66.フレキシヴァルトの隠し事
今度は、愛妻?
なんで、王都の公務を必死にこなして、愛妻の故郷への視察公務に付き合うため馬を飛ばしてきたのに、こんな仕打ちにあうのか?
「あら、そんなに困ること?」
「いや、その⋯⋯君たち、普段こんな話をしてるの?」
「偶々かしら? ティアはあのバカに義理立てしていたから、恋愛をする事もなく来て、今、ポーンと知らない海に放り出された気分なのよ。アレと結婚して、愛情を育むつもりだったんだから恐れ入るわね」
「ロイエルドとレディ・エルティーネは睦まじい夫婦だから、愛情溢れる夫婦関係に憧れがあるんだろう」
父上が割り込めないほどに。そのひと言は発することなく飲み込まれる。
「睦まじい夫婦なんて、恋愛結婚出来た私が言うのもなんだけど、貴族でそれを望むのは難しいかもしれないわ。
もちろん、ティアのご両親や祖父母のように、恋愛と交際から始められた夫婦もいらっしゃるし、うちの両親みたいに、親の決めた婚約者と結婚してから信頼関係と愛情を育てる夫婦もいるわ」
「ディオやエルと結婚したら、君のご両親のような家庭が築けるとは思うが」
そのフレキシヴァルトの言葉に、アナファリテの片方の眉がピクリと上がる。
「あなたの大好きなエルネストもデュバルディオ殿下も、まだティアに恋心を教えてあげられないのかしらね?」
「自覚がないだけ、とか?」
「本当にそう思ってる?」
そう訊かれると、視線を反らすしかない。
デュバルディオのことは、もちろん嫌ってはいないし、本当の続柄はシスティアーナが尊属ではあるが、親しい頼れる兄貴分くらいには思っているだろう。
貴族階級としての教育のおかげで、あれと結婚してもそれなりに仲のよい家族になれるに違いない。
エルネストも同様、親戚の、子供の頃からの付き合いでもっとも身近な、信頼の置ける男性だ。
エルネスト本人には伝えてはやれないが、妹や妻との会話で、エルネストとなら王命で今すぐ結婚しろと言われても、婿取りでも嫁入りでも躊躇なく出来るのにと言っていたことがあるらしい。
ただ、政略結婚より気楽で親しくしている間柄ゆえに負担がないと言うだけの意味なのか、エルネストならば本当に喜んで嫁ぐという意味なのかは判らない。
本人も、そこまで考えての言葉ではなかったかもしれない。いや、きっとそうだろう。
薄紅の姫君と呼ばれ、凛とした侯爵令嬢を努める彼女は、反射的に貴族的な思考を巡らせ動くし、大人びているが、ひとたび王宮での仕事を終えると、素直で世間知らずの小娘になってしまう。
職務中は名前と肩書きで呼ぶのに、プライベートでは、エル従兄さまだの、ファーだのとつい口にする。
あのファヴィアンをファーなどと呼ぶ人間は、世界中でも彼女だけだ。両親ですら呼ばない。アレクサンドルとユーヴェルフィオはファヴィーと愛称で呼ぶときもあるようだがごくたまにだ。
貴族的な思考でエルネストと結婚できると答え、大人びてはいるが実際には情緒面が心許ないただの娘として、恋愛とはどんな感じかと訊いてくる。
「私は、あなたが初恋で、あなたしか見ずに来たからよく解るの。
誰も触れることの出来ないあなたの心の底深くに、綺麗な女が住んでいる事をね」
「アナ、それは、」
「いいの。ちょっと妬けちゃうけど、そのひとがいるからこその今のあなたなのだし。その気持ちにちゃんとけりをつけて、大切にしているだけなのだから、文句は言わないわ」
「そうは言うが、その感情には名前をつける前に蓋をした。せざるを得なかったから。未だ、名はない。奥底から浮上してくることもない」
「理解っています。だから、文句はないと言ったでしょう? でも、そのひとはあなたの特別だから、何かとそのひとを天秤にかけたときに⋯⋯」
「それはない」
「国や私が危機でも、そのひとの大事を優先するのではないかと、たまに思ってしまうのは許して」
「だから、それはないと言っているだろう? 僕が手を差し伸べずとも、必ずまわりが助ける。僕が護らずとも、兄上が、エルが、ディオが、父上もロイエルドも、公爵閣下も、誰もが護る。
それに、僕を誰だと思っているんだい? 国民には穏やかで親しみやすい王家の顔なんて言われているけれど、実際の所、弟妹にも臣下にも、誰よりも怒らせてはいけない男と言われているんだよ? 国の一大事でも、アナを最優先で護る。妻を護れない情けない男では、国を守るなんて烏滸がましい。
君を護って、国を守って、且つ、敵を最も後悔させるやり方で抉ってやるさ」
まさか、自分でも普段は意識しない遠い昔に封印した気持ちを、愛妻が知っていたとは。そして、それを知らぬフリをして本当は不安に思っていたとは。
口を尖らせて、むくれた表情を装って、本当は不安に涙を滲ませ気の弱さを見せる妻を抱き寄せる。
「約束よ?」
「ああ。なによりもアナが一番だ。誓うよ。これまでも、この先もずっとだ」
目尻に滲む涙を吸い、頰に、瞼に、赤くなった鼻先に、耳に首筋に、ちゅとリップ音を立てて、最後にぷっくりとした魅惑的な紅い唇をじっくりと味わうと、そのままアナファリテが眠るまで、抱き締め続けた。