南国の恋~南風に運ばれて~
まだ、誰も居ないオフィスで赤嶺颯太は一人パソコンの画面を眺めていた。コンビニで買って来たコーヒーを一口すする。
「まあまあだな」
新規開拓した建材の売れ行きが伸びている。颯太は思わず顔をほころばせる。
通勤時のラッシュを嫌って、一時間早く家を出る。会社近くのコンビニでコーヒーを買って誰も居ないオフィスで業績を確認するのが颯太の日課になっている。
大学卒業と共に今の会社に入って13年。現在35歳で建材部の課長。同期の中では一番早く課長の地位に就いた。
「相変わらず早いですね」
部下の松本奈美が声をかけた。辺りを見回してまだ他に誰も居ないのを確認すると、颯太に軽くキスをする。
「おい、社内ではNGだって言っただろう」
「いいじゃない。誰も居ないんだから」
そう言って奈美は自分のデスクのパソコンを立ち上げる。次第に社員が出勤してきてオフィス内はいつもの喧騒に包まれる。
「輸入雑貨を扱う部署に行きたかったの」
奈美がベッドの中で言った。将来は輸入雑貨を扱う店を持つのが夢なのだと言った。
「今の部署でも経験は積めるじゃないか。まあ、そのうち、僕が上に掛け合ってあげるよ」
5年前、入社と同時に奈美は颯太のもとに配属された。そして、3年ほど前から男女の関係になった。
「友達から誘われているのよ。一緒に会社を作らないかって」
颯太にとっては寝耳に水の一言だった。
「君はどうしたいの?」
「夢を見てみたい…」
颯太が奈美の方に顔を向けると、彼女は既に寝息を立てていた。
それから間もなく奈美は退社した。友人と一緒に輸入雑貨を扱う会社を立ち上げたのだ。当面は忙しくなるから今迄みたいに会えなくなると奈美は言った。
「落ち着いたら飯でも食いに行こう」
それが颯太が奈美と東京で交わした最後の言葉になった。
颯太の部署は順調に業績を上げていた。その頃、颯太は地方の中小企業が開発した新建材に目をつけていた。経験豊富な職人と技術者が作り上げたその新建材は製作コストがかかり過ぎるということで上司からは手を出すなと言われていた。けれど、颯太はコストを下げるため、大量生産するための設備を企業側に求めた。そして、設備導入のための資金援助を独断で決めた。ところが、工場の建設に取り掛かった矢先、大手のライバルメーカーが同等の建材を低コストで発表した。颯太の思惑は裏目に出た。会社に膨大な損失をもたらした颯太はすべての責任を背負って会社を辞めた。
那覇空港に降り立った颯太はジリジリと肌を刺すような日差しを体全体に浴びた。故郷に戻ってきたのは11年ぶりだ。まっすぐ実家に帰る気にもならず、自然に豊崎美らSUNビーチへ向かって歩いた。
砂浜に腰を下ろして潮風に吹かれていると、今まで東京で過ごした時間がバカらしく思えた。
どれくらいそこでそうしていたのだろう…。気が付くと太陽が西の海へ吸い込まれようとしていた。颯太は立ち上がった。
那覇空港駅からモノレールに乗り、見栄橋駅で降りると国際通りへ向かって歩いた。国際通りからほど近い場所にある民宿の前に颯太は立った。
民宿『かなさん』
かなさんとは沖縄の方言で愛していると言う意味だ。そして、そこは颯太が生まれ育った実家でもある。颯太は11年ぶりにこの家のドアを開けた。ドアを開けるとカランカランと鐘の音が鳴る。奥から女将である颯太の母親が出てきた。
「いらっしゃい…」
女将は颯太の顔を見て目を丸くした。
「颯太?驚いたぁ!急にどうした?」
久しぶりに会った母親はいくらか年を取ったように見える。けれど、まだまだ元気そうだ。
「東京暮らしにも飽きたから戻ってきた」
照れ隠しに頭をポリポリ書きながら颯太は答えた。
「あんたー!颯太が帰って来たよー」
夕食の下拵えをしていた父親が厨房から顔を出した。父親は「よう!」と、合図しただけで厨房に引っ込んだ。
「俺の部屋まだあるよね?」
そう言って颯太は自分の部屋がある2階へ向かった。
「颯太、ちょっと…」
母親が慌てて叫んでいたけれど、颯太はかまわず、部屋のドアを開けた。
「なんだ?これ。どうなってんだ?」
かつて颯太が使っていた部屋はすっかり様変わりしていた。まるで若い女の子の部屋のように。颯太は階段を駆け下り、厨房に顔を出した。父親と若い女性が配膳の支度をしていた。母親が申し訳なさそうに説明した。
「3年前から住み込みで働いてもらっている島袋和歌子さんよ。あんたはもうここには帰って来ないものだと思って…」
そのことについては颯太も返す言葉がない。実際、会社を辞めなければ戻って来るつもりはなかったのだから。
「とりあえず、こっちで寝泊まりして…」
そう言って通されたのは客室の一室だった。
しばらくその客室に寝泊まりしていた颯太は数日のうちに近所に部屋を借りることにした。小ぢんまりとしたワンルームのマンション。民宿を継ぐと言った颯太のために家財道具は両親が一通り揃えてくれた。颯太はそこから実家に通うことになった。
「ごめんなさい。私がそっちへ移った方がよかったかしら?」
和歌子が申し訳なさそうに言って来たけれど、荷物を移すのも大変だから気にするなと颯太は言った。
「お前がここを継いでくれるのなら俺たちも安心して天国に行けるな」
父親はそう言って母親と一緒に笑った。
「冗談はよせよ。帰って来たばかりで何も分からないんだから。俺が一丁前に切り盛りできるまでは面倒見てくれよ」
「なあに、それなら和歌子さんに全部聞けばいいさ」
父親にそう言われて颯太は和歌子の方をちらっと見た。和歌子は申し訳なさそうに頭を下げた。
和歌子は33歳で颯太より2歳年下だった。3年前、漁師だった亭主を海の事故で亡くした。二人の間に子供はなかったのだけれど、他に身寄りのなかった和歌子は亡くなった亭主との縁もあった『かなさん』に世話になることになった。
颯太に後を継いでもらうことをとっくに諦めていた颯太の両親はゆくゆくは和歌子に『かなさん』に譲ってもいいと思い、民宿を営む上で必要なことを少しずつ教えた。今では民宿『かなさん』を実質、切り盛りしているのは和歌子なのだと言う。
民宿を経営すると言っても家族でやっていたこと。家族が食べていければそれでいいと言うのが今までのやり方だった。しかし、建物もかなり古くなって、そろそろリニューアルが必要だと考えた颯太は父親に相談してみた。
「好きなようにやればいいさ…」
父親はあっけらかんと言い放った。
「だけど、そんな金はねえよ。お前たちの裁量で何とかできるなら、いくらでも好きにやるがいいさ」
確かに父親の言うとおり、民宿としての収支は赤字にこそなっていないが、預金と呼べるものはほとんどなかった。颯太は自分の貯金から費用を捻出し、リニューアル工事をする決意をした。和歌子に予約状況を確認すると、ゴールデンウイークまで予約が入っていると言う。
「じゃあ、それ以降の予約は受け付けないように。ゴールデンウイークが明けたら夏休みに入る7月中旬まででリニューアル工事をやるから」
「その間はお休みにするんですか?」
「そうなるかな」
「じゃあ、私のお給料はどうなりますか?」
「それは心配しないでいいですよ。宿は休むけれど、和歌子さんにはいろいろとやってもらいたいことがあるから、それに見合った報酬はお支払いします」
「やってもらいたいことって?」
「まあ、それは追々お話しします。それよりも、今はリニューアルまでのお客様を精いっぱいおもてなしすることに専念して下さい」
颯太は商社で働いていた時の伝手で東京から建築家を呼び寄せリニューアルプランを練った。ゴールデンウイーク前には、いつでも着工できるところまでこぎつけた。その間、宿のホームページを立ち上げ、リニューアル後の集客に努め、その甲斐あって、オープンから夏休みいっぱい予約でほぼ満室になるほどだった。
ゴールデンウイークの最終日、颯太と和歌子は最後の客を見送ると、廃棄するものと残すものを分別し、リニューアル工事の着工に備えた。
工事中、颯太は現場監督よろしく、四六時中、工事の進捗状況を見守り、細部にわたって、指示を出した。
その頃、和歌子は地元の漁師や農家を回ってリニューアル後のメニューに使う食材を納めてもらうよう、交渉を行っていた。
オープン二週間前、外部足場が取り払われた。沖縄地方古民家風の雰囲気を残しつつ、南欧のリゾート地を思わせるモダンな外観に生まれ変わった『かなさん』が姿を現した。
「素敵…」
和歌子はうっとりとその建物に見惚れていた。ところが、玄関脇にまるで大きな額縁に囲まれたキャンバスのようなスペースがあることに気が付いた。
「ここには何かレリーフみたいなものでも嵌めこむんですか?」
「ん?いや、レリーフではなくて絵を描いてもらおうと思っているんだ」
「絵、ですか?」
「お知り合いの絵かきさんが居られるんですね」
「ええ、ここに」
「えっ?」
和歌子は辺りを見回した。どこを向いてもそこには颯太と和歌子しか居ない。
「何、きょろきょろしてるの?和歌子さん、君が書くんだよ」
「えーっ!無理ですよ。私なんか…」
「和歌子さん、県立芸大で絵画を専攻していたんだって?なかなかの才能だったと聞いているよ」
そう言って、地元の新聞の切り抜きをポケットから出して見せた。
颯太はここに帰って来て自分の部屋を見た時、あまりの変わり様に唖然とした。けれど、まっすぐに颯太の目に入って来て、一瞬で颯太の心をとらえたものがあった。無造作に部屋の隅に置かれていた一枚の絵画だった。その絵は和歌子が書いたものなのだとすぐに判った。
颯太は当時の和歌子を知る人を訪ねて話を聞いた。有名な絵画展で入賞したという話を耳にした。そこで、当時の新聞記事を調べていたら、地元紙に大きく取り上げられていた。東京の工房から声が掛って上京する話もあったようだが、当時付き合っていた漁師の若者と結婚する道を和歌子は選んだという。
「二週間では厳しいかもしれないけれど、間に合わなければ君が書いているところをお客さんに見てもらうのも一興だろう?」
颯太はそう言って笑った。和歌子はそんな颯太の笑顔に引きこまれるように、気が付いた時には返事をしていた。
さっそく次の日から和歌子の創作が始まった。そして、オープン前日、和歌子の絵は完成した。
客室は白を基調にした洋風の造りに琉球畳が敷かれた空間が絶妙の調和をもたらしていた。宿泊客の評判も上々だった。そして、宿を訪れた客が一様に足を止めて見惚れているのは玄関わきの絵画だった。
立体的な下地に描かれた民族舞踊を踊る女性たちは今にも絵の中から飛び出して来て一緒に踊ろうと誘っているようにさえ思えてくる。
それは、和歌子が二週間で書き上げた作品だった。
その後、『かなさん』から客足が途絶えることはなかった。そして、あっという間に5年がたった。颯太は40歳になっていた。
「なあ、颯太。お前もそろそろ嫁を貰ったらどうだ?」
そう言って颯太の父親はあちこちの知り合いから花嫁候補を紹介してもらい、見合い話を持ってきた。
「おれ、結婚する気はないから」
そう言って見合いを断り続ける颯太に母親は訊ねた。
「和歌子さんと一緒になったらどう?」
確かに、この5年間、颯太はずっと和歌子と『かなさん』を盛りたてて来た。誰よりもお互いのことを解かり合っている。そんな仲であることは自覚していた。しかし、颯太の中にはいまだにくすぶっているある思いがあった。そんな颯太の気持ちを察してか和歌子が笑いながら母親に言った。
「女将さん、私たちはあくまでもビジネスパートナーですから。二人ともこの『かなさん』が結婚相手だと思ってますから」
「そうかね…。それは残念だね。いい夫婦になれると思うんだけどね」
残念そうな母親の表情に颯太は申し訳なく思う。と、同時に和歌子の方に顔を向けて頭を下げた。
宿の経営も順調で颯太は料理人と客室係を雇い、自分の時間を持てるようになった。時間があれば颯太は豊崎美らSUNビーチへ出掛けては砂浜に寝転がって海と空を眺めて過ごした。そんな時、不意に声を掛けられた。
「赤嶺さん?」
その声は決して忘れることのない澄んだ声だった。
「奈美?」
5年ぶりの再会だった。彼女は夢だった輸入雑貨の会社を立ち上げ成功していた。沖縄へは琉球ガラスの食器のプロモーションのため、海外のクライアントと共に沖縄へ来ているのだと言った。
「ねえ、今夜は時間ありますか?」
「今夜?宿泊客の夕食が済んだ後でいいのなら」
「そっか…。『かなさん』だっけ?素敵な宿なんですってね」
「知ってたの?」
「もちろんよ!うちの女の子も泊まったことがあるって言ってたもの」
「そうなんだ…。そろそろ戻らないと。じゃあ、後で…。で、どこへ行けばいいんだ?」
奈美は自分が宿泊しているホテルの名を言った。
5年ぶりとは思えないほど奈美は変わっていなかった。と、言うよりあの時よりも若く感じられる。あれから5年経ったのだから奈美は32歳。仕事で成功して、女性として最も輝いている時期なのだろうと颯太は思った。
「ただいま!今日のメインはなんだっけ?」
厨房で料理人と打ち合わせをしている和歌子に颯太は声を掛けた。
「ラフテーを地中海風にアレンジしてみたの。どうかしら?」
じっくり煮込まれたラフテーをオリーブオイルでソテーしたものが真っ白な四角い皿に盛りつけられていて、トマトとひよこ豆のソースがさりげなく添えられている。
「旨そうだ!」
颯太がソースに手を伸ばそうとすると、和歌子にパチンと手の甲を叩かれた。
「それはお客さんのだからダメ!」
そんな様子を見ていた料理人の比嘉海人が笑った。
「まったく…。女将さんの言う通りお二人、一緒になればいいのに」
比嘉のその言葉に和歌子は顔を赤らめた。
「そう言えば、さっき、松本さんっていう女性の方が颯太さんを訪ねて来たわよ。ビーチに居るって教えてあげたんだけど、会わなかった?」
奈美が?ここに?じゃあ、さっき会ったのはまったくの偶然というわけではなかったのか…。
美栄橋駅からモノレールで二駅。旭橋駅から徒歩で10分足らず。ロワジールホテルの最上階にあるバーで奈美は待っていた。奈美の前には既にカクテルグラスが置かれていた。
「お待たせ」
「赤嶺さんもどうぞ」
「君が飲んでいるのは?」
「泡盛を使ったオリジナルカクテルなんだって」
「じゃあ、僕も同じのを…。それで、どんな用?」
「琉球ガラスの工房を紹介して欲しいの」
「琉球ガラス?」
そう言えば、さっきビーチで会ったときにそんな話をしていたな。颯太はビーチでの会話を思い出した。
「明後日、連れてきたクライアントに紹介するはずだった工房が急に取引を中止したいと言って来たのよ。それで、他の工房をいくつか当たってみたのだけれど、みんなダメだった…。どうやらライバル会社の妨害が入ったみたいなんです。だから、有名どころではなくて個人でやっているフリーランスの職人さんのような人を知らないかなと、思って」
「心当たりがないわけではないけど…」
「本当?良かった!赤嶺さんがここに居てくれてよかった」
「ちょっと待って。そのクライアントに引き合わせるのは明後日なんだろう?どういう趣旨でクライアントと引き合わせるのかは分からないけれど、いくらなんでも時間が無さ過ぎだよ」
「職人さんの仕事ぶりと作品を見せたいの。クライアントが気に言ってくれたらその後の交渉は私がやりますから。この交渉がうまくいけば、そのクライアントが扱っている商品の独占契約が出来るの。だから、どうしても成功させたいんです」
商社で颯太の部下だった頃の奈美も今と同じように仕事を楽しんでいた。仕事がステイタスだと考えて商社を選んだ颯太より夢をかなえるために仕事を選んだ奈美の方がこういう仕事は向いていたのかもしれない。
「じゃあ、明日ウチへ来てくれ」
「ねえ、ちょっと寄って行きますか?」
奈美はそう言って部屋の鍵をかざして見せた。
「いや、明日の仕込みがあるから」
そう言って颯太はホテルを後にした。仕込みなど颯太がやるはずはない。そんなことは彼女にだって解かるだろうに…。なんて下手な言い訳をしてしまったんだろうとモノレールに乗ってから颯太は苦笑した。
翌朝、颯太は和歌子に昨夜、奈美から頼まれた話をした。
「確か、和歌子さんの先輩に腕のいい琉球ガラスの職人さんが居たよね」
「はい。喜屋武先輩です。人づきあいが苦手な人で、腕はいいんだけど食べて行くのがやっとなんだって…。もしかして、彼を?」
「協力してもらえるだろうか?」
「いいわ。紹介はしてあげる。でも、それだけよ」
「ありがたい。後のことは彼女しだいということでかまわないよ」
宿泊客の朝食を片付け終えた頃に奈美はやって来た。
「こんにちは。本当に素敵な宿ね。特に入口の絵が素敵だわ」
「彼女の作品なんだ」
そう言って颯太は和歌子を紹介した。和歌子は遠慮気味に奈美に頭を下げた。
「さあ、行こうか。彼女が案内してくれる」
颯太は4WDを宿の玄関に回した。最初に和歌子が後部座席に乗り込もうとした。どうやら奈美に遠慮したようだ。
「おいおい、君がそこに乗ったらだれが道案内をするんだ?」
「でも…」
和歌子はチラッと奈美の方を見た。
「ああ、いいのよ。どうぞ」
喜屋武の工房は金城ダムのそばにあった。工房に入ると喜屋武はちょうど作業の真っ最中だった。和歌子が声を掛けようとすると、奈美はそれを制した。
「彼の仕事が見たいの」
作業が一段落すると喜屋武は和歌子に微笑んだ。
「久しぶり」
そして、颯太と奈美を訝しげに眺めた。和歌子が二人を紹介し奈美が要件を話した。
「面倒くさいのは苦手だ」
喜屋武はそう言って再び作業を始めた。
「はい。面倒くさいことは全部私がやります。喜屋武さんはただ作品を作ってくれればいいんです」
喜屋武は作業の手を休めることなく、にやりと笑った。
「勝手にしな」
翌日、奈美はクライアントを連れて喜屋武の工房を訪れたらしい。クライアントは喜屋武の作品をことのほか気に入って、商談が成立したと奈美は電話口でそう言った。
「ねえ、今から会えないですか?お礼がしたいので」
「いいよ。じゃあ、和歌子さんも一緒に…」
「ごめんなさい。お礼というのは訂正します。赤嶺さんに会いたいの…」
颯太がホテルのバーを訪ねると、奈美は既に酔っているようだった。
「わたし、1日だって赤嶺さんのことを忘れたことはないのよ。今回、クライアントが琉球ガラスに興味を持ってくれたのは神様が私にもう一度赤嶺さんに会えと言っているのだと、そう感じたの」
奈美は颯太に体を預けた。
「僕だって君のことを忘れたことはないさ」
「うそ!私に何の相談もしないで一人で沖縄に帰っちゃったじゃない」
「君は新しい会社を立ち上げたばかりだったし、君の夢を邪魔しちゃいけないと思ったから…」
気が付くと奈美はいつの間にか眠ってしまっていた。テーブルには部屋の鍵が置いてある。颯太は鍵を手にすると、奈美を背負ってバーを出た。そして奈美を部屋まで運ぶとベッドに寝かせて立ち去ろうとした。その時、奈美に腕を掴まれた。そのままベッドに引き寄せられた。そして、奈美が唇を重ねてきた。颯太は奈美を抱きしめた。
「輸入雑貨を扱う部署に行きたかったの」
頭の中に響いたその言葉で颯太は目を覚ました。颯太の隣で奈美はまだ眠っている。颯太はそっとベッドから抜け出すと、静かに部屋を出た。
その日の午後、奈美が宿を訪ねてきた。
「今日、東京に帰るの。その前に自慢のランチを食べさせて頂こうと思って」
颯太は料理人の比嘉に特別なメニューをオーダーした。比嘉は快く引き受けてくれた。そのやり取りを見ながら和歌子は複雑な表情を浮かべた。
「そういうことだったんだねぇ…」
そうつぶやいて比嘉は和歌子の方を見た。
「変な気を使わないで。この間も言ったでしょう。私たちは単なるビジネスパートナーなんだから。ほら、余計な詮索はいいから、手を動かして。私も手伝うから」
ホールの方をちらっと見ると、颯太が奈美のそばで何やら楽しそうに立ち話をしていた。何を話しているのかは聞こえない。和歌子は意識を目の前の食材に集中させた。
出されたランチを奈美は美味しそうに食べながら涙を浮かべていた。その涙の意味を颯太は理解していた。理解していたけれど、受け止めることは出来なかった。そんな自分を不甲斐なく思うのと同時に、彼女にはもっと別の生き方があることも確信していた。
奈美はランチを食べ終えると深々と頭を下げて出て行った。颯太は軽く応えて奈美を見送った。
「ねえ、空港まで送ってあげたら?」
そんな颯太に和歌子は声をかけた。5年間一緒に仕事をしてきた和歌子には颯太の気持ちが手に取るように解かっていた。
颯太は奈美を追って外に出た。
「空港まで送るよ」
「ありがとう。じゃあ、甘えさせてもらいます」
空港までの道中二人は一言も言葉を交わさなかった。
空港に着くと、奈美は時間を確認した。搭乗時間までまだ少し余裕がある。
「もう少し、一緒に居てもらってもいいですか?」
「ランチも終わったし、大丈夫だよ」
颯太と奈美はロビーの待合室のベンチに腰を下ろした。
「また、来てもいいですか?」
「もちろん」
「私でも『かなさん』で働けるかしら…」
「冗談はよせよ」
思わず口にしたけれど、心の中で颯太は本当にそうなったらどんなにいいか。そう思った。奈美自身、もしかしたら本気でそう言ったのかもしれない。けれど、それが奈美にとって幸せなことなのかと考えると、安易に受け入れることは出来なかった。
「そうね。赤嶺さんには素敵な人が居るんですものね」
「素敵な人?」
たぶん、和歌子のことを言っているのだろう。確かに彼女とはビジネスパートナーとして割り切った付き合いをしてきた。しかし、正直なところ、颯太も彼女に惹かれ始めていることは自覚していた。
「ううん、なんでもない…。私、決めたわ」
「なんだか解からないけど、それはよかった」
本当は何となくわかっていた。奈美がまだ自分のことに未練を抱いていることも、奈美にも颯太と和歌子と同じようにビジネスパートナー、あるいは別のところでこれから共に過ごしていくのだろう人の存在があることも。自分のせいで奈美が迷っているのだと言うことも颯太には解かっていた。
「うそ!」
「えっ?」
「全部解かっているくせに」
そう言って奈美は立ち上がった。
「そろそろ時間だわ。送ってくれて、ありがとうございます」
颯太は苦笑した。対照的に奈美は何か吹っ切れたようにさわやかな笑みを浮かべていた。そして、「これが最後よ」とでも言うように奈美は颯太の首に手を回して軽くキスをした。キスの後、一瞬、颯太の目を見つめた。そして、奈美はためらいなく颯太に背を向けると、搭乗ゲートに向かって歩いて行った。その眼差しは颯太にも決断を促すものなのだろうということがすぐに理解できた。
「こんなところでもたもたしていないで、早く彼女の元へ戻ってあげなさい」
颯太には歩いていく奈美の背中がそう語りかけているように思えた。
一年後、予約者リストを確認していた和歌子が颯太に声をかけた。
「あなた、懐かしい人の名前がリストにあるわよ」
「懐かしい人?リピーターのお客さんか?」
「見て!」
“真野戸詩美(utami manotom)”2名での予約になっている。
「真野戸?憶えてないなあ」
「どこに目を付けてるのよ。アルファベットの方を良く見て」
「アルファベット…。あっ!アナグラムか…」
次の瞬間、颯太はスマホを手に取ると、奈美の番号をタッチした。呼び出し音が二回、三回…。奈美は電話には出なかった。颯太は留守電にメッセージを録音して電話を切った。
直後、颯太のスマホに着信が入った。ディスプレーには奈美の名前が表示されていた。
『もしもし?赤嶺さん?メッセージありがとうございます』
「改めておめでとう!よかったね。それで、式はいつなの?」
『来月よ。その前にどうしても彼を赤嶺さんと和歌子さんに会わせたくて。でも、どうして解かったの?』
「ウチに予約を入れただろう?2名で」
『確かにそうだけど、予約したのは松本奈美ではなかったはずよ』
「アナグラム。どこまで僕を試せば気が済むんだい」
『さすがですね。感服です』
「あ、いや、最初に気が付いたのは彼女なんだけどね。まあ、楽しみに待ってるよ」
『彼女?なるほどね。結婚式に行けなくてごめんなさい。なんか、ついでみたいで申し訳ないですけど、改めてご結婚おめでとうございます。私の方こそ楽しみにしてますよ』
電話を切った颯太は和歌子と顔を見合わせながら微笑した。
入り口の絵には愛し合うカップルの絵が書き足されていた。