水底の詩(その弐)
「水底の詩」は、日本人の精神性について多くの著書を残された哲学者、梅原猛氏の「水底の歌」からいただきました。「水底の歌-柿本人麻呂論」は万葉の歌人、柿本人麻呂について文学的な視点ではなく、古代史上のミステリーという視点で論じた作品です。
この作品に限らず、法隆寺と聖徳太子について論じた「隠された十字架-法隆寺論」や出雲大社や古事記の国譲りに関わる「神々の流竄」など多数の著書があり、古代史を通じて、日本に底流する「怨霊史観」を論じられた方です。
ですが、この詩は、柿本人麻呂や梅原氏の思想に着想があるわけでもなく、ただ、「水底の歌」という響きが好きなのでお借りしているだけです。
格好をつけて言えば、私自身、古代から連綿と受け継がれる日本人の「諦観」という精神性への共感が大きいということはあるかもしれません。
川は流れる
水底は
光の揺れて歪みゆく
我は小石に座したまま 己が姿を歪ませて
水面を見上げ、流れゆく 時と人とを眺めゆく
時は流れる
浮草は
何処へなりと辿りゆく
旅の途上を、生涯の 住みかと定め、櫂を止め
流れに任せ、身をあずけ 何処へなりと旅をゆく
我は流れず
水底に
流れる水を見上げては
映る時流が陽をあびて 描く模様を眺めつつ
浮かぶ、数多の浮草を ときに数えて涙ぐむ
川は流れる
水底は
光の揺れて歪みゆく
我は小石を擬したまま ひとり流れを思いやり
歌を詠えば
泡沫の ひとつふたつと浮かびゆく
「諦観」の仏教的な意味合いは「明らかに見る」というものだそうで「明らか」と「諦め」は同じ語源なのだそうです。物事が明らかになれば、諦めがつくということなのでしょうが、個人的には「受容」のほうが、すっきりと収まります。物事を見詰めて受容していく。能動的な傍観者が、諦観する者なのかなと思います。