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第一章
春といえば、出会い又は別れの季節と言うように、何かしら人の心を動かすものである。
出会いでいうなら、新しいクラスに馴染めるだろうか、先輩はどんな人達がいるのだろうか、素敵な女性と巡り合えるかどうか。逆に別れの場合は、学校は違っても親友いよう、制服の第二ボタンは誰に渡そう等々、感じるものは人それぞれだろう。
しかし、そのような話は、この俺九条颯には何の関係もない。より正確に言えば、自ら関係を絶っていると言うべきであろう。
省エネ主義、これが俺のモットーであり、我が人生最大のスローガンだ。つまり、俺は面倒なことを嫌い、拒絶する。故に、俺はこの世で最も面倒臭いと考えても妥当と言える人間関係に途轍もない嫌悪感を覚えるのである。
出会いや別れと言うイベントは、人と関わることで初めて発生する。しかし、俺にそんな一般的テンプレイベントは起こらない。起こさせる訳にはいかない。
今まで友達一人作らず、孤独を揺れ動く事無く楽しんできた。ある意味、孤独を楽しむと言うことが、俺個人最大のアイデンティティーとも言えるだろう。
そんなことを考えながら、今日から始まる高校生活に胸を躍らせる事無く、青少年最大の出会いの聖地、入学式へと足を運んでいる。
入学式から始まる物語と言えば、登校中桜の花びらの散る坂道で謎の美少女との運命的出会いや、曲がり角で女の子とぶつかり、実はその女の子が同学年の同クラスであることを知り、お互い運命を感じラブコメ展開まっしぐらなどと言う、ライトノベルや漫画でよくある展開がある。恐らく大半の男子は、そんなありふれた非現実的な出来事を少なからず期待していたりするのだろう。
生憎桜はほとんど散ってしまっており、四月の桜と言うにはあまりにも青々とした葉桜が生い茂っていた。今年の桜は例年にも増して満開になるのが早かったせいか、案の定散るのも早かったのである。残念ながら定番の入学式イベントが起こるフラグは完全に折られているようだ。尤も、現実に謎の美少女なんて実在しないので、そんなフラグすら存在しなかったりもする。
ややあって、校門前に差し掛かり、しんどい校高生活のスタートを実感し始めた時に、突然事件は起こった。
「ねぇ、あなた…九条くん?」
後方から聞こえる女性の声に人生最大の危機を感じつつも、俺は恐る恐る声のした方へ顔だけ振り向いてみた。
すると目に映ったのは、金髪ロングの凛とした佇まいの女生徒の姿だった。顔立ちもとても整っており、見るもの全てを魅了するような品格、さながら異国のお姫様のようだ。
よく見ると、その女性徒の周囲には、まるで来日してきた海外スターを見るべく、空港まで押し寄せてくる野次馬のような視線が広がっている。言わずもがな、彼女に対する視線だ。
優等生の雰囲気をこれでもかと言うくらい漂わせ、道行く人には笑顔を振りまく。完璧を絵に描いたようなその女生徒は皆の憧れの的存在に他ならなかった。
しかし、そんなものは幻想にすぎない。何故、そんなことが言えるのか、俺は彼女の存在を同じ中学だったこともあってよく知っているからだ。勿論、今まで会話など一度もしたことがないのだが。
中学一年から三年間ずっと同じクラスだった俺の目は誤魔化せない、周囲の目に映る今の彼女の姿は偽りであり、錯覚である。猫かぶりの天才と言っても過言ではないだろう。何故なら、彼女は俺と同種だからだ。周囲との関わりを拒み、面倒なことをこよなく嫌う。その証拠に自ら他者へコンタクトを取ろうとした彼女の姿を俺は見たことがない。皆無と言ってもいい。
そんな奴が何故俺みたいな奴に話しかけたのか、それが一番の疑問である。
とりあえず、先ほどの問いかけに対し、俺は冷ややかな目線で彼女を見ながら返事をする。
「そうだが、俺になにか様か?」
そう言うと彼女は安心したような表情を見せた後、にっこりと笑みを見せた。恐らくこふの表情も嘘なのだろう。
彼女と俺とでは性格は同じでも根本が違う、それは周囲にどうみられたいかだ。彼女は俺と違って露骨に他者との関わりを拒絶したりしない、何故なら学生にとって、付き合いの悪い奴はいじめの標的になるからだ。彼女はそれを強く認識している、つまりは自分の性格よりも、世間体を優先していると言う訳だ。
「お願いがあるの…」
彼女はそう言うと顔を赤くして俯いた。よっぽど恥ずかしいお願いなのか、それとも俺みたいな人間に話しかけている、言わば公開処刑のような状況を恥じているのか。どちらにせよ、俺が気に掛けることでは無いな。例え後者だったとしても。
お願いか、そろそろ面倒臭い展開になりそうだ。ここは適当にあしらって事を済ませるとしよう。
俺はいつものように、いかにも本当はお願いを聞いてあげたかったかの様な残念そうな顔をしてこの一言…
「すまない、他をあたって……」
くれ。とまで言いかけた瞬間、お腹に強烈な痛みが走った。
「いっ、痛てぇぇぇぇぇぇぇぇ‼」
痛すぎて汗が垂れてきた。不思議なのが、その痛みは誰かから手を加えられて生じているものではないと言うことだ。便意の様な痛みではなく、少し苦々しい言い方をすれば、内臓を直接握りしめられている様な感覚だ。
気づけば俺は地面に膝をついて突っ伏していた。そろそろ周りの引く様な視線がいたたまれなくなったので、痛みに耐えながらゆっくりと起き上がろうとした時、右ポケットに違和感あった。恐る恐る中を探ってみると、全く身に覚えのない折りたたまれた紙が一枚入っていた。
紙を広げると、ペンで文字が書かれていた。紙に書かれていたのはただ一言……
「お前に…拒否権は無い……だと?」
あまりの急展開に少々戸惑いつつも、俺はこの文を見てあることを悟った。「お前に拒否権は無い」、と言うことは彼女の言うことに従え、つまりはお願いを聞けと言うことに違いない。
「あっ…あのっ、もう一回良いかな?」
痛みを堪え、自然な感じで聞き返した。つもりだったのだが、今の俺の態勢からして不自然さを隠しきれていなかった。
「あのっ、だからお願いを…と言うか大丈夫ですか?」
心配してくれるのは嬉しいが、目が完全に引いている。いくら人と関わるのを拒絶すると言っても、嫌われるのは意外と傷つくものだな。
とにかく、このお願いを聞くことにするか、これでまだ痛みが続くようであれば速攻病院へ行くことにしよう。
「あっ、あぁお願いな、オッケーオッケー聞いてやるよ」
そう言った瞬間、嘘のように痛みが消えていった。本当に何だったのだろうか。
額の汗を制服の袖で拭い、膝についた砂を叩き落としながら立ち上がる。
「あのっ、お願いの前に九条くん、私のことはご存知ですか?」
これまた唐突な質問が投げ掛けられてきた。まぁ気持ちは分からないでもない。話したこともない人といきなり喋るのは相当気まずい。お願いとなれば尚更だろう。だからこうやって騙し騙し会話のラリーを続けようとして、。警戒心が強いと言うか、どうやら石橋は叩いて渡る性格らしい。大丈夫、僕は安全だよ。
「氷室音羽さんだろ? 中学の時は結構有名人だったからな…」
「知っていたのですね。うれしいです」
完全に棒読み口調で会話をしている。と言うか早く要件を言ってくれ、会話しているだけで目眩がしてきた。
「俺が知っているくらいだ、恐らく全校生徒知っていたと思うぜ。それで、お願いって言うのは何だ?」
問い直すとまた顔を赤くして俯いてしまった。正直、もうこのまま一生お願いを聞けないのかと思えてきた。
冷静に考えてみれば、彼女、氷室が俺に頼み事をする最大の理由とはなんなのだろうか。普通、話したこともない相手にこう言ったことは言わないだろう、こう言ったことはもっとお互いの信頼関係を築いてからするもじゃないのだろうか。尤も、そんなもの築くつもりはないが。しかし氷室は、信憑性に懸念を抱く事無くお願いをしてきた。これに関しては俺の思い過ごしかもしれないがな。とにかく、もう何か裏があるようにしか思えない。誰かからそう言うように強いられているとか。
それもこれも内容を知れば分かることなのだろうけれど、依然として口を開く気配を見せない氷室の姿を見て徐々に不安と苛立ちが募っていく。家を早く出たこともあって、学校に遅れてしまうと言う心配はないが、立ち話はあまり好きではない。正直立ち去りたい気もちでいっぱいだ。