3.「従姉妹上」
「従姉妹上」
その方はわたくしをそう呼んだ。
山吹色よりも黄色みの強い黄金色の髪は室内にいるせいか、くすんでいるように思われた。陽光を受ければ、自由に輝いて見えるのではないだろうか。初見であるというのに、なぜかそんな風に感じられた。
青と緑がふしぎにまじりあった色あいの瞳が、整った顔の造形と相まってどこか人ならざる者のようにも思われた。
なめらかでしろい肌に、高い鼻筋が影を作っている。
うつくしい国王陛下に、数瞬見とれて、礼を取るのを忘れてしまっていた。
シュトレク国の王宮は黄味が強いクリーム色の壁に等間隔に窓がならぶ。落ち着いた青色の切妻の屋根から顔を出す煙突も壁と同じクリーム色だ。温かみがあって穏やかな色あいの宮殿だ。
細部に精緻なレリーフがほどこされ、近寄って見るとその見事さが分かる。
市街地の建物は茶色を帯びた赤の屋根で統一されている。壁は象牙色か灰色がかった白色だ。そんな中、王宮の色彩は浮き出ている。鳥になって空から眺めれば、一目瞭然だろう。
王都の市街地も素晴らしい建築物が並んでいて、馬車の窓から目が離せなかった。あれらを見ることができただけでも、遠いところからやって来た甲斐があったと言える。
アマーリエが通された王宮の貴賓室もすばらしいしつらえだった。
落ち着いた深い色味の赤の壁紙に細かい金色の文様が入っている。家具も同じ赤色に金の装飾がされている。飾られた美術品はどれも逸品だ。
母に聞いていた話の通りだ。
「ということは、あそこもそうなのかしら。ちょうど今時分ね」
ロングギャラリーや図書室、なんなら王宮をぐるりとめぐってみたい。王族しか入れないという奥庭にも行ってみたい。迷宮のようだと聞く。迷って一日中歩いてみたい。
けれど、アマーリエは今日初めて王宮を訪れた、王族とは言えぬ王族だった。自分でも、忘れていたくらいだ。
それでも、母親によく聞いていた王都の街並みや王宮内部を目にして、血が騒ぐとはこういうことかと実感した。
シュトレクの王族は他国と比べて稀なほど仲が良かった。それぞれ文化を愛する心を持っていたからだ。だから、王族が率先して文化を保護し、シュトレク国では独自文化が花開き、また、他国の文化も愛され広く受け入れてきた。
国が力を入れているから、多くの芸術家が集まって来る。芸術一本を生業にしていては食べていけないことが多い。しかし、シュトレクではある程度の生活保障を支援している。無為に過ごすことを容認せず、成果を求められるが、だからこそ、やる気のある者が集まって来る。
書家、画家、彫刻家、建築家、音楽家、歌手、舞踊家、劇作家や俳優の他、工芸品作家や園芸家まで集まって来る。シュトレクでならば存分に夢を追えると言われるほどである。
うつくしい建築や整えられた庭にさまざまな国、時代の絵画や工芸品。いずれも見事だ。それらを見ることができ、心が満たされた。あとは、どうやって穏便にここから立ち去るかだ。
しかし、アマーリエの心は揺れていた。ここへ連れてきた男は国王の側近の部下であり、彼が話したことが彼女を惑わせていた。
先の流行り病で王族はことごとく失われたという。シュトレクの王族は結びつきが強い。それだけに気の毒だと思う。そして、それでも王たることを全うしているのは素晴らしいことだとも思う。
けれど、自分になにができる?
国王に先んじてアマーリエを伴った男の上司というマレクという者が出迎えた。その際、歓迎の言葉に添えて、ぜひとも国王の孤独を癒してほしいと言った。
「想像してみてください。愛する肉親が、親しくしていた者が、外国から帰ってきたら失われていたのです。陛下の喪失感はどれほどのものでしょうか」
言いたいことは分かる。だが、自分にそれが埋められるとは欠片も思わない。
マレクは他者の顔色を読み取るに長けている様子で、アマーリエの心情を悟る。
「ご懸念には及びません。ただ、王族として、陛下とともにひとときを過ごしてくださるだけで良いのです。シュトレク王族らしく、芸術について語り合われるだけでも十分でございます」
「それくらいならば」
その程度で良いのならば、とアマーリエは頷いた。なにより、ここに来るまでと来てからの数々の逸品に魅せられていた。
そうして貴賓室に訪れた国王こそが、芸術の粋を凝らしたかのような容姿をしていた。母もとてもうつくしい方だったので、シュトレク王族はすぐれた外見の持ち主なのかもしれない。父に似て地味な見た目のアマーリエからしてみれば、王族と名乗るのもおこがましい気持ちになる。
国王ロベルトはアマーリエよりもふたつ年下の御年二十一歳と聞いている。よほど自分よりも落ち着いたたたずまいで「従姉妹上」と呼ぶ。儀礼的にスカラ・シュトレクと呼ばなかった。
挨拶を交わして対面に腰掛ける。すぐに茶が給仕される。
「従姉妹上はずっとサラーク伯爵領に?」
「はい。ですが、今は領都を離れて暮らしております」
ロベルトは片眉を上げたが、追及はしなかった。アマーリエは踏み込まれないことに安堵する。
「伯母上のことは残念です。父からもお人柄を聞いておりました」
アマーリエはあいまいな微笑みを浮かべるだけに留めておいた。母は前国王の姉という立場にありながら、地方領主に嫁いだ。口さがない者たちはさぞかし適当なことを見てきたかのように言っただろう。
「王宮も王都もすばらしいですわね。母から聞いていたことを実際に見ることができて、たいへんうれしく思いますわ」
アマーリエは話題を変えた。
「宮殿のうつくしさも見事なことながら、こちらへ参るまでに市街地で拝見した建物も素晴らしかったです。ふたつの尖塔を持つ建物。あれは大聖堂かしら」
話題を変えるためなのが、徐々に熱を帯びて行く。
「ああ、そうです」
まろやかな光沢を帯びる磁器の華やかさにも劣らぬ国王は、カップから唇を放して答えた。アマーリエはマルニ製磁器だなと見て取っている。
「ゲルミニア様式の緻密さがいかんなく発揮されていましたわ」
馬車の窓から見た建物をうっとりと思い返す。
「ゲルミニア様式ならばやはり交差リブヴォールトの天井ですね」
「もちろんですわ。そして、尖塔アーチですわね。バラ窓も忘れてはなりませんわ」
的確な返答があったことに、アマーリエは勢い込む。内部を見ていないけれども、外観から想像するだけでも楽しい。
「ドーム型の屋根を中心に、角のとれた屋根が左右に伸びた建物も、とても上品かつ華やかでしたわ。あれはベルリック様式でしょうか」
「おそらく劇場ですね。曲線の使い方が見事だったでしょう?」
打てば響くように返って来る言葉に、その通りだとアマーリエは飛びつくように言う。
「そうですわ!」
喉を鳴らす心地よさげな笑い声が起きる。見れば、ロベルトが笑っていた。そして、声を上げたのがやや恥ずかしいと言わんばかりに片手の指の背をくちびるに押し付けて伏し目になる。
「あなたはたしかに王族だ。文化を愛するシュトレク王家の心をお持ちである」
「そんな、陛下こそとてもお詳しいのですね」
「わたしもまた、シュトレク王族ですから」
そう言って、まっすぐにアマーリエを見る。
詩に詠われる白い岸壁を洗う海のようだと思った。白い肌、ふしぎな青と緑がまざり合った瞳の色あいはずっと見ていて飽きない。
ふっと、そのうつくしい瞳が緩んだ。
「あなたは、マレクに乞われて連れてこられたのでしょう」
言外に、来訪には目的はないのだろうと言われていると受け取ったアマーリエはほほえんだ。王族らしからぬ王族であり、だからこそ、国王のなんの役にも立たない。それこそ、うつくしさから縁遠く、婚姻によって国益をもたらすこともできない。年齢からしても行き遅れである。忘れ去られた王族だ。田舎に戻って余生をひっそりと生きるつもりである。
「わたくし、陛下にご挨拶をさせていただいた後はすぐにお暇しますわ。けれど、ひとつだけ、お願いがございます」
「わざわざご足労を願ったのだ。できることならば叶えましょう」
ロベルトの鷹揚な言葉に、望みが叶えられそうだと胸を高鳴る。
「ぶしつけながら、奥庭を拝見させてくださいませ」
アマーリエの願いに、ロベルトの返答は少しばかり遅れた。国王と会ったばかりのアマーリエには分かるべくもなく、それはロベルトの躊躇であった。
しかし、側近たちが気を回し、強いて招いたのだ。しかも、つい今しがたロベルト本人もアマーリエは王族だと認めたばかりだ。
親族との思いで深い奥庭とはいえ、断ることは気が引けた。
「では、ご案内しましょう」
言って、ロベルトは立ち上がった。
アマーリエが遅れて続くのを待ち、手を差し伸べる。戸惑う様子に、国王という最も高い身分の者にされたからだと思った。後になってそれは同年代の男性にされたからだと知る。異性に接する機会がほとんどなかったのだ。
人と自然とが作りだした素晴らしい庭を見ることができただけでも、来て良かったとアマーリエは実感した。
「なんてうつくしい、」
「迷路のようでしょう? この狭い道もわざとそうしているのです」
周囲を見渡し感嘆の言葉を漏らすアマーリエのとなりを歩きながら、ロベルトはひさびさにこの裏庭を誰かと訪れたことに、意外なほどに安堵と心安らぐのを感じていた。してみると、側近たちの気遣いはあながち間違っていなかったのだ。
「鳥になってこの上空を飛んだら、すばらしい景色が見られるでしょうね」
「ああ、ならば、この後、離宮の上階へご案内しましょうか? 俯瞰できますよ」
「まあ、ぜひ!」
アマーリエはロベルトを振り仰ぐ。ロベルトは長身で、アマーリエは平均的女性の身長だ。ロベルトはアマーリエの破願を見て、ふと心が騒ぐのを感じた。なぜだろうと考え、すぐにアマーリエは他の貴婦人とは違い、ロベルトの顔の造形に見とれっぱなしではないからだと答えを出す。アマーリエはうつくしいものに目を奪われがちだ。この庭もそうだし、先程茶を喫した貴賓室もそうだ。少し話した際の王都の街並みもそうだ。
そして、ロベルトと初対面したときもそんな感じだった。つまり、ロベルトもうつくしいものの範疇に入れられたのだろう。素直にうれしく思えた。ふだんはないことだ。
恵まれた容姿を持つロベルトはうつくしいとよく言われる。しょっちゅう言われれば、慣れてしまい、なんの感慨も抱かなくなる。
なのに、アマーリエはほかの芸術作品と同じような視線を向けて来る。それでいて、今のように心底うれしそうな顔をされれば、心動かされずにはいられない。
「あ、こちらを、」
ロベルトが行こうとした道とは別の方向を望まれ、アマーリエはこの奥庭のことも母親から聞いていたのだろうと見当をつける。とすれば、真実、アマーリエは王族であると言える。国王に近づくために詐称したという最後にくすぶっていた懸念は、ここにきて完全に消失した。
「ああ、あれが!」
駆けだしたアマーリエの後を追う。
そこには、父に手を引かれて訪れたガゼボがあった。父たちを亡くして以来、やって来るのは初めてのことだった。なんだか懐かしい気がして、ロベルトは目を細める。
ガゼボの中に足を踏み入れ、アマーリエの隣に立つ。
一方、アマーリエは母から聞いていて、一度は見てみたいと思っていた願いが叶えられ、謝意を籠めてロベルトを見やる。
ふだんは整えられているだろうに、今は庭園の風で黄味の強い黄金色の髪がふわりと乱れていた。室内ではどこかくすんで思えた髪は、陽光を受け、自由に輝いて見える。
だから、重なったのだ。
聞いていた通りの光景に、従兄弟の姿が「母が語った弟」と重なった。金髪碧眼だったという。だから、瞳の色は違う。でも、その見事な黄金色はいっしょだ。「輪郭が陽の光に溶けだしたかのような」姿を見て、重なってしまった。
「彼は良い統治者になろうと努力していた」という母の言葉が、そっくりそのまま眼前の国王に当てはまる。
けれど、ロベルトはたったひとりだ。残された王族として、ひとりで責務を果たそうとしている。だから、本来のうつくしいかがやきを失っているように思われた。
「おひとりで大変でしたでしょう。ご自身の想いを押し込め、民のために尽力なさった。よく頑張りましたね」
自然と、ロベルトの手を取っていた。その手は剣を握ることもあるのか、見た目の優美さに反してごつごつとしていた。
母は「王太子殿下はよく頑張っておられますよ」と言って弟を抱きしめ、頭を撫でたという。
「本当はね、わたくしが撫でたかったの」
母はまだ成人前の弟とのひとときを思い出し、ふふと笑いを漏らした。
「黄金が溶けたかのようなうつくしい髪だったのですもの。ついつい触ってみたくなって。もちろん、すばらしいはたらきをされているという気持ちは本物よ。そうね、なんていうか、王太子殿下のがんばりへの労いにかこつけて、触れたの」
いたずらっぽい表情で言ってのけたものだ。仲の良い姉弟だったのだろう。
ロベルトといえば、驚きを禁じえないでいた。
しかし、考えてみればアマーリエは王族だ。母から伝え聞いて、この「王族の庭のうつくしい光景」の特定の時間と季節を知っていたのだろう。
在りし日の記憶がよみがえる。温かさを胸に連れて来る。
また誰かといっしょに眺めることができるとは。ロベルトはそっとよろこびを噛みしめる。
けれど、それだけではなかった。
アマーリエとつないだ手を引かれた。逆らわずに従ってみれば、すっぽりとその胸に頭を抱え込まれた。さすがに戸惑うロベルトの耳を、笑いを含んだ柔らかい声がくすぐる。そして、髪をなでられた。そのやさしい手つきは、父のものとも母のものとも違っていた。なのに、どうしてか、強烈な懐かしさがこみ上げてきた。それは激情に変化する。
「今までよくおひとりでがんばってこられました。耐えて、民のために尽くしてこられました。あなた様は真の国王にございます」
アマーリエは王族に伝わる「民のための王」という言葉の意味を正確に把握していた。自分を縛るそれを理解してくれているのだと思った瞬間、ロベルトの涙腺は決壊した。とめどなく涙が流れ、ついには嗚咽がもれる。
王族に伝わる言葉は、ずっとロベルトを縛り続けてきたのだ。そうやって、公正な王たらんことを課し続けてきた。
アマーリエはしばらくそのままでロベルトを労った。ロベルトは心やすさに、存分に甘えた。