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君に捧げられる唯一のモノ

作者: G26

瞼を持ち上げる。息を大きく吸いながらゆっくりと。

最初に感じるのは白い視界。薬品と消毒の混ざりあった匂いを感じながら、腕を持ち上げようとする。

そこで、体にかかる重さを実感する。掛け布団1枚。それでもこの体には大きな枷となる。

もう一度深呼吸を。


おはよう。今日もまだ生きてたね。


自分に心の中でそう話しかける。

いつからだろうか、毎朝起きる度、生を実感し、安堵するようになったのは。


元々体は強くはなかった。

運動神経は壊滅的だし、少し走るだけで息切れするし、喘息も持っていた。

おかげで幼稚園、小学校では体を動かす授業の時は見学ばかりだった。

中学に入って少しはマシになって、両親とも、やっとみんなと遊べるね、って笑い合えるようになった。


だからやっぱり、あの時からだろう。


高校の入学式の日。

15歳の憧れである高校生活を夢見て、期待に胸を膨らませていた。

友達はちゃんとできるだろうか。自慢ではないが私は人と接するのが苦手だ。


話しかけられても何と返そうかと考えてるうちに頭の中が真っ白になっていって上手く話せなくなってしまう。

一対一ならまだいい。複数人の話の中に入ろうものなら、いいと思う返しを考えた頃には話題は次に移っている。

女子の会話は回転が早すぎるのだ。


そんな私でも、高校になったら彼氏を作って、部活の帰りには一緒に帰りながら、たまには買い食いなんかして、お金ないねなんて笑いながら、それでも楽しい毎日を遅れると、無邪気に信じていた。

そんな当たり前を疑っていなかった。


そんな妄想を頭でぐるぐる回して退屈な式の時間を潰していたら。

私は新入生の列の前から4列目右から3番目の席で。

唐突に息が出来なくなり、倒れた。



突発性拡張型心筋症。



そう告げられた。

原因は不明。心臓の筋肉が薄くなり、心室が拡張することで収縮力が弱くなる病気である。

元々が強くはない私の体は、階段を数段上るだけで呼吸が困難になるレベルで疲労を訴えるようになった。

当然、学校生活など送ることは出来ず、突発的な発作も起こるようになり、入院生活を余儀なくされた。


どうしてそんなことを考えたのか。

少し頭を巡らせて、今日は私が行くはずだった高校の入学式の日だったのだと思い至った。

あれからもう2度目の入学式だ。もし普通に通えていたら、私は3年生になるはずの年。


毎日起きたら安堵する。それを730日繰り返してきた。

あと何回私は、朝を迎えられるのだろう。この1年で強くなってきた諦観を吐き出すように、1つ息を吐いた。








2年も入院生活を続けていたら、暇つぶしはプロの領域だ。

運動をしたりすると呼吸困難になったりするだけで、他は大して健常者と変わりはない。

それでもその1点は大きな枷で、上の階に上がるにはエレベータを使わざるを得ず、重いものも持てない。できることは限られるのだ。


生きている意味はあるんだろうか。

ドナーが見つからなければ治る見込みもなく、なにも生み出すことも無く。

そう思ったことは1度や2度ではない。むしろ考えないことの方が少ない。

しかしいざ「なら死のう」と思っても、勇気のない私は手首を切ることも、屋上から飛び降りることも、薬物を呷ることも出来ない。


今日もまた、日課となっている中庭での午前中の読書のため、本を膝の上に抱え、車椅子を看護師さんに押してもらい、中庭に向かう。


「相変わらず難しい……というか特殊な本のチョイスね」


私の肩越しにかけられる声はまだ若い。

この病院は大きく、伴って働く人の人数も多い。

丸2年ここにいて、ようやく半分くらいの人の顔がわかるようになったが、そのくらい多い。

ちなみに、科が違ったりすると顔を合わせることもない先生も多いため、残りの半分は今後も分からないままである可能性が高い。


その多くいる職員の中でも、今車椅子を押してくれているのは、1番若くて可愛い看護師さんだ。

ナースキャップが似合いそうである。この病院にはそんな装備はないが。


「オプション取引……? よく分からないけどあなたの歳の女の子が読む本じゃないんじゃ……? というか株もやってるのにまたなにか始めるの?」


彼女の言う通り、私は株取引をしている。有り余る時間を費やして、傾向を読み取り、会社や社会の情勢を調べることで堅実な投資をすることが出来て、そこそこの利益は出せている。

自殺願望を軽く出来ないか、というのと自分の入院費用くらいは稼げるようになりたい、と思って始めたのがきっかけである。

初期投資費用だけは父に用立てて貰ったのだけど、それも全額返済出来た。借りた額を耳を揃えて現金で返した時は、流石の父も驚いていた。


「時間だけは持て余してますから。激しく動いたり出来ないだけなんだから、消費するだけの生活は嫌だなって思うし……」


ただでさえ死にたくなるのだ。これでただ小説を読むだけで暇だ暇だと口にするのは罪悪感が勝る。せめて自分が生きていてもいいと思えるくらいには何かを成したかった。


「すごいねぇ。他にも長く入院してる患者さんは沢山いるけど、そんなことしてるの貴女だけよ」


「変わってるとは言われ慣れてます」


そう言って自嘲気味に笑う。褒め言葉としても、嘲りの言葉としても、聞き慣れていた。

実際、周りとは思考の順路とも言えるものが違って、考えや話が噛み合わないことの方が多い。


「あ、ちょっと左に避けて貰えますか」


看護師さんが私の手元を見ていたため、前から来る車椅子と進路が被りそうになる。まだそんなに距離は詰まってないが、近づいてからではお見合いになってしまいやすいからだ。


「おっと、ありがとね」


看護師さんも気づいていたのかもしれないが、短くお礼を口にした。

向かいから来るのは親子だ。左足をぐるぐる巻きにしたお母さんらしき女性の座る車椅子を、男の子が押している。男の子の方は私と同い年くらいだろうか。

なんとなくその男の子に目を惹かれて、思考がぼやける。

男の子と目が合った。


学生にしては少し長めの前髪が目にかかって鬱陶しそうだが、顔の作りや表情、物腰等と相まってアンニュイな雰囲気が漂っている。気だるげながらも優しさが覗く目元が印象的だ。

顔立ちとしては結構整っている方だと思う。

切れ長の目尻に、スっとした鼻筋、薄めの唇。輪郭は細めではあるが、男性らしい骨格の太さがある。

背は目測だが、175センチくらいだろうか。すらっとした体型だが、不思議と細さは感じない。広めのシャツの首元から覗く胸元から、ある程度鍛えていることがうかがえた。


そこまで1秒で観察して、自分の思考に戸惑う。

初対面どころかすれ違ってもいない、向かいから歩いてくるだけの同年代の男の子をこんなに事細かに認識するのは恥ずかしいことに思えて、慌てて顔を逸らす。顔が熱い気がして、それを後ろの看護師さんに気取られるのが何故か嫌で、両手で頬と耳を隠す。

それでも意識はやたらと前から来る男の子に向いていて、初めての感情の動きに混乱は最高潮。

男の子も同じタイミングで顔を逸らしていて、同じ動作をした、それだけで喜びに似た形容しがたい感情に心を揺さぶられる。


手を離した時に足も動かしてしまっていたのか、膝に乗せていた本が滑り落ちる。奇跡的な角度で落ちた本は奇跡的な転がり方で3回転ほどし、私の少し前方で止まった。


「こほっ、こほっ」


慌てて体を倒して本を取ろうとする。が、慌てたのが悪かったのか、体を折ったのが悪かったのか、乾咳が出た。


「大丈夫?」


かけられた声に少し滲んだ涙を拭いながら顔を上げる。

近い。

当たり前だがさっきよりだいぶ近い。

強く拍動できないはずの心臓がそれでも強く鼓動を刻もうとしている。


「だ、大丈夫。ちょっと噎せただけだし」


「良かった。あまり体強そうじゃないから心配になって。本はどこも折れたりはしてなさそうだ」


その言葉を聞き、普段の自分ならまず本の状態を確かめるのに、と思う。そんな些細な普段の自分との違いに戸惑う。


「あ、うん、借り物じゃないし折れても大丈夫だから……。ありがとうございます」


「気にしないで。難しい本……というか変わった本を読んでるんだね」


男の子の視線は私の手元に戻った本に向いている。別にいつも読んでいるものなのに、女の子らしくない本のチョイスが何故か無性に恥ずかしくなり、隠すように掻き抱く。


「じ、自分の入院費用くらいは稼ぎたいから……」


その声は本に挟まれてやけにくぐもっているように聞こえた。


「すごいね。見習いたいな……あっと、ごめんね、止めちゃって」


その声は本当に感心したような響きを含んでいて、少し救われたような気がした。


「いえ、こちらこそすみません。拾ってくれてありがとうございます」


ただすれ違っただけ。本を拾ってもらっただけ。

それだけの関係故に、関わる時間はそう長いものにはならない。その事を物足りなく感じるが、元来のコミュ障気質は、何をすればいいのか有効な答えを出してくれない。

結局いつものように、なにかをする前にすれ違った。


すれ違う時、車椅子に座っている母親らしき女性がやけに嬉しそうに男の子をニヤニヤと見ていた。

前後の関係性はよく分からなかったが、妙な不安を覚えて後ろを見た。


「ふふふふふ……」


顔は違うのに、何故か直前に見た気がする顔だった。








発作があった日は、次に目を開ける時恐ろしくなる。

いつもの部屋じゃないのでは、いつもの病院ではないのでは、と。

気だるいまぶたを恐る恐る開き、2呼吸ほど噛み締めて、ようやく安堵する。

今日を迎えたことを安堵する。


おはよう、今日もまだ生きてたね。


験担ぎのようにいつもと同じフレーズを脳内で呟くのだ。

とはいっても、この病気を発症した当初ほどは取り乱さない。なんと言っても2年間、この状態で生きてきたのだから。


私の体に巣食う病は、突発性拡張型心筋症。発症の原因は不明。心移植以外に根本的な治療法は無く、身体活動の調整が必要。また発作による突然死の可能性が高い。

運動が出来なかったり、心肺機能の弱さによる身体能力の低さを除けば、あとは食塩制限と水分制限が必要であるという程度。

しかし心臓の移植のためのドナーは脳死判定を受けた臓器提供意思表示者からしか提供されず、摘出から4時間以内に血流が再開しなければならないため、移植例は移植待機数に対して圧倒的に少ない。

移植手術待機日数の平均は3年近い。病名宣告からの平均寿命が5年なので、待機しているうちに発作で亡くなる人はかなり多いだろう。


明日は自分がその仲間入りをするかもしれない。

そんな恐怖が慢性的に私の精神を苛む。

しかし恐怖に怯え布団にくるまっていても、体は良くはならない。むしろ適度な運動をしていないと悪化の一途を辿る。

自分の不幸を嘆き、人生を儚む期間は1年半前に終わった。

同じ命なら、最後の最後まで胸を張って生きていたい。それが、なにも成してこられなかった私の、唯一にして最後の矜恃。


とはいっても、その人生のフォーカスを一日単位に当てると、そこにあるのは「無」である。

つまりは暇なのである。

時間を持て余し、株で稼げてしまう程度には暇なのである。


そのための暇つぶしは多岐にわたるが、ここ1ヶ月で、その暇つぶしのルーティンに新しい行動が追加された。


この病院の一角に、入院患者のためのロビーがある。そこは壁が外を180度見渡せるような、半円状のガラス窓になっていた。

私は毎朝8時から8時半まで、ここで外の景色を眺めながら過ごす。

否。


外の歩道、そこを、ただ1人の姿を探してただ待っていた。


春の朝、本を拾ってくれた男の子が使う通学路がこの歩道なのである。


ここに通いだした初日は、例の若くて可愛い看護師さんは首を傾げていた。

3日目になると、外を見て納得し、ニヤニヤしながら私をからかった。その視線に晒されると、どうにも首の後ろがもぞもぞした。

5日目にもなると、私もその視線になれてきて、気にならなくなった。


あの日以来、言葉は交していない。

それどころか視線すら合ったことがない。ぼんやりと上を見上げることはあったけど、視線は合わなかった。

当たり前だ、私だってたまたまその姿を見つけて、目で追っているだけなのだから。

こっちを見て欲しいと思いつつも、いざ目が合えば首が折れる勢いで目をそらす自信があるので、ただ1人で悶々とするしかない。


自分はこんなキャラだっただろうか。もっとあっさりした人間だったはず。こんなストーカーっぽいことをする人間ではなかったはずだ。

そう思いながらも、この朝の、もはや習慣になってきた行為を辞めることは無い。


ここは2階だから、少し歩道を見下ろす形になる。

ここから見るあの男の子は、見下ろすせいか前に見た時よりも気だるげで、なのに姿勢は結構綺麗だったりして。

なにかスポーツか姿勢がいいなら武道でもしてるのかな? だから鍛えた体つきしてたのかな? あの腕で抱きしめられたら……きゃー!なんて妄想が暴走する。

ほんとに誰だこれ。

ともあれ脳内の小さな自分がこんなに暴れてたら、流石の私も自覚する。


私は恋をしてるんだな……


って。

初めての感覚ばかりで、戸惑いの連続だった。それはもうマシンガンのように。マシンガンのように、看護師さんに問い詰められた。

なんなら刑事ドラマで見るような尋問のシーンを思い出した。


でも、根掘り葉掘り聞かれたところで、そもそも話せることは何も無かった。

あの日以来話すことはおろか、目を合わせること、対面することすらなかったのだから。

それに私には、この恋を行動に移すつもりは無い。

時間の無い、私には……


「あ、来た来た! 来たよ! 今日もいつもと同じ時間、同じルートね!」


やけにテンションの高い看護師さんが車椅子のハンドルをパシパシ叩きながら私に言う。

言われなくてもわかってる。貴女が見つける3秒前には私は見つけてたから。


「今日も眠そう。バイトとかかな?」


「そうかもねぇ。最近の高校生はバイトしてる子多いもんねー。私ももっと学生時代に色々しとけば良かったなー」


まだ若いのに、というか社会人2年目のくせして三十路に差し掛かったOLのようなことを言う。

バイトどころか学校にすら行けない私の前で無神経かよ、とは思うこともあった。

でも、慣れてしまえば気を使ってそういう話題を避けられるよりも、ずっと気分は楽なことに気づいた。


「結婚してパートで色々すればいいじゃないですか」


視線は男の子から外さないまま、適当な返しをする。


「うわ、現実的っ。でも相手いないんだよねぇ〜。君はいいなぁ〜」


「2分程度しか話したことすら無いですけどね」


「いいじゃんいいじゃん、言葉じゃない、時間でもない恋、なんてさぁ〜」


夢みる乙女のような表情でニヤニヤするという器用な看護師さん。

夢は寝てる時にだけ見てろ。そう言ってやりたい。でも我慢する私は偉いのだ。

そんなことは置いておき、少し前髪に隠れた顔を見ようとする。今こそ目覚めよ、私の千里眼。


「……好きだなぁ」


呟き、少ししてから、自分が声に出していたことに気づく。頬が引き攣る。恐る恐る横を見ると、案の定看護師さんが両頬を抑えながらニヨニヨしていた。ニヤニヤではない。ニヨニヨだ。美人が台無し、と言いたいところだが、美人はそんな顔をしても絵になる。鬱陶しい。


「……なんですか」


「いいぇ〜なんにも?」


絶対なんでもないことは無い。これ以上にないほどに。今にも飛び跳ねながらなにか叫んでいきそうだ。


「もう、仕事戻ってくださいよ。看護師は忙しいんじゃないですか?」


照れ隠しにもならないぶっきらぼうを装った合図。分かってるからもうからかわないで欲しいという。

さすがに引き際を心得ているのか、看護師さんは一瞬優しげな笑みを浮かべると、


「はいはーい! 鬼を呼ぶ前に私も仕事に戻りまーす。君も体に負担にならないうちに戻るんだぞー?」


なんて軽いノリで言いながら、スキップでもしそうなこれまた軽い足取りで離れていく。

今日も疲れた。あのノリについて行くのは無理だ。1時間で置いていかれる。でも2日会わないと何となく物足りないような気がしてくるから、私もだいぶ毒されてるな、と独りごちる。


「さて、私もそろそろもど……ろ、……ぁ、れ?」


唐突な、でも私にとってはもう2年も付き合ってきた感覚。酸素濃度の低下による視界の霞み、平衡感覚の消失に意識の混濁。この時間に発作が起こることは滅多になくて、油断していた。

意識の外からの心臓を潰さんがばかりのどうしようも無い痛みに、体が無意識に傾ぐ。


やけに遠くから、自分の体が倒れる音が聞こえる。頭の隅のどこか冷静な部分が、うっすらと自分が倒れたことを認識する。


「……! ……!目を……て……!」


酷くぼんやりとした意識の中で、エコーがかかったような声が聞こえたが、私の朧気な意識の内大半を占めるのは、倒れる直前のこと。


やっぱり優しそうな目をしてるなぁ……








あの日、ロビーで倒れた日から、少しずつ目が合うようになった。

最初の頃はやっぱり恥ずかしくて、それと悪いことをしてるような気分になって、目を逸らしてしまっていた。

それでもどうしても気になって、また彼を見てしまう。

同じタイミングで彼も逸らしていた視線をこっちに向けていたみたいで、せっかく合いそうになった視線をそのまま素通りさせて反対側に首を振っていた。

傍から見ると、完璧な変人である。現に、その場にいた例の看護師さんに笑われた。むしろ爆笑された。


3日もすると徐々に慣れてきて、まだ恥ずかしいながらも目を合わせることが出来た。

横で様子を見ていた看護師さんは吹き出しそうになりながら「に、睨めっこしてるよ……!」なんて結局吹き出していた。

好きでこんな状態になってるんじゃない。コミュ障が悪いんだ。あ、つまり私が悪い。


そして今日は1週間。今日は心に決めていることがある。


「今日は手を振ってみたいと思います」


「あ、はい」


看護師さんが敬語になった。思わずそうなるほど、私がカチコチになっていたらしい。

しかし確かに緊張で前後不覚になっていた自覚はあった。


私は以前、この恋を行動に移すつもりは無いと言った。これはアウトだろうか。自問自答する。

いやセーフ。セーフである。一塁走り抜けでセーフである。

これはただの友達同士の挨拶である。断固として。異論は認めない。


「こんな甘酸っぱい友人関係があってたまるかってね」


看護師さんが何か言ってるが無視だ。

ともあれ友達には挨拶をしないといけない。人間関係の基本だ。そんなこと友達のいない私でも知っている。ならば距離があるとき、世の友人関係にある人々はどうやって挨拶をするだろうか?

そう、手を振るのである。Wave handsなのである。


おっと、つい興奮して心の中がキャラブレしてしまった。もっと冷静に、冷静に……


「あ、今日は彼いつもより早いのね。まだいつもの時間まで2分もあるのに」


「え! や、とぅ、あ、はぇぁ!?」


「いや、動揺しすぎでしょ」


冷静とはなんだろうか……。今世紀最大の謎である。

それはさておき、看護師さんの言った通り、今日はいつもより早い。いつもあの男の子は8時10分前後30秒以内で現れるのだ。まるで機械のように。

それが今日は2分も早い。何かあったのだろうか……?


「いや、たった2分じゃない。ちょっと早く出ただけでしょ。どんだけ深読みしてるの」


もしかしたら今日は宿題を忘れて学校でするのかもしれない。


「いや2分じゃ大したことできないでしょ」


もしかしたら今日はスマホを忘れてきたのかもしれない。


「そういうこともあるでしょ」


もしかしたら……彼女が出来て……早く学校に行ってイチャイチャしたいのかもしれない。


「んーまあ今までの中じゃ1番説得力ありそうだけど」


追い討ちをかけてくる看護師さん。容赦皆無である。


「でもないと思うよー? それよりいいの? 今日の目標は」


そうだった。今日は特大のミッションがあるんだった。

いざ、と意気込んで窓の向こうを見やる。今日も優しげな瞳を眠そうな表情で覆い隠して、でも微妙に姿勢よく歩いていた。


「っ……」


男の子がこちらを見た。視線が合う。微かに、だがしっかりと分かるくらいには大きくなる鼓動。

視線はそらさない。彼もそらさない。いつもはこの状態のまま彼が見えなくなってしまう。でも今日は違う。私は決意した。


右手が重い気がする。それは気負いだろう。いくら身体能力の低い私でも、腕を持ち上げ振ることはさしたる労力ではない。それが今は、辞書でも持たされたかのように重い。

それでも、と。

それでも私は、こんな私でも。今までの人生で1番関心を持った彼にくらい、手を振るくらいは、したい。


「あ……っ」


右手に添えられる細い指。少し体温の低いひんやりと感じられる手が、私の強ばった右手をゆっくりと持ち上げてくれる。

私が今両親を除き、いやむしろ両親よりも気を遣わない存在。

いつも私をからかって持ち上がっているその頬は、今は慈しみに満ちた優しい笑みを湛えている。


「頑張って」


再び力を入れた右手は、思ったよりすんなりと持ち上がった。

ゆっくりと、右へ、左へ。

手を振る、という行為を覚えたばかりの幼子が、おっかなびっくりしてみるような。そんな覚束なさで、私は彼に向かって手を振った。


「あ……」


ガラスの向こう。歩道に経つ男の子は、そんな私を見て。


「良かったね」


彼もぎこちなく。忘れていたやり方を思い出しながらするように。


「やっと、友達になれた……かな」


そのぎこちない笑みは、私の心臓に悪かった。








鏡。ガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属を蒸着したものである。

そこに移るのは病的に白い少女。

美的感覚、というか、なにをもって可愛い、綺麗というのか分からないが、見れない程に悪い訳では無い、とは思う。

健康的な、という形容詞とは無縁のほっそりとした顔である。


頭を下に向ける。

平原である。床が見えた。


「絶望だ」


思わず呟いた。絶望が故に。

高校3年生。数えで18歳。個人差はあるが、ご立派なものを持っている人もいる歳である。

そんな人は、曰く床が見えにくいという。

どういうことだと。

むしろ踵の後ろの床まで見えるまである。


「ダメかもしれない」


今まで。寝癖がついているか、とか、前髪の長さを確認する、といった確認作業でしか、鏡というものを見た事がなかった。

鏡に移る自分は、どうしても自分の貧弱さを克明に写し出すからだ。


しかし、ガラス窓の向こうの男の子に、自分はどう見えているんだろう? と思ってしまったら。

見ずにはいられなかった。


「色気づいちゃって〜」


スキップするような音、という表現が出来そうな声がかけられる。なんだかいつもより5割増しで楽しそう、と言うよりは何故か嬉しそうな、いつもの看護師さんである。


「色気づいてなんかいません。身だしなみをチェックしてるだけです。それだけです……なんですかその顔は」


言葉を重ねるほどに説得力がなくなるのをひしひしと感じる。看護師さんの次の言葉が読めるくらいには、付き合いが長くなっているんだなと、ふと感じた。


「恋は乙女を変えちゃうねぇ〜」


読み通りであった。語尾に星が飛んでいそうである。


「あの、えーと……か、髪が伸びたので……切りたいなって」


絞り出す。何故だろうか。首の後ろがもぞもぞする。

看護師さんはその細い指で、私の髪をひと房すくう。


「確かに伸びたし毛先がパッツンだよねぇ。せっかく美人さんなのに勿体ないなーとは思ってたのよね」


前に切ったのはほぼ一年前だ。前髪だけは目に入ってきたらちょこちょこ自分で切っているが、そのおかげで毛先はバサバサだし、不揃いだし、両端に中途半端なよく分からない長さの毛がある。

後ろの髪に関してもなかなか酷い。

1年前、訪問のヘアカットのおばさんが来た時に切ってもらったきりなのだが、鎖骨くらいでスパッと切りそろえられ、レイヤーも入ってないし削ぎもまばらだ。はね放題である。

病院に訪問で来る美容師は、現役を引退したような人がボランティアのような感覚で来ているだけだし、客も美にうるさくないような高齢者ばかりなので、仕方がないのだが。


今までは特に気にしていなかったが、改めて見るとひどい。長さももう背中の真ん中辺りまで伸びてきたので、いい加減に切りたいとも思ってはいた。だが、意識してしまうと、訪問の美容師さんには切られたくない。そう思ってしまった。


「どうしよう。あまりの自分の酷さになにから始めていいのか分からない」


縋るような声が出てしまう。自分にもこんな声が出せたのか、と他人事のように冷静な自分が突っ込んだ。だまれ。


「そうだよねぇ、恋する乙女は大変だー。……よし、お姉さんが一肌脱ぎましょう! 任せておきなんし!」


なんで花魁言葉……?とは思うものの、そこは若くて可愛くてオシャレな看護師さんである。頼りになる感は絶大であった。


「今度の日曜休みだからさ、一緒に街に行って、美容室に行こうか」


ニカッと男前に笑って、看護師さんはそう言った。そんな男前な表情なのに、可愛いなと思って、やっぱり美人はずるい、と口の中で転がした。








私は、激しい運動……というよりも、許容範囲を超えた運動、または行動をしない限り、健常者と大きな差はない。

無論、長時間は歩けないため車椅子は必須だが、感染症だったり、定期的な投薬だったり、といった外出を妨げる大きな要因は粗方排除される。


私の外出の1番の妨げ……つまりは運動量、そしてもし発作が起こった時の対処等、その辺のことがカバー出来ていれば、外出の許可は割とあっさり取れたりする。


そんなわけで、私と看護師さんは、街に出ていた。

街とはいっても、中心部までは出ない。何かあった時、すぐ戻れるように、との看護師さんの配慮だ。


「まずは美容室にいきましょう。その後は化粧品店に行って、美容部員さんに色々聞きながらお化粧してもらいましょう。その後は服ね! フルコーディネートしてあげるわ!」


「おお……私が頼れるのは貴女だけ。よろしくお願いします」


看護師さんが運転する車内にて。私よりも楽しんでそうなテンション高めのスタートである。


「しかし、普通車はやっぱり軽より小回り効かないねー。普段と感覚違うから擦らないようにしないと」


ちなみに今日は、レンタカーでのドライブである。看護師さんの持っている車は軽自動車で、車椅子を載せるには少々手狭なのであった。

その点、普通車のウェルキャブ、福祉車両であれば、車椅子の乗降も楽だし、なんなら助手席のシートは車外まで動いてくる。

私に関してはそこまでは必要ではないが、あるに越したことはない機能である。


さらにちなみに言うと、レンタカーの負担は私である。休みの日にわざわざ私を連れ出してくれるのに、金銭的負担まで負わせてしまったら申し訳なさでマンホールに頭を突っ込んでしまいそうになる。


「学生は社会人に甘えてたらいいの! お金は自分のために……え? 月いくらかって? ……くらいだけど……え、貴女そんなに稼いでるの? うそ……負けた……」


とは、私が支払いを申し出た時の一幕である。


捻くれ者を自覚し、自負する私は絶対に言えないが、この看護師さんには感謝している。

私に関わっているのは仕事だとしても、それを感じさせず、おまけに折角の休日を使って街に連れ出してくれるのだ。

恩は返せる時にまとめて返すものである。

今日はお腹いっぱい好きなものを食べてもらおう。そしてもう少し太ってもらおう。ふふふ。


「え、なんか寒気がするんですけど、貴女なにか悪いこと考えてない?」


「いいえ何も。美容室久しぶりだから緊張します。どうしたらいいか教えてくださいね」


看護師さんは鋭いようだ。話題の替え方が雑だけど、気にしないようにしよう。


「なんか引っかかるけど、まあいっか。たしかに美容室は最低でも2年は行ってないのかな? それは確かに緊張するねぇ。でも私の行きつけのお店だから、考えすぎなくても大丈夫よ」


「あ、看護師さんがずっと行ってる所だったら大丈夫そうですね」


「そうそう!」


「この女性に対処出来る人だったら私の相手なんてなにも気負うことないですよね」


「そうそ……ておい!」


「ふふ、あはは!」


好きだなぁ、と思う。

もちろん、ガラスの向こうの男の子に対する気持ちとはまるで違うものだけど、負けないくらいに、この女性のことも好きだ。

私の病は、指定難病だ。でも私が一時でもそれを忘れていられるのは、あるいは、忘れていられる時間が増えるのは、間違いなくこの女性の存在が由来するところが大きい。


「……っと、よし、着きましたよーっと」


意外に丁寧な運転で、最後以外はバックモニターを見ずに真っ直ぐ駐車し、看護師さんが言う。

障害者用駐車場で、助手席側をしっかり広くとって空けてくれる。手際よく車椅子を降ろし、私の手を取って乗せてくれた。

こういう一連の流れをごく自然に、流れるようにするあたり、普段はおちゃらけていても看護師さんなんだな、と実感する。さり気ない気配りをしっかり感じるのだ。


「可愛いお店ですね」


「でしょー? 外観に一目惚れして入ったんだけど、カットも上手だし、カラーも丁寧だから結局ここに来ちゃうのよ」


そういえば看護師さんは髪を染めている。

病院勤めといえば、黒髪厳守なイメージもあったりするけど、あの病院は一定の明るさまでは大丈夫なんだそうだ。「今回はミルクティーベージュにしてみたの!」なんて言ってたこともあったな、なんて思い出す。

ちなみに、ミルクティーベージュなんて言われても、私にはただの茶髪にしか見えなかった。ヘアカラーなんてそんなものだろう。


看護師さんが車椅子を引き、ドアを開ける。中から出てきた美容師さんが、ドアを抑えてくれた。なんとなく、ほっこりした気持ちになった。


「今回ちょっと早くないですか? どこか気になるとこありましたか?」


店長っぽい男性がフロアの方からやってきて声をかけてくる。しっかり顔は覚えられているらしい看護師さん。流石である。


「いえいえー、全然! いつも通り扱いやすくて困ってます! 今日はこの子を磨いてあげて欲しくて」


どんな日本語だ、とは思ったが、それが看護師さん風の褒め言葉なのだろう。美容師さんも笑いながら、どこか嬉しそうだ。


「もしかして患者さんですか? 随分と可愛い子連れてきましたねぇ〜」


ちょっとムッとした。そんなあからさまなお世辞はやめて欲しいのだ。私がそんなに可愛くなんてないことはよく知っている。可愛い人とは、看護師さんのような人を指すのだ。それが常識である。


「ですよねー! 今まで全然身だしなみとか気を使ってなかったんですけど、()()が出来てから色気づいちゃって鏡熱心に見てるから、我慢ならなくて連れ出してきちゃったんですよ!」


右手の小指を立てて強調する。やめろ。それは貴女の世代でも古かったはずだ。というか親戚のおばちゃんみたいなノリはなんなのだ。

片手で足りる歳しか離れていないはずなのに、やけに時代を感じさせる物言い、仕草である。本当に20代前半か。


「へぇー! なるほどね、任せてください! どんな感じにしたいとかあります?」


どんな感じに……


「えっ……と、み、短……く?」


なんてオーダーしたらいいんだろう。ここでも私のコミュ障が炸裂した。早く言わないと待ってる、迷惑かけちゃう、と思うのに、思考はぐるぐる空回りするばかりで、全く意味をなさない。

短く、とか、どれくらいだよ! なんて内心では自分に突っ込んでいるのに口はさっきからパクパクするばかり。


「短く? ショートとかボブみたいな感じがいい? そうなるとだいぶバッサリだね」


美容師さんがスタイルブックを持ってくる。ああ、スタイルブックにのってるモデルさんはみんなキラキラしすぎてて全く参考にならない。どうか、冴えない感じのモデルさんとか載せててください。その方が参考になると思うので。あ、私とかどうですか?なんて。


「でもあんまり短くしすぎちゃうと彼に気づいて貰えないかもよ? だから……そうだね、肩くらいとかいいんじゃない?」


大人の余裕みたいなものを漂わせた看護師さんが、助け舟を出してくれた。悔しい。でもありがとう。


「じゃあ、それくらいで……」


コミュ障の性である。「じゃあそれで」。なんて便利な言葉だろうか。


「綺麗な黒髪だから、あんまり動き出しすぎちゃうと折角のツヤとか台無しになっちゃうし、最近人気の外ハネロブみたいな感じにしよっか」


「そ、それで」


もう「それで」だけで会話が完結してくれたら世界は平和になると思うのだ。争いなんてなくなるのだ。真理を見つけた。

というわけでシャンプーをし、カットを済ませ、最後はコテで巻いてくれて、スタイリングのオイルまで付けられて、バサバサだった前髪は綺麗に流れを作ってあって、これは誰だ、って感じになった。


「これは誰だ……」


むしろ声に出してしまった。

バサバサしていた毛先は肩口で綺麗に整えられつつ、パツっとしすぎた印象はない。これだけでもだいぶ違った。

スソはコテで半カール外に巻かれ、その上にトップの毛が数束ランダムで巻いて乗せてある。それをオイルで馴染ませたら、ものの3分程度でオシャレでハイソな(語彙が混乱)大人っぽい綺麗な女性が出来上がってしまった。

自分でも出来そうなので、やってみようかな、なんて思えてくるのがポイントである。


「君だよ。素材はいいのに勿体ないんだから」


看護師さんの言葉に、ようやくちょっと喜ぶことが出来た。さっきの美容師さんの言葉も、まるっきりのお世辞ではなかったのかな、なんて。

美容室は私に自身と勇気を与えてくれる場所だった。







美容室でもらった勇気は、その後の化粧品店と服のテナントで粉々に砕け散った。物悲しい風の吹く効果音と共に彼方へと飛んでいきそうである。


髪は、完成品をいじるだけだから自分でも出来そうだった。だが、化粧と服はダメだ。


あれは魔の巣窟である。

正解がない上に、人によって、肌の色味によって、骨格、輪郭、凹凸によってアプローチが変わるなんてどういうことだ。私には無理だ……

高そうなブランドのお店で説明を受けながら、30分もした頃にはもう私はふらふらしそうだった。

株や経済を勉強してても、化粧には何の役にも立たない。その事実を突きつけられ、私は無残に敗走した。

いや、苦し紛れに、看護師さんがチラチラと見ていた、並んでる中でもそこそこいい値段がするリップとシャドーを買って彼女に押し付けてやった。これは私の勝ちだ。凱旋である。


ともあれ、私には化粧はまだ早い事がよくわかったので、その事がわかっただけでも大きな収穫だ。

おまけにそこで買ったばかりの化粧品の入った紙バッグに頬ずりをしている女性。彼女が喜んでくれているので、まあ寄った甲斐はあったのだと思う。


そうして次は大丈夫だろうと入った服のお店で、少し回復したMP(メンタルポイント)的なものをガスガス持っていかれた。気分は鋼の兄である。


まず入った瞬間に、シャレオツな服飾の数々に、そういったものから縁遠い存在である私は気圧された。続いて、服を見始めた途端に声をかけてくるお姉さんに圧倒された。値段とサイズを見たいだけなんです、そっとしておいて欲しい……

そんな心の声はもちろん届くことはなく、しかしショップのお姉さんの相手はほぼほぼ看護師さんがしてくれていたので、何とか一息つけた。


「これとか着回しで来ていいよね。ツーシーズンくらい頑張れば着れそう。あーでもこっちもいいなぁー」


看護師さんである。イキイキしていた。

やっぱり美人は何が似合うのか、どう使えばいいのかよく知っているし、勉強している。

しかし、私の心は折れた。

なぜなら、ここにも答えが無いからだ!

化粧品と同じく、骨格、体格、肌色、顔の雰囲気、髪色。それらを総合した系統、そこから更に似合うものを選ぶなど、私にはとてもではないが難易度が高すぎた。

そもそもである。


「私、病院では大体患者衣だけど……?」


その一言で、世界は凍りついた。

結局、そこでも看護師さんが欲しそうにしていたワンピースとアンクルを買って退散した。嬉しそうにしていたので、これも勝利なのである。


看護師さんの嬉しそうな顔を見て、ふと思う。

私ってこの人の彼氏だったっけ……?

だいぶ混乱してきていた。



時間を忘れて見回っていたおかげで昼を過ぎ、そろそろティータイム、と言った時間になって来ていたので、看護師さんおすすめのカフェに入る。

今若い人に人気のお店で、軽食もあるが、紅茶が美味しいらしい。

確かに若い女性が好みそうなアンティーク調の調度品に、広すぎない空間は、昨今のチェーン店がシェアを広げている社会では隙間的需要が高そうだった。おっと、また女の子っぽくない思考が漏れてしまった。こんな事だから看護師さんの彼氏っぽくなっちゃうのだ。


「ここのケーキも美味しいでしょ。食塩制限があるから半分だけになっちゃうけど……」


「すごく美味しいです。ここにはよく来るんですか?」


元々少食なため、半分でも多いくらいだ。どうして看護師さんはあの細い体で1個半を軽く平らげているのか。謎である。


「そうねぇ……同僚や、短大の時の同級生とかとお茶する時はここが多いかもね。でも年下の子と来るのは初めてだからなんか新鮮」


ふっと、油断した時に綺麗に微笑む。ずるい女性だ。


「彼氏とかは? 看護師さんモテるでしょ」


今日の私なんかは、男だったら絶対にこの女性に惚れているなと思うシーンがいくつもあった。これでモテないなんて言われたら、世にモテると言われる女性はかなり少なくなるだろう。


「うーん、なんか男運なくてね。良いなと思ったら奥さんいたり、罰ゲームの告白だったり。中学生かよ!ってね」


あはは、と笑いながら彼女は言う。

私の乏しい、どころか皆無に等しい恋愛遍歴では、どう返すのが正解なのか、検討もつかなかった。


「そんなくだらないことよりぃ……君こそ例の彼には声掛けたりしたのん?」


私が言葉を探しているうちに、看護師さんは話題を変えてしまった。気遣いなのか、それとも私の返事がいつもの通り遅すぎるだけなのかは、よく分からなかった。


「それこそ、私が病室から出てる時は看護師さんほとんど一緒にいるんだから、分かってるじゃないですか。そんな機会もないですよ」


「そうなんだけどさぁ〜、もしかしたらって思うじゃん? ……ってあれ?」


看護師さんの視線が私の頭を通り越し、入口の扉へと向かう。

なにとはなしに私もその視線を追いかけ、そこで息が止まった。


そこには、私が毎朝遠くから見つめる彼がいた。

隣に、同級生であろう男子生徒と女子生徒を伴って。


私の目は、彼の腕に引き寄せられた。正確には、女子生徒が抱き抱えている、彼の右腕に。


「……っ」


私の視線を追った男の子は、どこか慌てたようにその手を振りほどく。少し乱暴にも思えるくらいに。

いや、私がそう思いたいだけなのかもしれない。誤解なのだと。小説でよくあるような、妹がじゃれついてる、とか、幼馴染で距離感が近くて、とか。

おまけに、私にそんなところを見られたら困ると思ってくれてる、とか。


「あ……はぁ、はぁ……」


「やばいシーンに出くわしちゃったなぁ。呼吸が浅くなった…… 大丈夫? 息をゆっくり吐いて」


でも、誤解だとか、思い込みとか。

理性ではブレーキをかけていても、感情はとまってはくれなくて。

数歩先を行く感情を、理性は止めることが出来ない。


「わた……し、ちょっと疲れ、ちゃったみたいで……」


「大丈夫、分かってるから。ゆっくり立って、私に寄りかかって」


嫌なことがあると逃げようとするかのような私の体の不調に嫌気を覚えながらも、この場から無理やりにでも逃げ出せることに安堵した。

消えゆく意識の中に、途方に暮れたような顔で、あの男の子が右手を伸ばしているのが見えた。

その手は何に届くことも無く、ただ下ろされるだけ。


その時の私は、紛れもない敗者だった。








コンコン、と。

普通より高めのノック音が、私に来客の正体を察しさせた。

横開きの扉が開き、ほっそりとした指が覗く。ずっと私の手を取ってくれていた手だ。不意に触れられると、その儚さにドキッとすることがある。


「やぁ。元気かい?」


お道化たような調子で、どことなく気まずそう、というか、座りが悪そうに顔を出す。


「はい、元気ですよ。今日はちょっと急激な相場の変化があったので、いつもより稼げちゃいました」


オプション取引というものは、コールを買うか、プットを買うかで相場の変化に対する反応が変わる。上がろうが下がろうが、予めそれを予想出来て、それにあった方を買っておけば、急激な相場の変化は美味しい狩場なのである。予想できるのなら、そしてそれがただしければ、であるが。


「うーん、そういう事じゃないんだけどね……今日もあそこ、行ってないんでしょ?」


あそこ、というのは、もちろん通学路の歩道の見えるロビーだ。

あの日から、私はあの場所に行けなかった。

行こうとはした。それでも、あの場所に向かうと意識した上で病室を出ようとすると、手が動かなくなるのだ。足がすくむのだ。


私は、未だに弱いままだ。


「本当は患者さん本人に言っちゃいけないんだけど……」


そう思うなら言わなければ、なんて思わない。世間一般が、とか、病院の決まりが、とかは私にはどうでもいいのだ。

この人が、真剣に私のためを思って言ってくれる。それだけでありがたいことなのだと、私は知っている。そしてそれだけの信頼を、この人が赴任してからの1年で築いてきた。


「活動度制限が、NYHA3からNYHA4に移行してるかも、って……発作も、感覚が……短、くっ、なってるし」


途中からは涙を零しながら。

しゃくりあげ、声を震わせながら。

看護師さんがそう告げてきた内容は、私ももう承知していることだった。

時間が無い。それは分かっていたことだったから。


「はい。知ってましたよ」


活動度制限の評価に用いる指標は、NYHA分類と呼ばれ、1度から4度で表される。

1度では心疾患はあるがほぼ日常生活では症状を引き起こさない。

2度で軽度から中等度の活動の制限が生じてくる。階段上昇、坂道歩行などが該当する。

3度では安静時には無症状ではあるが、高度の身体活動の制限がある。平地の歩行でさえ動悸や呼吸困難を引き起こす。私は今まで、この3度の分類に該当していた。よって移動は基本的に車椅子だし、階段なんて数歩登れば命の危機だ。

そして4度。これはいよいよいかなる身体活動も制限される。安静時ですら心不全症状を引き起こし、わずかな身体活動で増悪する。


現に今も、大した事はしてないのに歩いた時のような状態だ。でも、この兆候は少し前からではじめていた。

動いていなくてもちょっとした事で呼吸困難になったり、発作がおきたりと。


それが、客観的に判断し、状況が悪くなったのならば、私は受け入れよう。

そのための準備を、2年もかけてしてきたのだから。

知っているだろうか。学生の2年とは、大人の2年とは全く密度が違うのだ。ちゃんと準備できる時間が、ある、のだ。


「……っ! うっ、ごめんねぇ、私が外に行こうなんて言うから! あのお店に行こうなんていうからぁ!」


ついに泣き出してしまったこの看護師さんは、やっぱり看護師には向いていないのだろう。

能力が、なんて理由ではもちろんなく、優しすぎて。

患者に入れこみすぎて。感情移入しすぎて、「()()()」を、見失ってしまうのだろう。


「貴女のせいなんかじゃないですよ。私が望んで行ったところで、たまたまいつか来るはずだったその時が来ただけなんですから。それに、嬉しかったし、楽しかったんです。最期に普通の人みたいに街を歩けて。……自分の足でじゃあないんですけど」


あはは、と笑い、お道化てみせる。こんな事で誤魔化せることなんて何も無いと分かっていながらも。


「最期なんて!!」


空気が震える。


「最期なんて、言わないでよぉ」


看護師さんが、私にすがりついてくる。それでも私に負担はかけないようにと、体重かけず、むしろ私が立つのを補助してくるあたり、能力は優秀なんだと思い知らされる。


「私こそ、ごめんなさい」


「なんでぇ……?」


綺麗な顔が、私の好きな顔が台無しだ。


「私の存在は、貴女の心に傷を負わせると思います。優秀な看護師さんの才能を、ひとつ潰してしまうかもしれません。だから、その事を、謝っておこうかと、思って」


いつもより声が出しづらい。詰まりやすい。症状の悪化のせいだろう。きっと。

自惚れでなければ。いや、そんな仮定は彼女に失礼だろう。

私の存在は、この人にとって、とても大きいものになっている。毎日関わることで、杭を少しずつ打ち込むように。岩を水滴が穿つように。彼女の心の中に、入り込んでいってしまったんだろう。


病院は、死と隣り合わせの空間だ。患者と深く係わりすぎ、心を通わせすぎたら、すぐに折れてしまう。擦り切れてしまう。


だから普通は、重病、難病の患者には、最低限度の関わりを持ち、深入りをしすぎないことで心を守る。


現に、私は実は聞いたことがあるのだ。彼女が、先輩看護師から警告を受けているのを。関わりすぎては自分が辛くなる、と。


その時はまだ、絡み方が鬱陶しい人だな、なんて思っていた頃だったので、ああ、鬱陶しい絡みがなくなって楽になるな、なんて思いながらも、一抹の寂しさを抱いていたのだ。

だが、翌日になってみると、彼女は言われたことなんか知るか、とばかりに。むしろ言われたからこそ徹底的に構い倒してやる! とばかりに私に関わるようになってきた。

実際、業務内容で私と関わる時間なんて、大した長さではないのだ。

なのにあれだけの時間を私のために使って、先輩に怒られて。

そしたら今度は時間を作るために他の仕事を早く終わらせる術を身につけて。

そんな具合で飛躍的に能力を伸ばして行ったのだ。


代わりに、心の耐久度、というものを犠牲にして。


「そんな……っ。そんなことって……!」


「でも、貴女が私にくれた時間は、私の18年の人生の中でも最も輝くものの1つでした。もう1つは、彼を想う時間なので、勘弁してくださいね」


ぺろ、と下を軽く出して。こんな仕草も、彼女から教わった。


「1番でも何番でも……! 覚えてくれていたら、貴女が覚えてくれていたらそれでいいの……! もっと、沢山……!」


こんな場面なのに、美人は泣き顔も絵になるなぁ、なんて、場違いなことを考える。それもまた、辛くなっていく体から目を背けるための、逃避行動。

私は、いつもそうだ。逃げてばかりで。

こんな体になって、明日を迎えられるかすら分からないのに、彼に逢いに行く勇気もなく。声をかける気概もなく。

せめて姿だけでもと思っても、また逃げてしまう。

そしていつか、最期の日に後悔するのだ。分かっていて、なお。


「貴女に最大の感謝を……()()()()()()()()


声は震えていなかっただろうか。

彼女に想いは伝えた。


でも、この想いは。

届けることは出来なくても、最期に1目だけ。


私の最期に、貴方を焼き付けたい。








あれから何日が経っただろう。

あの日を境に、私の体は本当に言うことを聞いてくれなくなった。

看護師さんに思いを告げたから満足だろうと言わんばかりに、病室を出ることすら難しくなった。

私の体にはいつの間にかペースメーカーが埋め込まれ、それによって症状はマシになったものの、私の生きる気力のようなものが代わりに抜け出ていっているような気がした。


息をするだけで胸が苦しい。外傷由来のものなら我慢もきくのだけれど、この痛み方はいかんともしがたい。

いよいよお迎えが来たんだな、と感じる。

もう準備は出来ているのだ。そして今は朝。悔いはもうすぐ無くなる。

もちろん、両親より先に逝く事への申し訳なさは無くならない。

母も父も、ずっと泣いていた。

筋肉が衰え、骨と皮のようになった私の手を2人でとり、泣いていた。

私も多分、泣いていた。

いや、準備は出来ているはずだから、これは多分汗だろう。もしくは涎。ぺっぺっ。

唾を吐きかけたせいかな、なんかすごい音が聞こえた気がする。もう耳もあんまり聞こえないんだけど。まだ私18なのにねぇ。


脳内の減らず口も元気がない気がする。ちっちゃい私、頑張れ。

でもそろそろ今日は疲れたかな。

でも寝る前にちょっと、あそこに行ってみよう。


「ぉか……さん…………。ぉと……さ、ん…………。ぁそこ……つれ、てって…………」


誰が喋ってるんだろうか、やけに掠れた声だ。

聞いたことはある気がするんだけど、頭がぼんやりして思い出せない。


ぼやけた視界が移ろう。

どこに向かってるんだろう。

看護師さんかな。私は貴女の負担になってないかな。なってないといいな。


右から、左から、お父さんとお母さんが話しかけてくる。そんなに大きな声出さないでも聞こえるよ。

えっと……ほら、あれでしょ?

ごめん、聞こえないからもう1回言ってもらってもいいかなぁ。


………………


どこを移動してるのかはよく分からなかったけれど、そこだけはよくわかった。

緑のたくさんある、街中の歩道。眠そうに歩いてる君を、毎日見ていた。

気だるげで、やる気なさそうで、折角の優しそうな瞳が台無しで。でも姿勢はやけに良くって。少し鍛えられた腕や胸元は、抱きしめられたらすごく安心出来そうだなぁなんて。最初の頃はそんなこと妄想しては、1人で恥ずかしがって悶えてた。

今はもう悶える体力もないけれど、今だって恥ずかしい。でもそんな妄想をするのも、とても楽しくて。


いつもの時間まで、あと1分。最期に見たいな、貴方の顔を。でももう瞼が重たいや。


あと30秒。頑張れ、私。でもこんなフラフラなのに秒数まで分かるなんてすごくない?まだ頑張れるよ、私。


あと10秒。もうちょっと待ったら、来てくれるからね、それまでの辛抱だ。


あと3秒。ほら、もうすぐそこの角を曲がってくるよ。


あと0秒。


………………



1分経っても、2分経っても、彼は現れなかった。

時間になるまでは必死で意識を繋いでたのに、過ぎた途端に、何故か力が抜けて、それがむしろ良かったのか、鉛のように重かった瞼が少し持ち上がった。


「やっぱ……り、も……と、はやく……に、来てたら……よかっ……なぁ……」


やっぱり私は、後悔するのだ。

後悔しないように、なんて言ってたけれど。

結局は後悔するようになっているのだ。


準備出来たなんて嘘だ。

死にたいなんて、どうにもならない現実から目を背けるための御為倒し(おためごかし)でしかない。

後悔なんて、死ぬほどあるに決まってる。


もっと学校に行ってみたかった。体をめいっぱい使って走り回ってみたかった。恋だってちゃんとして、ウェディングドレスを着て。子供だって欲しかった。自分の腕に抱いてみたかった。お母さんやお父さんとお酒を飲みながら旦那の愚痴を酒にして、なんてのもしてみたかった!


したいことなんて、いくらでも見つかる。

見つかってしまうと、辛くなるから、息が出来なくなるから、見なかっただけ。

見つけられないふりをしていただけ。


「しに……た、く、なぃ……ょぉ」


歪む視界が狭くなる右手があったかいお父さんとお母さんかな?左手はちょっと冷たくて、なんかドキッとするから、看護師さんかな?

皆とももっとお話したかった。

友達はいないけど、それでも。


「ぃき……たぃ…………なぁ………………」


でも、今日はもう頑張れないから、明日にしようか。



おやすみ、また明日…………


























夢を見ていた。

お母さんも、お父さんも、看護師さんも、お医者さんも、みんな忙しく動いてるのに、貴方だけが穏やかで。

大丈夫だよって、よく頑張ったねって言ってくれるって、それだけの夢。

ほんとうに、ただそれだけの。























瞼を持ち上げる。息を大きく吸いながらゆっくりと。

最初に感じるのは白い視界。薬品と消毒の混ざりあった匂いを感じながら、腕を持ち上げようとする。

そこで、体にかかる重さを実感する。掛け布団1枚。それでもこの体には大きな枷となる。

もう一度深呼吸を。


おはよう。今日もまだ生きてたね。


自分に心の中でそう話しかける。


そこまでで一連の流れだった。

でもそれはおかしい。昨日まではそれで良かったけど。

意識は朦朧としてたけど、死んだなこれって確信したし、体の端からすーっと電源が切れるように感覚が消えていく様は、どうしようもなく「死」だった。体で感じたからこそわかる確実なものだったのに。


目が慣れてきて、少し視野が広くなる。

広がった視界の下の方に薄緑の硬質なものがあった。すす、と意識を向けるが、果たしてそれは人工呼吸器であった。密着するようにかけてあるので、意識するようになると地味に接着面が痛いのがポイントである。


頭を横に倒すと、心電図があった。

私の体につながっているようだが、なにか違和感がある。以前にも見た事のあるそれは、今ほど大きな振れ幅をしていなかったはずだ。


ドクン。


心臓が大きく脈を打つ。

そう。

大きいのだ。

鼓動が未だかつて無いほどに。

同時に、全身の倦怠感も薄れていた。

筋肉量の絶対的な不足によるだるさはあるけれど、慢性的にあったあの独特な疲労感に似た何かがない。


でも、そんな些細なことよりも。

行かなければならない場所がある気がする。

行かなければ後悔する気がする。

もう後悔はしたくないと、あの朝に誓ったのだ。


だから。









疲れた。しんどい。辛い。だるい。動きたくない。

ここ数年まともに歩くことのなかった足は、中々歩を進めてはくれず、転がった方が早いんじゃないかという速度でしか歩けない。


それでも歩いた。


これだけ人のいる病院で、人とすれ違わないなんて珍しいな、なんて思いながら、でもそれを不思議に思うことも無く歩いた。


何歩目だったのだろうか。

足がもつれて、転けてしまった。

やけに遅く感じる視界の中で、あ、これは頭打って死ぬやつかも、なんて考える。


「大丈夫?」


優しい声だ。

私の大好きな看護師さんだ。


「うん。大丈夫。会いに行かないといけないから」


「そっか。手伝うよ」


私の骨ばった腕を首に回す看護師さん。恥ずかしいので腕隠して貰えませんかね。

珍しく無言で。私の覚束無い足取りに合わせてくれたおかげで、しばらくの間歩いたが、実際にはそんなに離れてなかったのかもしれない。

歩くことに夢中になっていたために、その辺の感覚は無かった。

そう、歩けているのだ。ここ2年近く、管理された運動時間以外ではずっと歩けなかった、この私が。


「ありがとう。大好きだよ」


今なら、素直に言えた。余計な丁寧語もとっぱらって、私の本当の言葉で。


「私も、大好きよ。彼も、ね」


どういう意味だろう。

疑問に思うと同時に、足が止まる。

とても涼しい部屋だ。むしろ寒いくらいだ。

どこだろう。自分の頭では、そもそもどこを、何を目指しているのか分かっていないのだ。


それでも体は勝手に導かれるように、その台に近づく。

その1台だけ、引き出されていた。

その台には誰かが横たわっているようだった。


「う…………そ」


頭が真っ白になった。この場合、そうとしか表現の仕様がないだろう。

看護師さんの手を解き、震える足を引きずって近づいていく。

「それ」には、顔をすっぽりと覆う布がかけられていた。震えるガリガリの手が、その布にかかる。遅れてその手を自分のものだと認識した。


「なん……で……」


そこに眠るのは、「彼」だった。

私が最期に目に焼き付けたいと願った、彼だった。

毎朝、その顔を見れることを楽しみにしていた彼だった。


その「彼」は、眠っていた。

永遠に。


「なんで……!なんでなんで!!」


かさ、と、音がする。頭をかきむしっているのに、力が弱いせいでさするような音にしかならないのだ。

そんなことですら、私の心を荒立てる。

何に猛っているのか。

それすら分からなくなりそうだ。


「なんでなんでなんで!……………………なんで……よぉ…………」


ほっそりとした少し冷たい手が、私の頬に添えられる。


「彼の心臓が、貴女を生かしたの」


その言葉が。

私をどれほど責め立て。

私をどれほど苛んで。

私をどれほど切り刻み。



そして、私をどれほど救ったでしょう。



「彼の名前は立川護(たちかわまもる)。電車事故にあって、心臓以外の臓器がボロボロになって。そんな体でここにやって来て、グチャグチャのメモ帳に書かれた遺書とともに、臓器移植意思表示カードを受付にたたきつけたの」


言葉が、右から左に抜けそうになる。でも、大事なことだから。冷静な自分がその意味を拾う。


「本来は、心臓の移植は4時間というタイムリミットがあるから、脳死以外ではドナーにすることはほぼ無いの。……でも」


「彼は……死んでなかった……?」


「死んでなくて、血流が通ってて、しかも貴女はその時、昏睡状態だった」


丁度、その朝だ。私が死んだと思った、その朝に。

私は1度死んで、彼に……護に生かされたのだ。


「その日はこの病院で唯一心移植できる先生は休みだったんだけど……忘れ物を取りに入館してて。血液型とか拒絶反応とか……、色んなことが奇跡なんて生温い程の偶然で重なって、貴女を生かしたの」


もう、そこで限界だった。

崩れ落ちる体を支えることが出来ない。

こぼれ落ちる涙を止めることが出来ない。止めようとも思わない。

ただ、今はなにも考えず、彼に縋っていたかった。


「彼に、貴女の名前を教えてあげて」


「わたっ、私のっ、名前は!」


聞いて欲しい。死を覚悟してから、亡くなったことにしたかった、その名前を。


「ゆき……私の名前は、萩原幸(はぎわらゆき)……だよ」


ぽつりと、呟くように。


「ゆきって、言います。あなたの事が好きです」


もう届かないけれど。


「初めて会った日から、ずっと、あなたのことばかり考えてたんだよ……?」


返事はなくて。それでも。


「あなたに助けてもらったんだよ……?」


ただ想いを、吐き出していたかった。


「あなたがいなきゃ、私頑張れないよ……!」


彼の捧げてくれたこの心臓の音だけが、私の頭の中で反響する。


くぐもった声は遠く。

空洞の胸を打つ音は鈍く。







力尽きるその時まで、少女は想いを吐き出し続けた。





[完]


初投稿の習作になりますので、辛口、甘口、中辛いずれの感想もお待ちしてます。

アンサーストーリーも書いてみようと思ってるので、投稿した際には読んでいただけたら嬉しいです。


読んで頂き、ありがとうございましたm(_ _)m

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