取引
私はベッドに横になっていた。
外はもうとっくに日が落ちている。真っ暗にして寝るのが嫌いなので、隣の部屋の電気をつけて、その明かりがこちらに少し入ってくるようにしていた。ただ眠りにつけず数分目を閉じたり、天井を眺めたりしていた。不意に布の擦れるような物音が側で聞こえて、私は何気なく横に身を返した。
ベッドの横に黒い布を被った何かがいた。窓を開けてないのにも関わらず、黒い布は風に靡いていた。
布の下には足は見えず、それは宙に浮いていた。
「…望みを……叶えに来た」
「…引き換えに……魂をいただく」男の声だ。くぐもっているが、落ち着いた声。
悪魔か死神のたぐいだろう。神も悪魔も信じたことなどなかったが、不思議と本物であると直感した。現実の冷たい恐怖と緊張感。
ベッドから起き上がり、尋ねた。
「どうして、私なんですか?」
「さあ…質問に答える義理はない」
言葉のあとには互いに沈黙が続いた。時計だけが、規則正しくカチカチと音を鳴らす。黒い何者かは、ただ私の答えを待っていた。
私は口を開いた。
「お願いします。私の魂をもらってください。代わりに、」
「私を幸せにしてください」
出来るだけ何気ないように、私は言った。
「…わかった。よろしい」
悪魔の声は変わらない。そこに感情はない。
いや、それは本当ではない。その声は、苦痛、悲しみ、怒り、そういった暗い感情を帯びている。ただ、感情とは普通揺れ動くものであるはずなのに、そこにある感情は、諦めの中に止まっていた。
言い終えると部屋に風が吹いた。風にさらわれて、悪魔は足元から粉々に崩れていく。
「ちょっと、待ってください」
私が言うと、風は止まった。
私は続ける。
「そこにいてください。私を一人にしないでください。」
悪魔は何も答えなかった。
私は何も言わず黒い布の上からそれをそうっと抱きしめた。
布の下に冷たくて、固い感触がした。
誰でも良かった。
きっと猫を飼っていたら、彼に魂を売るようなことはしなかっただろう。
ぽろん…
不意に、音楽が耳に届いた。オルゴールの金属的で優しいメロディだ。
その旋律は、聞いたことのないものだったが、懐かしい印象を与えるものだった。
見ると、黒い布の下から白い硬い手が伸び出ていた。手のひらの上に何かを乗せて、それを差し出しているようだった。
それは、木造りの箱の形をしているオルゴールだった。
「私にこれを?」
私は悪魔に尋ねた。しかし彼は答えなかった。
そのメロディは私の寂しさを紛らわしはしなかった。
そんなものでは抜けだせない深い暗がりに私はいた。
私はただ自分の悲しみの中に落ち沈んでいく。
♯
本を横に置き目を閉じると、さざ波が耳に響く。
私は浜辺のデッキチェアで太陽を浴び、横になっていた。
本を読んでいたが、疲れてしまったので少し休憩しよう。
読んでいた本はホラーで、館に取り憑く悪魔に怯える来訪者、それを退治するエクソシストといったものが描かれていた。
それで私は自分に憑いている悪魔のことを考えた。
今考えれば、あの時私を襲った悲しみ、苦しみは、一時のものに過ぎなかった。
悲しみの原因はもちろんあったわけだが、数日で状況は改善した。心の整理がどうにかついたのだ。
その後も、別の悲しみに突き刺されることは人生の中で度々あった。その度、悪魔は呼ぶと現れたが、大したことはしなかった。
彼はただ現れて、何かを渡して、朝には消えているのだ。渡すものは、ガラクタ同然の小さな小物ばかり。シャンデリアの一枚のガラス板、錆びた風見鶏、だるま、踊り子の小さい陶器の人形、裸婦のハガキサイズの小さな水彩画。
私が悲しむたびに、私の部屋にはそういった珍品が堆積していった。私にはそれらの品を捨てることはできなかった。
彼が直接的に事件を解決したことは一度もなかった。何度か、私は押し黙る悪魔に向かって怒鳴り散らし、まくし立てて、現実的な解決を要求したのだけど、彼は何もしてはくれなかった。
いくつかの問題は私が自分で解決したり友人に助けてもらったりし、大抵の問題については結局時間がうやむやにしただけだ。
しかし、腹立たしいことに私は幸せであると言えた。果てしない苦しみが私を覆う時があるように、私には多くの小さな幸せがあった。それに私の悲しみなんてものは、大抵ベタで月並みなものだった。64億人の人口と数千年の人類の歴史の中にたやすく埋もれてしまうようなものだった。私は周りでもっと辛い思いをしている人を見ていた。
特に今、砂浜で太陽を浴び、寝そべっている時に、「自分が不幸せだ。」なんていう考えは浮かびはしない。
「ねぇ、お姉さん、ちょっといいですか?」
声がかかって、目を開けると、目の前に茶髪の青年がいた。海パン一枚で、体も髪も水に濡れていて、海から上がったばかりのようだ。ひょっとして、ナンパだろうか。今更この年齢になってそんなモノを受けるとどう対処して良いかわからない。私は混乱した。
「何ですか?」落ち着いて答えないと。
「あの、何て言ったらいいか。...お姉さん、最近おかしなこととか、ないですか」
「と、いいますと?」
「なにか、フィクションみたいな現象に心当たりはないですか?」
「ええと。」
私は戸惑ってしまった。
「…僕、困っていたら、お手伝いしますよ」
「あの、おっしゃる意味がよく……」
「その、言わなきゃダメかな、やっぱり。」青年は自問する。
「あ、あれですよ、お姉さん、僕、コレなんです。」青年は私の本の表紙を指差した。彼の人差し指の先には本のタイトルが印字されている。
「エクソ…シスト……?」
「はい、お恥ずかしながら」青年は照れ笑いを浮かべる。
「いや、私、悪魔になんて一切関係ないですから」私は彼を突っぱねた。
「そんなことはないはずですよ。…ちょっと失礼しますね」
そういうと彼は私の手の上に自分の手を重ねた。私はギョッとしたが、驚いている間に彼は手を離した。
「何するんですか!?」
私は我に返り、抗議する。
「すいません。でもやっぱり見ているじゃあないですか。ご存知でしょう。あの、黒い布を被った、声が掠れている……」彼は飄々と言った。
もしかして、彼は本当に知っているのだろうか。
彼の話し振りは自然に見えた。
「知っているんですか?あれのこと」
「はい。正直、僕がエクソシスト、というのは嘘なんですが、あのお化けのことなら知っています。それに、あれを取り祓うことだってできます。何なら今からでも」
私は躊躇した。
「あの、あれってやっぱり、悪いものなんでしょうか」
「さあ。場合によりますね。でも、魂がどうのとか言われたでしょう。怖くはないですか」
「怖いですけれど、死後のことなんていまいちピンと来なくって」
「確かに僕も、"死んだらどうなるか"はわからないですね」
「とりあえず、私、大丈夫です。何とかしてもらわなくても」私はなぜだか考える前から答えを決めていた。
「わかりました。僕もそんなに詳しいわけではないんで、実害がないなら手出しはしません」
「すいません、わざわざ声をかけてくださったのに」
「いえ、こっちこそ、お節介でした。それに、じつは結構そういう人多いんです。祓ってしまいたくはないという人」彼は一瞬、寂しそうな表情になった。
「では。僕はこの辺で」
そう言うと、彼は私の前から歩いて去って行った。
目で追いかけてると、彼は一人の若い女の子と合流した様子だ。手をつなぎ、肩をつつきあったりしながら仲良く二人は海へ入っていった。
太陽を浴びすぎて私の頭は溶けてきているのだろうか。彼らが海の水に浸ってさも楽しそうにじゃれているのを見ると、なんだか海の水が幸福のスープのように思えてくる。海に来たのならやっぱり泳がなくちゃあいけないか。私はシュノーケルに手を伸ばした。
冷たくて塩辛い、幸福のスープを舐めよう。