【クソ旦那から逃げ切るぞ!】ユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(コンスタンチン・パヴロヴィチ大公妃)
前回更新から3ヶ月経ってしまいましたが、忘れた頃に更新です!!
1回目にまとめたエリザヴェータ・アレクセーエヴナ(ロシア皇帝アレクサンドル1世皇后)のことを調べていて、「え!?こんなのアリなの!?」とぶったまげたユリアーネ・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト(1781-1860)をご紹介したいと思います。
アレクサンドル1世の弟、コンスタンチン大公(1779-1831)と結婚した人で、エリザヴェータの義妹に当たる人です。
ぶったまげポイントは、「ロシア皇太子の弟に嫁いだけど、結婚後数年でバックレて実家に帰り、別居19年経って結婚無効となった」ということ。
この時代、離婚がとにかくハードル高かったというのはわかりますが、ドイツの公女がロシア皇室に嫁いで、バックレて実家に帰るとかアリなの……アリなの……とびっくりしました。
ま、英語版を見ると、なるほろ……とならざるを得ない経緯が説明されているので、英語版ベースでまとめていきます。
なんでこんなことになったかといいますと……
アレクサンドル1世とエリザヴェータは、アレクサンドル1世の祖母・エカテリーナ2世の指示で結婚したのですが、コンスタンチンとユリアーネも同じくエカテリーナ2世案件。
例によって現在のドイツ出身で、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公の娘。
兄が公国を継いで同エルンスト1世となり、弟に初代ベルギー国王レオポルド1世、妹にケント公夫人ヴィクトリア(イギリスのヴィクトリア女王の母)がいます。
ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国、今のドイツのバイエルン北部にある小さな国だったのですが、母オーガスタが頑張ってユリアーネほか子どもたちをヨーロッパ中の王族と結婚させたので、格が上がっていった模様です。
1795年、エカテリーナ2世がコンスタンチンの花嫁を見つけるために、ベニングハウゼン将軍(男爵)をヨーロッパにひそかに派遣。
男爵は候補者の膨大なリストを持たされていて、あっちゃこっちゃの宮廷に出入りして、よさげな候補者を絞り込む予定だったのですが、旅行中に病気になって、たまたまコーブルクに留まることに。
彼を治療した宮廷医が旅行の目的を知って、そんならうちとこのお姫様方はどないでしょと勧め、将軍もええかもええかも!と本国に報告書を送りました。
それを読んだエカテリーナ2世がOKを出し、母親アウグスタと姉のゾフィー(1778-1835:亡命フランス貴族であるオーストリア帝国将校と結婚・童話作家)、アントイネッテ(1779-1824:ヴュルテンベルク公爵夫人)、ユリアーネでサンクトペテルブルクを訪問。
ドイツの公女を姉妹ごと宮廷に呼んでその中から選ぶ、コンスタンチンの兄・アレクサンドル1世の妻選びとおんなじパターンですね。
というわけで、エカテリーナ2世は3人の中から将来の妻を選ぶようにコンスタンチンに命じました。
当時、コンスタンティンはまだ結婚したくなかったようなのですが、くっそ怖いお祖母様の圧に負けて、一番年少のユリアーネを選択。
ユリアーネはロシアにとどまり、嫁ぐための諸々の準備をすることになります。
ギリシャ正教改宗に伴い、例によってロシア語名をつけられて「アンナ・フョードロヴナ」となりました。
だからなんでいちいち元の名前と違う名前にするんや……
という経緯で、2歳年上のコンスタンチンと結婚したのが1796年、15歳のとき。
んが、コンスタンチンは「暴力的」(英語版)「粗野で子供っぽく、若い妻を惨めにさせるばかりだった」(日本語版)。
それ以上の詳細はないのでなんですが、異世界恋愛だと、上から目線で婚約破棄ってくるアホ王子(精神DV・物理DVつき)みたいなアレでしょうか?
なろう世界ならエグいザマァ展開確定な予感がします。
コンスタンチンの項目では、生まれてすぐにエカテリーナ2世に引き取られたんだけど、養育を任せた伯爵が巧く指導できず「やんちゃで落ち着きがなく、わがまま」なままになってしまったと説明があります。
軍人としても、為政者としても超無能、社交儀礼を守らず、兄アレクサンドル1世ほか一族にことあるごとに反抗的な態度をとっていた模様。
やっぱり、なろうだったら学院の舞踏会で婚約破棄言い出して、速攻廃嫡&鉱山送りになるやつですやん。
そんなコンスタンチンとの夫婦生活はボロボロでしたが、ユリアーネは魅力的な女性に成長。
結婚式の直後に、当時大人気だったフランスの女流画家、ヴィジェ=ルブラン(マリー・アントワネットの肖像画も描いてます)が描いた肖像画が残っているのですが、ダークブラウンの巻毛ににダークブラウンの瞳、まるっこい眼がちょっといたずらっぽい感じもあって、可愛い系の人だったようです。
ロシアの宮廷で人気が出て、コンスタンチンやその兄のアレクサンドルに嫉妬されるようになり、部屋を出るのを禁じられるとかよーわからんことになりました。
旦那がクソやのに社交頑張ったら嫉妬とか、なんだかな感が凄いです。やっぱりこれ、ザマァ案件ですよね……
癖強すぎのロシア宮廷に疲れて、引きこもりまくっていた義兄アレクサンドルの妻エリザヴェータとは、同世代&共にドイツ語圏出身ということで仲良くしていたそうなのですが、嫁2人で慰めあってもさすがに辛い。
1799年、結婚して3年後、なんの病気だったのか「治療のために」ロシアを離れたユリアーネはコーブルクの家族に会いに行きます。
ロシアに戻りたくないとか言うたようなんですが、評判が落ちるのを恐れた家族は受け入れず、ユリアーネはコーブルクを離れ、水治療(鉱泉水飲みまくるとか、日本で言ったら湯治のようなアレ)を受けたりして帰国を先延ばしにしますが、皇室と親族の圧力により結局ロシアに戻る破目に。
そして1801年、義父である皇帝パーヴェル1世が暗殺されます。
殺害を義兄アレクサンドル1世も黙認してたりするのが仁義なきロマノフ家ですが、暗殺から半年後、ユリアーネが重病だという知らせを受けた母アウグスタはロシアに赴き、アレクサンドル1世とコンスタンチンの同意を得て、治療を受けさせるためにユリアーネを故郷に連れ帰りました。
一度は帰ってくんなと拒否ったのに、ロシア側の同意を得て連れ帰っているわけですから、よっぽどユリアーネの状態が悪かった悪寒がします。
ちなみに日本語版では「浅はかな情事を起こしてコーブルクへ向かった」とあるんですが、全然話が違いますやん??
というわけで、無事実家に戻ったユリアーネはロシアへの帰還を拒否って離婚交渉を開始。
んが、姑の皇太后が拒否って、交渉は棚晒しに。
大スキャンダルではありますが、貴族社会の皆さんは、ユリアーネに同情したそうです。
そんな世論も背景に、とにかく家族が欲しい!ということで、1808年、27歳でユリアーネはエドアルドという婚外子を出産。
父親は亡命フランス貴族でプロイセン軍の将校だった男性と言われています。
で、このエドアルド、1818年にユリアーネの兄であるエルンスト1世から爵位を授けられ、フォン・レーヴェンフェルスという姓を名乗るようになりました。
あからさまに婚外子として生まれた甥に爵位を授けるとか、エルンスト1世も家族として認めていたということなんですかね。
後に、エドアルドは、エルンスト1世の婚外子(つまり従姉妹)のベルタと結婚し、5人の子(ユリアーネからすると孫)に恵まれています。
その後、ユリアーネはスイスのベルンに移り、1812年に二人目の婚外子ルイーズを出産。こちらはユリアーネの家に出入りしていた外科医で音楽家でもあった人が父親。愛人関係はその後解消されましたが、終生、良い友人としてつきあっていたそうです。なんでか日本語版では、スイス人の護衛となってますが。
というわけで、2人の婚外子(法的にはコンスタンチンの子)を産んだユリアーネですが、1814年、アレクサンドル1世はフランスに侵攻したついでに、コンスタンチンとユリアーネの和解を望むと声明。
このへん、現代の日本人の感覚で言うと、ここまで長い間別居して、別の男性の子も産んでるのに、今更??となりますが、ま、アレクサンドル1世の皇后エリザヴェータも愛人の子を産んで、その後夫と和解してたりしてますからね……
コンスタンチンは、ロシアで将校になったこともある弟レオポルド(後のベルギー国王)と共にユリアーネを訪問し、ロシアに戻るよう説得しましたが、ユリアーネは「だが断る!」一択。
13年ぶりに嫌な思い出しかない夫に来られて、戻るわけがない……
その年、ユリアーネはベルンの近くに地所を取得し、音楽愛好家としてサロンを開きます。ついでにベルンにいる外交官が集う場所でもあった模様。
このあたり、ロシアにいた頃、皇帝兄弟に嫉妬されてたのは、よほど社交が上手だったんだろうなという気もします。
1848年、67歳の時に描かれた肖像画では、ふっくらした、知的で優しそうなマダムという感じです。
1820年、ようやくアレクサンドル1世が婚姻無効を宣言してくれ、コンスタンチンは長年の愛人だったポーランドのグルジンスカ伯爵夫人ヨアンナと結婚。
これが貴賤結婚ということになって、コンスタンチンは皇位継承権を喪失しますが、ヨアンナとは巧くいったらしいのでよかったよかったでした。
いうて、ポーランド大公としてのコンスタンチンは非情な圧制者扱いで、ヨアンナはわりと裏切り者扱いもされているそうですが。
ヨアンナの姉妹は、ポーランド独立派と結婚してたりしてますからね……
その後、親兄弟姉妹やら娘に先立たれたりしつつ、ユリアーネは1860年に79歳で亡くなりました。
甥のエルンスト2世の妻は、「伯母は非常に愛され、尊敬され、貧しい人々や恵まれない人々のために慈善活動をしていたので、哀悼の意は全世界に広がっているはずです」と書き残したそうです。
色々色々ありましたが、徳の高い女性として尊敬されていた模様です。
日本語版の記述だけだと、コンスタンチンがアレなのはアレだけど、ユリアーネも我の強いやりたい放題タイプ?という印象でしたが、全然違うな英語版……
と、まとめていて気になったのは、婚外子の扱い。
キリスト教、婚外交渉NG、婚外子NGじゃないですか。
ほぼ同時代に書かれたジェイン・オースティンの小説『エマ』(1815年)では、婚外子の美少女が出てくるのですが、当人には親の名前とかは知らせないまま、女子寄宿学校を経営している夫人のところに「特別寄宿生」として預けられています。平民の子でもそういう扱い。
このへん、ユリアーネの息子・エドアルドの扱いを見て、皇族・大貴族なら実はゆるいの??とひっかかりました。
エカテリーナ2世も、ばんばん愛人作ってばんばん子供を産んでますが、夫が生きている間に生まれた子は夫の子として育て(パーヴェル1世:アレクサンドル1世とコンスタンチンの父)、夫を殺したあとに出来た唯一の男子・公私ともにパートナーだったポチョムキンとの子アレクセイ・グリゴリエヴィチ・ボブリンスキーは、赤ちゃんの時に人に預け、留学などを経て成人したあとは一応軍人にしたり、資産をもたせてパリなど外国で暮らすようにさせていました。
手紙で実子として認めてはいたものの、爵位を与えることはしていません。
会ったのも、生涯数回くらい?
ま、父親違いの兄であるパーヴェル1世が即位してすぐにアレクセイを伯爵にし、ボブリンスキー一族は製糖業で当てて栄えたらしいですが。
同時代の君主を見てみますと……
イギリス国王ジョージ4世は王太子時代から愛人がたくさんいて、婚外子と噂の立った人も結構いますが、特になにもしていなかったようです。男子は各自、適宜軍人になっていたりした模様。お金とかは内緒で渡していたかもですが。
オーストリア皇帝フランツ1世は死別死別死別で4回結婚していますが、ウィキペディアには愛人云々の記載はなし。
その父のレオポルド2世(マリー・アントワネットの兄)は愛人がいて婚外子もいたそうですが、ウィキペディアだと名前も掲載なし。
男性君主は人によるけど、愛人作って婚外子を産ませることはままあり、でも直接爵位を与えたりとかは、少なくともこの時代はあんまりしていないようです。
コンスタンチンとユリアーネに近いところで探してみると、コンスタンチンの父・パーヴェル1世にはソフィア・ステパノヴナ・チャルトリスカヤ公爵夫人との間の婚外子セミョーンがいます。彼は海軍軍人となり、22歳の時にカリブ海で難破・行方不明。
ユリアーネの兄、エルンスト1世の婚外子は、エドアルドと結婚したベルタのほかにも双子の兄弟がいたそうなんですが、こちらは特に事跡なし。
ちなみにエルンスト1世の英語版項目では、夫も妻も浮気しまくりでヤバかったとあり、1824年に離婚しています。
そんで女性君主が愛人を持って婚外子を産んだ場合は、18世紀の女性君主を一通り見てもエカテリーナ2世くらいしか引っかかってこないんですが、こちらも自分で爵位を与えたりはしてません。
エカテリーナ没後、息子のパーヴェル1世が速攻伯爵にしているのは、もしかしたらエカテリーナの遺言だったのかもですが、エカテリーナとパーヴェルはめっちゃ仲が悪かったので、むしろ母親が弟になにもしないことに反発していたのかも?
そういう中で、エルンスト1世がまだ10歳の甥を貴族に列したのは、どういうことなんでしょうね……
家族としての情なのか、政治的な配慮とかなのか謎です。
ロシア側から称号とか与えられた記述はないですが、法的にはコンスタンチンの子ってことになるわけですからね。
このへんの感覚がよーわからんですが、それにしてもロシア皇帝一族ってフリーダムというかめちゃくちゃなのは、ギリシャ正教だからなのか、ロシア人の気風なのか、政治体制のせいなのか、なんなんだろと首をひねりつつ、この項〆たいと思います。