8.「従姉妹上が良いのです。あなた以外には考えられません」
「従姉妹上が良いのです。あなた以外には考えられません」
とうとう、ロベルトは決定的な言葉を告げた。
うすうす、そうではないかと思っていたのに、言われれば驚いてしまう。
シュトレク国と結びつきが深い隣国二か国と、国内貴族たちと徐々に関係を築き上げつつあるアマーリエに、ロベルトもまた、ゆっくりと接近して来た。
宮殿や王都内の美術品をともに見て回り、遠方の景勝地へも出かけた。
湖のほとりにある優美な城で、国王の持ちものだ。対岸には街並みが広がる。シュトレクの王族らしく、城内にはさまざまな美術品が飾られており、到着した翌日まる一日かかってもすべてめぐることはできなかった。
「庭も素晴らしいですよ」
「初夏の今時分は生命力が旺盛ですものね」
「明日は湖で舟遊びをしましょうか」
夕食の席でそう提案される。すばらしい美術品を堪能してすっかり気持ちが高揚していたアマーリエは言葉のままに受け取った。大過なく統治されているシュトレクの国力のほどをあまり理解していなかった。ロベルトから誘われた夜の湖鑑賞を断って早々に就寝した。ロベルトは残念そうにしながらも、アマーリエが部屋に戻った後、仕事をしていた様子だ。
そのわりに、翌朝は早くから目覚めてともに食卓に就いた。
「晴れて良かったですね。舟遊び日和です」
「こ、これが舟遊び?」
アマーリエの想像ではせいぜい三、四人が乗ることができる小さなボートだ。しかし、眼前に着水するのは、船体が三十メートルもあろうかという大きさで、見上げるばかりだ。
「帆があるので、風が吹けば結構な速度がでますよ」
言って、タラップを先に歩きながら身体を斜めにしてアマーリエの手を取って先導する。ろくに前を見ずに進むものだから、アマーリエの方がはらはらした。ロベルトは聡明なだけでなく、馬術にも優れていると聞く。身のこなしも素晴らしいが、いかんせん、狭い木の板の下は湖面だ。真っ逆さまに落ちないかと内心青ざめる。
無事に船上にたどり着いたときにはもうすでに疲れていた。驚いたのと心配したのとでだ。
「大きい船体のほうが、揺れが少ないんですよ」
ロベルトがそう言いながら、手すりに手を置く。なにげない動作が様になる。陽光を凝縮したような髪が風にさらわれる。湖上をすべって届く風はひんやりして心地よい。
「気持ち良いですわね」
アマーリエも手すりに手を添えて船外の景色に目をやる。
「街が近づいてきましたわ」
「明日は街に出かけましょうか」
古い街で、それだけに建物も歴史あるものが多いというから興味深い。
「そうですわね。それに、お庭も拝見したいですわ」
湖岸の城は王都の宮殿とは異なり、湖から水を引き入れ、噴水や小川をつくり、小さな滝まであるという。ふんだんな水のおかげで多様な植物が育つとも聞いている。
「では、そちらは昼食後に」
楽しい予定が次々に立って行く。よほど期待に満ちた顔つきになったものか、アマーリエの表情を見たロベルトもにっこりする。
船上で指し示しながら、街のことをあれこれ話すロベルトに、アマーリエも質問を差し挟む。
「とてもお詳しいのですね。陛下はよくこちらにいらっしゃるのですか?」
そうは言ってみたものの、情報が豊富なだけではない。街の者の暮らしに密接したエピソードを交えたロベルトの話が楽しいのだ。表現も前向きで視点がどこかやさしい。高を括るようなところがない。
知っていることをひけらかすのではなく、アマーリエを楽しませようという気持ちが感じられた。
「いえ、即位後はなにかと忙しくて。久々に来ました。良い休養になります」
「そうですわね。陛下はシュトレクにとってなくてはならないお方です。だからこそ、お身体をお労いなさらなければなりませんわ」
ロベルトからはなんの返答もなかったので、アマーリエは反射的に彼を見た。ロベルトはじっとアマーリエを見つめていた。かと思えば、指の背をくちびるに押し当てて伏し目になる。出会ったばかりのころ、笑い声を上げたことを恥ずかし気にしたときと同じ仕草、表情だ。けれど、いまはなんだか匂いたつような雰囲気があった。濃厚な花の香りにも似たもので、つい指を伸ばしてしまいそうになる。
「夜には街灯りが城からも見えるのですよ」
そんな風に言ってアマーリエから街へ視線を移した。
なるほど、それで昨晩誘われたのか、と見そこねたことを残念に思うアマーリエは、そっぽを向いたロベルトの耳朶が染まっているのに気づかない。
いつも向こうから提案されてばかりなので、アマーリエは思い立って夕食後、夜の湖鑑賞を提案した。
ロベルトは昨日は断ったくせになどと器の小さいことは言わず、快く誘いに乗った。
ふたりが湖面に面したバルコニーに出たのを見計らい、使用人がカーテンを引く。すると、背後の灯りが消え、前面の光が浮き立つ。
「……まあ!」
ため息交じりの感嘆がアマーリエの口から飛び出る。
煌々とついた街の灯りが湖面に揺らぎ滲んでいる。振り仰げば星明りがある。
どのくらい立ち尽くして眺めていたのか、ふと、日が落ちて低温となった湖面に冷やされた冷風が吹き寄せる。思わず身震いしたアマーリエの肩に温かいものがかけられる。
見れば上着で、ロベルトのものだった。そう気づいたとたん、ロベルトの香りが鼻先をくすぐる。
「い、いけませんわ、陛下がお身体を損ねてしまいます」
昼間に身体を労わるように言ったばかりである。アマーリエがうろたえたのはそればかりではなかった。上着から香るロベルトの匂いや体温に、慌ててしまったのだ。
「このくらい、大丈夫ですよ。それに、女性のほうが身体を冷やさない方が良いでしょう」
それは女性が体内で生命を育むからである。そのために、健やかでいた方が良い。
シュトレクに残された王族はロベルトとアマーリエだけだ。ならば、双方ともに、国益をもたらす結婚をしなければならない。そうして子をなして、関係を作って行く。そのためのやさしさなのだと思ったとたん走った胸の痛みに、アマーリエは上着の端をぎゅっと握りしめた。
「従姉妹上? お寒いですか? 中へ戻りましょうか?」
「いいえ、もう少し」
あと少し、もう少しだけ。
アマーリエはふたたび湖の向こうへ目を向ける。日が落ちてなお、営みが続いている。ロベルトはあれらの暮らしを守らなければならないのだ。些少ながら、アマーリエも、自身が持つ血によってできることはあるだろう。
分かっている。ただ、今のこのひとときを、もう少しだけ味わっていたい。
「従姉妹上」
ロベルトの声音が変わった。
ある種の予感を感じて、アマーリエは逃げ出したくなった。なのに、視線は自然と上がり、彼を見てしまう。そこにはあの青と緑がふしぎに混ざり合った瞳がある。うつくしい色あいだ。たぶん、アマーリエが世界でもっとも綺麗だと思うものだ。
「わたしと結婚して下さい」
アマーリエは王妃にと乞われたものの、自分は年上であること、つい先日まで王族としての義務を果たしていなかったことや容姿に秀でていないことなど、なにより身体があまり丈夫ではないことを理由に、国王の下を去ろうとした。
だが、時すでに遅し。
孤独を理解し、やさしい言葉をかけた従姉妹に、王は心を掴まれていた。そして、並々ならぬ執着を持った。
「従姉妹上が良いのです。あなた以外には考えられません」
とうとう、ロベルトは決定的な言葉を告げた。
うすうす、そうではないかと思っていたのに、言われれば驚いてしまう。
王が他の女性に心奪われるまでの間だけとどまろうと考えていた。けれど、美しく才能にあふれた国王に惹かれないわけはなく、次第に苦しくなってくる。愛しても終わりはいつやってくるか分からない。その考えを拭い去ることができず、次第に疲弊していく。
「あと一日、もう少し」
それはいつのことだろうか?
一方、ロベルトはどうやったら彼女の関心を得られるのかと考えた。関心を独り占めしたいと思うようになっていた。
アマーリエは国王の周辺にいる女性たちに遠慮するが、ロベルトは彼女のことで頭がいっぱいだ。
ロベルトはふたりきりのときは「可愛い従兄弟」だが、こと色ごとのあれこれが絡むと、とたんに主導権を握られ、良いように翻弄されるようになった。垣間見える大人の男性らしさ、たくましさや色気にどう振舞えばよいのか分からず、赤面して目をつぶってしまう。まったくどうしようもない。
アマーリエは知らなかったが、ロベルトはそれを可愛いと思っていた。
「わたしが従姉妹上のおやさしい気持ちにつけこんだのだ」
どうしてもそばにいてほしかった。離れていかないでほしかった。二度と失いたくはなかった。
自分のわがままを困りつつ、結局は笑って許してくれる。できるならば、彼女からも求めてほしい。
すでに愛を貰っているのに、もっとと思ってしまう。
誰かが王妃の座に就けば、宮殿を去ろうと思っていた。なのに、その王妃にと乞われるとは想像だにしなかった。
王妃となって、アマーリエが手に入れば、とたんに色あせて他の女性に目が行くだろうか。
いずれ第二妃、第三妃が立つだろう。
ロベルトを愛してしまったのだから、そのときはきっと胸が裂かれる思いだろう。
そのときまで、せめて、もう少しだけ。