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そして聖女は旋風〈タビュロ〉と化す  作者: 天宮暁
第三章 三人目の仲間

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 会見から一週間が経った。

 雨の音と工房から聞こえる作業音とを聞きながらテレサがうつらうつらとしていると、偵察に出ていたシアが戻ってきた。

「……どうでしたか?」

 雨の降る中を歩き回ってきたシアにタオルを渡しながら、テレサが聞く。

「魔王の影響力は想像以上ね。年寄りは『伝承とは違って謙虚で礼節を弁えた男ではないか』なんて言うし、若者は若者で『キャラビニエールには彼のような指導者が必要なのだ』よ。若い女の子の中には、『魔王様かっこいい』なんて言い出すやつまで出てくる始末。新聞から切り抜いたブカンフェラスの写真を、嬉しそうに見せられたわ」

 シアがタオルで髪を拭きながら答えた。

「そんなに美形ってわけでもないのにね。美形ってことなら、遺憾ながらあたしの父親の方がよっぽどだわ」

「ドルーア市長は美形ですし、弁舌も爽やかで、若い女性からは人気だったそうですね」

「らしいわね。家でのあの人を見せてやったら、夢も醒めるんじゃないかと思うけど。でも、あの人――ドルーア市長に入れあげてた女の子が、今度は魔王ブカンフェラスに一直線よ? さすがに呆れたわ」

「おそらく、カリスマのある人間に影響されやすい性格の持ち主なのでしょう。魔王の持つ感化力の正体は謎ですが、あれだけの屍山血河を築きながら、付き従う人間は絶えませんでした。ドルーア市長のシンパがそのまま魔王に流れたところで不思議はありません」

「…………」

 シアからの返事はなかった。

 テレサから微妙に目の焦点を外してぼうっとしている。

「もしかして、失礼なことを言ってしまいましたか?」

「……えっ?」

「ですから、身内の方を悪く言ってしまったので……」

「あ、ああ……違うわよ。あんなののことは気にせず悪く言っていいの。実は反抗期なだけで本心ではパパが好き、なんてことはないから。あたしもママも、あの人に対しては冷め切ってる」

「そうですか……ぼうっとしていらしたので、気になってしまいました。お疲れですか?」

「まあ、ね。でも、これくらいあたしにとっちゃ朝飯前のはずなんだけど」

「こんな状況ですから、知らず知らずのうちに気疲れされているのかもしれません」

「……かもね」

 シアは居室に置かれている木椅子に座った。

 しばらく会話が途切れた。雨音の響く居室に、時折クラフトが工房で立てる物音が割り込んでくる。

「……あいつはまだ作業中か」

「ええ……お昼を過ぎても現れなかったので呼びに行ったら、『後で食べる』と」

「後で……って、もう夕方近いじゃない! むりやりにでも引っ張り出して、食べさせてくれればよかったのに!」

「何度もお願いしたのですが、まったく取り合ってくださいませんでした。邪魔をするのも気が引けたので、シアの帰りを待っていたんです」

「あたしの帰りを?」

「やはり、クラフトはシアでなければダメなのです。あの人の真剣な横顔を見ると、わたしは胸が切なくなって、それ以上何もできなくなってしまいます」

「……それって……」

「かも、しれませんね。ですが、安心してください。わたしではダメなのです。わたしとクラフトはあまりに似すぎている……これでは、恋人同士にはなれません」

「……そっか」

「まったく、告白するまでもなく振られ女です。これでも昔は随分モテたんですよ?」

 冗談っぽくテレサが言うが、シアは暗い顔でうつむいた。

「あんたはそうでも、あいつは……」

「クラフトがわたしを好きかもしれない、と?」

「……そうよ」

「それは、ありません」

 テレサのきっぱりとした言葉に、シアが思わず顔を上げる。

「クラフトにとって、わたしは偶像です。テレサという一人の女ではなく、〈犠牲の聖女〉テレーシア・ケリュケインです」

「……どうだか」

 シアの見るところでは、クラフトは偶像でない生身の女性としてのテレサにも惹かれはじめている。

 もともとクラフトは徹底した現実主義者だ。発明家である以上、ないものを空想する能力を備えてはいるが、それは現実的な必要がそこにあるからだった。だから、クラフトが偶像としての聖女と目の前にいるテレサを混同することはありえない。

 そして、そのクラフトの芯にあるものが、「〈犠牲の聖女〉テレーシア・ケリュケインを救う」という夢想であるだけに、シアとしては不安なのだ。

「クラフトは……どうしてあんなにも必死なのでしょうか。魔王の聖女のという話は、それこそ千年前――彼にとっては大昔の話だというのに」

「……聞いてないの?」

「聞けませんよ。わたし自身がその聖女だというのに」

「それもそうね」

 シアは炊事スペースで熱いココアを淹れてきた。マグは二つ。シアはテレサに片方を渡すと、さっきまで座っていた椅子をソファの横に引いてきて座った。

「あいつは、孤児だったの」

「孤児……わたしと、同じく?」

「少し違うわね。この街はここ数百年の間戦争をしていない。だから、テレサの時代みたいに戦災孤児が大量に発生するようなことはないわ」

「それは何よりですが……では?」

「クラフトは、捨てられたの。誰とも知らない親にね」

「……そうだったのですか」

 最近はややぴりぴりしているが、普段のクラフトは明るく優しい。

 テレサは千年前にたくさんの戦災孤児を見てきている。その多くは大人になってもどこかに暗い翳を引き摺りながら生きているように見えた。

 が、それでも、生き残れた者は運がよかったのだ。庇護者のいない戦災孤児たちは、街の住人たちに煙たく扱われ、貧困と飢餓とに苛まれながら、この世に生まれた楽しみなどただの一度も味わうことなく死んでいくのだから。

 もちろん、人買い商人に捕まり、傭兵団や娼館に売り払われて生き延びる子どもたちもいたが――幼くして死ぬのとどちらがマシかは、聖女であるテレサにもわからない。

「施設で育ったクラフトと市議の娘のあたしには、もともと接点なんてなかったんだけど、あたしが七歳の時に、ひょんなことから仲良くなったの」

「ひょんなこと?」

「……それはひみつ」

「何かいいことがあったのですね?」

「そんなとこ。でも、あたしがクラフトと仲良くすることを、父はもちろん喜ばなかった。もともと左派政党の出身で、すべての子どもに義務教育をと主張してたっていうのに、そういう偏見はなくならないのね。とにかく、父は煙たがったんだけど、ママはクラフトのことを目にかけてくれたの。クラフトが機械いじりが得意だとわかると、施設の院長にかけあって、クラフトを顔見知りの機匠の弟子にまでしてくれた」

「素晴らしいお母様です」

「……うん。自慢のママよ。男を見る目がなかったことを除けば、だけど」

「そんな風に言うものではありませんよ。それで、そのこととクラフトがわたしに――いえ、〈犠牲の聖女〉にこだわるようになったことはどうつながるのですか?」

「どうもこうも、単純よ。あたしの名前……わかるでしょ?」

「セレシア。わたしの名前、テレーシアと通じる名前ですね」

「通じるというか、テレーシアの現代風の発音がセレシアなのよ。名付けたのはママ。〈犠牲の聖女〉テレーシア・ケリュケインのように、人を思いやり、助けてあげられる人になってほしい。それが、ママがあたしの名前にこめた願いだった」

「……それは、面映ゆい話ですね」

「あたしも、そう思うと複雑なものがあるわ。あたし、テレサほど口悪くないし」

「ふふっ。偉業を達すると、よい面ばかりが歴史に残るのですよ。魔王を倒せば、シアの名前も残ります。魔王を倒した二人のテレーシア……なかなかよいではないですか」

「じゃあ、がんばらなきゃ」

 二人のテレーシア/セレシアは笑いあった。

「ママは身体が弱かったけど、夢見がちな人でね。ううん、身体が弱かったからそうなったのかもしれないけど。とにかく、ママはちゃんと知ってたの。もう何年かで〈犠牲の聖女〉テレーシア・ケリュケインが復活するってことを。それで、よく冗談めかして言ってたわ。かの聖女テレーシアに会ってみたい、付き人になって一緒に魔王を叩きのめしてやりたいって」

「……そう、ですか」

「あたしのママとあいつが離婚したのは、あたしが十一歳の時だった。ママはその後、体調を崩して、ベッドで寝ていることが多くなった。あたしとクラフトはママの病室でよく遊んだの。ママがそうしてくれと言ったのよ。見ているだけで元気が出るからって」

「…………」

「それからママは、よく言うようになったわ。〈犠牲の聖女〉が復活するその日まで生きていたいって。死ぬ前に一度でもいいから、聖女テレーシアにお会いしたいって。でも、復活するのは聖女だけじゃない。魔王もよ。ママはとても心配していた。封印から目覚めた聖女は力を無くしているかもしれない。魔王は聖女を木っ端のように吹き飛ばし、この街を破滅させようとするかもしれないって」

「……お母様は、予見されていたのですね」

「そうよ。ママとクラフトだけが魔王の復活を信じてた。死ぬ前のママは、空想と現実の区別がつかなくなることがあったから、あたしはママの言うことを、表面では受け入れたように演技しながら、内心では信じてなかったの。……こんなことになるなら、信じてあげればよかったのにね」

「シア……」

「……ん。ごめん。とにかく、魔王のことを心配するあまり夜も眠れなくなったママを見かねて、ある時クラフトが言ったの。『魔王なんて、俺が倒してあげるから』って。そして、『かわいそうな聖女さまも、俺が助けて、ここに連れてきてあげる』って」

「……そうだったのですか」

「そう。クラフトは純粋だから、今でもきっと心の根っこにはその時の気持ちがあるの。もちろん、今ではママのためという以外にも、〈犠牲の聖女〉を忘れていた人々への義憤だとか、復活するはずの魔王から街を守らなければという使命感だとかがあるし、むしろそっちの方が中心なんだと思うけど」

 シアの話はそこで終わりだった。

 テレサはしばらく瞑目し、身体の中に走る感動の余韻を味わった。

「……話してくださって、ありがとうございます」

「ん」

「魔王を倒さなければならない理由が、またひとつ増えました」

「そっか。……ちなみに、その理由は今、いくつくらいあるわけ?」

「さあ、じっくりと数え上げれば、百は下らないと思います」

「百ぅっ!?」

「理由は多ければ多いほど、心が折れにくくなります。数え切れないほどの悲惨を見てきたからこそ、魔王を前に立っていられるのです。でも……」

「でも?」

「最新の理由は、心が温かくなります。ほとんどの理由は、わたしの心を凍てつかせ、少々のことでは折れないようにするものですが、それだけではやはり、わたしも辛いのです」

 儚げに微笑むテレサから、シアはなぜか顔をそらせ、椅子から立ち上がった。

「そっか……そうだよね。じゃあ、あたしはテレサに、少しだけでもいいことをしてあげられたんだ」

「……? どういう意味です?」

 ソファからシアを見上げ、テレサが聞いた。

 しかし、シアの口から漏れ出したのは――

「……魔錠解放:南Ⅳテメストパウルス03431から03440までを結合;〈睡魔〉」

「な……」

 テレサは一瞬めまいに似た感覚に襲われたが、次の瞬間にはそれは消えていた。

 ごと、とクラフトのいる工房から何かの倒れる音がした。

 それは人が倒れた音だと、数多の戦いをくぐり抜けてきたテレサはすぐに気づいた。

 つまり――

「……っ。シア……今、何をしました?」

 テレサはソファに立てかけられた小刺剣(スティレット)を手に取り、シアに鋭い視線を投げかける。

 シアは言い訳する様子もなく、力なく微笑みながら言った。

「やっぱり、テレサには効かないか。ココアに混ぜた眠り薬も効かないから、そうじゃないかとは思ったけど」

「眠り薬……そんなことまで」

 何度となく暗殺の危機に遭ってきたテレサは毒の味もわかるが、千年前にはなかった飲み物だったこともあり、まったく気づかなかった。ひょっとしたら、毒自体も千年前にはなかった種類のものだったのかもしれない。だがそれ以上に、シアがそんなことをするわけがないという油断があったことも事実だ。

 テレサがシアの盛ったらしい眠り薬や魔錠術の影響を逃れられたのは、テレサが左手の小指にはめた指輪のおかげだ。三頭蛇女(メデユーサ)の指輪。強力な魔法具があると聞いて潜った遺跡の中で、偶然手に入れた逸品だ。この指輪は持ち主に対する呪詛を無効化する特殊な免疫作用を授けるもので、魔王軍の一部の魔物が放つ強力な毒気すら無効化してくれた。

 が、もちろん、そんなことを今のシアに教えてやる必要はない。

 シアの行為は、明白な敵対行動だったのだから。

「なぜ……このようなことを?」

「もう一度、魔王を封印するのよ。あなたにも手伝ってもらうわ」

「……なるほど。クラフトには聞かせられないような種類の『お手伝い』なのですね?」

「目覚めて間もないところを悪いけど、力尽くででも手伝ってもらう」

「……面白い冗談ですね。たしかにシアも相当な腕前のようですけれど……まさか、このわたしに勝てるだなんて、お思いではないですよね?」

 テレサの瞳に危険な光が宿った。

〈犠牲の聖女〉などと呼ばれてはいても、テレサの本質は一人で魔王を倒そうと試みた勇猛な戦士である。敵対する相手に向ける視線は苛烈極まりなかった。

 が、シアとてだてに一等魔錠官として凍結獣と戦ってきたわけではない。聖女の射すくめるような視線を真っ向から受け止めている。

「さすが、伝説の聖女さまは言うことが違うわね。だけど――」

 唐突に、シアがテレサに斬りつけた。回炉刀には既に複数の錠が接続されている。鞘走りすら見えない神速の斬撃を、テレサは小刺剣で受け止めた。

この街(キャラビニエール)あたしたち(魔錠官)の庭よ。錠を使えないあなたに勝ち目はないわ」

「くっ……魔力さえ戻っていれば……」

 大きなことを言ったものの、テレサの不利は否めなかった。

 とにかく魔力が足りない。シアが周囲の魔錠から自在に魔力を得ることができるのに対して、テレサはようやく回復してきた体内の魔力のみで戦わなければならないのだ。

 テレサにもそこら中に〈浮かぶ〉魔力の錠が見えてはいる。が、キャラビニエールの戸籍を持たないテレサにはそれを開くことはできない。その錠の向こうにある魔力は、元はと言えば半ばテレサ自身のものなのに、テレサにはその魔力を使う資格がないのだ。

 不条理を噛みしめつつ、テレサは逆転の目を探る。

「魔錠解放:南Ⅳテメストパウルス03431から03440までを結合;〈銀閃〉」

 シアの強力な回炉刀との鍔競り合いを嫌って飛び退いたテレサに、シアが魔錠術で追撃をかける。

「……っ。タビュレット、逆加速回炉0001;起動!」

「な――」

 テレサが鍵語を叫び、手にした小刺剣でシアの銀閃をすべて斬り払った。

 聖女という言葉からは想像できない凄まじい剣捌きだったが、注目すべきはそこではない。

 小刺剣は、まるでクラフトのタビュロのように、シアの銀閃を残らず吸収してしまったのだ。

「それ……!」

「クラフトが護身用にと回炉刀に改造してくれたのです。タビュロの低出力小型安定版だと言っていました」

「なんで……あんたばっかり……!」

「さあ……土壇場で説明もなしに裏切るような女性を、一般に男性は好みませんよね? 先ほどの言葉は取り消します。クラフトはあなたにはもったいない男性です。聖女であるわたしがいただくことにします。ご安心ください。これでも人を幸せにすることには定評がありますから」

「この……っ!」

 怒りを見せたシアにテレサが斬りつける。

 一気に戦闘不能に持ち込もうと放った突きを、シアはあっさりといなしてみせた。

(……ここまでとは)

 聖女として数々の危機をくぐり抜けてきたテレサは、剣の腕にも自信があった。魔王側に寝返った高名な剣士と戦ったこともあるが、ほとんど引けを取らなかった。

 そのテレサを、シアは純粋な剣技で上回る。

 いや、剣技にも魔錠術を応用しているのかもしれない。

(……正攻法では勝てませんね)

 テレサはもう片方の手で隠し持っていたココアの残りを、シアの顔目がけてぶっかけた。

「ぶっ……!」

 怯んだシアのこめかみに、テレサは小刺剣の柄尻を叩きつけようとする。

 が、その攻撃をシアはほとんど勘だけで弾き、

「魔錠、解放……テメストパウルス03441から03450までを並列起動;〈銀閃〉っ」

「……っ! タビュレット、逆加速回炉……、……ッ!!」

 シアの放った銀閃を、テレサは再び弾こうとして、驚愕した。

 シアの銀閃が――ねじけた。

 別々のタイミング、別々の軌跡を描いて襲い来る無数の銀閃。

 テレサは襲い来る銀閃を斬り落としていくが、圧倒的に手数が足りない。

 しかも、銀閃のひとつひとつが針金のように細く、捉えがたい。

 それは、シアが錠を結合せず、ひとつひとつの錠にそれぞれ別の〈銀閃〉を起動させた副作用だったが、この場合はそれが有利に働いた。

 針のように細い銀閃が、テレサの腕を、脚を貫いた。

 一瞬にしてテレサは、錠から伸びた銀色の針で、昆虫標本のように拘束されていた。

 テレサは反射的に暴れようとするが、

「……下手に動かない方がいいわ。急所は外してるけど、血管や神経を痛めたら大変でしょう?」

 シアの言葉に大人しく動きを止める。

「……綺麗ね」

「……え?」

「悔しいけど、同性のあたしから見ても綺麗。ふだんから綺麗だけど、運命に捕らわれてる時のテレサは、本当に、ぞっとするほど綺麗だわ」

「申し訳ありませんが、わたしにはそちらの気はありませんよ」

「あたしにだってないわよ。自分のことだからわからないんでしょうけど、テレサ、あんたには、この人にだったら身も心も……命すら捧げても惜しくはない、そう思わせる何かがあるわ」

「…………」

 陶然と語るシアに冷たい視線を送りながら、テレサは右の掌から砂のようなものを零す。もちろん、シアに気づかれないように。

「人類の害になるということだったら、魔王とは別の意味で、あんたもそうなのよ、〈犠牲の聖女〉。あんたに恨みはないけど、あんたはたぶん、そのまま眠っていてくれた方が、世の中は平和でいられるの」

 そう言ってシアはテレサに近づいてくる。テレサはびくりとしたが、シアはテレサの左手の小指から三頭蛇女(メデユーサ)の指輪を抜き取っただけだった。

(……気づいていましたか。でも……)

 テレサの右手から零れる砂には気づかなかった。

「魔錠解放:南Ⅳテメストパウルス03431から03440までを結合;〈睡魔〉」

 抵抗しがたい暴力のような眠気に襲われて、テレサの意識は今度こそ闇の中に落ちた。

 がくりと首を垂れるテレサの掌から、砂の最後のひとかけが零れた。

 かつての魔王城――後に〈凍結された決戦場〉となった地殻の周囲は、鬱蒼とした森に覆われていた。

 ドルマナの森――通称〈迷いの森〉。同じような風景が延々と続き、磁針すらあてにならないその森を抜けるために、テレサはこの砂を手に入れた。隠棲した老賢者から譲ってもらった〈道の砂〉と呼ばれる魔法具の残りだった。

 ――千年前の聖魔決戦に詳しいクラフトならば、気づくかもしれない。

 テレサはなお、希望を捨ててはいなかった。

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