09
シアが指さしたのは、工房の壁に据え付けられた魔錠ディスプレイだった。
魔錠ディスプレイは、さっきまで放映されていた映画がいつのまにか終わり、市当局の情報番組が始まっている。「緊急特番」のテロップとともにそこに映っていたのは――
「ドルーア市長。それに――」
「……ブカンフェラス……!」
背後に緋色の緞帳が下ろされた演壇に二人の男が並んでいる。
グレーの背広姿の、背の高い美形の壮年が、シアの父親でもある現キャラビニエール市長ドルーア・マーティレイ。
その隣に立つ、白い背広の上に濃灰色のマントを纏った背の低い男が、魔王ブカンフェラスだった。ブカンフェラスは、復活直後の時代遅れな服装ではなく、最新のモードを取り入れた仕立てのいい背広に着替えていた。その上に纏ったマントは、この男こそが魔王であると控えめな形で主張するためのものだろう。
「へえ……なんか、そんなに迫力はないわね」
ブカンフェラスを初めて見るシアが、そんな感想を零した。
「……あの角もないな」
クラフトが最初の会戦で折り取った右の角だけでなく、左の角も見当たらない。
「魔王の象徴たる角も、その強烈で邪悪な波動も、その気になれば隠すことができます」
テレサがつぶやく間に、会見場の音声が魔錠ディスプレイから聞こえてきた。
「――今日は市民の皆さんに、われわれの新しい友人を紹介したいと思います。……ブカンフェラス殿、こちらへ」
ブカンフェラスが無表情のままドルーアの隣へと歩み寄る。
「彼は魔王ブカンフェラス。ご存じの方も多いと思うが、千年前〈犠牲の聖女〉によって〈凍結された決戦場〉に封印された、伝説の魔王です」
ドルーアの言葉に、会見場の記者たちがどよめいた。
「ご静粛に。うろたえる必要はありません。千年の眠りから復活した彼は、われわれに対して価値のある提案を行ってくれました。私はこの一週間彼と話し合い、手を握り合うことのできる相手だと判断しました。ですが、相手が相手だけに、皆さんの中には不審に思う方もおられるでしょう。ですので、彼本人から市民の皆さんにお話する機会をこうして設けることにしました。皆さんご自身の目で、彼――魔王ブカンフェラスの言葉と人柄とを見極めていただくためです」
言葉を切ったドルーアがブカンフェラスに頷きかける。
ブカンフェラスは鷹揚に応じて、演壇の前へと進み出た。
ブカンフェラスが語り出すまで、十数秒、間があった。
聴衆の注目を十分に惹きつけたところで、ブカンフェラスはむしろ低い不明瞭な声で話しはじめた。
「キャラビニエール市民の皆さん。はじめまして。私が今市長からご紹介にあずかった、魔王ブカンフェラスです」
再びどよめく記者たちに、ブカンフェラスがゆっくりと視線を向ける。威圧的なわけでもないただの視線が、記者たちのどよめきをすぐに収めてしまった。
「私が生まれた千年前は、戦乱の時代でした。大国がエゴを剥き出しにして相食む果てのない戦争が何十年となく続いていました。私はそんな激動する大陸の中の、とある小国の王族として生を受けました。アッサンザ王国。それが私が生まれ、私が王となる栄誉を得た愛しき母国の名前です。おそらく、皆さんは聞いたこともないでしょう。風光明媚な、しかしそれ以外には取り立てて特徴のない国です」
ブカンフェラスは自らの言葉が聴衆に染み入るのを待つかのように言葉を切った。
「私の治めた国は、当時強大だったキリルハイム帝国に呑み込まれ、大陸の地図から消える運命にありました。私の愛した民の大部分は、キリルハイムの兵に虐殺されました。最後に残った王都アッサビオも、キリルハイムの厳重な包囲によって干上がり、飢餓で八割以上の住人が死ぬことになりました」
会見場には重い沈黙が下りていた。咳ひとつ躊躇われる空気の中で、魔王の独白は続く。
「キリルハイムは、私の度重なる降伏の申し出を拒絶しました。私の股肱の臣が自ら先頭に立って使者としてキリルハイムの幕舎に向かいましたが、彼らは私の臣の身体をばらばらに切り刻み、塩漬けにして城内へと送り返してきました」
聴衆はみな、そこにいるのが魔王ブカンフェラスであることを忘れていた。
今演壇に立っている男は、残虐の限りを尽くした魔王ブカンフェラスではなく、大国のエゴによって愛する国と民とを滅ぼされた悲劇の王ヴェムト・ディオスである――そのように、錯覚された。
「私は、私の首を差し出すことでこの悲惨極まりない殲滅戦を終わらせようと決意しました。それ自体は、何度となく行っていた提案でした。もちろん、アッサンザの滅亡を目的とするキリルハイムの将はそれを撥ねつけてきたのですが、私自身が率先して自害し、その遺骸を先頭にして開城すれば、残忍なキリルハイムの将であっても、残された住人の命までは奪わないでくれるのではないか……そんな甘い、甘すぎる期待に、私は取り憑かれたのです」
誰かが、押し殺したため息をついた。
「しかし、死を覚悟し、愛する家族に別れを告げ、自室に引き込んだ後、私の胸には途方もない怒りが溢れ出してきました。それは、私自身の怒りだけではありません。飢餓に苦しむ城下の民の怒りが、これまでの戦いでキリルハイムの手にかかった将兵の怒りが、キリルハイムによって虐殺された罪なき民たちの怒りが、私の胸に溢れ出し……次の瞬間、私は魔王になっていました」
聴衆が息を呑んだ。
「その後のことは、語るまでもないことでしょう。私はキリルハイムを滅ぼし、大陸を支配し、最後には怒りに取り憑かれた暴君と成り果てて、聖女テレーシアによって封印されました。その時の私は、千年後の人間もどうせろくなものではないと思いました。キリルハイムの将兵のようなろくでもない人間は時とともにのさばり、人間社会は徐々に退廃し、衰退していくに違いないと確信していました。……だが」
ブカンフェラスが顔を上げた。
記者席の記者たちが、まるで見えない糸に操られたパペットのように、ブカンフェラスそっくりの動作で顔を上げる。
「……千年後の世界は、素晴らしいものだった。この千年後の世界で目覚めて以来、私はこの街の繁栄をつぶさに観察しました。清潔で健康的で効率的で、何より豊かな街だ。大陸中のすべての街が同じようではないそうですが、このような街がひとつ現実に存在しているということは、何とも希望の持てることです。人類は、このようにも暮らせる、ということなのですから」
ブカンフェラスは両手を広げ、夢見るように顔を仰向けた。
「……そう。私は間違っていたのです。人類の英知を、何度失敗しても立ち上がり、地道な努力を続けるひたむきさを、私はすっかり見失っていた。私の目を醒ましてくださったのは、あなたがたキャラビニエール市民です。私は人類の希望の民たるあなたがたに、謝罪しなければならない。私はあなたがたのことを見くびっていた」
ブカンフェラスは演壇に手を突き、深々と頭を下げてみせた。
「私は人から学ぶべきだと思ったのです。もはや、魔王の聖女のという時代は終わった。この世界に生きるもの同士、いがみあったところで意味などありません。あなたがたは私から利益を得ればよい。私の魔力が必要だというのなら提供しよう。その見返りに私はあなたがたの協力を得たいと思う」
そう言って再び両手を広げたブカンフェラスだが、今度は一転、悲しげに眉をひそめてみせた。
「――私には今、探している女性がいます。私とは長い因縁のある相手です。だが、だからこそ、私は彼女と和解したい。聖女テレーシア・ケリュケイン――誇り高く、人類への愛と見返りを求めぬ献身とに満ちあふれた高貴な女性です。しかし、彼女は復活した私の意図を誤解し、市当局の手から逃げ回っています。救世主たる彼女の誤解を解き、しかるべき尊厳を持って彼女を当局へと迎え入れるのが私の希望です。市民の皆さん。どんなに些細な情報でも構いません。彼女に関する情報があれば、ぜひ当局へとご連絡いただきたい」
魔錠ディスプレイに当局の連絡先が表示された。テレサの顔写真に並んで、クラフトの顔写真まで表示されている。幸い、テレサの写真は防衛隊との戦いの際に隠し撮りされたものらしく、ピントが惚けていて顔が確認しづらい。が、クラフトの写真は機匠資格を授与された時のもので、正面から顔が鮮明に写っているものだ。
「彼女にとって私は、千年前と同じ仇敵のままなのでしょう。悲しいことです。しかし、時代は変わった。私は改めて彼女と互いの身の振り方について話し合ってみたいのです。千年の時を経て復活した私には、昔からの知己はもはや彼女しか残っていないのですから」
ブカンフェラスは、いかにも傷ついた、寂しげな表情を浮かべていた。私は受け入れようとしているのに、彼女が拒むのだ。そう言いたげな表情だった。
「市民の皆さんからの情報提供をお待ち致します。有力な情報の提供者にはささやかながら謝礼を用意させていただくつもりです。キャラビニエールの平和と繁栄のために、ぜひご協力いただきたい」
魔王がそう言って頭を下げるのと同時に、会見場の映像がぶつりと切れた。