9.「まことにおめでたいことにございます」
「まことにおめでたいことにございます」
湖のほとりの城から帰ってきた国王は精力的に動き、自身の婚姻の準備を推し進めた。
もうひとりの王族を気に入っている風ではあったが、結婚に関しては言及したことがなかったことから、青天の霹靂が宮廷を走った。しかし、国王は適齢期であり、王族がごっそりいなくなったことからも、結婚は臣民の多くが望んでいる。側近や親しく付き合う貴族たちはこぞって寿ぎ、自分の係累を送り込もうと虎視眈々と狙っていた者たちも表面上は祝いを口にした。
若くうつくしく活力に富んだ王だ。引く手あまたで外国の姫たちからも熱望されている。
ここは国王の希望通りにしておき、第二王妃、第三王妃の席を埋めることができたならば、相当に甘い汁が吸えるというものである。
しかし、それだけでは気が済まない者がいた。
「どうしてですの?!」
リビェナは怒りに任せて手にした扇を横に払った。毛足の長い絨毯がテーブルから弾き飛ばされた陶磁器のティーセットを受け止めるも、割れてしまう。けたたましい音が吸収されたのはせめてものことではあるが、茶が沁み込んでしまっては、絨毯は廃棄処分されてしまうだろう。
身を縮める使用人たちの心情など知ったことではないリビェナはうつくしい相貌を歪めた。
「あんな地味な女が! 王族だとは名ばかりのぽっと出の女が! わたくしよりも五歳も年上の年増が!」
喉を引き絞るようにしてわめくリビェナは苛立ちを制御するつもりなどさらさらない。
腹立たしいことは他にもある。王族とは思えない、国王の隣に立つには不足が過ぎると口々に言っていた同年代のリビェナの知人友人たちは掌を返し、未来の王妃をほめたたえた。
思えば、少し前から徐々にアマーリエ・スカラ・シュトレクはまことに王族だという賛美が宮中に囁かれていた。それを物好きな連中もいるものだと捨て置いていたら、急転直下の展開が待ち受けていた。
「おうつくしい陛下の隣にはわたくしが相応しいというのに!」
父ブルシーク侯爵をせっついても、いっかな芳しい返答は届かなかった。やきもきしているうちに、まんまとさらわれてしまったではないか。父も父だ。なにをやっているのだ。娘が王妃となり、国母となれば、宮廷での権威はいや増すばかリだというのに、なぜ手をこまねいているのか。
せっかく、国王と同年代のうつくしい娘がいるというのに。しかも、国王に懸想しているというのに。これほどにまで条件が整っているというのに、なぜ、リビェナではなく、スカラ・シュトレクなどという国王よりも二歳も年上の女が王妃の座に収まるというのだ。
許せない。
許さない。
そんなことはあってはならない。
「王族だからと言って、陛下は望まぬ結婚をなさるべきではありませんわ。ねえ、そう思うでしょう?」
唐突に問われた使用人たちは一拍置いてがくがくと頷いた。ぞっとするまでの気迫をまとい、怨嫉の炎に焼かれていた。燃えていたのではない。リビェナは自身の暗い感情が呼んだ炎に、わが身を焼かれていたのだ。はた目にも破滅に向いてひた走っているように思われてならなかった。
そんな自覚はない、自己を客観的に顧みることがないままここまできたリビェナは、様々に画策するのだった。
先だって、昼餐会に参加したフメリーク侯爵夫人に誘われ、アマーリエは徐々に社交界に顔を出すようになった。セフナル伯爵夫人やバストル子爵夫人もまた、積極的に話しかけてくれる。後者は正確には、所在なげにするので、アマーリエの方から近づいて話しかけるようにしている。話が弾むと他の者もちらほらと加わり、アマーリエだけでなく、バストル子爵夫人も少なからぬ人脈が築けている。
そんな折、アマーリエは慈善活動として孤児院訪問を行う際、馬車の車輪が溝にはまって止まるという出来事があった。時を同じくして、慈悲を乞う者が現れる。御者や護衛がそれらの対応に気を取られた際、別方向から襲撃者が現れた。
しかし、ロベルトは用意周到に偽装した護衛を離れた場所にも同行させていた。有能な彼らはすぐに事態の収拾に動く。
アマーリエは事なきを得たが、言い知れぬ恐怖を味わった。
王宮に戻って来ても、蒼ざめ声もないアマーリエをロベルトは抱き寄せ、静かに背を撫でた。気持ちが落ち着くまでそうしていた。
ロベルトはしばらくアマーリエに社交を取りやめるように勧めた。さすがのアマーリエも頷くほかない。
「従姉妹上を襲った者の詮議はどうだ」
「それがなかなか口を割らず」
執務室に入って来るやいなや問う国王に、側近のマレクは顔を曇らせる。調べは中々進んでいない。
「捕縛されたとたん、死を選ばなかった程度の者だ。手ぬるい真似をいたすな。早々に背景を探れ」
「はっ」
ロベルト・スィセル・シュトレクの性質は穏和だ。しかし、シュトレク国王として必要とあらば苛烈になることができる。
自分を別にして、たったひとり残された王族を手にかけようなど、シュトレク国民ではない。瞬時にそう判断し、命を下した。
それでなくとも、アマーリエはあまり身体が丈夫な方ではない。いつ何時、失われるかわからない。そうやってロベルトが気をもんでいるといるのを嘲笑うかのように、人為的に害をもたらそうとした。許されることではない。
しかし、周囲はそんな国王の胸の内は知らない。
ただ、婚儀を間近にした王族が襲撃され、社交界に顔を出さなくなったという事実があるのみでだ。
ここで、臣たちは二分した。
国王を除いてたったひとりの王族であり、王妃となるアマーリエを心配する者と、もしかすると王妃の座が空くかもしれないと期待に胸を膨らませる者とである。
「陛下は王族を得てあれほど活き活きとなされておられたというのに」
「まこと、シュトレクの王族は同じ王族を求めるものなのだな」
これには、トラース大使とカナレス大使を招待した昼餐会に参加した貴族たちから聞いた話が根拠となっている。いわく、アマーリエは美術品を愛することこの上なく、知識豊富で、それによって両国との結びつきをより強固なものにせしめた。
「さすがはシュトレクの王族よ。文化を愛する穏やかな性質。それこそが、陛下が求められるものなのだろう」
さて、もう一派の方はと言えば、激昂する国王が、それでも側近らの進言を取り入れ、慎重に調べを進めていることを、今回のことについては静観するのだと見て取って勢いづいた。
厳しい詮議の元、襲撃者は口を割った。複数の存在が間に介在していることが判明し、国王と側近らは慎重にならざるを得なかった。奥に見え隠れする家門が厄介だったのだ。
「こうなっては致し方がない。手心を加えると禍根を残す。徹底的にやるほかあるまい」
国王が配下の者たちにそう命じた。
人は自分の見たいように見る。希望が事実に取って代わることがある。
アマーリエがたったひとりの残された王族だからこそ、国王は興味を持っているものの、助けてやるほどではないのだと考えた。
「陛下はさほど、スカラ・シュトレクさまのことをお考えではないようだ」
「では、王妃はなにもスカラ・シュトレクさまではなくとも、」
「さようさよう」
国王の姻戚となって権勢を振るおうという甘い夢想がふたたび現実のものとして浮かび上がった。
「この機を逃すべきではありませんわ。確実な一手を整えましょう」
未来の王妃は身の危険を感じ、人前に出ないようになった。国王は心配してなるべく付き添う。そうすることでけん制しようとした。また、ふたりでのんびり過ごす時間に、アマーリエは心の安らぎを得た。国王はそれ以上に安らいだかもしれない。
面白くないのは寵愛を得たい女性たちとその家門だ。国王の行動を阻害し、社交的ではない彼女を糾弾した。
そうして、追捕の手が伸びていることを知らないままリビェナ・ブルシーク侯爵令嬢は一計を案じ、「アマーリエ・スカラ・シュトレクのひみつの恋人」を作り出そうとした。
宮殿の大広間は中央から吊り下がったシャンデリアを始めとする無数の灯りに照らされ、夜なお明るい。着飾った貴族や貴婦人たちの影を濃く作り出していた。
歴史古く、繁栄に陰りの見えない大国シュトレクの王宮にふさわしいきらびやかな夜会に、どうどうたる声が響いた。
「アマーリエ・スカラ・シュトレクは王妃としてふさわしくありません。なぜならば、国王陛下ではない別の殿方と密会していたからですわ!」
不慮の事故のため、ここ最近顔を見せないでいたアマーリエ・スカラ・シュトレクがひさびさに登場した夜会であるものの、彼女を断罪する声に、広間はしんと静まる。
アマーリエを労わるように付き添っていた国王がさっと片手を上げる。すると、近衛が近づいて来る。
不埒者を捕縛せんという屈強の兵士たちに、断罪の声を上げたリビェナ・ブルシーク侯爵令嬢は婉然とほほえんだ。
「この者がその殿方ですわ」
そう言って、自分の傍らの男性を示しながら、リビェナは勝ち誇っていた。
国王の離心を誘い、同時に彼女を断罪しようとした。不貞の罪と王族としてふさわしくないという「事実」だ。
リビェナはとうとうとアマーリエと傍らの正装した男性とがどこでどう出会い、愛を育んだかを話した。
「うつくしい恋物語ですわ。けれど、それは次期王妃でなければ、という条件がつきます。あろうことか、アマーリエ・スカラ・シュトレクは陛下をたばかったのでございます。不届き千万!」
ぴしりと突き付けるように言い切ったリビェナが得意げだったのはそこまでだ。ロベルトが冷ややかな視線を自分に向けていた。
おかしい。
その目つきはこのリビェナ・ブルシーク侯爵令嬢に向けられるものではない。アマーリエ・スカラ・シュトレクに向けられるべきものだ。
「たわごとはそこまでにせよ」
国王は氷の剣で切り付けるかのように冷たく鋭い声を発した。
「お、お聞きくださいませ! 陛下は誤解されておられるのです! わたくしは忠心から申しておりますのよ?!」
まったく言葉が届かない様子に焦れ、最後の方は悲鳴じみた声になった。分厚い透明な壁があり、強固にリビェナの心を拒む。リビェナにとっては真心であったものは、ロベルトにしては勝手な期待というものだった。
「こっ、この者がっ、この者とっ」
予定が狂い、取り乱すがあまり、ろくにしゃべることができなくなったリビェナに、ロベルトが冷厳とした視線を向ける。
「その者はわたしの内偵だ」
「ひぃっ!」
今度こそ正真正銘の悲鳴を上げたリビェナは傍らの男性から飛びすさって距離を置く。男性は終始穏やかな表情を浮かべていた。はた目からも胆力に優れていることが分かる。
「な、なんと?!」
それまで娘の蛮行を咎めず静観していたブルシーク侯爵が驚きの声を出す。
慌てて自分は知らなかったのだと自己弁護に走る侯爵に、リビェナが取り乱す。一気に湧き起こる狂騒に、ロベルトは眉根を寄せて近衛たちに短く命じた。
「不埒者たちを連れて行け」
ロベルトがそう言うと、近衛たちはするすると動き、ブルシーク侯爵とその令嬢、および係累たちを連行する。一門だけではなく別の貴族をも連れて行くところを見ると、十全に調べが行われていたのだ、と夜会に集まった者たちは驚き、あるいは恐れおののいた。
これほどまでに不穏な大捕り物が秘密裏に準備を進められていたのである。
歳若くとも統治者であり、シュトレクの王族である。
それまでどこか侮りがあった者も認識を改めるにいたった。
「連行された者の罪状については追って沙汰する」
ロベルトはそう宣言し、その後、夜会は少々ざわついたものの、おおむね、シュトレク王族への好意的なふんいきで幕を閉じた。