1-D100-75 そして、世界に金色の雨が降り注いだ
ロンドール海軍旗艦スパロー号が、イルトゥリルの港から出航した。
シビュラ歴百二十一年八月二十三日の早朝。
ようやく朝日が水平線から顔を出した頃だった。
甲板には、ロンドール侯爵マリヴェラ・ムーラン・ロンドールの姿があった。
いつもの通り、金髪をポニーテールにまとめ、お気に入りの青いワンピースを着ている。
そこからマリヴェラが見渡しているイルトゥリルの街は、いつもと変わらない風景だ。
しかし港には、珍しく大勢のロンドール政府関係者が見送りに来ていた。
ブラスト伯爵カンナギ・ユキ、ペイロム子爵カンナギ・ユウカ。
二人の護衛であり街の警備隊の隊長でもあるクーコ。
双子の子供のような首相フロインや、内相兼外相であるファーガソンの姿もある。
厳しい顔をした、エルフの国フォールスのハローラ侯爵グリーン、その従者のルチアナ。
ルチアナは涙を流し、ハンカチで顔を覆っていた。
スパロー号は珍しく、軍港の方ではなく商業用の港から出航していった。
港でその時間から働いている労働者や漁師たちは、その見送りの多さに目を見張り、訝しんだ。
元より、街は小さいので、漁師と言えども政府首脳の顔を見知っている。
しかし一体何が起こっていたのか、彼らが知ることは今後もなかった。
スパロー号が商業用の港から出航したのは、主であるマリヴェラの意向だった。
マリヴェラは、これから遂行する任務の前に、イルトゥリルの街を目に焼き付けておきたかったのだ。
天文学者イヌイの観測と計算によれば、直径二千メートルの小惑星は、約五時間ほど後に、イルトゥリルから南南西約十キロ付近に落着する可能性が高いと言う。
もしそこに小惑星が落ちれば、イルトゥリルはもちろん、ロンドールの大部分だけではなく、内海の沿岸部も全て滅んでしまうだろう。
マリヴェラが具体的にどうするか、小惑星の件を知る誰に対しても、説明はなかった。
唯一ユキのみは知っていたが、彼女もそれについては知らないふりをしている。
この地の領主は、ただ、「俺が何とかする。ダメだったらごめんな」
と、済まなそうな顔をして繰り返すのみだった。
だが、皆、信じた。
スパロー号は目的地に着くと、下手回しをして漂駐した。
その時が来るまでここで待つのだ。
一年前にマリヴェラを救出した当時のスパロー号のメンバーは、多くが昇進して他の船に配置換えされていたのだが、この日の為に特別にスパロー号に戻され乗り組んでいた。
艦が落ち着くと、幾つか酒樽が出され、空調の効いた上層甲板で酒盛りが始まった。
何の為にスパロー号がそこに居るのか、ロジャースと風間以外は知らなかったが、殆どの者がこれから何か起こると直感していた。
酒盛りは、無礼講であった。
用意された酒はあっという間に消費されてゆき、果ては暮井の腹踊り迄披露される始末である。
時間が過ぎ、バカ騒ぎが終わった。
ロジャースが愛用の懐中時計を取り出し、見た。
そしてマリヴェラに頷いて見せた。
水兵達の酔いはそれで醒めてしまった。
一同は八月の日差しが焼く甲板に整列した。
残暑は厳しく、雲一つない空だった。
マリヴェラがロジャースと並んで艦尾甲板に立ち、水兵達を見下ろした。
「……こうして一緒になったのは久しぶりだよな。
ま、お前らの事だから何かあるんだって分かってるだろうけどな。
そういうことだ。そう言う事なんだけれど、何が起こるかはまだ言えないんだよね」
水兵の一人、ベルが手を上げた。
「噂では、旦那が政府の金をちょろまかせて逃げるのでは、なんて言ってますが」
マリヴェラが目を剥いた。
「ンなワケねえだろ、馬鹿かお前。そんなこと言ったやつはマストから逆さ吊りだ!」
えっへっへ、と笑いがさざめいた。
マリヴェラが続けた。
「で、だ。俺は絶対に帰ってくる。信じてほしい。もし戻らなかっら時には、何があったかをユキたちに聞いてほしい」
その間にも、風間は嗚咽を止められなくなっていた。
気を付けの姿勢を保持しきれず、片手で口を覆っていた。
「おい風間。お前泣くなよ。みっともねえな」
「そんな……こと……いわれ……ましても……」
「しょうがねえなあ。しっかりしろ」
マリヴェラは僅かにほほ笑み、隣に居るロジャースに向き直った。
「じゃ、ロジャースさん、あと頼みます」
「ええ、マリさん。成功を祈っています」
「すぐ戻ってきますよ。でも、色々有難うございました」
「おいしいコーヒーを淹れて待ってます」
「楽しみにしていますよ」
二人は握手した。
握手が終わると、マリヴェラが不意に手すりの上に飛び乗った。
そして光を発しながら叫んだ。
「じゃ、お前ら、またな!」
――――――――――――
スパロー号付近から出現した金色に煌めく雨は、夏の海上を見る見るうちに広がった。
それは地上を這うようにイルトゥリルをも包み、それから輝く積乱雲のように遥か上空へと立ち上った。
スパロー号の位置を遠く望めるイルトゥリル南の岬。
ユキやユウカ、クーコは港からそこへと移動していた。
三人は太陽の光に焼かれても気にすることなく、スパロー号の方角を眺め続けた。
金色の雨が彼らをも濡らし始めると、ユキは両手を広げ、ユウカは両手を振った。
海面は日の光に照らされて輝いていたが、金の雨がその空間全体を包むと、視界の全てが光り煌めいた。
三人も、イルトゥリルの住民たちも、上空を見上げ続けた。
彼らにとっては何度か見たことのある風景だったが、この日は何かが違った。
金の雨は薄く広く、広大な範囲に広がり、上空は成層圏付近まで達した。
その規模は、後日、漁の最中に目撃した漁師たちによって語られることになる。
スパロー号艦上で、ロジャースが懐中時計を、何度目かに確認をした時だった。
ふっと、上空が暗くなったような気がして、ロジャースは空を見上げた。
すると幕を引くかのように、さあっと金の雨が消えて行ったのだ。
同じ光景を、岬に居た三人も目撃した。
クーコが小さな声を上げた。
ユキはペタンとその場に座り、ユウカはその肩をそっと触った。
暫くして、空から轟音が聞こえだした。
地獄の底から聞こえてくるが如き音は、十秒以上続き、止まった。
何事もなかったかのように、静寂の中に波の音だけが繰り返された。
数分後。
「あ、あれを!」
とクーコが叫んだ。
彼女が指さす先は岩だらけの海岸だ。
そこに人影がある。
「あっ!」
ユウカが走り出した。
クーコが後に続く。
ユキが遅れて立ち上がり、涙の痕が残る顔をほころばせた。
「マリさん……!」
三人は岬から駆け下りた。
その美しい金髪を持つ人影は、青い服を濡らして岩陰に突っ伏したままだ。
他の二人を追い抜いたユキが真っ先に到着し、話しかけた。
「マリさん!」
だが、すぐに体を強張らせた。
その女性が金髪を振り乱したまま、嗚咽しながら、こう吐き捨てるように言ったからだ。
「くそおっ。ふざけやがって……オレサマだけ置いてかれちまったっ! あいつだけ行っちまったよ!!」
……と。
若い姉弟とその護衛は、何時までもその輝きを失った空と海を前に、立ちすくんでいた。




