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 5 赫赫姜嫄

 明けて二月一日、木の曜日。


 ルナは、遠くに寅の正刻四点鍾を聞くとゆっくりと起き上がり、一枚羽織りながらベットの上に端座する。

 基礎呼吸法を丁寧に行う。身体の中から湧きあがる温かさが手足の先まで広がると呼吸法を収め、ベットを下りる。動きやすい服装に着替え、審アーサナ体操を行う。冬の冷気の纏わりを感じながら、教えられた通り体を動かす。小鳥たちの目覚めの幽かな気配を感じ、その場をかたずけ、部屋を出る。


「おはようございます。ルナ様。」


「おはようございます。師匠。」


「今日から新しい稽古を始めます。」


「はい。」


「凡そこの世に在る物はすべて物体として存在します。」


「風でさえ物体です。強く吹くと分かるように、こちらにぶつかってきます。水のように透明で見えないだけで、いつも身の回りに空気としてあるので無自覚ですが、よくよく観察すれば分かります。」


「はい。」


「そして物体は生物と無生物に分けることが出来ます。」


「はい。」


「無生物には無生物のこだわり、真理があるように、生物にも真理ががあります。」


「・はい。」


「生物の真理は、生きねばならぬ、という事です。」


「はい。」


「命を守り命を伝えていかなければならないという事です。」


「はい。」


「植物はその場から移動できないと思われていますが、種をとばして子孫を広めます。」


「はい。」


「そして、日の光を求めて花を咲かせ、葉を開きます。」


「はい。」


「動物は文字通り動きます。だから動物です。」


「はい。」


「エサを求め、(つがいを求め、寝場所を求めて動きます。」


「はい。」


「人も動きます。」


「はい。」


「人は動くために歩きます。」


「はい。」


「人の歩きは直立二足歩行です。」


「はい。」


「鳥も二足で歩きますが、その歩きは人とは違う理で歩きます。」


「はい。」


「人の歩きの理を五つの歩形に表現しました。」


「・・・はい。」


「生物が生きる為にどうしようもなく、してしまう事を(ごう)といいます。」


「はい。」


「人が生きる為にする(アクション)を生業と言います。」


「はい。」


「土地を耕して作物を作る事を、農業と言います。」


「はい。」


「水の中から魚や貝をすなどる事を漁業をいいます。」


「はい。」


「そして、生きていくために他人と戦う事を悪業と言います。」


「・・・はい。」


「戦う(すべを武術と言います。」


「はい。」


(ごうを背負った武術を、五つの歩形に託した古伝の術が、型として伝承されています。」


「はい。」


「五業拳と名付けられています。」


「はい。」


「貴様にこれを伝授します。これはわたくしの師父から直接手渡されたものです。」


「はい。」


「では、最初はこのように立ちます。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・


 07:00時5分前にはルナは厨房横の賄いテーブルのある部屋に入った。


「いい心掛けね。そこのお皿を並べて、お嬢様だからと言って、特別扱いはしないわよ。」と、鍋を持って来た厨房服のメイドに声を掛けられた。

 

「ジアリン、新人をいじめてないでヌオリンを手伝って、昨日のダメ出しで落ち込んでいるんだから、」


「いじめてなんかいないわよ。リンリンこそスカラリーメイドを蹴とばさないでよ。また辞められでもしたら困るのは私達なんだから。」


そんなやり取りを掻い潜るように男の子たちがやって来て席取りをする。


「ジョセフさんがいらしたよ。みんな大人しくして、」


「やー、みんなおはよう。席に着いたかい。それでは今日の命の糧に感謝して頂こう。」とジョセフの唱導で食事が始まった。


 一頻り食べ進んだのを見て、ジョセフ氏がフォークとナイフをまとめ置く。


「そこの新人お茶を淹れるの手伝って、」


と、リーダー格のリンリンがルナに指図する。ジョセフ氏が紅茶のカップに口を付けるのを待っていたかのように男の子がクッキーに手の伸ばす。


「こら、まずはお茶を飲んでからでしょ。」とリンリンが叱る。


「ところで、新しい人がいるようだが、」とジョセフ氏。


「はい。ジョセフさん。この娘が今日からランドリー見習に入るルナです。」


「例の店長預かりの娘さんかい?」


「そうです。」


「名前は?」


「ルナです。」とリンリン。


「では、ルナさん。」


「はい。」


「私はジョセフです。庭師(ガーデナー)です。この男の子たちは私の弟子です。」


「はい。」


「この館は女性が多い職場です。」


「はい。」


「このスティルルーム、賄い部屋へ入れる男性は私とこの子たちの他は副コック長とホール係りのギャルソンしかいません。」


「はい。」


「力仕事で男手が必要な時は私が差配して日雇いを入れます。」


「その時の食事などは洗濯建屋で行います。」


「はい。」


「あそこには竈もありお湯がありますので此処までお茶を貰いに来る必要が無いからです。」


「はい。」


「ランドリー建屋は外の男性が自分で洗濯をしたり、洗濯ものを頼みに来たりします。」


「唯一男性が頻繁に出入りする場所です。」


「はい。」


「それから通いの洗濯女もやってきます。」


「はい。」


「品格の高い、『白い椿亭』で唯一、下世話な世間話が行われる場所です。」


「はい。」


「他の貴族の館でも不祥事が起きやすい場所です。」


「はい。」


「あなたが起こす不祥事はランドリー長とそして、パイルー店長の責任になります。」


「はい。」


「という事で、そろそろ次と交代の時間ですね。ルナさんは私が洗濯建屋迄案内しましょう。そこでランドリー長をお待ちなさい。リンリン後は頼みました。」


「はい、ジョセフさん。今日もよろしくお願いします。それから、これが副コック長の注文書(リクエスト)です。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・


 8:00時の作業開始前に洗濯建屋には通いの洗濯女が集まって来た。全員でランドリー長と副ランドリー長を迎える。ランドリー長が始業前の挨拶を始めた。


「・・・では、最後に新人のルナを紹介します。ランドリーメイド見習として入ります。暫くは使い物にならないと思いますが、そうですね。建屋頭のソーニャ、暫く面倒を見て下さい。皆さんも宜しくお願いします。では、ルナ挨拶を、」


「ルナです。初めてメイド見習いをします。何も分からないのでよろしくご指導願います。」


ランドリー長が作業開始を命じるとそれぞれが自分の持ち場に散って行った。ランドリー長とソーニャの打ち合わせが済むとランドリー長と副長は事務所の中に入って行った。取り残されたルナはソーニャを待つ。


「さてと、ランドリー長の言う事にゃ本当に何も知らないらしいね。いいとこのお嬢ちゃんだったらしいが、そんなことはここじゃ関係ないからね。早いとこ忘れちまいな。涙を誘う身の上話のひとつや二つ、ここじゃ掃いて捨てるほどあるからね。」


「はい。」


「いい返事だ。口答えはここじゃご法度だ。特に新人のうちは返事は『はい』しかないからね。それじゃザッと建屋の中を案内しながらいろいろ教えよう。」


「はい。」


「店長に拾われてあんた、運が良かったよ。ここのパイルー店長はメイドの事をよくご存じだから、あんたがいずれランドリーメイドとしての技術を身に付けて自立するもよし、侍女(レディメイド)家政婦長(ハウスキーパー)を目指すとしても洗濯や特に染み抜きの技術はあった方がいいからね。だから頑張りな。」


「はい。」


「まあ、当分はこの水槽の水を・・こいつは最新式の風車で二階ほどの高さのタンクに汲み上げて水道管で各所に流し落しているんだが、あんたはここから桶に汲んで、呼ばれたところに運ぶんだよ。」


「はい。」


「例えば、アイロン室だね。アイロンには霧吹きが必要だがこの館で使うのは唯の水じゃ無い。ラベンダーの小枝を入れ置いて作った特別の霧吹きさ。香りが強すぎても弱すぎてもいけない。まぁそんなことは追い追い覚えるとして、イネスどこにいる!」


「はーい。ただ今。」


「イネス。」


「はい、ソーニャさん、なんですか。」


「お前の下っ端が出来たよ。ルナだ。この子にお前の仕事を教えてやっておくれ。」


「は、はい。」


「じゃ、ルナ。イネスの言う事をよく聞いて早く仕事を覚えるんだよ。イネス、この子がへまをしたら全部お前のせいだからね、ちゃんと教えるんだよ。」


・・・・・


「あんた、お屋敷に住み込んでいるんだって?」とイネス。


「はい。」 


「ふん、それじゃ明日から6時にここへ来な。」


「はい。」


「あんたが一番下っ端だからね。あたしはこの建屋に住み込んでいる見習いのイネスだ。明日から朝の仕事も教えるから。」


「はい。」


「取り敢えず今はお湯を沸かすよ。木の曜日はシーツなんかの大物を一度に洗うから、ちから仕事が多いけど、姐さんたちの邪魔に為らないようにあたしの後についてきな。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・


 二月六日は聖曜日。二月の第一週が瞬く間に過ぎて行った。ランドリー部門は通いの洗濯女が多いので、聖曜日が休みである。ヴィリーとルナがゆっくりと朝の稽古をする。


「では、ルナ様、木歩をお見せ下さい。」


と、ヴィリーはルナの練習成果を確認する。


「今は、それでいいと思います。明日からは火歩を練習しましょう。」


「はい。」


「農家などは日の出と共に朝のひと仕事、朝飯前のひと仕事を行います。日が暮れたところで仕事は終わりです。町中の職人も同じです。手元が明るくなったら、仕事の準備をします。朝食後辰の正刻、8時から直ぐに仕事に取りかかれるようにします。そして夕方17時には仕事を終えます。夜は戌の正刻20時には寝てしまいます。真剣に仕事に取り組んでいる者には余分な時間は殆どありません。信仰深き者はその僅かな時間に教えを紐解き信心を深めます。」


「はい。」


「ルナ様は特殊な立場にお生まれになりました。今のランドリー見習いは、生業の為の見習いではありません。民の生活を知るためと言えるでしょう。」


「はい。」


「ですから、なお更、真剣に生業としている人達に失礼とならないように励んでください。」


「そして、わずかな余暇の時間に信心深き者が信仰心をさらに深く強くするように、来週は火歩を修練してください。」


「はい。」


「では、開始礼から始めましょう。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・


 大人になり切っていないルナの身体には負担が大きい毎日であった。いつものセルヴィーズ見習いたちとのおしゃべりも断って、すぐさまベットに潜り込んでいたが、今日聖曜日はお店も早く終わり久しぶりにおしゃべりの時間を持てた。


「どうだった?ランドリーは、」と、アンジェリカ。


「いい男がいた?」と、テテ。


「お洗濯できるようになった?」と、ユージーニア。


「追い回しが仕事って言われたけど、本当に仕事に追い回されて目が回りそうだった。」と、ルナ。


「見習いなんてそんなものよ。」


「何処に何があるのか分からないから、まごまごしていると怒鳴られるし、何処にありますかって聞くとそんなことも知らないのかってまた怒られる。怒鳴られてばかりでしょ。」


「レースのアイロン掛けって大変そうね。」


「とに角、お湯を沸かすのと火傷しないように気を付けるので、へとへとだった。」


「でしょ。竈の灰や煤で洗濯ものを汚したら大変よね。」


「隣近所の洗濯物も請け負うって変な感じよね。」


「ランドリーはみんなで歌を歌いながらお仕事出来て羨ましいな。」


「洗剤に、染料に、お米にそうそう、灰汁つくりを見たわ。」


「言ったでしょ、灰を使うって。でもお米は何?食べるの?」


「ううん、糊付け用の糊はお米から作るんですって、」


「えー、食べるんじゃないの?」


「お米の糊が一番いいんですって。」


「田舎じゃ糊付けなんてめったにしないけど、そう言えばおばーちゃんがゆり根や屑麦とかで糊を作っていたかも、」


「そうなんだ。イネスが白い椿亭のランドリーは手抜きをしないからって言っていたけど、」


「それにせんりょうってなに?」


「白い椿亭のテーブルクロスやナプキンを青く染めるための染粉だそうよ。」


「なんで?テーブルクロスを染めて生地を作るの?」


「そう思ってイネスに聞いたら、本当に何も知らないのに何でランドリー見習いになんかになったんだって言われたわ。」


「そう言われてもね。ルナは店長に言われたからよね。それでなんでテーブルクロスを染めるの?」


「白いものは薄く青色で染めておくとより白く感じるんですって。だから、白い椿亭のテーブルクロスやナプキン、セルヴィーズの白いエプロンなんかは分からないくらいに薄く青く染めるんですって。」


「それは知らなかった。ランドリーって面白そうね。」


「ところで、小は使った?」


「小はまだ使ってないけど、イネスが外の頼まれ物の酷く汚れているのに使う時があるから、その時はあんたがみんなのを集めて来るんだよって言われたわ。」


「そうなんだ。馬車屋の人達とかご近所の建築現場の人ってヒドク汚れそうだものね。」


「そうね。その時はみんなのを貰いに行くから、協力してね。」


「「「え~、やだ~!」」」


・・・・・・・・・・・・・・・・・


 第二週も瞬く間に過ぎ明日は聖曜日、お休みだと思った水の曜日の午後、ルナの処へ店長がヴィリーを伴ってやって来た。


「ルナ。」


「はい。」


「このまま、出かけます。ついて来なさい。」


 そう言われ、ルナはヘッドカチーフを取る間もなく店長とヴィリーの後を追う。


 ランドリー建屋から敷地の裏のグリーン商会に抜けると、三人は待っていた馬車に乗りむ。


 曇天の空が低く、重く、垂れこめていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


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