匂うております。せっかくの花。今見ておかぬは、もったいないというもの」
とりあえず推す!!
いつかときめけ、承香殿作戦!!
千里の道も一歩から。歩き出さなきゃ、目的地は見えない。
帝より年上なんだから、早くしないと盛りも終わって散りぬるを。
「ふむ。では、承香殿に参るか。――中将」
「ハッ」
「明日の未の刻、あちらへ参ると伝えよ」
「かしこまりました」
平伏する雅顕とオレ。
その脇を帝が通り過ぎていく。
「……余計なことを」
ボソリと雅顕が呟いた。
うるさいな。帝のお供をして、あわよくば自分も……って考えだったんだろうけど、そうはさせねえって。本当なら、承香殿の女御の兄であるお前が推さなきゃいけないんだぞ? 自分の色恋より、妹のために頑張れよ。
欲を言えば、「未の刻」なんて昼間じゃなくて深夜「子の刻」、それかせめて「戌の刻」がいいんだけどなあ。花と一緒に月を眺めるとかなんとか。そこから、「イヤン、アハン、そこはあ♡」ってことになれば、なお良かったんだけど。まあ、しょうがない。
とりあえず、承香殿の女御は推した。推せ、推せ、承香殿!!
彩子のためにも、承香殿に住まう閑古鳥は、一羽残らず駆逐してやる。