間話2 ヘイゼル・プレナ
ヘイゼル・プレナ陛下。
馬車の音から彼女がやってくる頃合いを見計らって、冷やしたハーブティーを手配するセーラの気配りはさすがといったところだろうか。
ジェリセも、例の店から持ち込んできた炭酸水とシロップを家令に預けた。
わざわざ別荘に家令の1人を連れてくるとは、本当に連れてくる使用人の数を絞っているようだった。
ホスト役のセーラが出迎え、ジェリセは部屋にて待つ形となった。
本来の格を考えればジェリセも共に出迎えをすべきなのであろうが、今回は客分であるし、気兼ねのない席と明言されたので、ジェリセもセーラも特に気にしなかった。
「ジェリー、お久しぶりね」
扉を開けてやってきた雪肌の女王、王城で貴族たちには陰口で氷の女王などと揶揄される人物は、淡青を基調としたガウンに、細かいプリーツのついた灰色のスカートを着て現れた。
爽やかなその装いは、普段良く付けているカフスがなくぴったりとした袖口も相まって活動的な雰囲気が窺える。
それは、たっぷりのお洒落から機能美を求めた彼女なりの自然体のファッションだった。
彼女がこうした装いと共に歳相応の顔を覗かせるのは、数少ない気を許せる相手にだけだとジェリセは自惚れではなく知っている。
彼女には敵が多すぎ、信頼できる味方を作る時間もなかった。無理もない。
「やぁ、ヘイゼル。貴女とは先日会ったばかりだと記憶しているが?」
そして、このような場では。こういう応対が正解だとも知っている。
彼女自身から求められた言葉遣いだ。全く裏表の激しい主であると、ジェリセは思う。
「もう。あそこに居たのは、私と貴方じゃないでしょう? 氷の女王陛下サマと、やり手の行政官サー・ジェリセじゃないの」
それが何を言いたいかはよく分かる。
あの儀礼的とすら言える場にあったのは、ただの役職や立場、地位だ。
本当の意味での人間など、あの場に居よう筈もなかった。
そしてその世界を幼いころより、当たり前のものとして女王としていた。
唯一の味方はセーラだけ。そういった環境に置かれていたのが、この女王陛下なのだった。
ただ。その役職、立場、地位。そういった諸々の人間の仮面とも言えるもの、その全ても含めて人間であると。
それを理解するには彼女はまだ幼い。
自身の年齢を棚上げにしていると誰かに言われそうであるが、それがジェリセの素直な見解であった。
彼女は大人であり、子供でもある。
その二面性こそがジェリセを惹きつけ、その境遇に潰れなかった強さこそが、彼女に尊敬の念を抱かせる。
「ま、そういうことにしておこうか」
ジェリセはお手上げ、といった仕草を見せて降参してみせた。
それにヘイゼルはニンマリと笑う。
国民に支持される彼女の明るい振る舞いは、外向けのものであり。
本性は氷のようだと貴族たちに評される。
しかし、それも全てを言い当ててはいない。人間はかくも難しい。
笑顔の二面性。
確かに彼女は外向けの笑顔と内向きの強い女王としての顔を併せ持つ。
しかし、そこに歳相応の少女としての顔もあるのだ。
それを知らぬ人間に対し、ジェリセが抱くのは優越感ではない。憐れみだった。
同族の人間さえ見抜けない連中への感情であり、或いはそうならざるをえなかったヘイゼルへの感情でもある。
そうしてやり取りをした直後、ヘイゼルの背が押された。
「早く座りなさいな」
セーラである。彼女は暗に、ヘイゼルが着席しなければ茶会は始まらないと言っているのだった。
「とと……もぅ」
思わずたたらを踏みそうになり、愉快な雰囲気が場を満たす。
ジェリセもセーラも、それを見てにやり。
少なくとも、こんな場は中々ない。楽しませてもらおうとジェリセは思った。
「早い処、お茶を頂きませんか。
折角セーラ様が気遣いをしてくださったというのに温くなってしまう」
「えぇ、そうね。頂きましょう。セーラ、これは何のハーブを使ったの?」
「ツィトローネンメリッセです。爽やかな香りが気分を落ち着けてくれますよ」
にこにこと。そうやって言うセーラの様子は、偶に来た孫と出迎えるお婆ちゃんといった風。
その様子にジェリセも、恐らくはヘイゼルも安心を覚えるのだ。
「メリッセね。メリッセ……うん、良いわ。悪くない」
ヘイゼルはすぅと、息を大きく吸って、その香りを楽しむような仕草を見せた。
はしたない、などとは言わない。
温かいハーブティーにかじかむ手足を癒やされるのも良いが、こうして夏場に爽やかなアイスティーとして楽しむのもまた乙なものだと、ジェリセも思う。
「それにしても、驚きましたよ」
ジェリセ自身もメリッセの香りを楽しみながら一口お茶を含み、味わった後飲み込むと。自然とそんな話題を口にした。
「何の話?」
ヘイゼルは首を傾げた。
「先日の謁見……秘密会議の時の話です。
私が呼び立てられるという時点で、何らかの話はさせられるのだと理解はしていましたが。
全面的な委任は少し、驚きました」
「良く根回しできたな、という意味でかしら?」
意地の悪そうに、即座に切り返される。ヘイゼルは賢い。
自分がそれよりもより賢いと信じているが、彼女は国の女王として不足がないぐらいに頭が回る。
そうならなければいけなかったのだろうが、ともあれ。ジェリセは肩を竦めて否定した。
「違います。良くそんな決断をしたな、です」
「あら、私はジェリーのことを信じていてよ?」
「そうでもありません。
果断な、或いは偉大な。もしかしたら無謀で、果ては無能の決断だと申したいのです」
つまりは。
うまくゆけば良い。だが、失敗した場合だ。
この場合、ジェリセ1人が全面的に委任されたのだから、責任を取れば良いのかというと少し違う。
委任をした人物。陛下にだって矛先は向かうのだ。
更には、そのジェリセが仕える先である本来の主家、ヴェルヌの家にだって。
王政である。王の権力は強く、ヘイゼル・プレナは巧く立ち回り、それを維持している。
無論、誰がどのような形で動いたとしても。外交の失敗は必ずその女王の評価に結びつき、果てに失脚すらありうるだろう。
王政は続けど、頭が挿げ替えられるかもしれない。
プレナの家でなく、別の家が王家に成り代わることだってあるかもしれない。
しかし、ジェリセ1人に委任するリスクはそれだけではない。
他の可能性を丸ごと、捨て去ってでも彼に賭けるという……いわば、一点賭けをしたのが問題なのだ。
あのような場を設け、ジェリセにあのように声をかけてしまったなら、保険をかけようにも手は限られるであろう。
ジェリセが外交のいち責任を負うと決めたのだ。
いっそ、女王主導でその手駒としてジェリセをこき使う方のほうが、よほど賢く幅広い手を打てたかもしれない。
それなのに、あんなことをした。その真意を聞いてみたかった。
「だって、ジェリー以外にあんなこと任せられないわ」
その答えは、想像の1つだった。しかし、ジェリセが納得できる答えではなかった。
「それは、貴女の信頼を受ける者が数少ないからでしょうか」
暗に。私人としての信頼を公人としてのものと混同してないかと問うた。
仮にそうならば、ジェリセにとっては複雑だ。
そのことを喜んでいいのかと悩む部分と、彼女を見誤ったかという落胆に恐らく苛まれることになるだろう。
「違うわ」
しかし、彼女はきっぱりと否定した。
「私は、サー・ジェリセ。
貴方の能力を信頼して。私の代わりを十全に務めあげるであろう唯一の人物として。
仕事の面で信頼しているの。……私は、貴方があの王宮にやってきた3年前が忘れられないわ」
「……懐かしいですな」
3年前の思い出。そこから全てが始まったと言っていい。
ジェリセが忠を捧げる相手を見つけた時であり、恐らくはヘイゼル陛下にとっても思うところがあったあの出会い。
「それから、たった3年があっという間に過ぎた。
でも、その短い期間で貴方は私が苦心してきた7年をあっさり塗り替えてきたわ」
「……」
自覚は、半分程度。自分が国に役立ってきたという自負と、彼女を支えてきたという想い。
しかしそれはどちらもセーラにはとても及ばないと思ってきた。
「貴方には天分がある。見識がある。そして、私と同じように蓄えてきた過去がある」
過大評価。
脳裏に一瞬だけ浮かんだその言葉をジェリセは打ち消した。
自分以上に賢く、そしてリュヌに貢献する者は居ない。
その自負と忠誠が今の自分を作っている。
であれば、その言葉にも当然と返すべきなのだと。
そう思うとやり甲斐を感じる。
この主の為ならば、我が才能を使い果たしても構わない。
そう思える幸せを感じる。
「私は決して情に流された判断はしていないわ。
故に、私が歴史書に無能と書かれることもないでしょう。
そこに記される言葉は簡単よ。
――名君、ヘイゼル・プレナは2人の忠士の力を借りて永くリュヌを発展させた。侵略の憂き目に遭うことは終ぞなかった、とね」
それを簡単と言い切るこの強さは、彼女が自ら獲得したものだ。
「やれやれ。私も長生きしなければなりませんね?」
セーラが困ったように言ったが、それは直ぐにおかしさに堪えきれなくなったのか、苦笑の笑みで打ち消された。
「当然よ。ミイラになったってこき使ってあげるんだから。ジェリセ、貴方も同じよ?」
「これは、先に死ねたものじゃないですな。怪しげな呪術師にでも目をつけられたら大変だ」
死んでも追いかけてやる。或いは、死んでも許さない。
そんな風に言われたとしても可愛いものだとジェリセは思う。
それだけ思われているということは、人として求められているということは、幸せだ。
ジェリセは、自らが不要と断ぜられる世の中にこそ絶望する。
自分が必要とされなければ、何のために生きるのだというのか。
しかしながら、この主らに仕える限りはその心配は無用なようだった。
「だから。必ず生きて帰ってくること。
国を一大事を救い、無事に帰ってくる。
こんなこと、ジェリセにとってはこれから打ち立てる偉業の1つでしかないわ。そうでしょう?」
「当然。必ずその任務、遂行いたしましょう。我が主」
雰囲気に合わせ、敢えて格好をつけてみたつもりだったが。
それはヘイゼルのお気に召さなかったようだ。
じぃと。その碧眼がジェリセを見つめて。
真剣に、熱を持って。念を押す。
「……必ず、帰ってくるのよ」
そこに秘められたのはどれだけの想いだろうか。味方を喪う恐ろしさだろうか。
或いは、ジェリセにとって生きがいとなったのと同じく。
ヘイゼルにとってもジェリセの存在は、欠落に堪えられないと思ってもらえてると。
そう考えていいのだろうか。
普段ならば良く回る口は、その瞳に負けて終ぞ開けず。
ジェリセはただ、彼女に頷いて見せた。