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外伝 八島七海3

全てを奪われ、オールすらないボートで一人流された八島。

食料も水もつき、死を待つだけだった彼が遭遇したのは……。


 カトラスの男は知りませんでした。

 その救命ボートには若干の食料と水、それに金貨が備え付けられていたのです。

 これは当時の交易船の習慣としては通常の事では無く、万が一を慮った八島と船長の考えでした。


 とはいえ、ボートはただ波に揺られ、潮に流されるだけです。

 陸地も通りがかる船も全く見えません。

 一日過ぎ、二日過ぎ、八島は徐々に衰弱していきました。


 初夏の太陽が容赦なく八島の肌を焼き、照り返しも有るので、瞬く間に露出している顔や腕が赤く日焼けし始めました。


(食料はあと二日分。水は……一日か)


 ドラゴンフライ号が拿捕された地点から、流された方角を鑑みると、今はヴェネロ島の北東付近のはずでした。

 もっと東へ流されれば、南北航路を往復する船に見つかる可能性が増えるはず。

 そうでなければ、もし陸地が見えさえすれば、手を使ってパドリングするか、いっその事海に浸かってボートを掴みながら押して泳ぐかするのですが、現時点ではそれはまだ博打でしかありません。


 そもそも、この海域にはサメもいるのです。


(サメに食われるのは……いやだなあ)


 八島は苦笑しました。


 絶体絶命ではありますが、少しでも余裕が有るのは、スパロー号で本物の戦闘を経験したからでもありますし、彼が丙種……つまり、一度死んでこちらの世界に来た転生者でもあるからです。


 しかし、更に日数が経ち、節約していた水も食料も切れると、余裕は失われました。


(水……水!)


 水はすぐそこに無限にあります。

 しかしそれは飲めない水。

 飲んだら最後、逆に体内に残った水分が失われてしまう毒。


 八島も船旅で移動することが多かったので、同じ船に乗った船乗りたちに、その恐ろしさをよく聞いていました。

 その当時は単なる蘊蓄(うんちく)でしかなかったのですが、まさか自分がそれを自らの身体に言い聞かせ続けなければならなくなるとは、夢にも思っていませんでした。


 僅かに、天候の悪化により水を確保できたのは彼の命運をつなげましたが、それでも雨が止むと、太陽の光が再び八島の船をギラギラと照らしました。


 体力を温存するために、八島は仰向けか側臥になって寝続けます。

 しかし段々、幻が見え始めます。

 前世での事。ワクワクでの思い出。


(もう……ダメかな)


 八島は覚悟しました。

 そして意識を失いました。



――――



(……誰かが僕の身体を触っている?)


 そんな感覚に、八島は目を覚ましました。

 薄く開けた目には、暗い、しかし満天の夜空が広がっていました。

 そして八島のすぐ横には、全身から夜光虫のような光を放っている存在が。


 良く見ると、それは長い髪を持つ女性でした。

 彼女は目を覚ました八島の身体を揺さぶりました。


「あの……。大丈夫ですか?」


 八島は何か答えようとしましたが、口も動きません。


 不意に、八島の口のあたりが水に濡れました。

 僅かに口の中に入りましたが、それは海水などではなく、真水でした。

 女性は、八島がもう口も動かせないのを見ると、八島の頭を両手でつかみ、顔を近づけました。

 八島の唇を、柔らかい感触が覆い、続けて冷たい水が口中に流れ込んできたのです。

 何度も何度も、それは八島がようやく動けるようになるまで続けられました。


 八島は命を拾いました。



――――



「……そうでしたか。それは災難でした」

 

 朝日が水平線から顔を出すころには、八島は会話をできるほどに回復していました。


「そうなんですよ。ただ積み荷は諦められますけど、船の仲間が心配で……」


「心配ですね、それは」


 女性を形作っていた夜光虫のような光は朝日に溶け、彼女の真の姿が浮かび上がってきます。


 もっとも印象的なのは大きく引きずるほどに長い黒い髪です。

 ボートの後ろにちょこんと座りながらも、後方の海面に扇のように広がっています。


 服は一体いつあつらえた物でしょうか。

 八島が見る限りそれは日本の着物……近世の庶民の着物ではないかと思われました。

 色はすっかり抜けて黄ばみ、肩や袖口、裾はボロボロになって素肌が覗いている場所さえありました。

 

(結構奇麗な顔なのに……。良い服を着せてあげれば……)


 自分の事は差し置いて、女の子が大好きな八島はついそう思ってしまうのです。


「とりあえず、近くにある島までお送りします」


 彼女がそう言うと、ボートは独りでにすすっと進み始めました。


「助かります!」


「いいえ、私にできる事と言ったらこの位ですから」


「助かったら是非御礼をさせてください。僕はアグイラの住人で、八島七海と言います!」


「アグイラ……北の方にある島ですよね?」


「はい。美しいお方。あなた様のお名前をお聞かせ願えますか?」


 八島がそう言うと、女性は目を丸くして驚いていたが、やがて顔を赤らめてこたえた。


「『とら』と申します」


「とらさん……」


「とても、古めかしい名前だと思うのですが」


「いえいえ、そんなことありませんよ! おとらさん、ですよね。素敵です!」


「そうでしょうか」


「もちろんです!」


 と八島は笑って白い歯をこぼれさせました。


 多少大げさでも、多少嘘めいていても、彼が言うと本当に聞こえるので不思議です。

 でも八島はそれが何故か知っています。

 「言霊」「喋る」のお陰なのです。


 元の世界での彼は特に饒舌でもありませんでした。

 そうなろうと決意したのは、この世界に来てからだったのです。

 実はもう一つ「言霊」を得られる能力があるのですが、どの「言霊」がいいのか決めかねている所なのです。


 島に辿り着くまでに、八島は自分の能力を存分に発揮して、とらから色々なことを聞き出しました。

 彼女が少なくとも「水操作」以上の水属性値を持っていることや、彼女も元の世界からやって来た乙種であること、それが二百年以上前であることなどです。


 ただし、自分の種族やなぜ海上に居たかの理由などは、悲しそうに首を振るばかりで何も言いませんでした。


 その後一日足らずで、近くにある有人島に辿り着きました。

 夜の事でした。


 暗い海岸で、とらは辞去しようとしたのですが、八島はその手を離しませんでした。


「僕は今からアグイラに戻ります。しなければいけない事がありますから。

 でももし一緒に来てくれたのなら、ぜひ御礼をさせてほしいのです」


 しかしとらは首を振りました。


「いえ、お礼など必要ありません。八島様が助かれば、それで……」


「それじゃ僕の気は収まらない!」


 八島は掴んだままのとらの腕を引き寄せ、間近でその淡く光る眼を見つめました。

 とらは躊躇いましたが、八島はその唇を奪います。


 やがて、とらは熱く応えだしたのでした。


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