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【愛がいったりきたり】エリザヴェータ・アレクセーエヴナ(ロシア皇帝アレクサンドル1世皇后)

 一発目は、アレクサンドル1世の皇后、エリザヴェータ・アレクセーエヴナ(1779-1826)。

 なんでこの人からかというと、スラブ系の名前を探していてたまたま行き当たり、読み進めるうちに、「え!?」「なんで!?」「こんなのアリなん!?」とぶったまげた最初の女性だからです。

 要は、夫も妻も浮気して婚外子も儲けていたけれど、結局仲良し夫婦に戻ったという事例。

 皇后で愛人の子供産んじゃうとかアリなの……?とびっくりしました。




 そもそも、アレクサンドル1世って誰やねんという話なんですが、有名なエカチェリーナ2世の孫。

 エカチェリーナ2世が、孫息子の嫁を探していて、バーデン辺境伯家(字面で「田舎の貴族」だと思い込んだまま異世界恋愛物を書くと、辺境伯警察が速攻やってくるので注意です!)の令嬢達がええんちゃうかということになり、13歳で妹のフリーデリケと一緒にロシアへ招待されました。

 エカチェリーナ2世は、エリザヴェータを気に入り、エリザヴェータは14歳でロシア正教に改宗、もともとはルイーゼ・マリー・アウグステ・フォン・バーデンという名だったのですが、エリザヴェータ・アレクセーエヴナと改名して、15歳のアレクサンドル1世と1793年に結婚しました。

 というか、ロシア皇族ってわりと現在のドイツあたりから嫁を貰うのですが、見た範囲では、元の名前と関係ない名前に改名させてるのはなんなんでしょう。


 それはさておき、エリザヴェータ、肖像画を見ても、かなりの美人でございます。

 ちなみにアレクサンドル1世も長身イケメンと言われていた模様。

 ただし、後に戦ったり同盟結んだり戦ったりするナポレオンには、「知性、優雅さ、教育を備えている。彼は魅力的だが、彼を信頼することはできない。彼は真心が無い。帝国衰退の時代のこのビザンツ人は抜け目なく、偽善的で狡猾である」と言われておったそうです。

 このへん、祖母エカチェリーナ2世と父パーヴェル1世の仲がめちゃくちゃ悪く(パーヴェル1世は生後すぐに母親から引き離され、アレクサンドル1世からいうと曾祖母の手元で甘やかされて育てられたために、母子の情が全然育たなかった模様)、父と同じく祖母エカチェリーナ2世に育てられたアレクサンドル1世は、双方の顔色を伺いながら育ったせいちゃうか?とも書かれておりました。

 息子を姑に奪われたからって、孫息子を息子夫婦から奪う負のループはいかんですよ……


 話を戻すと、そのうちエリザヴェータのホームシックが酷いことになり、おまけに結婚後1年しても妊娠する気配がなくて、エカチェリーナはイライラ。

 いうて、まだ15歳ですやん……

 なにしろエカチェリーナは同じく15歳で嫁いできたものの、夫との関係はわりと最初の頃から超絶ヒエヒエ、公然と愛人を持ち、4人の愛人の子を計6人産んだ上に、夫の対外政策がプロイセン贔屓すぎてかなわんとクーデターを起こして、ロマノフ家の血統ではないし、そもそもロシア人でもないのになんでか女帝として即位をキメた、史上最強クラスの怖い女性ですから、こんな人にプレッシャーかけられるとか、その時点で無理でしょ普通……

 ちなみに、クーデターを起こされて軟禁された夫(ピョートル3世)は後日暗殺されてますが、「持病の痔が悪化して急逝」と発表されたそうで、病死ということにするにしても、せめてもうちょっとマシな病名にしてあげようよと思いました。


 それはさておき、気がついたらエリザヴェータは宮廷で浮きまくり。

 1796年にエカチェリーナ2世が亡くなり、義父パーヴェル1世が即位するのですが、この人もやたら癖が強く、エリザヴェータは宮廷に姿を現さなくなってしまいました。

 結局、夫の友人でもある、ポーランドの公爵で、後に首席大臣も務めたアダム・チャルトリスキ(1770-1861)と関係を持つようになり、1799年、20歳で最初の子マリアを出産。

 父親はチャルトリスキやろと噂され、エリザヴェータもアレクサンドルも金髪に青い目だったのに、マリアは黒髪で茶色の眼で、洗礼式で孫娘を見た義父のパーヴェル1世が仰天したとかあります。

 ま、まあ、エリザヴェータの妹のフリーデリケ(スウェーデン王グスタフ4世の王妃)の肖像画を見たら、黒髪に濃い茶色の眼だし??と誤魔化したのかどうかは知りませんが、マリアは夭折し、チャルトリスキは外交官としてイタリアに派遣されてしまいました。


 1801年、エカチェリーナの治世の逆張りばっかりやって国を混乱に陥れたとしてパーヴェル1世は暗殺され、アレクサンドル1世が即位。

 父の暗殺計画には、アレクサンドル1世も関わっていたと言われておるそうです。

 ドロドロがやばすぎる中、エリザヴェータは皇后ということになりました。

 というか、18世紀のロシアってほんとめちゃくちゃで、痔で死んだことにされてしまったピョートル3世とパーヴェル1世は、親子2代続けて暗殺エンド。

 しかも、実質妻に殺されたり息子に殺されたりしているわけですから、まさに仁義なきロマノフ家でございます。

 ピョートル3世の前の前も、後継者いなくて赤ちゃんの時に皇帝になったイヴァン6世が即位1年くらいでクーデターを起こされて廃位、ずうっと幽閉されたまま23歳で殺されてますからね……


 エリザヴェータの話に戻ると、帰国したチャルトリスキと元サヤになり、その後オコトニコフという士官とデキてしまいます。

 一方、アレクサンドル1世の方も1803年、ポーランド王族の妻マリア・チェツェティンスカを愛妾とし、15年以上続く関係となります……って、マリア・チェツェティンスカの項目を見たら、1799年に夫の承認を得て関係を結んだとあります。どっちや。

 このマリア、めちゃくちゃ美人で魅力的だったそうですが、1803年にアレクサンドル1世を離婚させて、自分が皇后になろうとしたけれど失敗したともあります。

 肖像画を見ると黒髪ですが、ピンク髪のヒドインみたいなタイプだったんでしょうか。


 と、ぐちゃぐちゃなことになっているアレクサンドル1世とエリザヴェータなのですが、そんなことよりナポレオンがヨーロッパで大暴れしはじめます。

 身内のドロドロどころじゃないですよ、コレは!


 1804年、ナポレオンがフランス皇帝に即位。

 1805年、トラファルガーの海戦でフランス海軍は撃破されますが、チェコで起きたアウステルリッツの戦い(フランス帝国vs.フランツ1世[オーストリア帝国]+アレクサンドル1世)では、アレクサンドル1世はボロ負けしてしまい、ロシアはナポレオンと講和を結ぶ破目になってしまいました。

 1806年、エリザヴェータは第二子となる女児を出産。これはオコトニコフの子だったそうですが、オコトニコフが急死して、皇帝かその弟が殺すよう指示したんちゃうかと噂になりました。

 せっかく生まれた女の子も夭折してしまい、エリザヴェータは夫のもとに戻り、公私に渡ってサポートするようになります。

 わりとロシア帝国ピンチですしね……


 1807年にもアレクサンドル1世はナポレオンに敗れ、ナポレオンがフィンランドはあんたんとこにやるでーと言い出したので、いったん同盟を結ぶのですが、ゴタゴタゴタゴタゴタゴタした上で、結局1812年6月にフランス軍を中心とした大陸軍約60万人がロシアに攻めてくる「1812年祖国戦争」(ロシア側の呼び方)開戦。

 近代化が遅れて軍備がアレなロシア側はまともに戦わずに退却を繰り返し、大陸軍が略奪して補給できないようにする焦土作戦を行い、ナポレオンがもぬけのカラのモスクワに入ったところで、街をみずから焼きまくるというめちゃくちゃなことをやりました。

 当時、モスクワはロシア最大の都市ですよ!?

 焼くか普通!?

 モスクワまで行けばロシアは降伏するだろうし、さすがに補給もできるっしょと思っていたナポレオンは、もうあかんわこれは……と、退却を開始。

 この時点で、60万人いた兵は脱落しまくって10万人まで減少しており、間の悪いことにモスクワを退却しはじめたのが10月の下旬で、補給はできないし馬も失ったし普通に厳寒だしで死者がでまくり、ロシア側のちくちく攻撃もあって、12月中旬にロシア領内から駆逐された時に残っていたのは2万2000人。

 最終的には5000人まで減ってしまいました。

 大陸軍が通過した地域も甚大な被害を受け、民間人を合わせると数百万人が亡くなったと言われています。

 だって焦土作戦やっちゃったんだもの。

 冬を越せない人だってたくさんでてしまいますよね……

 そういえばうちの祖父、世界史の教師だったのですが、「ロシアと中国に大軍つぎ込むのだけはやっちゃいけん。逃げ回られたら、絶対勝てんけえの」とかなんとか言っておりました。

 この間、エリザヴェータはどうしていたのか記述がありませんが、当時の首都はペテルスブルグで、こっちにはナポレオンは来なかったので、諸々憂慮しつつもとりあえずは無事だったのではないかと思います。


 1813-14年には、アレクサンドル1世はパリに入城し、1814-15年にはウィーン会議に出席します。

 ウィーン会議を舞台にした映画『会議は踊る』(1931年)はアレクサンドル1世と、ウィーンの町娘がつかの間の恋っぽくなる?的な話ですね。

 もともと美形ですし、まだ30代なかばですし、イケてる皇帝として話題になっていたそうです。

 とか言いつつ、エリザヴェータはウィーン会議でチャルトリスキと再会して一瞬また元サヤしてましたとか書いてあって、おい!?となりましたが。

 ついでに、マリア・チェツェティンスカの項目には、1815年のウィーン会議にマリアを同行させて、アレクサンドル1世の評判が悪くなったとか書いてあるぞ!?


 この人達ほんとようわからんなとなりますが、なにはともあれ、1819年にアレクサンドル1世は、マリア・チェツェティンスカとようやく別れました。

 アレクサンドル1世とマリア・チェツェティンスカとの間には4人の娘がいたけれど、3人は子供の頃に病死、アレクサンドル1世が可愛がっていたソフィアも1824年に16歳で亡くなり、エリザヴェータも夫に同情して寄り添ったとあります。

 自分も2人子供を亡くしとるからね……旦那の子やないけど……


 1825年10月、エリザヴェータは肺を病んで転地療養を勧められ、アレクサンドル1世と温暖な、黒海沿岸のタガンログ離宮で休養を取ることにしました。

 タガンログ、チェーホフが生まれたところなんですね。

 が、アレクサンドル1世はその地でチフスを発症、12月に亡くなってしまいました。

 そして、すぐ下の弟コンスタンチンは貴賤結婚やらかして皇位継承権を失っていたので、その下の弟のニコライ1世が次の皇帝となります。

 このへんのゴタゴタでデカブリストの乱とか起きたりもしたのですが、翌年、1826年5月、エリザヴェータも心臓の衰弱により、47歳で亡くなりました。




 というわけなのですよ。

 アレクサンドル1世も相当一筋縄では行かない人物ではあるのですが、エリザヴェータもね……なんなんでしょうね。


 一つ言えるのは、当時は離婚がめちゃくちゃ大変だったことです。

 アレクサンドル1世の弟、コンスタンチン大公(ナポレオン戦争では連戦連敗の上、戦後も色々やらかす超無能。異世界恋愛だったら、絶対、婚約破棄カウンターをくらうタイプ)は、兄と同じくエカチェリーナ2世に嫁をあてがわれたものの、嫁にめっちゃ嫌われて実家に逃げられてしまい、19年も別居した後、ようやく婚姻無効となります。

 その後、コンスタンチンはポーランドのグルジンスキー伯爵の娘ヨハンナと結婚して、これが貴賤結婚となって皇位継承権を失い、ゴタゴタしたりするんですが。

 離婚のハードルが高すぎたので、お互い愛人をもとうが、皇后が愛人の子を産もうが、どうにもならんかったというのはわからんこともないですが、最初は仲良しで、一度関係がぶっ壊れ、夫婦として復活して、でもまた愛人と元サヤになったりしつつ、最後は仲良しとか、複雑過ぎてなんやこれ……なんやこれ……となりました。


 そして、エリザヴェータの最初の愛人、アダム・チャルトリスキがなんか凄い人なんですよね。

 もともとはポーランド分割後、人質としてロシアに来て、エカチェリーナ2世に気に入られて侍従となり、さらにアレクサンドル1世とマブダチになって、そこからエリザヴェータの愛人になって子供が出来た後でも、アレクサンドル1世に重用された人。

 ロシアの宮廷でどんどん出世して、最終的には首席大臣(実質宰相)までいくんですけれど、ずっとポーランド独立を目指していたようで、1804年、外務大臣として交渉を担当した第三次対仏同盟では、ポーランドが国家としてとりあえず復活できるようなプランをどさくさに紛れて立てたりしています。

 その後、チャルトリスキはアレクサンドル1世の信任を失い、1810年にペテルスブルグを離れるのですが、その後もつきあいはあった模様。

 結局、1815年のウィーン会議の結果、ロシア皇帝が国王を兼務する一種の属国ではありますが、そこそこ自治権もある感じでポーランド立憲王国が成立。

 チャルトリスキは、議会設立の準備や憲法の策定に関わっています。

 要は、母国愛が強い、めちゃめちゃ有能な人だったんでしょうね。

 アレクサンドル1世夫妻の没後に起きた1830年のポーランド11月蜂起で成立した、ポーランド国民政府の初代大統領を務めたり、交渉ではどもこもならんとなった後は大統領を辞して、もう60代だったのに志願兵としてポーランド義勇隊に入隊、結局負けて亡命し、一度は死刑を宣告されましたが、追放刑に減刑。

 パリに亡命してからは、「オテル・ランベール」という大きなタウンハウスを購入。

 ここを拠点に、立憲民主化を目指す亡命ポーランド貴族のリーダーとして、91歳で亡くなるまでポーランドの自治回復を働きかけつつ、1万人と言われた亡命者のサポートやポーランドの文化や歴史を保存する活動もしていました。

 自身もフランス語と英語で著作を書いています。

 ポーランド出身のショパンとも交流があり、1879年にショパンが39歳で亡くなった時は、チャルトリスキが葬儀委員長を務めています。

 そもそもお母さんのイザベラはベンジャミン・フランクリンとかルソーとかヴォルテールと交流を重ね、ポーランド初の美術館チャルトリスキ美術館を建てたような人だし、並々ならぬ教養と胆力のある人だったのかな?

 ちなみにチャルトリスキ美術館の目玉はレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人像」なのですが、これはアダムが若い頃、イタリアに大使として赴任した時に、母親にお土産として購入したものだそうです。

 ひょっとしたら、アレクサンドル1世にとっても、エリザヴェータにとっても、チャルトリスキが強い魅力がある人だったからこそ、こんなこじれたことになったのかもしれません。

 ナダールが撮影した晩年の肖像写真がWikipediaに掲載されているんですが、えらい凄みのあるおじいさんです。


 チャルトリスキにとって、エリザヴェータがどういう存在だったかはわかりませんが、彼が結婚したのは1817年、47歳とかなり遅い結婚でした。

 母国がとりあえず落ち着いたところで結婚したのかもですが。

 相手は18歳のポーランド大貴族の娘アンナで、彼女と結婚するためにライバルと決闘して勝ったとかよーわからんことも書かれてますがどういうこと……

 ま、無事に子供にも恵まれ、亡命生活も共にし、アンナは特に慈善活動で知られていたそうです。




 なろうの異世界恋愛では、浮気=ざまぁ確定の許されない行為扱いですので、なかなか読者様に受け入れていただけない予感もしますが、濃ゆい恋愛物として、こういう複雑怪奇な人間模様を描いたものがあってもよいのかもと思います。



 あと、異世界恋愛だと、王子の結婚相手は同国の上位貴族の中から探すという話が圧倒多数ですが、ヨーロッパの国ではわりと他国の王族から迎える場合が多いようです。

 たとえば、エリザベス2世の王配フィリップ殿下はギリシャ王家出身ですが、祖父がギリシャ王、曽祖父がデンマーク王クリスチャン9世、高祖父がロシア皇帝ニコライ1世、高祖母がヴィクトリア女王で、国をまたいであっちゃこっちゃ血がつながっていることがわかります。

 このへんは、日本の皇室で外国から妃を迎えたことがないので、わかりにくいところなのかもしれませんが。

「エカチェリーナ2世が、孫息子の嫁候補の姉妹を招待して、姉の方を選んだ」という史実をアレンジすると、大量生産されすぎ感漂うクソ妹物でも、ちょっと新味のある話が書けるかもです。

 なんなら、皇太女の婿選びということで、各国のイケメン王子様をご招待して逆ハーや!と「バチェロレッテ・ジャパン」みたいな設定も組めるかもですね。

 万一、そんなお話をお書きになりましたら、ぜひお知らせください!

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― 新着の感想 ―
[良い点] アレクサンドル一世以降の歴史はあまり詳しく知らなかったので、大変勉強になりました。 エカチェ様の死後も色々あったんですねぇ。 ロシア史マジカオス(笑)
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