14
魔王ブカンフェラスは北舷Ⅰ区、市長公邸前の広場に魔王派の市民を集めていた。
ダイク・ハーネスのような裏切り者がこれ以上現れないようにするために、魔王派の忠誠心を試すことが目的だった。
表の身分を気にしてこの場に現れないのであれば、それはそれで構わない。そのような分子にはそれはそれで使い道がある。
が、反魔王派の指弾の声をものともせず、また市当局の監視を受けることを承知の上でこの場に現れ、衆人環視の中で魔王に忠誠を誓った者には、来るべき魔王の支配する大陸において枢要な地位が約束される。
もちろん、そんな約束を公然としたわけではないが、魔王派の中では、ブカンフェラス自身の発言として、忠誠に対する将来の見返りを示唆する噂がまことしやかに流れていた。
当然、市当局もこれに注目する。
ドルーア市長と魔王ブカンフェラスが手を握りあった会見はまだ記憶に新しいが、二人のカリスマの間にはいまや埋めがたい溝が存在するというのが、公然の秘密だった。
今日の魔王派の集会は、市長の意を受けた魔錠犯罪取締局に加え、副市長の指揮下にある都市防衛隊防諜部の精鋭によっても密かに監視されている。
今、公邸前広場には、その場に収まりきらないほどの市民が押しかけていた。
そのほとんどが、魔王派だった。
広場の中央に佇む魔王の周囲には、自然と空間ができていた。
会場整理の必要すらなく、中央に魔王、少し離れて魔王派の「重鎮」が並び、それらを遠巻きにとりまくのが多種多様な魔王派の市民たちである。
市民たちは恐ろしく静かだった。これだけの人数が集まっているというのに、小競り合いはおろか、囁きのひとつも聞こえてこない。
小柄な魔王の姿は、前の方の市民にしか見えないはずだが、魔王の放つ強烈な妖気が広場全体を支配し、居合わせた人々に沈黙を強いているのだ。
「……そろそろ来るようです」
「重鎮」の列の中から役人風の男が進み出て言った。
瞑目していた魔王が、わずかに顔を上げる。
魔王の闇色の瞳が群衆の一角へと向かう。
群衆が自然に開けた道を通り、短い金髪の若者が現れた。
「……ハイラーク」
重鎮の列の中にいたケインズ・ハーネスが暗い顔でつぶやいた。
息子を殺すことで魔王への忠誠を示したケインズをブカンフェラスは激賞したが、「同僚」たる魔王派重鎮たちの反応は冷ややかだった。
彼らは必ずしも悪人ではない。中にはむしろ、正義を為すための力を求めて魔王に従うことを決めた一種の改革派も存在する。ドルーアは清廉潔白な市長だと市民からは思われているが、むろんドルーアの市政の中に後ろ暗い部分がまったくないとは言い切れない。現状に不満を持つ分子はどこにでもいる。ゆるぎない日常の中で憎悪と劣等感とを持てあましている彼らにとって、魔王の力は悪魔的な魅力をもって映る。
同時に、やはり悪人としか言いようのない人間もいる。ドルーア市長が誕生する以前の時代に、既得権を利用して私腹を肥やしていた、腐敗した政治家や役人たちもまた、魔王の旗印の下に集まっていた。
が、反動的な不満分子にせよ腐敗した保守主義者にせよ、独善的なものではあっても、彼らなりの価値観を持っている。その価値観に照らして――あるいは照らすまでもなく、魔王のために息子を殺したケインズは唾棄すべき卑劣漢と映るのだ。ケインズの顔が暗いのは当然だと言えた。
対して、群衆を割って登場したハイラーク――一等魔錠官〈高慢〉ハイラーク・エルゴステットの顔は、むしろ楽しげですらあった。
ハイラークは魔王に遅参の挨拶すらせず、手にしたものを放り投げた。
居合わせた重鎮たちが一斉に息を呑んだ。唯一、感情の麻痺したケインズだけが、ハイラークが魔王の足下に投げ出したそれを無感動に観察していた。
それは、人間の首だった。
魔錠犯罪取締局局長である――もう罷免されていれば「だった」――ケインズは、青ざめ恐怖に強ばったその顔の主を知っていた。
ナタリア・ブルームナグ副市長。
市長の権限への牽制として都市防衛隊の防諜部を統括する立場にある女性だ。
魔王に対しては根っからの懐疑派で、魔王と結んだ市長を警戒し、独自に防諜部を動かして魔王派を封じ込めようとしていた。魔王派の主立った人物に監視をつけ、盗聴や盗撮はもちろん、場合によっては脅迫や拉致まで行っていたと魔王は主張する。それが事実だとしたら市民に対する重大な人権侵害を行っていたことになる。
あくまでも、事実だとしたら、であるが。
「ほら、お望みのものだ」
ハイラークが肩をすくめて言った。
「ふむ。大儀だった。……だが、思いの外手間取ったようだな?」
「遅れたのは、こいつのせいだ」
ハイラークが布に包まれた筒状の何かを投げ出した。
聴衆の中にはそれを見て、いよいよ吐き出した者もいた。
それは腕だった。背広の袖ごともぎ取られた、人間の腕だ。
「これは?」
魔王は眉を動かすことすらなく聞いた。
ハイラークは残忍な笑みを浮かべながら答えた。
「ドルーア市長の腕だよ。副市長をやろうとしたところに出くわしてな」
「ついでに片付けてもよかったのだぞ?」
「あの女――ブレンダがいたからな。一等魔錠官でこそねーが、あいつは相当な食わせもんだぞ。むしろ、ドルーアを影ながら守るために、あえて一等魔錠官にならなかったんじゃねーか? 俺にできたのは、奴の腕をもいでくることくらいだった」
「ふん……まあよかろう。今回の標的は副市長だ。むしろ、ドルーアに警告を与えたと思えば悪い結果ではあるまい」
「……約束は守れよ?」
「言うまでもあるまい」
聴衆を置き去りにして進むハイラークと魔王の会話に、割って入った者がいた。
「……貴様ら!」
制服から察するに、この場の整理に当たっている都市防の指揮官だろう。
ケインズは仕事の関係で彼と何度か情報交換を行ったことがある。彼は防衛隊防諜部の主席分析官でもあった。つまり、魔王の足下に転がる生首――ナタリア副市長の直属の部下だということになる。
冷静で頭の切れる分析官だったはずだが、あまりの事態に完全に我を忘れているようだ。
「魔王ブカンフェラス! 貴様は我ら人間と手を取り、ともに繁栄の道を模索するのではなかったのか!」
糾問する分析官に、魔王が返したのは冷笑だった。
「虫けらと結んだ約束に、なぜ魔王たる私が従わねばならんのだ?」
「何だと――!」
分析官は群衆を掻き分け、魔王と重鎮たちのいる空間へと飛び出した。
魔王に危害を加えようとする者がいれば殺せ。
あらかじめ無慈悲な命令を下されていたケインズは、自身の感情を置き去りにしたまま魔鞭を放とうと、
……した瞬間。
魔王の存在感が爆発した。
もはや瘴気とでも呼ぶしかない禍々しい気配が魔王から噴き出し、キャラビニエールが傾いた。
「……ッ!」
その場で姿勢を崩さずにいられたのは一等魔錠官であるケインズとハイラークだけだった。
飛び出した分析官は瘴気をまともに浴びて地面を転がり、重鎮たちはその余波で地面に倒れている。群衆は分析官の飛び出した地点を中心に、嵐に遭った葦原のように薙ぎ倒されている。広場のあちこちからうめき声が聞こえた。
「魔、王……きさ、ま……」
全身をずたぼろにされた分析官が、人なら殺せそうな激しい憎悪を込めて魔王を睨む。
だが、睨まれたのは人ではなく、魔王ブカンフェラスだった。ブカンフェラスの頭には、発見された時には生えていたという一対の長大な角があった。
「我が魔力にたかる蛆どもめが。そんなに私の力が欲しければ、我が前に這いつくばって恭順を誓うことだな」
虚飾をかなぐり捨てた魔王の言葉に、居合わせた者たちの間にどよめきが走る。
「な……っ! 話が違うではないか、ブカンフェラス!」
食ってかかったのは、地面に倒れていた保守派の政治家だった。汚職政治家の代名詞のように言われる固太りの政治家は、恐れる様子もなく魔王の肩へと手を伸ばす。
その手が――一瞬にして腐り落ちた。
鮮血が噴き出し、橈骨が飛び出した腕を振り乱しながら、政治家は凄まじい悲鳴を上げて地面を転げ回る。
魔王は政治家の絶叫など意にも介さず、邪悪な笑みをたたえながら、侮蔑の言葉を紡いでいく。
「いつの時代にも不満分子はいるものだ。そんな連中に金を、屋敷を、女を約束してやれば、簡単に尻尾を振ってくる。千年経って文明は相応に進歩したのかもしれんが、所詮人は人――敵するに値せん」
ケインズは妻子を人質に取られ、脅迫された。
腕を腐肉にされたあの政治家は、どうせ地位か金だろう。
そのようにして魔王ブカンフェラスは、自らに忠実に動く、あるいは動かざるを得ない駒を増やしていたのだ。
あの〈高慢〉ハイラーク・エルゴステットですら、魔王と何らかの約束を交わしているようだった。
「今私に楯突いた者は、後で家族もろとも根絶やしにする」
その言葉に、動き出そうとしていた取締局の魔錠官や防衛隊員たちが動きを止めた。
「助かりたくば、早く私に従うことだ。決断は早ければ早いほどいい。昨日までの隣人に食い物にされたくなくば、急いだ方がいいぞ。誰しも恨みの一つや二つ、買っている自覚があるのではないか? 何でもするからあいつを破滅させてくれ……そんな願いも、私の下にはすでに何十となく寄せられている。私は気が短い。粛清の嵐が吹き荒れる前に、おのれの旗幟を鮮明にしておくべきだと思うがな」
そう言って魔王は獰猛に笑った。
「……さあ、どうする、聖鎧都市の愚民どもよ……!」
ついに本性を現した魔王を前に、キャラビニエールの市民たちは絶句し、凍りついた。