兄上と夫が戦いました
「……五、四、三、二、一……始めッ!」
トッドの合図と共にアレックスが動き出す。
アレックスは領内一の実力者だ。だから人間ごとき、力で簡単にねじ伏せてしまえるのだ。彼の動きは一発で急所を打ち瞬時に相手を戦闘不能にする、手練れの狩人のそれであった。
腰を低くし、重心を落とす。そして下から相手の腹を木剣で突き上げる。普通の人間は、まずアレックスの気迫に負けて動けない。動けたとしても、アレックスの「狩り」には到底体がついていかない。だから結局、負けてしまう。
木剣がエリウスの腹を刺す……その直前にエリウスが膝で木剣を蹴り上げる。狙いが逸れた切っ先は宙に向かい、逆に今度は狩人の胴体が無防備になった。
形成逆転。すぐさま木剣を逆手に持ち替えたエリウスが、アレックスの横腹を捉える。が、アレックスが体勢を整える方が僅かに早かった。凶刃を宙に逸れた己の獲物でどうにか防ぎ、そして互いに距離をとる。
それぞれの攻守が逆転する度に、そしてあと一歩のところで決着がつくのではないかと思われる度に、観客は興奮して声をあげる。
「いけーッ、エリウス様! ……あーッ惜しいィ!」
「そこだアレックス様! 避けられたッ!」
「エリウス様ー! やっちゃえーッ!
「アレックス様ー! 勝ってくださーい!」
私は勿論──兄に苛立っていたこともあり──エリウスの味方である。兵士たちの野次に混じって声援を飛ばすのだ。
「エリウスー! 兄上なんてぶっ飛ばしてくださーい!」
そしてエリウスはやはりエリウスである。必ず、私の声が聞こえた方角に振り向いては小さく口元を綻ばせる。汗塗れでも様になる笑顔だ──ではなくて、余所見をしている余裕があるとは。
「足元がガラ空きだ!」
「ッ!」
アレックスがエリウスの脚を木剣で薙ぎ払う。私に笑顔を見せた夫は派手に転んでしまった。やはり余所見をしていたせいだ。
倒れたところを押さえつけようとアレックスが手を伸ばすが、すんでのところでどうにか交わして立ち上がる。互いに互いの隙を突いては逆に突かれて、を繰り返し続けていた。
段々、観客たちの間にどよめきが広がる。あんなに信頼していたアレックスが、新参者を中々倒せないでいるだなんて、だとか、あるいは、いくら強いと思っていても流石に領主程ではないだろうと思っていたエリウスが、まさかここまでアレックスの手を煩わせるだなんて、だとか。
どのくらい戦い続けていたのだろうか。互いに、疲労困憊である。そろそろ体力が尽きて倒れる、なんてことがあってもおかしくはない。恐らく、次が最後となる。予感めいた確信が、その場を見守る者たち全員にあった。
アレックスが走り、剣を振り下ろす。エリウスはもう、逃げられなかった。
泥まみれの脚が地面につく──その直前まで落とされた膝。エリウスは逃げるのではなく、攻め込んだ。しゃがむことにより、剣戟を回避したのだ。
アレックスの懐へと踏み込み、低く構えた剣を振り上げる。それが腹部に直撃し、二人の動きが止まった。
ふらふら、とアレックスが後退し、その場にドスンと座り込んだ。剣を放り投げ、両手をあげて降参の姿勢を見せる。
「はぁ……クソッ、まさかお前がここまで強いとは……」
敗北を認めたその言葉に、ある者は歓喜で、ある者は悲哀で、と観客は一気に盛り上がった。
「流石だエリウス様! 今日からあんたが領主だ!」
「アレックス様に掛けちまった! 俺の金が!」
「敗者は勝者の言うことを聞くんだったな!」
「そうそう、あとマグノリア様からのキスがもらえるって!」
皆の視線が勝者に集まる。ほんの数秒前までの顔は格好良かったのに、すっかりいつものエリウスに戻ってしまった。「ええと、あの」としどろもどろになりながら考えるエリウスを揶揄う声も飛ぶ。
顔を真っ赤にしたエリウスが、叫ぶようにして要求を吐き出した。
「マッ、マグノリア殿を私にくださいッ!」
腰を直角に折る勢いで頭を下げたエリウス。既にフォーレイン家の娘と婚姻関係にあることを忘れていそうな彼に息絶え絶えで「もうもらってるだろ……」と呟き返すなり、アレックスは気を失った。
一方の私も、正直なところ気を失ってしまいたい気持ちであった。観客たちの視線は勝者エリウスと、彼が口に出した名前の娘に向いている。これから何が起こるのかと興味津々な人々の目、目、目……。
──全く、なんてことを言ってくれたの……?
「エリウス……私たちはもう結婚しているのよ?」
「あっ、そう……いえばそう、だった……ははは……」
乾いた笑いを零すエリウス。そういえばそう、って何だ。結婚したことを忘れてたのは、寝台を共にする間柄でありながら一切肌を重ねることなく、お喋りに勤しんでいたからではないか。しかもそれはエリウス自身が提案したことだというのに。
「一応、その……仲を深めたい、と言ったのは俺だ。お互いを知ってからなすべきことをしたいと思っているのは本当だが……」
気絶したアレックスに駆け寄った兵士たちも、私たち夫婦を見つめている。流石にこんなにも多くの人に見られると恥ずかしいのだが、すっかりボロボロになったエリウスだけ、私だけをじっと見据えているのだ。真剣な表情からは、目が逸らせない。
「貴方と過ごしていくうちに、次第に本当の夫婦になりたいと思うようになってきたんだ。だから、どうか、この想いに応えてはくれないだろうか」
飾り気のない、素直な告白だった。跪いて見上げる姿はまるで騎士のよう。
泥と汗まみれで、髪が乱れてしまっていても失われない高潔さは、やはり血筋の尊さを思わせる。顔は王子で、でも姿勢は騎士で、そして全体的に汚れているのは、何だか面白い。
スッと力強く差し出された右の掌に己の右手を重ねる。手袋越しにでも十分にわかる、剣を持つ男の手だ。だが、兄とはまた違う温かさを持っている。
「……はい、喜んで」
何もつけていない手の甲に唇が寄せられる。それを見るや否や、静まり返っていた観客たちの興奮が頂点に達した。




