9 五月の風
週の始まり木の曜日は、白い椿亭の定休日であり、ルナが貴族学院を慌てることなく下校できる日である。初日の縁で何となく言葉を交わすようになったセヨンと放課後の校舎の中で絵筆を洗っていた。
「若葉の香りを運んでくる五月の風って好き。」ぽつりとセヨンが言う。
「若葉もきれいだけどお花もいろいろ咲くわよね。」とルナ。
「ジュウニヒトエとか好き。」
「そうなんだ。私は花の名前とかあまり詳しくないから今度教えて、」
「うん。」
「セヨンは六芸の選択科目では剣術も取っているけど女の子なのにどうして?」
「う~んそうね。貴族生徒の女子は武芸を取ってない人がほとんどだけど、庶民生徒の男子も女子も武芸は必須なの。」
「そうなんだ。」
「ルナ様は午後の授業が終わるとすぐに帰っちゃうから分からないだろうけど、みんな居残って何かしらの練習をしている、」
「どうして?」
「それは・・帝都に住んでいると分からないけど、帝都以外の町や村は必ずと言っていいほど壁や塀で囲まれているの、」
「城壁都市とか町や村も堀や土塁、石壁、板塀や柵に囲まれているのよね。」
「そう、わたしの集落は小さかったけど石垣に囲まれてた。」
「帝都は違うわね。」
「帝都は狼や猪は出ないから。」
「他の処は違うの?」
「普段は出ないけど冬とか、一度だけ熊が出た時は怖かった。」
「出るんだ。でも町は?」
「町は昔は戦争で敵国が攻めてきたりしたけど、盗賊や匪賊が襲ってくることがある、」
「帝都は近衛師団がいるものね。」
「そう、だから安心して暮らせる、いつか村に帰えるなら剣や槍が使えた方いい。」
「領主様の実家の領地の出身だっけ。」
「うん。新しい侯爵様の領地となって、大人たちは何も変わらないと言っていたんだけど去年の秋、お役人が村に来て高等小学校卒業の同い年の子供が集められて、いろいろ聞かれて試験とかされたわ。あれよあれよという間に帝都に連れてこられたのが私達庶民生徒、女子3人男子7人。」
「みんな同じ村から来たの?」
「ううん、みんなバラバラ。わたしの知らない村や町からみんな来たの。新しい侯爵様の領地のいろんなところから集められたみたい。」
「そうなんだ。・・でもどうして?無理やり?」
「一応、上の学校に進む気持ちがあるかは聞かれた。」
「上の学校って?」
「私の場合は士官学校。」
「へ?」
「士官学校。軍人になる学校。」
「それは分かるけど、なんで?それも女の子なのに、」
「女子でも士官学校は入れるんだって、」
「そうなんだ。」
「ルナ様は貴族生徒だから上の学校へは進まなくてもいいのかも、よくわからいけど。」
「私いろいろあって、・・・親に言われてここに来ることになったの、それも今年の2月にね。」
「そうなんだ。私達もだいたい2月には帝都の寮に集められたって感じかな。」
「それで2年生に編入した‥されたの?」
「そう、大変だった。高等小学校を卒業して半年ほど家の手伝いで畑に出たり豚や山羊の世話をしたりしていたんだけど、帝都に来ることが決まってからはとに角、貴族学院1年生の学業を詰め込み勉強させられたわ。」
「アッ私もおんなじ。学校って、行った事なかったからどうなるか心配だった。」
「学校に行ったことなかったって、小学校も?」
「うん。」
「うんって、勉強はどうしたの?」
「お家でお母様に見てもらったりいろいろな大人の人に教えてもらった。」
「そっか、貴族様だものね。」
「貴族のお嬢様になったのは今年の2月からよ。」
「本当に!」
「そうよ。」
「それじゃそれまでは、小学校に行けないくらい…大変だった・・、」
「まあ、いろいろと(._.)」
「でも、とてもお嬢様らしいわ。言葉づかいとか立ち振る舞いとか。」
「そりゃ~猛特訓したから・・かな、」
「苦労したんだ。私なんか気を付けないとすぐ村言葉が出ちゃう。」
「そうなんだ。分かんないけど、例えばどんなの?」
「それは言えない。貴族様の前では使っちゃいけないって、厳しく言われて練習させられたから。」
「あなたも苦労したのね。」
「でも、侯爵様に学校に入れて頂いて、頑張ればタダで学べて侯爵様に恩返しができる士官学校にもいけるって。だから頑張る。」
「嬉しいんだ。」
「うん。嬉しい。勉強できるのはとても幸せ。」
「それは良かった。私も貴族学院に行くのはとても楽しみ。」
「そうなんだ・・わたしも勉強は好きなんだけど・・学院はちょっと・・」
「ちょっとって嬉しくないの?」
「ルナ様はとってもいい人だから親切だから良いんだけど・・、」
「ああ、お貴族様の令嬢達ね。」
「1年生からいらっしゃる3人の元からの令嬢さまはいつも微笑んでいらして、まだ良く判らないけど、今年から入った成り令嬢の方々がいろいろ・・・」
「まあ~、いかにも横柄?わがままお嬢様っていう感じね。講談本に出てくるそのまんま、」
「講談本とか読むんですか、」
「えッ、まあメイド仲間がいろいろ貸してくれたりするから、」
「えッ、お嬢様なのにメイドと仲良しなんですか?」
「あっ!・・・う~ん、ごめんなさい。」
「何がですか?」
「今まで黙ってて、」
「何を?」
「実は私、学院では貴族のお嬢様、・・をやっているけど、お館に帰ればメイドなの。」
「へっ?」
「今は学院から帰ったら、夕食までお鍋を洗っているの。」
「ホントに?」
「ほら、水仕事をしている手でしょ。」
「本当だ。水仕事の手ね。」
「セヨンの手も見せて、」
「わたしの手は畑仕事とか家畜の世話とか薪割もしてたけど、だいぶ町の人みたいな綺麗な手になってきたわ。」
「ペン胼胝が出来ているけど随分勉強したのね。」
「この半年はね。やっと落ち着いた。今の方が学業は楽だし、いろいろ新しい芸事が習えてうれしい。」
「そうね。私もよ。慌ただしかったのが落ち着いた感じ、あ、ヴィリーもう終わります。ごめんセヨン迎えが来たみたい。」
「はい。」
「良かったら、今度ゆっくりとお話ししたいな。どう?」
「どうと言われても、私は寮に帰るだけでこれといって予定はないですけど、」
「じゃ来週の木の曜日、パイ・・お館様の許可が頂けたら私の部屋に遊びに来て欲しいな」
「貴族様のお館に行くなんて・・」
「大丈夫、元貴族のお館だけど今は違うから、白い椿亭っていうの、そこに住んでいるの、う~ん木の曜日はお店はお休みでケーキとか無いけどお茶ぐらいは出せるからいいでしょ。あ、ヴィリー大丈夫よね。ヴィリーも頷いているから大丈夫よ。」
「分かったわ、よろしくです、ルナ様。」
「う~ん、ルナ様ってルナでいいわ。」
「そういう訳にはいかないです。こればっかりは、」
「そうね。それについてはあまり強く言えないわね。‥でもお友達よ。よろしくセヨン。」
そう言って一度セヨンの手を素早く握りしめると、ルナはヴィリーのもとに走り去った。
セヨンは大きくため息をついて青い五月の空を見上げた。
・・・・・・・・・・・・
次の火の曜日、土の曜日、金の曜日、水の曜日とルナは午後の時間が終わるとすぐに帰ってしまい特に打ち解けて話すことは無く、セヨンは少し不安になっていたが次の休みの聖曜日、十二貴族学院の学生寮にセヨン宛ての手紙が届いた。
「明日、お茶にご招待します。一緒に帰りましょう。ルナ。」と記されてあった。セヨンは貴族の館に行った経験など無かったので、どうしたらよいのかちょっと不安であったが、そんなことよりも期待の方が大きく膨らんだ。
5月7日の木の曜日はいつもどうりに振る舞ったつもりでいたが、胸の鼓動を誰かに聞かれたのではないかと気になった。午後の絵画の時間もルナとは特に言葉を交わすことなくいつもどうりに最後に教室を出た。ルナはもういない。セヨンは友達と別れてひとり学院を出て歩き始めた。
第十二貴族学院の敷地を囲むフェンス沿いの歩道を学生寮の方へ曲がると、その向こうに馬車が一台止まっていた。ルナが通学に使っている無紋の豪華な馬車であることは直ぐに分かった。胸の動悸を押さえながら何事もない様に歩く努力をした。馬車の横を通り過ぎる時、窓が開いて
「セヨン。」
と呼びかけられた。ビクリとしたが立ち止まりゆっくりと窓を見上げる。
「ごめんね。またせたわ、さあ乗って」
と扉が開けられ、車内から身を乗り出したルナに手を引かれて馬車に乗り込んだ。
「成り上がり令嬢たちに目を付けられないようにしたから、あまり学院でお話しできなくて」とルナ。
「いろいろ気を使ってもらって、有難うです。」と、セヨン。
「秘密を持ったみたいでちょっとドキドキした。」とルナ。
「わたしも、貴族様に呼ばれるなんてどうしたらいいか分からなかった。」とセヨン。
「もう大丈夫ね。」
「うん。」
「どうしたの?何か問題でもあるの?」
「この馬車、お尻が痛くない。ふかふかの椅子。」
「伯爵家の娘に恥ずかしくない様にって、外は無紋でどこの貴族家の馬車か分からないけど、」
「わたし、荷馬車にしか乗った事がないからびっくり。」
「そうなんだ。まあ、立派なのは馬車ぐらいで、お部屋は質素なの、あまり期待しないでね。」
「そうだった、お館ではメイドだったっけ。」
「そうよ。ランドリーメイド見習いをやって、今はスカラリーメイドのお手伝いってとこかな、」
「そうなんだ、メイドもいろいろあるのね。」
「そうね。本当の貴族の大きなお屋敷とかには、ハウスメイド、ランドリーメイド、キッチンメイドとか、たくさんいるわね。」
「ルナ様のお館にもたくさんメイドさんがいるの?」
「私の処は、お館といっても貴族の館を買い取ってお店にしたので、本当の意味でのメイドはいないの、」
「でも、メイドをやっているって。」
「そうね。貴族のご家族とかはいないけど、建物のお掃除とかしなくちゃいけないでしょ、それはみんなで手分けしてセラヴィーズやギャルソン全員でやるんだけど、ランドリー建屋があって、ランドリーの仕事は貴族屋敷のランドリーメイドにも負けない技術でお洗濯をしているの。私はそこで貴族学院に入る直前まで見習いランドリーメイドをしていたわ。」
「どんなことをするの?」
「ほとんど、釜炊きと水汲みね。」
「釜炊きか~、煤や灰を被ったりしてたの?」
「そう。私は灰被り姫って呼ばれてたわ。」
「貴族のお姫様なのに、」
「そして今は水被り姫。鍋ばかり洗っている。」
「服洗いから鍋洗いになったんだ。」
「ほんとだー!洗い物ばかりね。これじゃ、ものわらい姫って言われないかしら?」
「お父さんみたいなダジャレね。洗い姫じゃなくって笑い姫ってどっちもへんだけど、」
「私の二つ名はものわらいのルナかしらそれともダジャレのルナかしら、」
そんな、たわいもない話をしているうちに白い椿亭の車寄せに到着してしまった。
「もう着いたの?」
「五条通りだから学院からそれほど遠くは無いのよ。」
「馬車に乗らなくても走ってもいけそうね。」
「そうしたいんだけど、一応貴族令嬢なのでそうはいきませんのよオホホホホ。」
「お貴族様も大変ですのね。オホホホホ。」
「ヤダー、セヨンまで変な笑い方をして、ごめんね今日はお店はお休みで、正面玄関からは入れないの。こちらに来て従業員用の通用口があるから、」
そうルナは言うとセヨンの手を取り、通用口の方へ歩き出したその時、パイルーが現れた。
「ルナ様。」
「はっ、はい。」
「大切なお客様を使用人用の入り口からお招きするのは感心しません。本日は白い椿亭の正面玄関はしまっておりますのが、宿泊客様用の玄関からお入り下さい。」
「いいの?」
「もちろんです。ルナ様の大切なお客様ですから。」
「ありがとうパイルー、お部屋は3階の部屋を使うわ。貴族学院の生徒に客間は大げさだから。お茶も自分で淹れます。」
「畏まりました。コック長がケーキを作ったそうですので、お菓子はそれをお出ししてください。」
「ありがとう。それじゃセヨン。こちらからどうぞ。今日はよくいらっしゃいました。」
「ルナ様。お招き有難うございます。」
互いに制服のスカートを摘まみ屈膝礼を芝居がかって交わすと、若い娘らしく笑い声をあげながら階段を駆け上って行った。