表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
海堂翔二の事件ノート~神奈川県警捜査一課の息子~  作者: ぽち
第三章 神隠し殺人事件
13/47

第11章 生い立ち①

 拓也が生まれる16~17年程前の話だ。橋本貴子は念願の小学校教師の仕事に生きがいを感じていた。

 神奈川県にある市立小学校で教師の仕事が決まり、実家がある長野から神奈川県へ上京した。また、兄である茂も埼玉県にある工場で派遣の仕事をしていたのだった。

 昔から子供が好きで、絶対に小学校の教師になると心に決めた日から死ぬ気で勉強して獲得した職業なのだ。最初は研修生から始まり、副担任の仕事が回ってきた。まだ担任の先生の仕事にはつけていないけど、子供たちに“橋本先生”と呼ばれるのがとても嬉しかった。

 「橋本先生。」後ろから声をかけられ、振り向くと、学年主任の安藤裕也が話しかけてきた。

 「慣れましたか?」

 「はい、子供達もみんな可愛くってとても仕事が楽しいです!!」貴子は笑顔で言った。

 今はこの安藤裕也のクラスの副担任の仕事を任されていた。子供達もみんな可愛いし、周りの先生たちもみんないい先生ばかりだった。貴子の人生は順風満帆だったのだ。

 安藤裕也の副担任の仕事をしていたから、仕事上で裕也と関わらない日はなかった。一緒にテストの採点をしたり、次の学級会で話す内容を打ち合わせたりと毎日のように裕也と一緒にいたのだ。

 ・・・だから、とある日に裕也と仕事帰りに飲みに行った日に、裕也と関係を持つことになる事は夢にも思わなかったのだ。飲みに行った帰りに裕也に関係を求められて流れでそのまま付き合う事になった。だが、裕也の口からは“付き合ってほしい”と言った言葉は一切なく、急な口づけから始まり、そのまま体の関係にいってしまったのは言うまでもなかった。

 何回か裕也と逢瀬を交わしていくうちに、貴子自身も何かおかしいと気づいてはいたが、敢えて気にしないようにしていた。その、気にしないようにしようと決めた数日後に貴子に恐れていた事実が知らされた。

 関係が始まってから1年程が経ったとある秋が深まる頃だった。ちょうどシルバーウィークも近づいた頃、裕也と他の教師の話を聞いてしまったのだ。

 「安藤先生は、奥さまやお子さんとシルバーウィークは旅行とか行くんですか?」

 「う~~ん・・まだ分からないが、まぁ、子供達は子供達で友達と遊びに行ったりするだろうから、夫婦でのんびりしていると思うよ。」

 愕然とした。愛した男には妻子がいたのだ。

 貴子は体を震わせた。職員室に戻ろうとした先にそんな事を知ってしまったのだ。最近、裕也があまりメールを返してくれない事もずっと引っかかっていた。その事実が明らかになったのだ。

 (・・あぁ・・・私は馬鹿だ・・・。)涙を流しながら、貴子は職員室から遠のくように反対側へと歩き始めた。

 それから貴子はずっと考えた。考えて考えて・・・答えは出た。やっぱり・・・今の仕事を失うわけにはいかないと。

 貴子は学校に退職届を出した。校長には引き留められたが、貴子は答えを変えるつもりはなく、仕事を辞める事にした。

 「貴子!!」裕也が貴子に声をかけた。

 「・・・裕也さん・・・。ごめんなさい・・・。」貴子は頭を下げた。

 「何故・・・?」

 「・・わ、私は・・・今の仕事を失ってまで・・・裕也さんと一緒にいたいわけではありません・・・。そして・・・裕也さんの家庭を壊すつもりもありません・・・。さようなら・・・。」涙は流さないようにまた、貴子は深々と頭を下げた。裕也は特に引き留めるわけでもなく、そのまま立ち去る貴子をただただ呆然に見つめているだけだった。

*

 埼玉県にある食品の工場で、貴子の兄、茂は派遣社員として働いていた。

 職場の仲間たちは気さくで話しやすく、雰囲気もとても心地よかった。茂は今の職場で満足していた。いつかここで正社員になれたらなぁ・・・と、たまに思うくらいだ。

 仕事の帰り、住んでいるアパートへ帰ると、自分の部屋の前でしゃがみこんでいる女を見かけ、茂はどこかの酔っぱらいが寝ているのかと思い、その女に声をかけた。その瞬間・・・。

 「わ!!」

 「どわっ!?」急に驚かされ、茂はしりもちをついた。きゃははと笑い声が上から聞こえ見上げると、実の妹、貴子の姿があった。

 「貴子!?お前何してんの!?」急に現れた妹の姿に驚きを隠せなかった。

 「ごめんお兄ちゃん!!しばらく厄介になるわ!!」

 「・・・・はぁ!?」この妹の弾丸発言には昔から悩まされてはいたが、大人になってからは地元の長野の小学校で教師の仕事をするかと思いきや、急に神奈川へ行くと言い出したその時以来の驚きだった。

 「お兄ちゃん、彼女いないでしょ!?妹が居候するくらい、朝飯前よね!?早く鍵開けて!!」

 「お前・・・分かる様に説明・・・!!」茂が怒る間もなく、貴子は茂の鞄をひったくり、鍵を勝手に取り出し、勝手に部屋のドアを開け、入って行った。

 「コラ!!貴子!!」

 「お腹すいているでしょ?私が今日から炊事、洗濯するからさぁ!!もちろん、仕事探すし!!って事で宜しく!!」と、言って勝手に部屋へと入って行った。

 (・・・・はぁあぁぁあ!!??)茂はただただ唖然とするしかなかった。

 部屋に戻ると妹に早速呆れられた。洗濯物はぐちゃぐちゃ、朝の食べた朝食は片付けられていない、掃除機もかけていないのか、部屋中ほこりまみれだった。きれいにしているところはほんの一部分だけ・・・。茂は小学校からバスケットをずっとやっていた。バスケットボールは綺麗に磨かれ、バスケットボールを題材にした代表漫画、『スラムダンク』は巻ごとに綺麗に整理されている。

 「・・・部屋もこれくらい綺麗にすればいいのに・・・。」貴子はますます呆れた。

 「う、うるさい!!それより何でお前ここにいるんだよ!?神奈川で教師の仕事はどうしたんだ!?」茂が質問すると一瞬だけ、貴子の顔が曇ったように見えた。茂はその表情を見逃さなかった。

 「・・・・?何か・・・あったのか?」

 「・・・・辞めたの。」

 「へ?」

 「学校・・・辞めちゃったの・・・。」

 「はぁ!?どうして!?」茂は驚いて、目を見開いて貴子に目線を合わせたが、貴子は下を向いて茂の顔を見ようともしない。

 「・・・何か・・・あったのか?」もう一度聞いた。

 「違うの!!教師の仕事は続けるよ!!ただ、神奈川じゃなくてもいいかなぁって思って・・・。お兄ちゃんのいる埼玉でちゃんと仕事先探すからさ!!ね!!いいでしょ?同居しても!!」

 「・・・・・・。」妹の表情はいつも通りに戻ったが、何かあると茂は察知した。

 「・・・・分かった。」でも、これ以上は何も聞かなかった。いつか話してくれると兄なりに妹を信じたのだろう。同居を許され、貴子は満面の笑顔で兄に抱きついた。

 「おい!?」

 「いいでしょー!?どうせ彼女いないんだから!!」

 「そういう問題じゃないーーーー!!」こうして、兄と妹の同居生活が始まったのだった。

 次の日からは、貴子はハローワークに行き、教師を募集している学校はないかなどを探し歩いた。茂が仕事に行く前には茂にまともな朝食、お弁当も作ってあげていた。

 「おぉ・・・久々の手作り弁当だ・・・。」

 「お母さん以来でしょ!?」

 「う、うるさい!!」

 「もう、お兄ちゃん何年彼女いないの?顔は結構イケメンなのに・・・。バスケを愛しすぎて残念なイケメンになっちゃったの?」貴子が笑いながら兄をからかう。茂にバスケの話を、特に大好きな漫画、スラムダンクの話をされると止まらないのだ。

 「行ってきまーす・・・おぉ・・・さみい!!」ドアを開けると、冷たい風が吹き荒れていた。もう少しで、12月・・・。秋も終わりになりかけていた頃・・・貴子の体に変化が訪れる。

*

 最近、調子が悪かった。吐き気が止まらないのだ。何度もトイレに行ってげぇげぇ吐いている。まるで、ずっとバス酔いしているような感覚に陥った。

 (・・・まさか・・・。)心当たりはあった。すぐに妊娠検査薬を買いに行き、検査してみると、陽性だった。産婦人科にも行き、妊娠3か月である事が発覚した。貴子は青ざめた。

 (・・・裕也さんとの・・・子供・・・!?)真っ先に考えたのは兄である茂だ。茂になんて話せば良いのか、頭が混乱した。まず、付き合っていた人がいたことも話していないし、しまいにはその人に妻子があったなんてことさえ伝えていない。伝えれば、兄は裕也の元に行き、物凄い剣幕で殴り込みに行くに決まっている。頭が混乱し、真っ白になった。そんな時に声をかけてくれたのは産婦人科医の女医だった。

 「赤ちゃんのエコー、持って帰りますか?」貴子ははっとし、写真を見た。

 「・・・・はい・・・・。」頷き、会計と共にエコーを貰って持って帰った。

 兄が帰ってくるまで、エコー写真をずっと見ていた。産婦人科医はその時に何かを感じたのか、中絶手術に関しても教えてくれた。手術をするなら、早めにしないといけないらしい。もう、赤ちゃんは成長し始めているからだ。エコー写真を何度も見て、別に嫌悪感を抱いているわけではない。むしろ、これが自分の赤ちゃんだと思うと愛おしさが募ってくる。だが、体は待ってはくれない。吐き気が何度も襲いかかる。その度に中絶するべきか悩んでいた。中絶するなら茂にバレる前にやらないといけない。でも・・・。エコー写真を見て、お腹をさすり・・・。貴子は涙が溢れてきた。

 (どうすればいいの・・・??)1週間・・・ずっと悩んだ。そして・・・。

 つわりは治まる事を知らない。朝から体調が悪かった貴子は茂が帰ってくるまでずっと寝込んでいた。

 「ただいま・・・。」茂は貴子の体調が悪い事に気づき、お弁当屋の弁当を買って帰ってきた。帰ってくると貴子はトイレで吐いていた。

 「おい・・・大丈夫か?」茂がとっさに貴子の背中をさする。

 「病院行くか?車、出すぞ?」

 「・・・平気・・・。」ふらふらになりながらリビングへ歩く妹をすぐに茂は支えた。

 「ここに座ってろ。布団しいてやる。」そう言ってリビングの椅子に妹を座らせて茂は寝室へ向かうと、何かを蹴っ飛ばした。

 「ん?」下を見ると、貴子の鞄だった。

 「わり・・・、蹴っちゃった。」そう言って茂は中身が飛び出した貴子の鞄を立て直し、中身を鞄の中にしまおうと手を伸ばすと、目を疑うものを見てしまった。

 「・・・・貴子。」茂が低い声で名前を呼んだ。

 「・・・・これ・・・何だよ・・・?」貴子の鞄から出てきたのは母子手帳と、赤ちゃんのエコー写真だった。貴子の顔はさっきよりも蒼白になってしまった。

 「お前・・・・子供がいるのか・・・?相手は誰だ!?」茂が問いただす。だが、貴子は黙ってしまった。

 「貴子!!」厳しい口調で、茂が名前を呼んだ。・・・隠しようがない・・・。

 「以前・・・・付き合っていた人との子供なの・・・。でも、もう別れたから・・・。」

 「別れた!?こんなの認知させろ!!」

 「む、無理なのよ!!」

 「無理?・・・・お前・・・まさか・・・。」

 「そうよ!!彼は妻子持ちだったのよ!!」

 「・・・・知っていたのか?」茂が静かに聞くと、貴子は首を横に振った。

 「職場の人と彼が会話しているのを聞いて初めて知って・・・・奥さんに知られたりされる前に・・・学校を辞めたわ。」貴子は下を向いて、茂と目を合わせないように説明した。

 その間、長い沈黙が続いた。その沈黙が怖くて、貴子は口を開いて小さく言った。

 「・・・・おろすから・・・。」

 「・・・・何?」貴子の言葉に茂は反応して睨みつけた。

 「父親のいない子供なんて・・・可哀想すぎる・・・。おろすから!!お兄ちゃんたちに迷惑かけないから・・・!!」

 「馬鹿!!誰がおろしていいって言った!?」茂の言葉に貴子は目を見開いて驚いた。

 「・・・・え?」

 「・・・・・・!!」また、沈黙が始まった。だが、兄はしっかり自分の顔を見て、何か訴えたいような顔をしていた。

 「・・・・おろすことは・・・許さん。」意外な言葉に貴子は驚きを隠せなかった。

 「おろす・・つまり、中絶するって・・・お前はそれを望んでいるのか?」

 「・・・・・!!」兄の言葉に、貴子は言葉をつまらせた。

 「大っ嫌いな奴で・・・レイプやらなにやらされて・・・強引に子供が出来ちまってその子供を見るたびにそれを思い出しそうであれば、おろせばいいさ。だが・・・、愛した男の子供だろ?ゲスでも。

 生まれてくる子供に罪はない・・・。お前はその子を・・・おろしたいのか・・・?」兄の言葉に貴子は目から涙をあふれだした。

 そして、首をぶんぶん横に振った。

 「おろしたくない・・・・産みたい!!

 最初は・・・間違いであってほしかったの・・・。でも、病院でエコー写真を見せてもらって・・・あぁ・・・私のお腹に新しい命が宿ったんだって・・思うと・・・。

 おろしたくない・・・。愛した人との子供だから・・・。だけど・・・お兄ちゃんに怒られると思って・・・。」ぐずぐずと貴子は泣きながら言った。

 「おい・・・俺はそんなに鬼か。」茂が困り果てた顔をした。ふふふと貴子はやっと笑った。

 「貴子・・・一つだけ、確認させてくれ。

 もう・・・その男とは会っていないんだな?」茂が真剣な眼差しで貴子に問いただした。

 「・・会ってない・・・ラインもメールもしてないよ。連絡先全て消した。」

 「よし!!」茂がニヤッと笑う。

 「馬鹿な男だな!!もちろん、ここにいる事も教えてないだろうな!?」 

 「う、うん!!」

 「よっしゃ!!じゃあ、俺が父親代わりになってやるよ!!まぁ・・・その前に親父たちに報告だな・・・。」

 「お兄ちゃん・・・。」貴子はまた、涙が溢れてきた。

 「言っとくけど、親父に顔ぐらいは引っ叩かれるのを覚悟しておけよ?」

 「・・・・うん!!」

*

 両親に報告すると、案の定、貴子は顔を引っ叩かれ、“この馬鹿娘が!!”と、言われた。だが、生むことは許可してくれたのだ。

 両親も茂と同じ気持ちでいてくれた事に、貴子はとても感謝をした。貴子は実家には帰らず、茂のいる埼玉で出産することを決めたのだ。

 「いいよ、別に。長野帰れ!!」

 「だめよ!!お兄ちゃん、私がいなくなったら、洗濯物3週間もためるんだから!!」

 「あんた、そんなに何してんのよ!!」貴子の言葉を聞いて、母に小言を茂は言われる羽目になった。

 「まぁ、お母さんもお兄ちゃんのとこにいなきゃだめかねぇ。」母が心配そうに言った。

 「たまにでいいよ!!どんどん大きくなるお腹を見に来てね!!」そう言って、貴子はまだ、大きくなっていない自分のお腹を優しくさすった。

 「早く会いたいね・・・。」その顔はもう、母親の顔をしていた。まだ、この時は男か女か分かっていなかった。それでも、茂も甥っ子か姪っ子の誕生をきっと貴子以上に楽しみにしていた。

 それから、茂は変わった。洗濯もするようになったし、洗い物も、ましては一番苦手な料理もするようになった。

 最初の頃は真っ黒こげになったりで、大変だったがだんだん回数を重ねていく事で、茂も料理がうまくなっていった。そういった中で、貴子もつわりがだいぶ治まり、治まった頃には徐々にお腹も大きくなり始めていた。

 「・・・・男の子だって。」検診から帰ってきた貴子が、茂に報告してきた。

 「男の子か!!じゃあ、バスケを教えないとな!!」茂は嬉しそうに言った。

 「スラムダンクを読ませよう!!ゴリになるかな!?リョーちんになるかな!?流川かな!?ミッチーかな!?それとも桜木かな!?」ワクワクしながら茂が言うと、

 「私はミッチーみたいになってほしい!!」と、貴子がリクエストした。

 「3ポイントシューターか!!でも、桜木みたいにリバウンド王にもなってもいいな!!」2人とも息子にバスケを教える気満々だった。そう、貴子もバスケ部だったのだ。

 長野にいる両親も、孫の誕生を楽しみにしていた。

 「お父さん・・・いなくても・・・この子・・・幸せになれるよね・・・?」貴子が茂に訊ねる。

 「・・・・・俺達がこの子を幸せにしてやるんだよ!!」茂がそう言って、貴子のお腹を優しくさすった。

 「早く出てこい!!バスケ、教えてやる!!」

 「おじさん、宜しくね!!」貴子も笑顔で言った。茂は、貴子のお腹に子供が宿ってから、とても順風満帆だった。きっと、この子のおかげだと、茂は思い始めた。

 「名前はもう決めたのか?」

 「うん・・・。名前はね、拓也。拓也って名前にするの・・・。」

 「おう、いい名前だ・・・。」

 「待ってるからね、たっくん。早くおいで。」そう言って、今度は貴子がお腹を優しくさすった。

 自分の人生はどうだった?貴子は自分に問いただした。

 恋愛の経験が少ない自分に兄が言う、ゲスな男が寄ってきて、散々な恋愛をした。最悪な恋愛だった。でもその分、幸せが自分に舞い降りてきた。

 お腹に新しい命が宿った。最初は、戸惑った。中絶して、何事もなかったかのようにふるまおうとした。でも、それを許さなかったのは兄だ。兄が、父が、母が、生むことを許してくれた。

 その時、お腹がどんどんと動いた。赤ちゃんがお腹を蹴ったのだ。

 「あ・・・・。」

 「お!!今動いたんじゃないのか!?」茂はそう言って、お腹をさすった。

 「おじさんだぞ!!ははは!!タク!!イケメンバスケット選手になれよ!!」兄がお腹に向かって言った。その姿に涙がこぼれた。

 「・・・・ありがとう・・・。」

 「それは、この子が無事に産まれてきてからこの子に言いな。」兄が優しく言った。

 そして、来る出産日は真夏の暑い日、7月19日だった。3000gの男の子が生まれた。元気に大泣きしていた。

 「ちっちぇえぇ~!!」茂が抱っこしながら言った。同時に涙も流した。

 「よく頑張ったな、貴子!!タク!!ようこそ!!」そう言って拓也を茂は抱きしめた。

 「みんなのおかげ・・・。本当にありがとう・・・。たっくんも、生まれてきてくれてありがとう。」そう言って貴子は拓也を見た。拓也はぐっすり眠っていた。その寝顔はまるでお猿さんのようだ。そんな姿に2人はクスリと笑う。

 「可愛いな!!」茂はもう、拓也にメロメロだ。早速茂は貴子の代わりに出生届を出しに行った。この子が生まれてもっと楽しい人生を送れる。そう信じながら・・・。

 茂はこの甥っ子の寝顔と妹の笑顔を・・・自分が爺さんになっても見続ける事が出来る。

 そう・・・信じていたのだ・・・・。

 拓也が生まれて1週間後に貴子は退院した。茂はその日は仕事を休み、貴子を病院へ迎えに行った。

 「は~い、たっく~ん!!ここがあなたのお家ですよ~。汚いけど~。」貴子が言った。

 「な、何だよ!!少しは綺麗にしたぞ!!」茂が顔を真っ赤にしながら言った。貴子が部屋を見渡すと、確かに入院前よりは綺麗になっていた。

 「お!!本当だ!!」貴子が嬉しそうに言った。ベビーベッドには小さなバスケットボールが置いてある。

 「きっと大きな男になるぞ!!俺、180あるだろ?お前、165あるもんな!!」

 「バスケやらせたら、モテちゃうかな?」

 「モテるぜきっと!!もう幼稚園で彼女連れてくるかも!!」茂が面白おかしく言った。

 「絶対嫌!!」思わず、貴子が大きな声を出すと、拓也がふえっと泣き出した。

 「あぁ!!ごめんごめんたっくん!!」そう言って貴子はあやした。茂も戸惑いながらも拓也をあやし始めた。

 泣く姿も、笑う姿も、寝ている姿も、甥っ子の拓也の何もかもが愛おしかった。

*

仕事でも嬉しい事が起ころうとしていた。

 「橋本君。」工場長に呼ばれた。

 「はい!!」茂は仕事をしている手を止めて、上司の元へと向かう。

 「ちょいといいかね?」一瞬、嫌な予感はした。自分は派遣社員だ。もしかして、解雇?茂はドギマギしながら、工場長の後を追った。

 朝の朝礼をする会議室へと呼ばれた茂は座る様に促され、椅子に座った。

 「どうだね?ここで働きだして3年半・・・かね?」工場長はいたってにこやかだった。茂はその笑顔に地獄に突き落とされるのではないかと内心ひやひやしていた。

 「は、はい・・・。」茂が答えた後、数秒間、茂にとって長い沈黙が始まった。1分くらい経った頃ようやく工場長が口を開いた。

 「数少ない従業員の中で、橋本君はよくやってくれるよ。特に、他の人達の急な欠勤にもすぐに代わりとして来てくれていつも助かっているよ。

 どうだね?うちで正社員にならないかね?」一瞬、聞き間違えたかと思った。

 「・・・・え・・・?」茂は目を見開いて驚いた顔をした。

 「ほら、派遣社員より正社員の方が給料安定しているし、君の所も妹さんが子供、産んだんだろ?妹さんシングルマザーだって言っていたじゃないか。

 だとすると、兄である君が支えてあげなきゃならん。そしたら、派遣社員じゃ満足してやれないだろう?」工場長の優しいにこやかな笑顔に茂は涙を流した。

 「い、いいんですか・・・?わ、私が・・・・!!」

 「無遅刻、ほぼ無欠勤、そして、勤務態度もまじめ。よく残業もしてくれる。君のような頑張り屋さんが正社員にならないで誰がなるんだね?」

 「あ、ありがとうございます!!その話、受けさせて頂きます!!」茂はほぼ土下座なみに頭を下げた。

 「じゃあ、来週までにこの書類を書いて、私に提出してくれ。」

 「はい!!」こんな幸せが立て続けに起こっていいのだろうか!?茂は有頂天な気持ちになった。

 家に帰って貴子に報告すると、まるで、自分の事のように喜んでくれた。

 「お兄ちゃんやったね!!きっと今まで努力していた事が実り始めているんだよ!!」

 「違うよ・・・。」そう言って茂は拓也が寝ているベビーベッドの方へと向かった。

 「タクが生まれてきてくれたから・・・。この子が俺達に幸運を運んできてくれたんだよ!!ありがとうな、タク!!」茂は拓也を抱っこした。

 「んあんあんあ~?」拓也がにこにこ笑いながら返事をした。そんな姿に茂の胸がきゅんとなった。

 「んあぁぁ~~!!可愛い!!」ぎゅむっと抱きしめた。赤ちゃんってこんなにかわいいのか!!甥っ子ってこんなにかわいいものだったのか!!親馬鹿ならぬ叔父馬鹿である。

 「お兄ちゃん!!」ふと、妹に声をかけられ、振り向いた。

 「今日ごちそう作るよ!!タクちゃん見てて!!晩御飯買ってくるからさ!!お兄ちゃんが正社員になれるお祝いをしよう!!」貴子は軽やかな足で部屋を出て行った。

 「たっくん。」妹が出て行った後、茂は拓也を抱きかかえて笑顔を向けた。

 「・・・本当に・・・生まれてきてくれて・・・ありがとうな・・・。」茂は改めて拓也にお礼を言った。生まれてきたこと、そして、自分の甥っ子になってくれたことを。

*

 正社員になる事が決まって妹がお祝いにお寿司を買ってきてくれたあの日から、妹の様子が何か変だった。何回も窓から何かを探すような素振りを見せていた。どこかへ出かける時も辺りを見渡しながら始終、きょろきょろしている事が茂には引っかかっていた。

 「貴子?」思わず茂が声をかけると、貴子は一瞬、ビクッと体を強張らせた。

 「!?」貴子の体の反応に思わず、茂も身構えた。

 「ど、どうした・・・!?」

 「え?あ・・・いや・・・。何でもないよ・・・。」ニコッと笑い、その後は本当に何もないように貴子はふるまった。この時の事を茂はずっと後悔していた。あの時、妊娠が分かった時のように貴子にしつこく聞くべきだったと。彼は今でも悔いていた。

 その日が来るまで一週間だっただろうか・・・?貴子はずっとこの調子だった。挙動不審で、何かにおびえているように感じていた。

 あまりにも不審に思った茂が問いただしたが、頑なに貴子は理由を言わなかった。

 (まさか2人目が出来たわけ・・・ねぇよな・・・?)思わず自分の心臓が停止しそうな事を考えてしまった。だが、妹を信じ、頭をぶんぶん勢いよく振った。

 拓也が生まれてから3週間がたとうとしていた頃だった。

 『貴子の様子が変?』茂は気づいたら母に電話をかけていた。

 『嫌だよ、あの子また変な男に引っかかってんじゃないでしょうね?』母が自分と同じことを考えていたもんだから、思わず茂は吹いてしまった。

 「タクが生まれたんだ。あいつも母親になったという自覚を持っているはずだよ。それはないと思っている。」妹を信じ、茂はフォローした。

 何か忘れていないかと茂は記憶を巡らせた。拓也のおむつ、哺乳瓶、出生届なんて生まれたその日に茂が出しに行った。新しいベビー服。よし、これだ!!買いに行こう!!

 何を思ったのか、茂はベビー服が売っている店へと帰りに寄った。拓也に似合うベビー服を探して買うのが茂の楽しみの一つであった。

 (なんせ男の子だもんな!!すぐに大きくなってしまう!!沢山買ってあげて服に関してはおしゃれな男子になっちゃうかもな!!)ここでも叔父馬鹿が発動した。拓也に似合いそうなベビー服を3着購入した。他の服もどれも可愛いものやかっこいいものがあった為、茂は何度も目移りをしそうになった。

 時計を見ると、21時を回っていた。

 「お、やべ!!」茂はその後ベビー服を追加で買う事はなく、すぐに店を出て行った。急いで帰り、アパートのドアを開ける。

 「ただいまー。」鍵はかかっていなかった。

 「貴子?」部屋を入ると真っ暗だった。不気味なくらい、静かだった。微かに、風呂場から水の流れる音が聞こえた。

 (なんだ、風呂に入っているのか。)茂は服を脱ぎ、部屋着に着替えた。だが、何かがおかしいと茂は感じた。ベビーベッドには拓也の姿もなかった。拓也の風呂はまだ、風呂場で一緒に入った事がない。

 「貴子?」風呂場に近づいて声をかけるが、返事はない。ただただ、水の流れる音が聞こえるだけだった。

 「貴子?」もう一度声をかけるが、返事はない。嫌な予感がした。

 「開けるぞ!!」ドアを開けた。そこには・・・目を疑う光景が映っていた。

 「・・・・貴子・・・?」茂の目に映ったのは、真っ赤に染まった浴槽とずぶ濡れになってうずくまっている妹の姿だった。

 「貴子!?」すぐに風呂場へ駆け出し、貴子の手首を見ると無残にいくつもの切り傷があったのだ。

 「貴子ぉぉぉ!!何で・・・何で!?」すぐに茂は止血をし、救急車を呼んだ。出来る限りの事をしたが、貴子はすでに息絶えていた。救急隊員から告げられた。死亡からすでに6時間以上も経っていると。

 「警察を・・・お呼びした方がいいと思います・・・。」

 「け、警察・・・?」茂は頭が混乱した。

 何故妹が死んでいるんだ?手を震わせながらも110番のボタンを押した。

 ・・・拓也は?拓也がいない・・・・。

 妹が風呂場で死んでいて、甥っ子がいなくなっているんです。

 声を震わせながら警察に話した。

 茂は一瞬にして、天国から地獄へと突き落とされたのだ。


 第12章に続く。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ