目には見えずとも
ひざまずいた男性がアメリアの手を取り、その甲に唇を落とす。
それをじっと見ていたアメリアは、男性が顔を上げるとゆっくりと首を傾げた。
「……何だか、変な感じね」
「心構えとやらはできましたか?」
ヘルトはそう言って立ち上がると、何故かハンカチを取り出してアメリアの手を拭いた。
「終わったら拭くものなの?」
「いいえ? ただ、私の姫様の手が汚れるといけませんから」
「女性なら口紅がつくかもしれないけれど、ヘルトは平気じゃない?」
「気持ちの問題です。……それで、どうでした?」
優しくアメリアの手を拭くと、ヘルトはにこりと微笑む。
「うーん。これなら、いけそうかな」
やはり二回目だからか、それほどドキドキすることもない。
この調子ならば、三回目に来るかもしれないリュークの時にも、慌てずに済むだろう。
「まあ、そもそもリューク様がこんなことするとも限らないし……その前に、会えないんだけどね」
「意味のわからない練習ですが、前向きになったのはいいことです。以前はもっと弱気でしたからね。手紙の返事すらくれないと泣いていたこともあるでしょう?」
そう言われれば、そんなこともあったかもしれない。
ヘルトは五宮に唯一残ってくれた大切な家族のようなもので、日頃からあれこれと相談していた。
さすがに四年にループを加えた合計七年の歳月と日本の記憶を取り戻したことで、認識も変わってきている。
逆に、よく今まで四妃とプリスカの言いなりになっていたなとも思うが……長年の刷り込みと、唯一残ったヘルトに申し訳なくて我慢していたのだろう。
「ヘルトには、迷惑ばかりかけているわよね。もう私も大きくなったし、自由になってもいいよ?」
アメリアとしては結構勇気を出して提案したのだが、何故かヘルトは笑い出してしまった。
「大きく、ねえ。……まだまだ、姫様を一人にはできませんよ」
「そんなことないわ、平気よ。料理も掃除も畑仕事も覚えたもの。いざとなったら、逃げだして街で生きるわ」
胸を張って主張するが、やはりヘルトは笑ったままだ。
「どういう『いざ』なのかは知りませんが。そういうことは、尾行する私に気付けるようになってから言ってください」
「……あれ。ついてきていたの?」
そんな気は薄々していたが、この様子では完全に行動は筒抜けだったようだ。
「当然です。私はそもそも、姫様の護衛ですよ? 離れていて、どうやってお守りするのですか」
そう言われれば、そうだった。
五妃が亡くなり、使用人がいなくなったので色々な仕事をした結果ただの侍従になっているが、ヘルトの本職は護衛の騎士なのだ。
アメリアの行動範囲など完全に把握されているし、街に出ると知って放置するはずもなかった。
「……ちょっと待って。それじゃあ、見ていたの?」
「遠目ですが、大体は。ゴロツキどもに囲まれた時は出て行こうかと思いましたが、あの少年に先を越されました。彼に手にキスをされたから、練習などと言い出したのでしょう?」
「何なの、それ。恥ずかしい……」
あれは貴族的挨拶だったのだから何も悪いことなどしていないのに、見られていたというのは何だか心が落ち着かない。
「私の姫様に触れたので、ちょっと切り伏せようかとも思いましたが……。まあ、姫様はクライン公爵令息一筋ですから、揺らぐこともありませんし。あれくらいは子供の挨拶と思って見逃がしました」
「……待って。今、何だか物騒な言葉が混じっていなかった?」
「気のせいですよ」
穏やかな笑みを返されてしまえば、それ以上聞くこともできない。
「ただ、あの少年は立ち居振る舞いからして、上位貴族の令息でしょうね。顔をしっかり確認できなかったのが残念です。相手が貴族である以上は偽名を使うのが賢明ですが……」
ちらりと視線を向けられ、アメリアは少しばかり申し訳なくなった。
「……言っちゃった」
「でしょうね」
「で、でも! グライスハールとは名乗っていないわよ?」
期待していなかったと言わんばかりの様子に反論するが、ヘルトは深いため息を返してきた。
「当たり前です。それは国の名であり、名乗れるのは王族のみ。自分は王女だと宣言するようなものです」
そう言われてしまえばその通りなので、反論できない。
「それで、あの少年の名前は聞きましたか? まあ、あちらはきちんと偽名を使っている可能性の方が高いですが」
アメリアに比べてリュークには信頼があるのが、何だか悔しい。
「リューク」
不満を堪えつつ答えると、ヘルトは数回瞬いた。
「姫様の頭がクライン公爵令息でいっぱいなのは存じていますが。空耳も酷いものですね」
「ほ、本当よ! リュークっていうの。凄い偶然でしょう? 瞳の色も同じ金色だったの。世の中って広いわね」
てっきり驚いて感心してくれるとばかり思ったのに、ヘルトは口元に手を置いて何やら考え込んでいる。
「どうしたの?」
「いえ。……先日、四妃様とプリスカ様が、暫く五宮の近くに残っていたと言いましたよね」
「ああ。そういえば」
「門番以外にも、壁の上の姫様を見た者がいると聞きました」
「そう言われれば、あの時他にも男性がいたわ」
四妃とプリスカとその侍女たちの他に、灰色の髪の少年っぽい人影、それ以外にも男性の姿があった。
少年はこちらを見たようだったし、他にもアメリアの姿を見た人がいてもおかしくはない。
「四妃様に面倒な絡まれ方をしてもいけませんし、気を付けてくださいね」
「うん」
「それから。私も街に出ますので、出発の際にはひと声かけてください。少し離れてついていきますから、邪魔は致しません」
どうせついてくるのだろうからそれは構わないが、そうなると問題がある。
「でも、誰もいないと四妃が来た時に大変よ?」
滅多に来ないとはいえ、絶対ではない。
その時にアメリアもヘルトもいないのでは、抜け出しているのがばれてしまうのではないだろうか。
「大丈夫です。門番に熱が出ているからうつるかもしれないとでも、適当に言いくるめてもらいますよ」
「そんなことができるの? だったら、お願いしたら正面から外に出してくれる?」
いつも難しい顔で門のそばに立っていたので、アメリアのことが嫌いなのだろうとばかり思っていたが、意外と話が通じるのだろうか。
「それはさすがに……。ですが、彼らは仕事で四妃様の命令に従っているだけです。姫様に恨みはありませんし、それどころか門まで私を迎えに来る姿を見て、親しみさえ持ってくれていますよ」
「そうなの? 私、てっきり嫌われているのだとばかり思っていたわ」
ろくに会話もしてくれないし、視線は厳しく睨まれていると思っていたのだが。
「優しく接して出してくれと言われても困りますしね。門から出せば、自分はもちろんその家族、それに姫様まで罰を受けます。だから、あえてああいう態度を取っているのですよ」
今までまったく知らなかった事実に、驚いてただ瞬くばかりだ。
「姫様には、目には見えずとも守ってくれる人が沢山います。忘れないでください」
「……うん。いつもありがとう、ヘルト」
アメリアが感謝を伝えると、ヘルトは目を細め、そして恭しく一礼した。
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これも皆様のおかげです。ありがとうございます。
次話 街で苺を売るアメリアですが、何故か毎回リューク少年が声をかけてきて……?
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