第八話
ピアノの旋律に声が重なる。音色が鮮やかに色づくように、明るく跳ねるように。
僕の指は相変わらず自分のものではないように鍵盤の上を動き回り、音を重ねていく。
歌声は鳥の会話ように軽やかに跳ね回る。
最後の歌詞と一音が重なった。余韻を残すように踏んだペダル。それが足から離れた時ようやく、それまで僕の体じゃなかったような浮遊感が終わり、僕の体に戻る。
「どう、だったかな」
少し、息切れ気味なエリーに、僕は無言でサムズアップする。それに気が付いたのか少しにこやかになった。
「よかった。前よりも音が聴けるようになったから、注意して歌ったんだよね」
ラジオカセットではくすんでしまっていた音がピアノではより聴こえるようになる。だから、音を拾うように丁寧に歌うことに気を付けたと。
「そうなんだ」
僕には分からない彼女だけの大切な感覚なんだろう。ただ、音に翻弄されて、頭に響く音を何とか形にしているだけの僕とは違う。彼女の意思によって生み出されるという違い。彼女はそれを大切にしていると分かった。
「もう一回やる?」
「うん、次は余韻をもう少し残してみたいと思うんだ」
分かったとピアノに向き直す。一音目、指が鍵盤に触れそうになったその時、森の方から木々を掻き分ける音がした。
がさりと大きく揺れた木が戻る拍子に枝や葉にぶつかり、がさりと音を立てる。
「え、な、なに」
びくりと音に驚き、エリーは急いで僕の陰に隠れた。僕もエリーを守るように彼女の体が来る相手から見えないように位置を変える。森の向こうの音は少しずつ近づいてくる。その音が一際大きくなると、木の陰からは小柄な女性が現れる。眼鏡をかけた女性だった。僕らよりも年上だろう。そんな感じの女性。だけど、その姿は洗練されたデザインのレザーにパンツといった格好で、カッコよさが際立っている。バイクに乗ることを趣味にしている、そう言われても納得できる格好だ。どれほど年が上なのか分からない。少なくとも町ではあまり見かけないような女性だ。
その姿を見て、後ろにいたエリーはビクンと跳ねた気がした。顔が見えないから分からないけど、何か知っているのだろうか。
「うへ、蜘蛛の巣だらけだ、ここ」
くすんだ赤茶色の髪に蜘蛛の巣が引っ掛かったのか、うえっと、言いながらその人物は体や髪、腕に絡まった糸を必死に取ろうとしている。
「大丈夫ですか」
声を掛けたことでこちらの気が付いたようだ。
「あ、どうも、どうも。イヤー参ったね。蜘蛛の巣が多いよ、この森は」
「あ、そうですね」
がははと豪快に笑う姿がなんかイメージに合っているなと思った。こう、何だろう。親方とか、おじさんとかに似たものを感じる。
「それで、えっと、あなたは?」
ひとまず僕らの知っている人ではない。
町に住んでいる人ではないだろう。僕は見たことがない。それに町の人ならば、僕はともかく後ろから顔だけ出している商店の看板娘であるエリーに何かしらの反応がありそうなものだ。
エリーの反応も気になるが、この様子だと町の知り合いということはなさそうだから、どこかほかの町から来た人なのだろう。
がさっともう一つ音が鳴る。
「もう、置いていかないでくださいよ。ここら辺分からないですからね。勝手に動くと迷子になりますよ」
がさがさと木々を掻き分ける音と男性の声が聞こえる。
「おーい、リチャード君。こっちだよ。いや、すみませんね。なんか歌とピアノの音が聞こえたもんですから、居ても立っても居られなくなりましてね」
女性が森の方に呼びかけると、森のなかから金髪の男性が出てきた。年の頃は僕らとそれほど変わらない青年だ。
「もう、何でこんな道を行くんですか、先生」
文句を言いながら、青年は近づいてくる。女性はうーん、遅いよ、少しは山歩きして体力つけないと、男の子なんだからと、青年に文句をつけている。
青年はすみませんと頭を下げながら近づいてきて、そこで僕らのことに気が付いたのかこちらに何度も頭を下げている。
「ごめんなさい。先生が突然ピアノの音がするというので、あの、迷惑かけていませんか? 大丈夫ですか」
「おい、こら。リチャード君、そんな私が迷惑をかけると思っているのかい?」
「いつもの先生の無茶ぶりを受けている私としては、何かやっていてもおかしくはないと思いますけど」
「先生に対して、何て言い草だ」
この、この、と女性は青年の何度もわき腹をつついている。それを笑いながら受けている青年はなんか楽しそうだ。
「改めてすいません、いきなり現れて」
頭を下げる青年、よく状況が分かっていない僕は相手に合わせて頭を下げる。後ろに隠れているエリーはどうだろうか。たぶん一緒になって頭を下げているだろう。
「いや、大丈夫ですよ。そうですね」
言葉を切って、彼らが口にした単語に触れる。
「えっと、ピアノの音ですよね。多分これだと思いますよ」
僕は陰になっていたピアノの鍵盤に触れる。鍵盤を押し込んでやるとトーンと音が鳴った。
やっぱりと口にすると、女性はピアノをしげしげと見て回る。
「へー、こんな古いのいつのものだろう。少なくとも百年以上かな。それに音もいい。へー、で弾いていたのは君かな? それともそっちの女の子かな?」
好奇心の矛先はピアノから僕を盾に女性を見ていたエリーの方に移ったようで、女性はエリーを覗き込むようにする。後ろで小さくなっていたエリーは、ほわっと声を上げて、僕の服を握りしめている。
「うわ、うわ、うわ、え、あれ? うそでしょ」
と何度も小さく呟き、声にならない声を抑えるようにしている。エリーの様子はなんだか分からないけど、慌てていることだけは分かる。
「先生、ちょっと、ほんと、すみません。先生が」
「いや、あの、大丈夫ですよ。あと、弾いていたのは僕で、彼女、エリーが歌っていました」
「へー、エリーちゃんっていうの?」
フーンと、より一層興味をもったというように、目をキラキラとさせながら、女性はエリーの顔を覗き込んでいる。その目から逃れるように僕の後ろに回っているエリー。
捕まえるものと追われるものの関係のように僕を中心にくるくると回り始める二人。
「ちょっと、エリーさん? あの、服、そんな握らないで、伸びる、あの止まって」
「先生? あの、先生⁈ 知らない人に何しているんですか? 先生?」
リチャードと呼ばれている青年に止められることで、女性が止まるまで僕を中心にした鬼ごっこは止まらなかった。
「本当に、本当にすみません。ほら、先生も」
「いやー、ごめんね。えっとエリーちゃんも」
「いえ、大丈夫です。本当に、何というか感無量というか」
エリーも小さく頷き、二人を見ている。最後はもごもごと言葉にしたようだがよく聞こえなかった。
「そう、なら良いわよね。あ、そうだ。さっき弾いていた曲をもう一回聴かせてもらってもいいかしら」
「ぜひ、お願いします!」
そんな女性のお願いに対して、対面することを避けていたエリーは僕の前に出て、女性の言葉に食い気味にそう宣言した。
「あら、いいの?」
「ちょっと先生、初対面の方に何をお願いしているんですか」
「えっと、リチャードさんですか。良いんです。私の方が聴いてほしいくらいなので。もしよかったら、ですけど」
それまで顔を見せることも嫌がっているように見えたエリーの言葉に、僕の前に二人は顔を見合わせる。だけど、それは一瞬のことで、女性はにっこりと笑って見せた。
「いいの? なら、聴かせて」
はい、と返事をした彼女が僕に目配せをする。
「なあ、さっきの何だったんだ?」
二人に聞こえないようにこっそりと聞いてみるが、エリーは苦笑いするだけ。
「たぶん、だけど。コレ、私にとっての大きなチャンスだから」
彼女の言葉の意味はよく分からないけど、そう答えたことに凄い意気込みを感じた。彼女の目がこれまでにないほどに爛々と輝いて見える。
なら、それに答えるようにピアノを弾くしかないと僕は意識を切り替える。僕は椅子に座って、先ほどまで弾いていた曲をイメージし直す。頭の中でノイズが鳴り、それがラジオの周波数合わせのように明瞭に変わるようにイメージを重ねていく。行き過ぎた、行き過ぎた。そして丁度合うと音楽に変わった。
目線を彼女と合わせる。彼女もこちらを見ている。
その瞳が輝いたように見えた。
指を鍵盤に置く、すると少し息を吸って、そして合わせる。
前奏の始めの一音に合わせる。
合わせて、指が鍵盤をはじいた。
〇
最後の一音が響く。余韻を残した音が切なく消えるように指を鍵盤から離し、ペダルを外す。
余韻を楽しむような彼女の横顔が見えた。不意に拍手が鳴る。
観客となってくれた二人が素晴らしいと口にしながら、惜しみない拍手をくれる。 ピアノを弾いていた時は何も感じなかったが、今頃になって初めて人に聴かせるためにピアノを弾いたことに思い至った。
思い至ると、とたん体から力が抜けたよう気がした。
感じていなかった緊張が今更になって襲ってきた。指が震えた。いつも弾き終わりには感じなかった爽快感と、少し体の重さ、そしていつも通りのノイズが襲ってくる。
「すごいわ。こんなに歌えるとは思わなかったの。これでも音楽には少しうるさいつもりよ。なのに、うん。素晴らしい以外の何も言えないわ。本当よ」
女性はエリーの歌を素晴らしいと何度も褒めたたえる。その勢いにあのエリーがたじたじになっている。エリーの手を握り、どれだけ彼女の歌に心が揺さぶれたのかをあーでもないこーでもないと手振り、身振りを交えながら言葉を探していた。
「お疲れ様です」
声の方向に顔を向けると金髪の青年がいた。女性の方の行動に目が行き過ぎてしまいよく見ていなかったが、改めて見るとテレビで活躍している俳優のようなきれいな顔をしている。彼はこちらに手を差し出してくれている。そんな仕草の一つもなんだか様になっていて、エスコートされる僕の方が恥ずかしくなる。
「ありがとう」
彼の手につかまり、力の抜けた体を無理やり立たせる。
「君の演奏も、彼女の歌も凄かった。私もプロも演奏家の方々と関わることがありましてね。実際に演奏を聴くこともありますが、そんな彼らと君たちの演奏は遜色なかったですよ」
そう言われて悪い気はしなかった。だけど、彼女の歌はともかく演奏の経験もピアノに関しての知識も技能もない僕がそんなに褒められるほどのものを持っているとは思えなかった。
多分、お世辞なのだろうなと思う。
「そんなことないと思うけど」
そんな言葉をあり得ないだろうという気持ちも込めて否定する。
だけど、彼の目はそんなことはないと言った僕をなお否定するような色をしている。
「いえ、いえ、あります。大いにあります。私も一つの道を究めたいと思っているプロの一人です。だから、君の音が本物のプロと変わりない。同じもの、あるいはそれ以上だとはっきり言えます」
握られた手は気が付くと力が込められている。離さないとばかりに握りこまれた手。僕の手とそれほど変わりない大きさだが、指の細さが際立つような気がする。僕の手とは大違いの繊細な手だ。
「けど、どうしてでしょうか。違和感もあるんです。特に今、君の手を握ってみましたけど、演奏家の人たちの、特にピアノを常に弾いてきた人の手は全然違う。それよりも力仕事を生業にしている人たちみたいにがっしりしてますよね」
「僕は大工が本業だからね。ピアノも彼女の歌の伴奏のために弾いているだけだから」
僕の答えに驚いたように目を見開くが、それも一瞬のことだった。すぐに彼は目を伏せるようにしていた。
「そう、ですか」
何か探しものを見つけたように輝いていた瞳は、伏せられ、僕にはもう見えない。ただ、少しばかり寂しいそうにつぶやいただけ。
不意に足の力が抜ける。
途端に立っていられなくなり、隣の彼の手を支えに体を無理やりに立たせる。
「えっと、大丈夫ですか」
「ごめん、ちょっと疲れたみたいなんだ。人前で演奏することなんて初めてだったから」
僕はそう言って、椅子に座る。
座り直して、目線を上げると彼女と眼鏡の女性が目に入った。いまだに、テンションが上がったまま、手を握っている女性とそれにたじたじになっているエリーの姿があった。あんなにもエリーがあわわと、口から泡が出そうなほど慌てている姿は初めて見たかもしれない。心なしか顔も火照っているように見える。
「そういえばさ、ここらで見ない人だよね。僕はクリス。えっと」
「あー、私はリチャード。リチャードと呼び捨てで構いませんよ。ちょっと用事がありましてね。私の方ではなく先生の方が、ですけど。この町に用事があるって言って、それについてきたんです。一応、彼女の弟子兼付き人みたいなことをしていましてね」
弟子という言葉になるほどと相槌を打つ。眼鏡の女性の格好からは何をやっている人間なのか見当もつかないが、何かしらのこだわりを持つ職人肌のようなものを感じた。僕の親方にどこか似ているような気もする。服装のイメージから何かしらの芸術関係だろうか。そんなものを感じた。
だけど、これは僕の自分勝手な解釈だな。
「そうだ。クリスさん。君はこの町の出身の人ですか。できればでいいんですけど、この町で景色の良いところとか教えていただけませんか?」
「クリスで良いよ。それで景色のいいところ? 写真でも撮るのかい」
「まあ、近い、ですね。そんな感じです」
笑顔で青年は返してくる。どこかいい場所はないかと頭に町の地図を思い浮かべると、エリーと一緒に考えた地図が思い浮かび。その中の一つがぽんと浮かんできた。
「景色のいいところかぁ。えっと、そうだな。良さそうな場所を知っているよ。街道沿いに北に車で二十分くらい行くと丘があってね。そこからの見晴らしはかなりいいからね。車がないなら、町で借りていくといいと思う」
「ありがとうございます」
そう、丁寧にお礼を言われると、大したことをしたわけでもないから、少し恥ずかしさを感じる。
「いや、大したことじゃないよ。けど、珍しいな。この町の景色なんてそんな変わり映えがないだろ。ほかの観光地みたいな絶景があるわけじゃない。どうしてだい」
「うーん、言っていいことかちょっと分からないから、ここだけの話にしてほしいんですけど。私、役者をやっているです。まだまだ駆け出しですけど。で、先生と一緒に映画の合った場所を探しているんですよ」
「役者、さんですか?」
どおりで綺麗な顔をしているわけだと、一人勝手に納得した。そして、役者と監督という言葉がこう引っ掛かった。
確か、新聞で、いや。それ以外にもエリーに届いた手紙で。
「ええまあ、まだほんと駆け出しで、ようやく先生の映画で役を貰えるようになったばかりなんですけどね」
恥ずかしそうに頬を掻く。
あ、とすべてが繋がった気がした。エリーがあんなにも、たじたじになっている理由も、目の前の青年と女性がこの町に来た理由も何もかもが。
なら、全てを解決するのは一つ聞けばいい。
いまだ、ぶんぶんとエリーの手を握っている女性にこう問いかければいいだけだ。
「あの? 失礼ですが、えっと、ロベルタ監督ですか?」
「そうだけど、あれ? 私、名前教えたっけ?」
きょとんとした顔でこちらを見る女性と、心底疲れたが、何とも恍惚とした顔をしたエリーの顔が見えた。




