翼の折れたドラゴン
とある荒野の片隅に、ひときわ大きな洞穴がある。その穴には、とても大きなドラゴンが住んでいる。毎日空を眺め、風を感じ、土の匂いを感じ、のんびりと過ごしている。
このドラゴンは、もう140年近く生きる老体のドラゴンである。もう死期は近い。彼もそのことは分かっていた。
このドラゴンには、ある特徴がある。それは、ドラゴンらしさの象徴である翼が、片方折れていること。2本あるうち、左の翼が根元から折れてしまっている。そのため空を飛ぶことも出来ず、毎日空を眺めては幼き頃に空を飛んでいたことを思い出して、感傷にひたっていた。
今日も日が沈み、月が上った。空には薄っすらと雲のかかった半月が地上を弱く照らしている。その光と共に、星々も煌めいて夜空を埋めている。その星空を、じっと彼は眺めていた。そして、夢を思い描いていたのだ。
あの空を、もう一度飛びたいと。
けれど、それは叶わぬ願い。彼の左の翼はもう動かないのだ。
夜空を見るのに飽きた彼は、穴に入り、すやすやと寝息を立て始めた。また明日も、同じことの繰り返しだろうと構わない。彼はこの生活で満足なのだ。これといった辛さも無いし、1匹でも寂しさを感じることもない。落ち着いた自由の毎日を満喫しているのだ。
朝、何かの音で目が覚めた。大きな体を起こし、洞穴の外へ首を出す。...特に変化は無い。さっきの音は何だったのだろうか。
戻って再び眠ろうと思い、くるりと向きを変えて洞穴へ向かう。
その時だ。再びあの音がした。どうやら東の方で発生しているらしい。何だか金属を引っ掻くような高い音だ。確か、人間も似たような音を出せるのだったな。『悲鳴』と言うのだったろうか。
何にせよ、異変が起きているのならばそれが何かを知りたい。いつもの生活に、スパイスも必要だ。
音のする方へ歩みを進める。段々と何が原因かが分かって来た。
人間の女の子が襲われている。
数匹の狼に囲まれ、女の子が腰を抜かして泣いている。もしかして、あの子の悲鳴だったのだろうか。
このままではあの子の命が危ない。彼は女の子を助けるために走って行った。
群れがこちらに気づくと、その体格差による威圧で狼達を逃がすことが出来た。しかし、女の子まで怖がってしまっている。人間はどうすれば信じてくれるだろう。
言葉の話せないドラゴンには人間と意思の疎通など出来ない。それなら、襲わないという誠意を見せてあげればよいのだろう。
彼は後ろ足を曲げ、地面に尻を着き、座った。そして、尻尾を使い女の子を立たせてやった。
しかし女の子はまだ怯えているようだ。どうしたらよいものか...と、辺りを見渡してみると、彼からしたらとても小さいが、女の子からしたらちょうどいい大きさの花を見つけた。それを掴み、女の子に差し出す。
女の子は恐る恐るそれを受け取る。女の子はありがとうと言葉を発したが、彼には理解出来なかった。だが、女の子の少し嬉しそうな表情を見る限り、きっと信じてくれたのだろう。そう思った。
優しいんだね。
不意に投げかけられた言葉。もちろん意味は分からないが、さっきの怯えた表情はしていない。それだけでよかった。
あなた、ここに1匹でくらしてるの?
寂しくない?
ドラゴンさん、その翼...折れちゃってるんだよね...てことは飛べないの...?
女の子が何を言っているのかは理解出来ないが、じっと話を聞いていた。
話しているうちに、女の子は楽しくなって来たのか声のトーンが上がり出した。笑顔も見せるようになった。信じてもらえた証なのだな。そう彼は思った。
そのまま、時間が過ぎた。女の子は手に花を抱え、バイバイと言った。そして、ちいさな村のある方へ、歩いて行った。彼も立ち上がり、洞穴へ戻って行った。
太陽が上り切った。真上から荒野を照らす。雲一つない快晴だ。ふと、空を飛びたくなった彼は、右の翼だけ大きく動かしてみる。もちろん風が起きるだけで、飛べたりはしなかった。その行為が、彼の気を少し滅入らせた。せめて、死ぬ前にもう一度だけでいいから飛んでみたいのだ。ただの1度でいい。この翼で、空を舞いたいのである。
空をじっと眺めていると、遠くの方から声がした。振り返ると、さっきの女の子がこちらへ走って来ていた。手にはカゴ。一体何だろう。
息を切らして彼の足元へとたどり着く。
ドラゴンさん!ご飯一緒に食べよう!
そう言って取り出したのが、パンとパンで色々なものを挟んだものだった。パンは小さな頃、人間と遊んだ時によく貰っていたから知っている。だが間に何か挟まっているものは見たことがない。
女の子が片手でそれを頬張る。もう片方の手で、彼にサンドイッチを差し出す。彼の大きさには不釣り合いで、腹の足しには到底ならないだろうが食べてみることにした。そのまま食べたら、女の子の手をかじりとってしまいそうなので、口に入れてもらった。
間に挟まっているものがいい味を出すが、何せ小さいのであまり味わえなかった。
美味しい?
笑顔で問いかけてくる。
私が作ったんだよ!
自分を指差してそう言った。そのジェスチャーがあったおかげで、大体意味がわかった。
女の子の頭を触ってみる。砂まみれの足の裏のため、女の子の頭に砂が付いてしまったが、女の子は笑いながらそれを払った。
それはともかくだが、どうやらこの子に気に入られてしまったようだ。困ったぞ。もうすぐ消えてしまうこの命だから、誰かから情を受けることの無いよう、こうして離れた場所に移り住んだわけだ。誰も悲しませないようにしたかった。しかし、この子に気に入られてしまった。となれば、この子は私が死んだ時、悲しんでしまうだろう。無駄な悲しみは味合わせたくない。この子には悪いが、ここから立ち去ろう...
しかし、この子の無邪気な笑顔を見ていると、そんな考えをしている自分がたまらなく痛ましく思えるのだ。だが...
どちらにせよ、この子には悪いことをしてしまうのだ。だから、人間達に好かれていた立場を離れ、30年ほど前から1匹で暮らしていたというのに。
女の子はまた来るねと言って、再び村へと帰って行った。
次の日。空は雲が埋め、荒野は霧が覆っていた。女の子はお構いなしにドラゴンのいる場所へと向かう。
昨日のように、洞穴の外にはいなかった。霧がかかっているからだろうと思い、中を覗く。しかし、見当たらなかった。何処かへ散歩でもしに行ったのかな?
辺りを見渡して見ても、霧に遮られて何も見えない。
大声で呼んでみる。もちろん返事は無いし、反応も無い。何処へ行ったのだろうか。
遠くの方から女の子の呼ぶ声がした。その声を聞き、少しだけ歩みを止めた。振り返るも、霧が邪魔で何も見えないが、好都合だ。あちらからも見えることはないだろう。
あの子には悪いが、このままどんどん好かれていって、そして死んでしまう悲しみを与えるのなら、こちらの方がマシだ。
彼が足跡がつかないように気をつけて歩いていると、目の前に崖が現れた。見下ろしてみると中々の高さだ。少し高いくらいなら飛び降りてしまってもいいのだが、さすがにこれは生きられないだろう。仕方ない。迂回できる場所を探そう。
崖に沿って歩いていると、緩やかな斜面になっている場所を発見した。霧で先はよく見えない。このまま分からないうちに降りるのは危ないだろう。
彼は炎を吐いた。炎が当たり、その周辺の霧が晴れる。どうやら斜面は長く続いているようだ。これなら安全に降りることが出来そうだ。
遠くで何かが光った。赤く燃えるような光だ。
見た瞬間、炎だとわかった。
あそこにいるんだ。そう思い、女の子は走り出す。かなり遠くで起きたのが分かる。見えたのが奇跡と言えるほど小さく見えたのだ。
嫌われちゃったのかな...でも、会いたい。このチャンスは逃がせない。
斜面を、滑り落ちないようゆっくりと下る。時折炎を吐き足元を確認する。
今は多分もう昼時だろう。雲がかかっているにしても、気温が高いのは肌で感じ取れた。夜までには休める場所を探したいところだ。
それに、もしかしたらあの子も諦めきれずに今も私を追っているかも知れない。実質、さっき叫んでいたのだ。それこそ私を信頼している証拠なのだろう。
裏切って本当に申し訳ない。
まっすぐ、炎が燃えていたところへ走る。走りは得意じゃないけど、何だか得意になった気分だ。いつもより速く走っている気がする。
どうして、ドラゴンさんはどこかへ行っちゃったんだろう。
私を助けてくれた。話を聞いてくれた。今までドラゴンに対して持っていたイメージは、彼によって変えられたのだ。彼には当然強い思い入れを抱く。出来ることなら、彼とずっと一緒にいたい。私が大人になっても、私の話し相手で居て欲しい。一緒にどこかへ行ってみたいと、夜寝る前に考えていたりもした。きっと、楽しいだろうな...と。
強くて、優しいドラゴンさん。
今、彼に抱いているこの感情は紛れもなく『恋』のよう。彼の優しさはもちろん、外見のかっこよさもそうだ。私を虜にした。
彼に会いたい。ただその一心だ。そうしてひた走る。彼の足元で、また話を聞いて欲しいのだ。
斜面を下り切り、再び砂と石がゴロゴロと転がる道を歩く。
どれだけ歩けば良いだろうか。とりあえずは、人目につかない程度に離れたいところだ。あの子には見つからないようにしたいな。
それから数時間。日が傾いたのか、うっすらと空がオレンジがかる。それと同時に、霧が少しずつ薄くなってきた。もうそろそろ休める場所を探したいところだが、周りにはただ悠然と広がる荒野があるだけだ。休めそうな場所なんてとうにない。ならば、見つかるまで歩くまでだ。
段々とオレンジが強くなり、霧も薄くなる。
その時だった。
彼の意識がフッと遠のき、ふらついてその場に倒れてしまった。何が起きたのか。少ししたらまた回復したのだが...
死期が近いことを思わせた。
もう長くはない。今日か明日にはもう...
死体を見つけられては意味がない。早く遠くへ行かなければ。
脚の許す限り、遠くへと。脚はしばらく動いていなかったのに、いきなりこうして一日中歩き続けることになり、異変を訴え痛みを生じさせた。それでも構わない。痛みなんて、すぐに消えてしまうのだから。
しばらく歩き続けていると、知らないうちに夜になっていた。でも、休む暇はない。もう、あの子がこの目で確認できるほど近くに来てしまったのだから。途中で方向を変えていなければきっと見つかっていたな。
彼の姿を探して歩いていたら夜になってしまった。帰ったら絶対に怒られるだろう。でもいい。彼に会いたい一心なのだ。それなら、怒られようが閉め出されようが構わない。彼ならそんな悲しみも受け止めてくれるだろう。でも、ここは村からかなり離れている。今から戻るだけでも夜が更けてしまうどころか、朝を迎えてしまうかもしれない。さすがに遠くまで来すぎたな。ここまで来たからには、彼を見つけないと帰る気にはならない。
私はなぜ、こんなにも彼に思いを寄せたのだろう。
私の命を救ってくれたからか?単に見た目で好きになってしまっただけなのか?分からない。分かっているのは、彼を特別視しているということだけ。
今はどの辺りにいるんだろう。まだそんなに遠くまで行っていないはずだ。ならば、この近くにいる可能性もある...
岩陰から、女の子を眺める。下手に動いて見つかれば、ここまで来た意味も無くなってしまう。
女の子はまたどこかへ走って行った。まだ幼いのに、どうしてあんなに体力が持つのだろう。
クラクラする。さっきからずっとだ。眠いようで、何だか違う。いつもの眠気よりも数倍意識が蝕まれる。フラフラとしてくる。体を動かすのもだるい。息が上がる。
ここで、命が尽きるのか。
そう悟る。本当に、これが最期なんだ。
あぁ。結局、飛べなかった。幼い頃、空を飛んでいる光景が頭の中に流れる。風を切り、地上を走るよりずっと速く進むことが出来た。全身を駆け巡る躍動は、高い空へ届きそうなほど、心を高く舞い上がらせた。全身を伝う風は気持ちよく、自分も風になったようだった。
何十年前の記憶なのだろう。もしかしたら100年前の記憶になるかもしれない。その時からずっと願い続けたこの願いも、儚く終わる。そんな自分が、惨めに思えた。
さっきまでの全身の疲れが、全く感じられない。代わりにフワフワとした感覚に襲われる目を開けていられるのもあと少し。
今まで生きてきた中に見出せたものは、生きてきた時間にはとても見合っていない。いつも空にばかり憧れ、足元にある小さなことを見落としてきてしまったのか、彼には分からない。でもそんな生き様が、彼は許せなかった。自らが歩んだこの生命は、この程度のものだったのか。もっと大切にしていけるものがあったのではないか。もっと、毎日が明るくなるようなことは出来なかったのか。もっと、素晴らしいと思えるような出来事に出会えたのではないか。
後悔は頭の中で大きく渦を巻いた。その渦は彼を悲しくさせ、寂しくさせ、苦しくさせた。その思い、そのままになんてしておけなかった。
グオオオオオオオオオオ‼︎
荒野一体に響き渡るほどの大きな叫びだった。
それを最期に、彼は地面に倒れ、二度と目を開けることは無かった。深緑色をたたえ、くすみ、ゴツゴツとした鱗が覆う体はまだ暖かい。そんな彼の体を、ひときわ強い風が包む。ふわりと砂が舞い、彼の体にかかる。いつもならそれがいやで払いのける砂も、もう、何も感じない。体はもう動かない。二度と。
オオオオ‼︎
不意に背後から大きな声が聞こえた。
どこか悲しげだ。なぜだか直感出来た。ただ事では無いことは確かだ。体を声がした方に向ける。彼はこの方向にいるのだ。
また走り出す。彼に会うために。
声がしたところはそんなに離れてないはずだ。ならば、あともう少しで...彼に会える。
そして、見つけた。彼を。...だが、それは彼ではなく、彼だったモノであった。だらしなく投げ出された首。その首の先、顔は、悲しげな表情をしていた。
女の子はドラゴンの遺体に飛び付いた。そして、顔を抱きしめて泣いた。今まで泣いた時よりもいっそう強く、大声をあげて。泣き叫んだ。
ほんのわずかな時間を共に過ごしただけだというのに、悲しかった。とても悲しく、辛い。別れはこうも残酷に突然やってくるのか。
彼の四肢は力無くのびている。全く精気の感じられないそれは、見ているだけでも心を深く沈めて行った。
それから泣き続けた。私の命を救った、私にとっての救世主。そんな彼は、この夜に命を無くした。もう彼に話を聞いて貰うことも、私に危険が迫っても助けてもらえない。彼の目を見ることも出来ない。
その後女の子は、心配に思った村の人々の捜索によって見つけられた。しかし、彼であった体から離れることをせず、無理矢理引き剥がそうとしても、大人達が女の子の悲しそうな泣き声に同情してしまい、再び下ろしてしまう。
それから、女の子は泣き止んだ。
大人達は少し離れた位置で座り、ずっと女の子を見守っていた。泣き止んだことが分かると、さっと立ち上がり、女の子を迎えに行った。
女の子は、大人達のリーダー、彼女の父親に差し出された手を握り、村へ歩き出した。
しかし、途中で手を離し、立ち止まり、振り返る。大人達も不思議そうに立ち止まる。
空を見上げると、雲が晴れて月が地上を優しく照らしていた。ドラゴンさんがあの空に飛ぶ姿を見てみたかった。きっと、勇ましかったに違いない。
彼の体は、そんな月明かりをぼんやりと浴びて、虚しく佇んでいる。せめて、彼が幸せにこれから死後の世界を暮らしていけるようにと思う。
強くて優しいドラゴンさん。私は忘れないよ。あなたのおかげで、私は楽しかった。本当に、本当に短い間だったけど、ありがとう。
そう言って、再び父親の手を握って歩き出す。
家に着いたのは、夜が明けた頃だった。もちろん母親に叱られたが、父はそんな母をたしなめてくれた。私は必死に泣きそうになるのを堪えていた。父の弁解に、彼が出てくるたびに涙が溢れそうになる。悲しくなって、1人ベッドに潜り込む。知らないうちに、すすり泣いていた。
目が覚めたのは昼だった。女の子はいきなり飛び起き、家を飛び出した。行った先は、ドラゴンが住んでいた場所。大きな洞穴は、もうドラゴンの暖かさを完全に失っているはずなのに、女の子にはそこにドラゴンがいるかのように思えた。
そして、彼がくれた花と同じ種類の花を洞穴の入り口に置いて、女の子は家に帰った。
あれから十数年。彼女はまだ、洞穴の前に花を備え続けている。そのペースこそ月に2回ほどだが、必ず同じ種類の花を洞穴の入り口に備える。
洞穴の周りには、雑草一つ生えていない。その代わりに、小さな花がたくさん咲いている。
少しでも、この洞穴を綺麗にしたい。それが、彼にすることのできる恩返しなのだから。
Twitterで期待をしてくださる方がいらっしゃったので。こういうのは苦手ですね