10.「あと一日、もう少し」
「あと一日、もう少し」
従姉妹はそう願ったのだという。彼女の願いはたったひとつ、それだけだったという。
ロベルトはアマーリエを襲撃し、自分の係累を王妃や第二妃、第三妃の座に押し込み、甘い汁を吸おうとしていた一派を一網打尽にした。
その見事な手際に、臣下たちは敬服し、治世にいっそう協力的となった。
その契機となったあの夜会で、アマーリエはただただぼうぜんとしていただけだった。なにが起きているのか、分からなかった。
その日、青と緑が融合した不思議な色あいのドレスに、アマーリエの心は久々に浮き立っていた。
夜会に出席することが決まった後、ロベルトに「好きな色はなにか」と聞かれ、「青と緑がまざった色あいだ」と答えた。質問するロベルトの瞳を真正面から見たものだから、正直に答えてしまった。ロベルトはうれしそうに微笑んで、ブルーグリーンのドレスを用意してくれた。それまで会場に合わせた色あいのドレスを身に着けていたことから、今回はアマーリエの好きな色を選ばせてやろうとしたのだろう。
ひさびさに会ったフメリーク侯爵夫妻、セフナル伯爵夫妻、バストル子爵夫妻に盛大に安堵され、心配されていたことに喜びがこみ上げてきたのを覚えている。バストル子爵にまで言葉少なげながらも、案じる声をかけられ、思わずまじまじ見つめてしまった。
「つ、妻が気にしておりまして、その、」
「まあ、とてもうれしゅうございますわ」
自分を心配することの他に、バストル子爵が妻の言葉に耳を貸していることが、嬉しく思われた。
「アマーリエさま、今回のような大規模な催しでは気疲れされるでしょう。今度、また、小規模なお茶会をしましょう」
「素敵ですわ。気心知れた者とのおしゃべりは、心を和ませますものね」
「わ、わたくしも参加したいですわ」
フリメーク侯爵夫人の提案に、セフナル伯爵夫人が賞賛し、バストル子爵夫人も賛成する。
「それは貴婦人限定ですか?」
ロベルトが眉尻を下げる。声もしょんぼりしたものになるものだから、居合わせた女性陣から朗らかな笑い声が上がる。
「あら、では、陛下は特別にご招待しますわ」
「光栄ですね」
フメリーク侯爵夫人の笑いをにじませた言葉に、ロベルトはとたんにしゃっきりして笑顔を見せる。
そんな風に、ロベルトは自身の意を通すことを軽やかにやってのける。我がままで独断的だと思わせることはない。
そんな彼は、ブルシーク侯爵一派を捕縛したときには、統治者としての冷徹な姿勢を見せた。
リビェナは「アマーリエ・スカラ・シュトレクのひみつの恋人」を作り出して断罪しようと画策したが、その者自身は国王の手の者であったのだ。つまりは、すべてロベルトに筒抜けだった。
そして、多くの貴族が集まった夜会で露見した。大々的に糾弾しようとしたのが裏目に出たのだ。
以来、ロベルトをどこか若造とみなしていた風潮は一掃された。優れた統治者として見なされるようになった。
「お陰でやりやすくなった」
とは、側近たちの言だ。
優れた統治者として、臣民の前では堂々たる国王は、アマーリエの前では、年下の甘えん坊になる。
理想の国王像に傷をつけると忌避されると思いきや、側近たちからは歓迎された。
「王妃さまに言いつけますよ」はなかなかの効力を発揮するのである。子供ができてもそれは変わらなかった。いつまで経っても、彼女は王の精神的支柱であり続けた。
「困った方ね」
そう言って、結局はアマーリエが折れるのだ。そもそも、出会った当初からそうだった。アマーリエを引き留めるために、泣いて嫌がって駄々をこねたのだから。それでも、年下の聡明な夫はアマーリエに弊害をもたらす我がままを言わない。
義父母たちは婚礼の儀に招待し、そのまま宮殿に暮らすこととなった。子供の養育に手を貸してくれている。母に聞いていた説明を、アマーリエが義父母たちにしながら宮殿を案内したところ、感激のあまり涙ぐんでいた。
異母兄もまた、婚礼の儀に出席してくれた。完全に打ち解けるということはないものの、なぜか、アマーリエの子供にはたいへん甘い。
「陛下の御子であるから、お母様に似ているのかしら」
子供は幸いと言って良いものかどうか、ロベルトに似ている。
ロベルトよりもふたつも年上なので、内心心配していたものの、立て続けに四人の子をもうけることができて、安堵している。
これで、ロベルトに家族を持たせてやることができた。失ったものは取り返せない。けれど、新しいものは手にすることができる。
そんな風に思えるのは、ロベルトがアマーリエも子供たちも大切にしているからだろうか。
ロベルトが忙しい執務の間を縫って、夫婦の時間を持ち、子供をあやす姿を見て、アマーリエは「ああ、しあわせだ」と実感する。
ロベルトはロベルトで、父がしてくれたように、我が子と迷宮庭園を散策したり、幼少のころからシュトレク王族の片りんをのぞかせ、美術品に興味を示すのにあれこれ教えてやるのが楽しかった。このしあわせは、妻が与えてくれたのだと噛みしめる。
ロベルト・スィセル・シュトレクは後世に名を残す。その治世を王妃として支えたアマーリエは、国王の唯一の伴侶であった。国王は生涯、側室を持たなかった。
アマーリエはいつからか、多くの医者や薬師たちを集め、健康に気を配るようになった。口さがない者たちは不美人だから、国王に見限られないように美容に力を入れているのであろうと噂しあった。容姿、知性、統治力に秀でた国王の寵愛を一身に集めることへのやっかみがほとんどだ。
金に飽かせて不老長寿を求めるという噂まで出回った。けれど、王は取り合わない。
身体が弱いからこそ、アマーリエがあれこれ健康に気を使っていたのを知っている。その延長線上のことだろうと思っていた。
「陛下、妃殿下は外国からも広く医師や薬師を集っております」
由々しき問題だと注進に及んだのは長年側近を務めるマレクである。ロベルトは片眉を跳ね上げた。
「しかし、王妃は奢侈を好まない。王妃の予算内に十分に収まっているだろう」
「それが問題なのです。シュトレク王妃として体裁を整える程度にしか身を飾られないというのに、予算の大半を費やしておいでです」
王妃らしからぬ金銭の使い方だと言うマレクに、悪事につぎ込むならいざ知らず、と言って取り合わなかった。
ところが、いったん知ってしまえばどういうことなのか興味が湧く。
ロベルトはアマーリエが集めたという薬師を呼んで、王妃がなにを求めているのか尋ねた。
大国シュトレクの誉れ高き国王に下問され、薬師はかしこまる。
「王妃さまはご長寿をお望みです」
「ほう?」
わずかに違和感を覚える。アマーリエは富や名誉を手にした者が次に欲するかのように、不老長寿を望むような性質ではない。
ならば、なぜか。ほかに、理由があるのだろうか。それとも、本当にただ長生きがしたいだけなのか。
ロベルトの疑問は、奇しくも、彼の息子が答えてくれた。
小さくやわらかく、それでいて、しっかり五指の先にちんまりと爪がついた手を握り、迷宮庭園を歩いているときのことだ。
「お母さまは長生きしたいそうだ。お前たちが大きくなるのを見たいのだろうなあ」
つまり、そういうことなのだろう。
結婚を目の前にして襲撃されたことがあるアマーリエは、人生、いつなんどきいかなることが起きるか、という危惧を根強く抱いているのかもしれない。そうだとしたら、事が起きる前に手を打っていなかった自分の失態だ。
そういった苦い思いが、子供を前にしてロベルトにぼやかせた。
「ううん、ちがうの。おかあさまはね、」
幼い息子は、アマーリエがふと漏らした心内をしっかり聞いて覚えていた。
「あと一日、もう少し」
なんとかして、一日でも一時間でも長く、ロベルトよりも長生きしようとしていたのだと。
「わたくしはいや。先に旅立てば、あの方にまた苦しみを味合わせてしまう。ことごとく近しい者を失った苦しみを思い出させてしまう。そんなことはいやなの。わたくしがいやなの。だから、これはわたくしのわがままなのよ」
そう言っていたのだという。
「おとうさま? どうしたの? どこかけがをしたの?」
ゆっくりした足どりで隣を歩いていた父王が立ち止まったから見上げた。父王は泣いていた。母がよく褒める「ふしぎなきれいな色の瞳」からほろほろと涙がこぼれている。
「いいや、どうもしていないよ、ただ、」
ロベルトはいつか、アマーリエに慰められたように、今もまた、大きな愛を向けられていたのだ。
自分はいつも彼女の愛を求めていた。そして、こんなにも愛されている。
どうしてもそばにいてほしかった。離れていかないでほしかった。二度と失いたくはなかった。自分のわがままを困りつつ、結局は笑って許してくれる。なのに、自分はもっとと思ってしまう。
そうではなかった。ロベルトはこんなにも愛されていたのだ。
人は彼女を幸運だという。賢王に愛される王妃だと羨んだ。でも、実際はアマーリエはロベルトが欲するものを誰よりもよく知っており、それを与えようとし続けてくれていたのだ。
「あと一日、もう少し」
従姉妹であり、王妃であり、なにより、ロベルトの妻であるアマーリエはそう願ったのだという。彼女の願いはたったひとつ、それだけだったという。
アマーリエはロベルトよりも一日でも長く生きたいと願ったのだ。ことごとく近しい者たちを失ったロベルトに、もう一度同じ喪失を味合わせたくないと衷心から思ったのだ。
アマーリエの願いは、ロベルトのしあわせだった。たったひとつの願いは自分自身のためのものではなかったのだ。
ストレスは万病のもとと聞いた国王は息子の成人後、引継ぎを順次行い、退位して妻と穏やかな生活を送ったという。早すぎる勇退に、多くの惜しむ声が上がった。ロベルトは笑っていなし、取り合わなかった。
「あと一日、もう少し」
あなたとともに。
アマーリエの願いは、叶えられた。




