10.あした世界が終わるってさ
「もし明日、世界が滅ぶとして何かしたいことある?」
普段なら死ぬほど面白くない質問だった。過去に誰かから尋ねられたことがあったからかもしれないし、ひどく使い古された質問だったからかもしれない。だけど、僕は笑ってしまった。笑ったことが不本意だったのか天ケ瀬ソラ(あまがせ・そら)は不貞腐れたように頬を膨らませて見せた。その姿はあまりにも作り物のめいていて余計に滑稽に見えた。
「なにその可愛いアピール?」
「実際に可愛いはずだけど」
自信にあふれた表情で返す彼女は本当に可愛かったので僕は言葉に詰まった。
黒髪の乙女である天ケ瀬と夜の公園で空を見上げる。そんな漫画的な経験ができるなんてこれまで十七年の人生で考えたことがなかった。もしいま流れ星に願い事をすべてが叶いそうとおもえるほどだ。
「で、何がしたい?」
どうせ世界が終わるなら誰かを殺したい。好き勝手に暴れまわりたい。あるいは家族や友人と穏やかな時間を過ごしたい。どちらも悪くない願いだと思った。だけど、天ケ瀬と空を見上げているとどちらもしっくりとこなかった。公園には僕たちしかいないが、街には多くの人がいる。その多くは穏やかな時間を過ごしているだろうし、反対に少し前にサイレンを鳴らして駆けていったパトカーの先では誰かが危険に襲われているに違いない。
「思いつかないな」
「尾張くんはつまらないのね。知ってる? デートのときでも普段でも彼女のことを思って『どうしたい?』って聞いてくる男性はモテないのよ。よく良い娘に限ってちょっと悪い感じの男に捕まるのかって言われるけど、だいたい悪い人は勝手に決めてくれるから楽なのよ。だから、そういう優柔不断はやめたほうがいいわ」
なるほど。納得してしまった。確かに僕はモテた覚えがないし、周囲にいた人畜無害な友達がモテているというのも見たことがない。ちょい悪のほうがモテるのはそういう理由があったのかと少しテンションがあがった反面、どうしていまそれを知ってしまったのかと首が外れるほど空を見上げてため息をついた。
空には月が冷たく輝き、その隣でのっぺりとした彗星がこちらにゆっくりと落ちてきていた。
彗星ルリム。あの彗星が地球に落ちることが正式に報告されたのは六日前だ。だが、あんな大きなものが近づいていることはもっと前からみんな気づいていたし、テレビやネットでは繰り返し話題になっていた。だから、政府から「彗星が地球に落ちます」と言われてもみんな「ああ、そうか。やっぱりね」と思ったくらいだ。発表から二時間後にアメリカやロシアと言った国々がミサイルをボコボコと撃っていたが彗星はまったく変わらず僕たちの頭に上にあって揺るぎもしない。落下まであと一日となった今となってはミサイルを撃つような国はなくなったらしく静かな夜空が広がっている。
天ケ瀬が『もし明日、世界が滅ぶとして何かしたいことある?』という質問が面白かったのは散々しつくされたこの問いをいまさらされるなんてことが場違いに感じたからだ。
「天ケ瀬さんはそういうけど。何がしたいの? と聞かないで何がしたいって言えばいいじゃないか。そうすれば僕、いや全国の男子が楽できる」
「馬鹿なのね、尾張くんは」
目を細めて笑う天ケ瀬は学校で見てきた澄ましていた彼女と違っていた。僕は彼女がこんなに笑うこともひとをずけずけとけなすようなこともしらなかった。ただ、綺麗で硬質で透明なのだと思っていた。だから、いま見ている天ケ瀬が僕には目新しくて彼女の言葉一つ一つが面白い。
「馬鹿とはひどいね。でもそうじゃないか。誰かに決めてほしいと言わずに何がしたいと言ってくれたら僕はなんでも叶える努力をするだろう。でも、言われなければ分からないじゃないか」
「尾張くんは女々しいのね。まるで女の子だわ。仕方ないからこれからは尾張ちゃんと呼ぶわね」
「それはやめてほしいな。こう見えても僕は男気に満ち溢れた高校生だと自負しているんだ」
「まぁ、尾張ちゃんにそんな自信があったなんて知らなかったわ」
目を見開いた天ケ瀬がわざとらしく口を開いたまま驚いて見せる。
「それにどうして誰かの願いを叶えたいっていうのが女々しいってことになるんだ?」
「そう言うところが馬鹿なのよ、尾張ちゃん。私は良い女なのよ。分かる?」
分かるかと言われてもにわかにはうなずきかねる。僕と彼女の関係なんてもの今の今まで同級生でしかなかった。ろくに知らない同級生が良い女なのか悪い女なのか判断するほど僕の人生経験は豊富でもないし、それを見極める心眼も持ち合わせていない。
「まぁ、だいたい」
「そういうところよ。あなたがモテないのは」
指をさして僕を叱責すると天ケ瀬は小さくため息をついた。そして、仕切り直したかのように表情を変えた。「つまり、私はつくされるよりもつくしたい女ということよ。そして、この国の女性はつくすものと言われているわ」彼女の自信ありげな眼差しに僕は少しだけ視線をずらした。
「……あのそれって都合の良い女なのでは?」
「上手いこと言うのね、尾張ちゃん。少し感心しました。ポイントを進呈しましょうか?」
「ポイントはいいからそのちゃんを止めてくれないか」
「分かったわ、尾張」
「……いいけど。で、僕が望みを答えたら良い女である天ケ瀬が叶えてくれるってこと?」
僕が訊ねると天ケ瀬は少しだけ曖昧な表情をする。ひとしきり悩んだあと彼女は人差し指で唇の下を隠すと口を開いた。
「そうね。テロリストに占拠された学校を救いたいと言われたら、カラシニコフを担いで平和な学び舎を制圧して見せるし、ずっとこのまま君と過ごしたいと言われたら、タイムループマシンでも超自然的な手段でも何でもいいから今を保って見せるわ」
「そりゃすごい。ただ、どうして願い事が中二病みたいなのばかりなの?」
「尾張みたいに友達と会話してても俺はお前たちと違う的な作り笑いをする人ってだいたい中二病患者だと思っていたのだけど違うのかしら?」
思春期の暗黒トンネルを絶賛通過中の男子なら自分は特別な存在なはずという無意味な自身を持つことは特別なことじゃないはずである。だが、そんなものは高校受験の少し前に通り抜けていま残っているのは
「もしかしたら特別なことがあるかもしれない」というわずかな願望であって、天ケ瀬の言うようなほかの人間とは違う、という考えはないはずである。
「天ケ瀬は僕のことをどういうキャラだと思ってるのさ? 今日だっていきなり天体観測をしましょうって急に連絡が来たし。少なくとも僕と君はそんな親しい間柄じゃなかったはずだ」
「分からないわよ。私とあなたは前世からの付き合いであなただけがそのことを忘れているのかもしれない。それとも実は生き別れの兄妹で尾張だけが知らなくて私はずっとあなたのことを『お兄ちゃん』と呼びたがっていたのかもしれない」
前者なら相当な電波さんであるし、後者ならそんな出生の秘密が自分にあったとは知らなかった。
「ちなみに天ケ瀬の誕生日は?」
「十一月十八日。世界一有名なネズミと同じ誕生日よ」
「そうか。僕は九月二九日なんだ」
「そうなのね。九月二九日。苦肉の誕生、尾張お兄ちゃんと覚えておくわ。来年の誕生日には苦い肝と薪のベッドを用意する」
「人の誕生日を臥薪嘗胆しないでほしいな。っていうか生き別れの兄の誕生日も知らないのか」
「嘘だもの。それとも私に誕生日を覚えててほしかったの?」
「いや、それはどっちでもいいけど……。そうじゃない。どうして天ケ瀬は僕を呼び出したんだ? 世界が終わる一日前にロクに縁もない同級生に会う理由が知りたい」
「嫌だわ」
心底から嫌そうな表情をすると彼女は立ち上がった。月の光と彗星の光が彼女の顔を陰にする。僕からは彼女がいまどういう表情をしているのかは分からない。だけど、彼女の声だけは聞こえた。
「私がどうじゃないの。あなたがどうしたいか。それが知りたい」
正解があるのかは分からない。
彼女が何を求めるのかさえ分からない。もしかすれば彼女は何も望んでいないのかもしれない。
単純に世界の終わりに誰もいなかった。それだけなのかもしれない。だとすればそれは僕と同じなのだろう。明日、世界が終わるというのに天ケ瀬の「天体観測をしましょう」という誘いにノコノコ出てきた時点で知られているのだ。僕には最後に会いたい人もいなければ、自分は特別だと世界に傷をつけて回ることもできない。
少しくらいは変わった経歴があっても僕は世界を救えるようなヒーローではない。
むしろ、役割が終わったモブなのだ。そのモブが役割を求めるということは蛇足なのだ。綺麗におさまった大団円にケチをつける。それは観客だけができる特権で、端役が言うべきではない。
答えない。それが答えだった。
「言わないのね」
「まぁ、男の子なんでね」
「確かに私も世界が終わる前に童貞を捨てたい、といわれたらどうしようかと思っていたの。あなたが欲望むき出しの男の子じゃなくて良かったわ」
「待ってほしい。僕がそんなことを言うと?」
「思っているわ。思春期の男子はオオカミだもの。町はずれに住むお婆ちゃんでさえ食べてしまう貪欲さ。いまだって本当は言っておけばよかった。クールな俺かっこいいという中二病に欲望を押し隠したことを後悔しているということだけは良くわかっているわ」
「全然わかってない。僕は天ケ瀬には興味がない」
当てつけのように言うと天ケ瀬の影は「なら良かったわ。実際にお前の願いはなんだ? と訊ねて童貞を捨てたいって言われたらどうしようかと思っていたの。いくら私がつくす系の良い女だからと言ってできることとできないことがあるもの」そう言って笑った。
「テロリストになれるのに?」
「誰かのために世界を滅ぼせる人になりなさい。私の祖母はそう言っていたわ」
とんでもない婆さんである。そんな婆さんならオオカミがやってきても返り討ちにするだろう。
「救うではないのか?」
「救わないわ。そういうのはヒーローにお願いして頂戴。だって私は悪魔なのですから」
「悪魔?」
「そう。悪魔。お前の命と交換に願いを叶えてやろう、という奴よ」
天ケ瀬が両手を広げて回る。その姿は月明りに照らされてとても美しかった。
いや、正しくは天ケ瀬が美しかった。彼女の背後にある月も世界を終わらせる彗星も飾りだった。ただ彼女をより美しく見せるための装飾品だ。僕はこのとき彼女に魅入られたのだ。魔が差したのだ。聖者でも救世主でもないただ人である僕は簡単に堕落する。
だから願ってしまった。
「この世界を滅ぼしたい」
ひどく陳腐で言葉にするとばかばかしい。中二病そのもののような言葉を天ケ瀬は笑わなかった。むしろ、満足したようであった。
「では、世界を滅ぼしましょう。あなたと私で」
契約は結ばれた。