3.
ホルンダーのソーダ割りは中々旨かった。
ハーブからシロップを作り、それから炭酸水で割るとは。
その製法も新鮮であるが、何より味の爽やかなこと!
一口飲めば、先程は冗談で言ったが本気で「氷を持ってくれば良かった」と思わず漏らしてしまうほどの、甘露だった。
その様子を、ルーファスとジェリセに笑われつつ。
一息ついたところで、彼らの用件を済ますことにしたようだ。
「さて、ミスター・ホールデン。今回の用件は分かっていますね?」
「あぁ。事前にしっかり依頼されていた内容だったからな。そら、資料だ」
羊皮紙につらつらと書き連ねられたその書面は、何かの会計記録のようだった。
数字が幾つも並び、読めぬ者には摩訶不思議な呪文のように見えるだろう。
ディントはそれを横から眺め見てみる。
パッと見て会計記録だと思ったのは間違っていなかったようで。
どうやらレイモンド商会の帳簿の一部分のようだ。
外から出る品物とその仕入れ値、売買の代金、場所と相手。実に細かく記録されている。
ジェリセはそれを素早く目に通すと、ふむと唸った。
「おおよそは、予想通りといった処か……」
「これより昔に遡っても同じようなものだ。
今上の陛下が即位されてから少しずつ上向いてはきているものの、基本的に輸出の規模はこんなもんってな」
そう言い合うのを尻目にどういった資料なのか知るためにじぃと、ディントは覗きこむ。
輸入に関するものであることは何となく分かってきた。そして――。
「……これ。アルバとの交易記録!?」
「お。短時間によく読み取ったな」
ルーファスが感心したように口笛を吹いた。
ディントとしては馬鹿にされたような気もするが、実際本当に感心してくれているのだろう。
自分でも、こういった数字には強いと自負している。
――それでも、上には上が居ることを嫌というほど。アルバでは思い知ったが。
「いや、流石に。外との交易記録なのは分かりますし、後はその相手と場所の記録がどちらに偏ってるか見るだけでしょう?」
「それでも内部向けの記録だからな。可読性なんか後回しの節があるってのに、大したもんだ」
それならば、それを一読しただけで読み取った風のジェリセは何だったのだろうか。
元々レイモンド商会で働いていたということみたいだから、読み慣れていたということか。
或いは、この経済に明るいところが陛下に気に入られでもしたのだろうか。
陛下は即位の経緯からか、経験則から学ぶ実学というものを随分と重く見ているともっぱらの噂であったし。
「……それにしても。今や、ジェリー殿は外部の人間であるというのに。良くこんな機密の塊を……」
商会にとって取引記録というのは絶対に外に漏らしてはいけない類のものだとディントでも知っている。
信用こそが商いの基本である以上、みだりにその情報を明かすような間抜けを相手に商売を続けようと思う者は居ない。
特に、レイモンド商会はその規模もあり下は平民、上は貴族王族まで顧客が居るはずだ。
外の国へのコネクションも効く。それがこのリュヌで幅を利かせていても上が黙認する理由の1つでもある。
そんな商会の幹部から、ジェリセは容易くこんな情報を得るほどの信頼を得ている……ということになる。
ディントも一緒になっているのはどういうわけだか分からないが。
「ま、漏れるとしたらディータからだろうしな。そんなことがあったなら、俺らもタダじゃ置かねぇ、と」
ジェリセに全幅の信頼をおいている以上、漏れる可能性があるならディントから。
それは、分からなくもない理屈であったが背筋に寒気がした。
「……とはいえ、もしかしたらサー・ジェリセの方から、派手な使い方をされるかもしれねぇんだが」
どういうことだろうか。ディントは首を捻る。
そういえば、アルバへの交渉を試みるための下準備と言っていたような。
それに利用するのが、交易の取引情報だとするならば。
それは一体何を意味するというのだろう。
「この店の資本は、半分ほどが私のお金から出ていてね」
「相変わらず、勿体ぶった説明をするね。お前さんは」
「何もかも、子供に説くようでは頭を使う楽しみがなかろう?」
とにかく、この店をジェリセがバックアップして作ったことは分かった。
評判の喫茶店だとか言っていたが、自分の店を褒めていただけか。
そう思うと何となく、ディントは呆れた。実際、客入りは悪くないようであるけれど。
「この店は、実験場なんだ。新商品の開発のね」
「態々、それをジェリー殿が噛んでやる必要は?」
「陛下の意向、とでも言ったら信じてもらえるかね」
空になった木製のコップを片手で弄びながら、ジェリセは笑った。
「産業があまりに少なすぎるこの国に、選択肢をと。
その尊い意志を叶えるため、私が代行しているというわけだ」
「まるで、陛下の代理人のような言い分ですね。不敬では?」
「さて、どうだろう。彼女ならば存外許してくれそうな気もするが……」
本気か、質の悪い冗談かまるで分からない。
ディントはこの不敬な男を叱る必要があるか本気で考えそうになったが、踏みとどまった。
彼は今王命を帯びた身なのだ。
その付き人である自分は、彼を諌める程度の権利はあるかもしれないが、その彼を認め重用する陛下の意志を蔑ろにするような振る舞いは、それこそ不敬になりかねない。
面倒な立場だ。つくづくそう思った。
「とにかくまぁ、商いというカードは存外に悪くないというわけだ。
リュヌにおいても、まるで見込みが無いというわけではない。
小さな規模だが、確実に商いは行われている。商売人は実に逞しい。
そして、今の陛下は商いに理解があり、その振興に吝かではない」
「……戦争をすれば、それが丸々消えるぞ、とでも?
あまり良い反応が期待できるとは思えないのですけれど」
脅す、つもりだろうか。損得に訴えて。それにしては、リュヌは立場が弱いようにも思うが。
交易の中継地点としての立場があることは認めるが、それとて山岳地帯という便の悪さから、結局はそういった側面もあるといった程度のことでしかない。
何より、アルバは別にリュヌを介さずとも直接にソレイユやエクリプスと接して交易をすることが出来るのだ。
あまり、良い材料には思えない。
「それがそうでもない。存外に神様というのはリュヌに優しくてね。
商いに理解のある……もっというと、儲けることへの関心と能力を併せ持った貴族は、アルバの中でも限られていて、しかも彼女はリュヌと接した貴族ときた」
「彼女?」
ということは、もう目星はつけているということか。1人、ターゲットが居る。
「あぁ。アルドリッジの強欲狐は、実に口説き甲斐がありそうだとは思わんかね?」
「まさか。エイリーン・アルドリッジを相手取るんですか?」
アルドリッジの強欲狐。
金にがめついアルドリッジの雌狐と揶揄される女貴族。ディントも良く知る有名人だった。
新改革派と呼ばれる派閥に属する中堅どころの貴族であり、国境を抑える貴族の中では家風が少し変わったものとして知られる女貴族。
先代当主チャールズの影響力こそあるが、その辣腕を振るい、領地内の経済状況を格段に上向かせた商才は、アルバでも有名だった。
そう。妬んだ貴族の中で強欲狐だの雌狐だの言われるぐらいには。
「商才に長けた彼女と化かし合いだ。
狐に化かされるか、蛙が一枚上回り、さて有利に立ち回れるか。
或いは喰われてしまうかな。
――ともかく、これはそんな彼女への弾丸。交渉材料の1つになるというわけだ」
怖い怖い。
そんな風におどけてみせるジェリセは、まるで怖がっているようには思えない。
勝算が彼なりにある、ということだろう。
「彼女を説得し、味方に引き入れることが出来れば非常に心強い。
経済的な部分での抑えが効く人間であるし、政治的にも先代当主チャールズは子供が生まれて以後、立ち回りが老獪になった。
老境で娘が産まれたことがこれほどお家を発展させることになるケースは稀だろうよ」
「はぁ……。確かに、アルバの派閥の1つを陥とすと同義、ですかね」
「そして、それが当座の重要な戦果になる。
そのぐらいの材料がなければとてもじゃないがソレイユを相手に手形は切れないからな」
……見えてきた。
ディントは、その話からどういうふうにこの蛙の外交官が動きたいのか、そのプランの大枠を理解した。
「アルバからの不干渉を引き出して、それがひいてはソレイユにとっても落ち着いて内を見れる機会になると。そう説得したいんですね」
つまりは、アルバとソレイユが戦争状態になることを避けたいのだ。
ソレイユがリュヌという国を獲りに行く理由は、それ以外にないのだから。
生産能力の乏しい山地の、しかも抵抗がある程度予想される皆兵政策の国なんてわざわざ獲りに行くメリットなどない。
大陸統一などとか無謀な夢を掲げているのであれば説得のしようこそないが、かの国だってあまりに急な拡張は問題を多く抱えたはずだ。
それは、内部に非戦派の台頭を許すはずである。
強力な王による独裁政権であることはディントでも予想できるが、それだって完全に全ての権力者の頭を抑えつけてはいないはずだ。
そして、そうなればソレイユがここにきて軍を解散出来ていない理由に仮説を1つ立てられる。
――アルバから仕掛けられるケースが、ソレイユにとって最悪のシナリオなのだとしたら。
それを避けるために、リュヌを獲らざるをえないと決断されたとしたら。
或いは、アルバに先んじて打撃を与えて国威を示したいのだとしたら。
それがリュヌにとっての最悪にもなる。
ジェリセは、その間を取り持つことで戦を回避することを狙っているのだとしたら。
ロジックとして、説明が出来る。
「アルバという国は大きすぎる。
そして、ソレイユにとって今まで戦争らしい戦争をしてきていないあの国は不気味で仕方がない」
「その通り。だからこそ、先に叩こうとか。知るために戦おうとか。
そんなバカバカしい論が或いは通りかねない。
外交に優れているのであれば、或いはその機微を読み取るのに長けていたならば。
あんなに無理な形で全ての敵を飲み込んでは来なかったろうよ」
それでもまぁ、何らかの論理があったのだろうが。ジェリセは呟く。
「とにかく。手間のかかる新興の大国様に、色々とお教え差し上げる。
その為の準備が要ということだ」
ジェリセはその大きな異形の目を瞑り、考えこむようにしながらそう言った。