【その女、地雷につき】キャロライン・ラム+19世紀初頭のロンドンの社交場ネタあれこれ
身も蓋もないタイトルですみません\(^o^)/
2人目はマイナーだけど、なかなかの地雷度なレディ、キャロライン・ラム(1785-1828)です。
この人を知ったのは「デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ」の項目を見ていて、「姪に小説家キャロライン・ラムがいる」という説明があったのがきっかけ。
ここのところジェイン・オースティン(1775-1817)にわりとはまっているのですが、そいや(ほぼ)同時代の女性作家ってどんな人がいるんやろ?とぽちっとやってみたのです。
したらですね……
小説は、不倫相手だったバイロン卿を非難するために書いたものとあり、なんやそれええ!?となったわけです。
とりま、キャロライン・ラムの概要を、Wikipediaの日本語版・英語版を合体させつつ見ていきますと……
・父はベスバラ伯爵。母はスペンサー伯爵家出身。
そんでもって伯母はデヴォンシャー公爵夫人ジョージアナですからね。ええとこのレディです。
フランス語とイタリア語を流暢に話し、ギリシャ語とラテン語に堪能で、音楽や美術にも造詣が深かったとか。
肖像画、黒髪で、どれも愛らしい印象の女性です。
なんでか目に光が描かれてないのが若干怖いですが。
ただ、英語版の記述を見ると、子供の頃から、ちょっと精神的に不安定だったようです。
・1805年(20歳)で、当時新鋭の政治家だったウィリアム・ラム(後のメルバーン子爵)と結婚。
※ウィリアムが子爵を継ぐ前にキャロラインは亡くなったので、子爵夫人の称号はつかなかった模様
ウィリアム・ラム、その後政治家として出世して、首相を務めたり、ヴィクトリア女王(1838年即位)治世の初期には女王の信任も厚かったり、なかなか立派な政治家だったようです。
ウィリアムとの間に3子を儲けるも、死産したりなんだり。
ただ一人育った息子は重度の精神障害を持っていました。
当時、紳士階級以上のご家庭だと、障碍児は他家に預けてしまうものだったのですが(ジェイン・オースティンも2番目の兄が他家に出されています)、彼女は手元で育て、でもウィリアムは政治家ですから忙しくて家のことはさっぱり関わらない、とかやっているうちに、夫婦の間は冷えていってしまいます。
ついでに姑にもめちゃめちゃ憎まれていた模様。
・よりによってバイロンと不倫\(^o^)/
1812年(27歳)、超有名詩人・バイロン男爵(夫の友人でもある)とデキてしまい、スキャンダルを嫌った夫にアイルランドに行かされてしまう羽目に。
なんで「よりによって」というかと言うと、バイロン、ほんとめちゃくちゃな人生で、絡んだ女性はわりとひどい目に遭っているというか、捨てられて自殺した人もいますからね。
万一、転生トラックにはねられて、19世紀初頭のイギリス貴族社会にぶっこまれたよ!ってなっても、バイロンだけは関わらないでください。あいつはやべー。
・そして泥仕合へ
とりま翌年、キャロラインはロンドンに戻ってくるのですが、既にバイロンの方が冷めてしまっていたようです。
ウェリントン公爵を称える舞踏会でバイロンに侮辱され(日本語版では「ほかの女性と親しくしているのを見て」)、ワイングラスを割って腕を切って自殺を図るという、凄いことをやらかしてしまいました。
傷は深いものではなかったそうなんですが、舞踏会でやるか普通……(白目)
2人は詩などでお互いにディスりあいまくり、キャロラインはバイロンの家に押しかけとかもキメ、完全に地雷化。
バイロンの項目の方には、「その後もキャロラインは彼につきまとい続け、彼への思いから身をやつしやせ細った。これに対してバイロンは骸骨のようだと述べている」とか普通に書いてあります。だからバイロンはやめとけって! こういうヤツなんだから!
別件の泥沼(異母姉との関係・同性愛の噂)もやべーことになり、結局1816年にバイロンはイギリスを離れます。
というわけで、バイロンが出発した数週間後に、キャロラインが発表したのが『グレナヴォン』。
内容は、1798年のアイルランド反乱を舞台に、ホイッグ党(当時の革新派)を風刺する作品らしいのですが…
タイトルキャラクターの「グレナヴォン卿」が、誰がどう見てもバイロン卿\(^o^)/
お話としては、グレナヴォン卿が、純真な若い花嫁カランサ(誰がどう見てもキャロライン自身)を堕落させて、互いに破滅に追い込むというものなのですが、夫ウィリアムや、当時の社交界で著名な人々を批判的に描きまくり、その描写がエグすぎてヤバいことに…
ウィリアムも、バイロン卿よりは扱いはマシだけど、カランサの不幸の一因としてしっかり批判されており、彼の伝記作家は、「この小説って『要は自分は悪くない、周りが悪いんや!』て言いたいだけだよね…」(意訳)と評してるそうです。
巻き込まれた人々の中で、特に姻戚のジャージー伯爵夫人サラ・ヴィリアーズがブチギレて、彼女が後援していたロンドンでもっとも高級な社交クラブ「アルマックス」から、キャロラインを締め出したとかありました。
サラの項目には、「究極の社会的不名誉」とか書いてあって、びびる……
のちに、キャロラインの別の親戚が出禁を取り消してくれたのですが、しかし名誉が回復されたわけではなかったそうです。
そして、『グレナヴォン』、結構売れましたが、一般的にはクソ小説扱い。なぜかゲーテはわりと褒めてたらしいですが。
他にも、3作、生前に本を出していたそうです。
その後、キャロラインも夫のウィリアムも双方浮気しまくり(というかこの時代、摂政王太子→ジョージ4世が女性関係ほんとにめちゃくちゃな人だったので、わりとめちゃくちゃやる人が多めだった模様です。お堅いヴィクトリア朝とはノリが違ったよう)、ウィリアムの方は女性2人から訴えられたこともあったそう。1825年に2人は公式に別居(日本語版は離婚ってなってますが)。
キャロラインはブロケット・ホールというウィリアムが所有するカントリーハウスに移り、アルコールとアヘンチンキ中毒から体を壊して、28年に43歳で亡くなりました。
キャロラインが危篤になったとき、ウィリアムはアイルランドを統治する大臣をしていたのですが、キャロラインのために、危険を冒して帰ってきたとかいう記述がありました。のちに、ウィリアムはキャロラインと同じ教会に葬られてますので、最後まで夫婦ではあったのかな?
ていうか、ブロケット・ホール(なかなか素敵なお屋敷です)の説明の中で、「メルボルンの誕生日に、彼女はサロンで大宴会を開き、大きな銀の皿から裸で料理を振る舞った」(DeepL先生訳)という一文があり、なんなん…なんなん…となりました。あまりにわけわからんので、原文貼っておきます…
His wife, Lady Caroline Lamb, infamously had an affair with Lord Byron causing Lord Melbourne much embarrassment. For one of his birthdays she held a state banquet in the Saloon, at which she had herself served from a large silver dish, naked.(https://en.wikipedia.org/wiki/Brocket_Hall)
単語自体は全然難しくないのに、事態が斜め上すぎて、なにが起きているのかほんまわからん。
Google先生の訳では「彼の誕生日の1つに、彼女はサロンで州の晩餐会を開催し、そこで彼女は大きな銀の皿から裸で出されました」となっていて、セルフ女体盛り的なアレなの?とも思いましたが、どっちやこれ。
「こういう意味ちゃうの〜?」とかありましたら、ぜひご教示ください!
というわけで、キャロライン・ラム回でした。
ウェリントン公爵を称える舞踏会の真っただ中でセルフ流血&詩でディスりあったあげく、超暴露小説を出版して社交界追放……
気の毒な人でもあるのですが、なかなかな地雷感だったと思います。
こんな強烈キャラは書ける気せんのう……と思いつつ、ところで、「アルマックス」(Almack's)ってなんやねん…と調べてみたら、英語版でクソ長い項目がありまして…
ちょっと面白かったので、ついでにまとめようと思ったら、めちゃくちゃ長くなってしまいました\(^o^)/
・1762年、コーヒーハウスを経営していたウィリアム・アルマックが運営を受託する感じなの?よくわかりませんが、貴族の後援を得て会員制クラブを設立
年会費は2ギニー…ってどれくらいかわからんですが。
会員の友人も入れるけれど、ゲスト用の応接室的なところしか使えない(お酒とかは出されない)
まあ王道のクラブですね。シャーロック・ホームズの兄のマイクロフトとかが住み着いてるディオゲネス・クラブとかああいうヤツ。
日本では、会員制で宿泊&料理を提供して、会員同士で交流とかもするクラブ文化ってほぼないですが、学士会館とか、もともとの仕組みはちょっとそれっぽいです。
・1767年
ついでに女子限定のクラブも運営したりしつつ、アルマックがキングストリートの土地を地上げして「集会室」(アセンブリー)を建設。
年会費10ギニーで、舞踏会に10回出席できるチケットくれる。女性はチケットを貸すことができるけど、男性はダメ。
→後に、10ギニーで譲渡不能のバウチャーを渡し、所持者に舞踏会のチケットを取得する権利を与えるシステムに変更。バウチャーがあれば、自分の友だちとかをゲストとして舞踏会につれていくこともできる。
舞踏会用の部屋は、長さ90フィート(27m)、幅40フィート、高さ30フィートの結構大きな部屋。吹き抜け2階分くらいの大きなのホールに、中二階のバルコニーみたいなところがあって楽団が演奏している絵があります。
別の部屋で、お茶とかカードとかも楽しめたようです。
週に12回舞踏会を開催したという記述があるので、同時に複数の部屋で開催していたのかも。
19世紀に入ると、娘の社交界デビューといえば、アルマックスで!という流れに。
・そして19世紀初頭の最盛期
舞踏会の平均出席者は500名
初期に踊っていたのは、イギリスのカントリーダンスとか。次第にカドリーユ、次にワルツも導入。
ワルツは男女が密着するので、最初は忌避されていたそうです。
ヴィクトリア女王の戴冠式(1838年)に、ヨハン・シュトラウスI世がイギリスに来て、『ヴィクトリア女王讃歌』というワルツを捧げ、当時19歳の女王が踊ったことから、ようやく大陸から20年遅れでワルツが流行りだしたとかなんとか。
会員の数は700〜800名。
会員になるにはお金を持っているだけではダメで、血統と品行重視。
産業革命で成功した新興階級がどんどん伸びてくる時代ですから、彼らが入れない場が欲しかったという説明もありました。
レディ・パトロネスと呼ばれる6〜7名の貴婦人(だいたい伯爵夫人クラス)が審査をしていたそうです。この中にジャージー伯爵夫人サラもいたと。
定員があるので、資格があっても買えない人はたくさんいたので、バウチャーを持っていないことは別に恥ではなかったけれど、失うことは「社交界ではもうアウトやぞ!」言われるのと同じとかこっちにもあり、なるほろ…なるほろ…と。
公爵であっても、後援者に嫌われたら門前払い。実際、ドレスコードと違う服着て来ちゃった初代ウェリントン公爵(ワーテルローの戦いでナポレオンに勝った陸軍元帥で、首相も2回やってる人)が舞踏室に行こうとしたらNG出されて、素直に帰ったとかあったそうです。というか、自分の功績をたたえる舞踏会でキャロラインに流血騒動起こされたりしてたし、ウェリントン公爵、舞踏会運がなさすぎるのでは……
ただし、1825年にアルマックスを訪れたドイツ貴族は、提供される軽食の質が悪すぎ(スライスしたパンとドライケーキ程度)&チケットを手に入れるのが非常に難しいのに、ゲストが大量に入り込んでるし、コレ、意味あるの??と記述していたとか。
・舞踏会以外にも、公共の会合、演劇の朗読、コンサート、夕食などにも使われていた模様。
1851年にサッカレーが講演をしたときに、シャーロット・ブロンテも来ていて、サッカレーとブロンテが話をしたとかいうエピソードもあったそうです。あと、自由党が設立されたり、英国赤十字が設立されたりもしています。
1840年代には、だいぶキラキラ感も薄れ、1863年に営業終了したと言われているそうです。
その後は1階を貸店舗に改修して、美術商入れたり、ほかの部分はレストランやクラブになったりしていたそうです。そして、ロンドン空爆で破壊されたと。
異世界恋愛だと、舞踏会=王宮か大貴族がどーんと催すものというイメージが強いですが、こういう常設の専用施設もあったんですね。
ちなみにロンドンだと、あと何箇所か似たような施設があったようです。
ま、たしかに、よく考えたらガチ舞踏会、相当お金もかかるし招待状だのなんだの地獄のように手間もかかるし、そんなにぽんぽんやれるものじゃないですよね。
以前、19世紀なかばのシチリア貴族の大舞踏会シーンが出てくるランペドゥーザの『山猫』を読んだり、ヴィスコンティの映画を見たりしたのですが、開催する側は本当に大変そうでした。
馬車しかない時代に、数百人招いて明け方まで踊るわけですから。いくら大邸宅住んでるいうても、馬車の交通整理だけでも死ぬるわ……
いずれ、フランスやオーストリア、ドイツあたりがどうなってたのかも調べてみたいです。
長文におつきあいいただき、ありがとうございました!