03
「は? 化け物が出た? 凍結獣の間違いだろう? 報告は正確にといつも言って……何、違う?」
セレシア・マーティレイはちょうど当直勤務の日で、凍結獣征伐局のオフィスにいた。
窓の外には青々と茂る街路樹が見える。今日はめずらしい強風だ。街路樹がざわざわと揺れて、セレシアのただでさえ落ち着かない心を掻き乱す。
年の頃は十七、八だろうか。つややかな金のロングヘアが目を引く少女だ。青い瞳の活発そうな少女だが、その整った顔には今、憂愁の翳が宿っていた。
(……気のせい、じゃないんでしょうね)
凍結獣征伐局の本部は市庁舎から道を挟んだ向かい側にある。北舷Ⅰ区のこの辺りは、官庁街の中でも、とくに魔錠官を擁する組織が集中している界隈だ。
どの舷においても、Ⅰ区とⅡ区とが内側、Ⅲ区からⅥ区が外側となっているから、この北舷Ⅰ区は、キャラビニエールの中核たる〈凍結された決戦場〉に面した地区である。
〈凍結された決戦場〉からは魔力の陽炎が立ち上っていて、これが舷ごとの日照条件にも関わるのだが、この陽炎が同時に〈凍結された決戦場〉周辺の大気の流れにも影響を及ぼしているらしく、市庁舎を中心とするこの辺りは季節を問わず風が弱い。窓をがたがたと揺さぶるほどの強風は、冬の一時期を除いてこの辺りには吹かないはずのものだった。
今、本部で固定型の錠話機(魔錠通話機)にかじりついているのは、征伐局の局長である一等魔錠官ドレマス・ドフュラ。個人での戦闘能力はさほどでもないが、凍結獣征伐の際の統率力に水際だったもののある古参の魔錠官で、入局してまだ一年ほどのセレシア・マーティレイにとっても、素直に尊敬できる上司だった。
が、その尊敬できる上司は今、混乱の極みにあるようだった。
「……局長、代わってください」
出すぎた真似だとは思いつつも、セレシアは思い切ってドレマスに声をかけた。
ドレマスは怪訝な顔をしながらも、セレシアの真剣な表情を見て、受話器を手渡してくれた。ちょうどその時にドレマスの携帯型錠話機が鳴り、ドレマスはセレシアをちらりと見てその場を離れていった。
「化け物というのは、血肉を備えた凍結獣が出たということですか?」
『そうだ! 見た目の輪郭は凍結獣に似ているが、まちがいなく血肉を備えている!』
通話の相手は、征伐局東舷支局の通信担当官のようだった。
凍結獣というのは、〈凍結された決戦場〉を構成する氷晶が、魔王の魔力と結びついて生まれる疑似的な魔物であり、凍結獣征伐局はそれを狩るための組織だ。
もちろん、この通信担当官も征伐局の一員である以上凍結獣に関しては一定の知識を持っているはずだ。その彼が、凍結獣ではない、と断言している。
「まさか、〈凍結された決戦場〉に変化があったのでは?」
『〈凍結された決戦場〉に……? あ、ああ……よくわかったな。昼前、〈凍結された決戦場〉の中央部から天頂部にかけて強い魔力反応が認められたらしい。研究所の連中の言うことだから、あまり気にしてなかったんだが……』
「何を言ってるんですか! だとしたら可能性はひとつです! 魔王が復活したとしか考えられません!」
『ま、魔王だって……? おい、こんな時に冗談はよせ。それよりもだな、一刻も早くあの化け物どもを……』
セレシアの持つ受話器を、いつの間にか戻ってきていたドレマスが奪った。
「こいつは冗談なんかじゃなさそうだ。俺は今から市長と対策を協議しにいく。今入った報告じゃあ、血肉を備えた凍結獣――そうだ、伝説の魔物が出現したのは、東舷だけじゃない。街中から目撃情報が寄せられている。現状では魔物は様子見か偵察でもしているようだが、いつどんな動きをするかわからない。支局の全魔錠官に緊急招集をかけて有事に備えろ」
『な……そんな、本当に……!?』
ドレマスの切迫した様子に、ようやく事態の深刻さを理解したのだろう、東舷支局の担当官がうろたえた声を上げる。
「うろたえるな。われわれが動揺すれば、市民はなおさら動揺する。こんな時こそ落ち着いて、普段通りの振る舞いを心がけるんだ。われわれ征伐局の本来の任務は凍結獣の征伐だが、普段の役回りからして、その魔物とやりあえるのは俺たちをおいて他にはない」
『わ、わかりました……!』
ドレマスが受話器を置いた。反対の手には携帯が握られ、肘にはくしゃくしゃになった背広が挟まれている。
「セレシア。俺は今から市庁舎に行ってくる」
「何があったんですか?」
「おまえの言ったとおりだ。魔王が復活したらしい」
「……っ!」
「何を驚いている? おまえは前から、魔王の復活に備えるべきだと言ってたじゃないか」
「それは……そうですが」
セレシアは言いよどむ。
自分で言っていて現実味の感じられない話だと思っていたことは事実だ。理屈の上ではそうなるはずだとわかっていても、これまでに経験したことのないことが現実に起こりうると信じるのは難しい。
「魔物について、君は何かを知っているか?」
「いえ……あまり多くのことは。ただ、彼によると、史料で見る限りでは基本的な行動パターンは凍結獣と大差がないようだとのことでした。でも、血肉を得たことによって強くなるのか、逆に制約が増えて弱くなるのかは、戦ってみなければわからない、とも」
「……ふむ」
ドレマスは無精髭の目立つ顎を指でさすりながら黙考する。
「まあ、現時点ではどうとも言えんな。行動パターンが変わらないのなら、やりようはあるようにも思えるが」
「……彼なら、あるいは何かいい知恵があるかもしれません」
セレシアが言うと、ドレマスは眉根を寄せてセレシアに告げた。
「……その君の相方だが、この件の重要参考人として指名手配されるようだ」
「な、なんですって……!」
「〈凍結された決戦場〉から銀髪の女性を連れて逃げていく姿が東舷Ⅰ区で目撃されている。それと前後して彼が魔錠術を行使した形跡もある。そして、彼が目撃される直前に〈凍結された決戦場〉から例の魔物が飛び立ったらしい」
「……銀髪の、女性……」
「古風なトーガとミスリルの軽装鎧を身につけた二十歳前後の女性だという」
「まさか……!」
「そうだろうな」
「は、早く保護しましょう!」
「言ったろう、彼はこの件の重要参考人として指名手配される、と」
「ど、どうしてですか! 彼はあきらかに――」
「私もそう思うが、市長は魔王について何か考えているところがあるらしい」
ドレマスは話は終わったとばかりに背広をはおる。
「ま、待ってください!」
「……凍結獣征伐局所属一等魔錠官セレシア・マーティレイ」
「は、はい」
「ドルーア市長からの命令だ。君は征伐局本部……つまりここに禁足される。彼の所へは行くな、ということだな」
「なっ……! そんな……そんなの、あんまりです!」
「命令は命令だ。今の時点では従っておいてもらいたい」
「で、でも……!」
ドレマスはセレシアに背を向けてオフィスの戸口へと向かう。
「局長ッ! あたしは……!」
セレシアの声にドレマスが肩越しに振り返る。
「……これはひとりごとだからそのつもりで聞いてほしいのだがね。情報では、魔物は彼を追っている。逆に言えば、魔物の動きを追えば彼の居所もわかるということだ。そして、魔物の動きに関する情報が集まるのは――そう、ここだ」
「あっ……」
「……それから。市長から呼び出しを受ける前に、キャラビニエール市民を凍結獣から守る立場にある私が、魔物出現の報告を、凍結獣を誤認したものだと判断し、配下の魔錠官に出撃命令を下していたとしても、咎め立てされる謂われはないはずだね」
「あ……、ありがとうございます!」
「……はて、礼を言われるようなことなど、何もしていないはずだが」
苦笑して去っていくドレマスに、セレシアは深々と頭を下げた。