07
夜は大雨が降っていた。雨は長い間続き、音のせいで俺は何度も目が覚めた。
ようやく雨が収まった頃、外は霧に包まれようとしていた。ビルの窓は全て割れていたので、窓に掛けた布や張り板を超えて霧が室内に侵入する。普段は霧を気にするところだが、やっと落ち着いて眠れると思い、俺はベッドの上で瞼を擦って静かに目を閉じた。
ニネットに起こされたのはいつもより遅い朝だった。そして事件が起きた事を知る。
早朝、雨の音など気にしない子供たちの朝は早かった。
霧に包また薄暗い朝。人々は霧の日は外には出ない。自分がどこにいるのか分からなくなるからだ。
火を焚けない霧の中、外にも出れないコッコとコチは、ビルの入り口から外を眺めていた。ただ外を見ていただけだった。
暗い空も見えない白の世界、そこから突然に腕が伸びたと言う。
霧から伸びる腕の先には黒いマスクを付けた男がいた。レンズの奥の冷たい目が二人を見つけると、コッコの首を乱暴に掴んで持ち上げた。
コッコは声も出せないままもがき苦しんでいた。漏れる呼吸がコチの耳に届き、恐怖で震えてしまったと言う。
コッコの手のひらから光る石が落ちた。それを見つけた男は声無く笑い。それを拾うとコッコを投げ捨て、静かにその場を立ち去った。
霧に浮かんだ緑の輝き。その光が消えてもまだ、二人はその場から動けなかったそうだ。
「家の中にこれ落ちてた」
ニネットが銀色の筒を俺に差し出した。それは本で見た手榴弾のような形をしていたが、誰かが怪我をしたという訳ではないようだ。
「なんだそれは……」
「睡眠弾IPHR。即効性の強い睡眠ガスが入った擲弾筒。これ投げたらみんな寝ちゃう。ツバメもわたしも、みんな眠ってた」
ニネットは記憶の片隅を探るように銀筒の説明を行った。睡眠弾? ということは全員これで眠らせられてたのか。
「ニネット、イッカクはどこだ」
「にねが起きた時にはイッカクもういなかった。どこいったかわかんない……」
「ぼく、イッカクにぃちゃんのところに助けをよびにいったんだ……でもイッカクにぃちゃん、キジねぇちゃんを起こしてすぐに外に出て行っちゃった」
「コチ、イッカクが出て行ってどれくらい経つ?」
「わかんない……」
「そうか。ニネット、行くぞ」
「うん。ツバメ、場所分かるの?」
「石を狙うなんて奴等しかいないだろ、まさか襲って来るなんてな……」
イッカクは奴を追ったに違いない。嫌な予感がする。
霧はまだ深く視界が悪かったため、俺はニネットの手を引きながら世界高速へと向かっていた。早くイッカクを見つけなければならない『家族を守る為なら俺はどんな事だってする』そう言ったイッカクの言葉が脳裏を過ぎっていた。
積み上がる瓦礫。折れ曲がった電柱。視界を遮る濃霧。行く手を阻む全ての物が苛立たしく感じる。イッカクはもう奴等を見つけているのだろうか。石を取り戻す為に、イッカクは銃を抜くかもしれない。そうなってからでは取り返しが付かない。
俺はニネットの手を掴んだまま瓦礫の道を走り抜けた。海からの風で、霧はゆっくりと流れ始めている。
しばらく走ると、霧の晴れた先に見覚えのある赤い髪を見つけた。奴等のキャンプの中心にいたが、アース・リザレクターの姿は見当たらない。車やテントはそのままだったので、どこか別の場所に行っているのだろうか。
「イッカク!」
俺は安堵しつつも慌てて名を叫んだ。静かに佇むイッカクの手には銃が握られている。
イッカクの不穏な様子に、ニネットが心配そうに近付いた。
「イッカク、それ、危ないよ?」
ニネットの手が銃を握るイッカクの腕に触れると、イッカクは思い出したように我に返った。
「ツバメか……奴等を見なかったか? ここにはいないようだ」
「そんなもん持って何する気だ。関わるなって言ったのはイッカクじゃないのか」
「ツバメ、コッコの首を見たか? 小さい子供にあんな痣つけやがって……それに石を奪われた。あれはコッコとコチの宝物だ。俺の家族に手を出す奴等は許してはおけない」
「そんな事は分かってる! でも銃なんか向けたら、お前だってただじゃ済まないんだぞ!」
「じゃあお前は、このまま何もせず黙ってろって言うのか!? コッコに話しかけても震えているだけだった……俺が触れようとしたら叫び声を上げたんだぞ。コッコの瞳の奥には恐怖だけが残っていた。奴隷場から助け出したあの時と同じだ!」
「俺だって奴等には頭にきてるさ!、それは分かってる! でもよ……イッカクがそんなだと、俺達まで心配になるんだ。もしイッカクに何かあれば……」
「その時はお前が家族を守るんだ」
「そんな事聞いちゃいねぇよ! 少し落ち着けイッカク!」
「俺は行く、止めるなツバメ!」
静止した俺の手をイッカクは乱暴に振りほどいた。こんなに怒っているイッカクは初めてだ。奴等の姿を見つけた瞬間、銃を撃つのではないかと思ってしまう勢いだった。
「止まれイッカク!」
俺はイッカクの胸倉を掴むと、壁に押し付けた。
「二人ともやめて!」
ニネットが俺達を止めようと間に入ろうとした時。車の影から物音が聴こえた。
「……誰かいるのか!」
イッカクが叫ぶと、車の後ろから両手を挙げて男が顔を出した。あいつはアース・リザレクターの一人。挙動のおかしい気の弱い男だ。
「や、やめてくれ……撃たないでくれ、俺は別に……お前達に敵対している訳じゃないんだ……」
男は表情を引きつらせながら、こちらへとゆっくりと近付いた。
「奴等の仲間か?」
イッカクが銃口を向けると、男は両膝を付いて慌てて頭を抱えた。アース・リザレクターが持つ雰囲気とは随分とかけ離れている。
「俺は雇われただけなんだ! ほら、そのっ……車の運転とか、荷物の運搬だとか、だから世界の再生とかはよくわからねぇんだ! 生きて行くためにあいつらについて来ただけなんだ……頼むっ、撃たないでくれよ……」
「それは俺が決めることだ。奴等は何処へ行った、お前は光る石の場所を知っているのか?」
「ひぃぃぃ! や、奴等は研究所に向かったんだ。海岸沿いを歩いた場所にある、ほら、あそこに見える白い建物だよ! あそこにある装置を……三本目の柱を動かすとか、石の力を充填させるとか言ってたんだ、く、詳しいことはわかんねぇけど、そう言ってたんだ!」
「あそこは……」
男が指差した建物は見覚えのあるものだった。初めてニネットを見つけた場所、あの施設に一体何があるのだろうか。それにこいつの言う装置とやらも気になってしまう。
その時、爆発音が響き、建物から白煙が上がった。
「な、なんだ一体!?」
「あいつ等……何をする気だ」
世界の再生。奴等の目的の先には何があるのだろうか。
人を傷付け、大切な物を奪い、それでも奴等は世界を救うと言う。誰もが望む世界の為? お前達の求める世界のせいで、俺達の世界が壊されようとしている。お前らが良ければ俺たち家族の事はどうだっていいって言うのか。
大事な妹が涙を見せるくらいなら、俺は青い空なんて要らない。
アース・リザレクターの勝手な行動に、抑えていた怒りが込み上げてくる。
奴等を止めなければ大変な事になるような気がした。ニネットやイッカクもそう感じていたのだろうか。俺達三人の足は、海岸にある研究所へと向かっていた。
雨の跡が残る土。轍に水が溜まっていた。
少し強い風が吹き始めていた。雲が流れ、斑陽の範囲が拡がる。
俺達の進む道は、いつもなら瓦礫で歩くのも困難な場所だったが、道路上の障害物は全て左右に退けられており、所々に残る車輪の跡が研究所へと続いていた。
車輪の跡を辿っていると、再び小さな爆発音が聴こえた。研究所の内部で爆発したのだろうか、あの建物は斜めに傾いており浸水も酷い場所だ、何度も爆発を起こせば建物ごと崩れるかもしれない。
研究所に到着すると、壁に開けられた横穴が目に入った。以前は入り口が崩れていたので、二階の窓から内部へ進入したのを覚えている。
ニネットを見つけてからも何度か建物の中に入った事はあったが、今では浸水が進み、地下の階層は全て水の中に沈んでいる。
あの時ニネットを見つけていなければ、カプセルに入ったまま水の中に沈んでいたのかもしれない。ニネットは自分のいた場所が、この施設だとは思ってもいないだろう。
「よし、入るぞ」
イッカクが銃を構えて内部に侵入した。奴等はどこにいるのだろうか。静寂に包まれた研究所の中は物音一つ聴こえない。
細い廊下を進むと赤く点滅する扉を見つけた。イッカクが扉に近付くとそれは自動で開き、奥へ進むと二階へ上る階段が見えた。
ニネットを見つけた時もそうだったが、今でもずっと電気は通っているようだ。当時はこの扉が開く事は無かったが、奴等は扉を開く方法を知っていたのか、爆発の跡などは見当たらない。
廊下を進むと照明が順に点灯を始めた。人が近づいただけで自動で開く扉、自動で灯りが点く廊下。昔の技術には驚かされてしまう。
階段まで進むと、その脇からは長いスロープが伸び、二階へと続く廊下が続いていた。よく見ると、その通路には車輪の跡が残っている。
「この上みたいだな。イッカク、どうやって奴等から石を取り戻す?」
「まずは奴等の居場所を見つける、作戦はその後だ」
いつもは冷静なイッカクだが、まだ頭に血が昇っているのだろうか。作戦が無いのは驚きだ。奴等は謎だらけだ。銃も携帯してると言っていたし、突っ込めばなんとかなるような連中ではないのは確かだ。
こちらにはニネットがいるが、向こうにはニネットの蹴りを受け止めるソニアがいる。俺は一度ホレスに負けているし、ナイフ男は何をするか判らない。十分に注意しなければあっという間に負けてしまう。そうなれば終わりだ。
二階へ上がると円形のホールが広がった。壁は全面ガラス張りだったが殆どが割れており、床には破片が散らばっている。
イッカクは床を調べると、粉々になったガラスを辿り、ホールの奥へと足を向けた。
通路を進んでいると、小さく話し声が聴こえた。自動扉の隙間にはガラス片が詰まっているようで、扉が開いたままとなっている。
「お祖父様、施設の機関に問題はないようですが、浸水により一部電力の供給が絶たれています。柱を動かす為のエネルギーが不足する可能性がありますが、如何致しましょうか」
「構わぬ。コアがあればアインの稼動に問題は無い」
ソニアの言葉の後に、老人の声が聴こえた。
「プロフェッサー、この装置が正しく作動していれば月の落下を阻止出来たのでしょうか?」
「ああそうだ。アイン、ソフ、オウル。月の落ちた日、私は装置を使い落下を阻止しようとしていた。しかしエネルギー不足や、核による破壊のせいで私の計画は無駄に終わってしまった。だが今回は月のコアの力がある。今なら問題なく装置は稼動するだろう」
「そうですか。世界の再生も……いよいよですね」
「うむ、新しい世界の始まりだ」
「これで鬱陶しい雲ともおさらばかァ、ハッハ! とうとうこの日が来るのかよォ!」
マイルスとホレスの声も聴こえた。中には人が四人いるのは間違いないようだ。
俺はニネットに四人がいる事を手で合図したが、イッカクはガラス片を拾い、扉の影から部屋の中を反射させた。イッカクの手は五を示している。ガラスにはもう一人、女の姿が映っていた。あれは白い車の前に立っていた白衣を着た小柄な女だ。
イッカクがガラスを動かし部屋の内部を反射させた。中は思っていたよりも広い。中央には天井まで伸びる大きな柱があり、そこには緑色の液体が満たされ、いくつものパイプが外へと続いていた。壁に沿って機械が並び、二人が画面を確認しながら装置を作動させようとしている様子が伺える。
俺達は狩りの時に使う合図を使い作戦を考える事にした。これはニネットに教えてもらった手話と呼ばれる会話方法だが、まさか狩り以外でこれが使われるとは思ってもみなかった。
作戦は簡単なものだった。まずは白衣を着た女をこちらにおびき寄せ人質にする。その後に石を要求し、取り戻した後は人質を盾にその場から立ち去る。
しかしその後はどうするつもりなのだろうか。例え逃げたとしても追っ手が来るもは明らかだ。俺達の住む場所も把握されている以上、また奴等が襲って来ないとも限らない。
それに人質を取ったところで相手は四人。多勢に無勢でもある。もう少し様子を見たほうがいい。そう合図を行おうとしたが、イッカクは既にガラス片を投げて音を立てていた。
「……?」
手前に投げたガラス片に、予想通り女が反応した。
「……プロフェッサー。通路より小音を確認。視認を行います。許可を」
「音? リナ、気のせいじゃないのか」
「プロフェッサー。許可を」
「許可する」
リナを呼ばれた女は、ホレスの言葉を無視し、プロフェッサーへ回答を求めた。
リナはゆっくりとこちらへ近付き、扉を超えた瞬間、動きが止まった。
「動くと撃つ」
イッカクがリナのこめかみに銃をあてた。ゆっくりと部屋に戻るようにイッカクが指示すると。イッカクに続いて俺達も中へと進入した。
「作業を止めろ、女の命はこちらが預かっている」
一斉に視線がこちらを向く。最初に口を開いたのはソニアだった。
「ツバメ……? なんだ、一体どういうことだ?」
「それはこっちの台詞だ。ソニア、俺はあんたのこと信用してたんだけどな」
俺はソニアを睨みつけ、ナイフを女の首筋に向けた。イッカクは正面にいた老人の足元を狙い銃を一発発砲した。
プロフェッサーと呼ばれていた老人は、眉一つ動かす事無く冷静な様子でこちらを見つめていた。
プロフェッサーは車椅子に乗っていた。車輪の正体はこの老人だったのか。立派な白い髭を蓄え、黒い帽子と、襟の整ったし背広姿は紳士的だが、こちらへ向ける鋭い視線は俺達に威圧を与えている。
「ソニア、それは妹の大切な石なんだ。返してくれ」
「石? どういうことだ、コアはマイルスが預かった物ではないのか?」
ソニアが困惑したようで視線をマイルスに向けた。預かった? ソニアは知らないのだろうか。
「何度も言せるな、さっさと石を返してもらおう」
イッカクの強い口調にマイルスが反応を見せた。
「なんだァ、ゴチャゴチャとうっせぇ野郎だなァ。わざわざ取り返しに来るなんざ呆れるぜェ。俺たちにはコレが必要なんだよォ。お前も世界を救いたいだろ、なァ?」
マイルスはナイフを肩に置き、俺達を見下すように言う。
「取り返しに? おいおいマイルス……まさかお前、奪ってきたのか」
ホレスもまた驚いた様子でマイルスに訊いた。ホレスも知らないのか?
「動くな。それ以上の行動はこの女の死を意味する。俺たちはお前等の世界に興味は無い」
イッカクの言葉にマイルスは苛立ちをみせ始め、両手にナイフを握り、それぞれの刃を打ち鳴らした。
ホレスは二人の間に立つと、互いに両手を向け落ち着くように促したが、ソニアは懐に手を入れ銃を握っている様子だ。
ホレスに銃を向けるイッカク。ニネットも構えを見せ、相手も戦闘の気配を感じていた。
「ソニア! どういうことだ、力付くでも奪おうっていうのか?」
このまま黙っていれば、ソニアは銃を抜くかもしれない。俺は咄嗟にソニアへと声を掛けた。
「ツバメか……すまなかった。マイルスが勝手な行動したようだな。石はお前たちの元へ返したいとは思ってはいる。だがしかし……実際に月のコアを目の前にすると私も動揺してしまう。赤い髪の、どうにか我々に石を譲って貰うことは出来ないだろうか」
「そちらの事情は知らない。だが俺はそのナイフ野郎を許さない……だがこちらにも子供達の非がある事は認める。大人しく石を返すなら何事も無くこの場を去ろう。勿論、再びこのような事がある場合は、こちらとしても容赦はしない」
「ソニアァ、ホレスゥ。もうコイツ等よォ殺っちまおうぜェ、なぁ、いいだろォ? プロフェッサー、何とか言ってくれよォ」
マイルスの軽口にソニアは怒りを見せた。懐から腕を抜くと、マイルスにナイフを下ろす様に指示を出す。
「チッ……面倒くせぇなァ」
マイルスはソニアの支持に従わず、イッカクにナイフを向けた。それに反応するようにイッカクもまたマイルスに銃口を向ける。
「なんだァ、テメェちゃんと当てれるのかァ? ケケケ」
マイルスが自身の額を指差し挑発をする。このままでは確実に衝突する。なんとかしないと本当にまずい。
「やめろマイルス!」
ホレスが叫んだがマイルスは聞く耳を持っていない。
一触即発の状態。俺に何が出来るのか。イッカクがマイルスを撃てば、ソニアとホレスも銃を抜くだろう。互いが銃を向け合う状態で、俺の持つナイフなどなんの役にも立ちはしない。やはり俺たちは圧倒的に不利な状況だった。
とにかく俺たちは動いてはいけない。なんとしてでもイッカクを止めて、ぶつかることを避けなければならない。そう思った時だった。
「マイルス、ナイフを下ろせ」
杖で床を叩く音が聴こえた。狂気に満ちたマイルスの表情が、ゆっくり落ち着きを取り戻していく。
プロフェッサーの言葉に、アース・リザレクター全員の動きが止まった。
「お祖父様……」
車椅子から降りたプロフェッサーが、杖をつきながらゆっくりとイッカクに近付いた。
「青年よ。銃を下ろしてはくれないか。マイルスがひどいことをしたようだが、我々は確固たる信念の元に動いている。現状は酷いものだが、彼らは人を傷つける事が目的ではない、どうか許して欲しい。そして許されるのなら時間を貰えないだろうか、我々が世界救済の為に行う行動の全てを伝え、改めてこの土地の者達の協力を得たいと思う。加えてこの土地の者に不自由無き様、物資の提供も出来るだろう。それを踏まえて結論を出してはくれぬだろうか。その為には……まずは石を返そう」
プロフェッサーがソニアに装置に設置された石を取り出すよう言った。ソニアが装置から石を抜くと、中の液体は緑色から透明に変わった。
「お祖父様、コアです」
ソニアの握り締めた石は光を失っていたが、プロフェッサーへ手渡すと、石は再び輝きを放った。
石の光が消えるのはニネットだけかと思ったが、どうやら違っていたようだ。女に反応しているのか? いや、それならば石を拾ったコバトやコッコにも反応していたはずだ。
プロフェッサーがイッカクに石を渡すと、それと同時にイッカクは人質を解放した。このまま戻れたら何も問題ないのだろうが、そうもいかない。
小さな光る石は月のコアと呼ばれている。奴等にはとってそれはとても重要な物だ。
いっその事、石を渡してしまえばもめ事も無くなるだろうが、コッコの事を考えると、こちらも引けな理由がある。
「リナ、私を椅子まで戻してくれるか」
「了解。しました。マスター」
リナは表情一つ変えずに、プロフェッサーを連れ元の場所へと戻っていった。リナは人質となった恐怖も怒りも、何一つ感じていないようだった。先ほどの事など記憶に無いと言わんばかりに、平然とした様子で俺と視線を交わす。
マイルスはこちらを睨みつけていたが、プロフェッサーの言葉を守り、一言も発することなく今は大人しくしている。
ホレスとソニアは少し安心した様子で佇んでいる。ひとまずは安心と言ったところか。だが、二人に恨みは無いが、コッコの首にあざをつけたマイルスだけは許すことが出来ない。とすると、やはり俺たちと奴等とは敵対関係にある。
プロフェッサーが話す内容は不明だが、イッカクはその後の決断をどうするつもりだろうか。いざとなれば逃げる算段も考えておかなければならない。
俺はニネットから離れると、イッカクの後ろに回り一応の警戒を行う。穏便に事が進めばいいが、不安ばかりが重なり、俺は頭がおかしくなってしまいそうだった。
こんな事なら、初めから奴等と関係を持つのではなかったと後悔するが、今となってはそれも遅い。
「少し長い話になる」
俺たちはプロフェッサーの言葉に耳を傾けた。両手を杖の上に置いたプロフェッサーがゆっくりと口を開いた。
「二〇二〇年、地球に月が落ち世界は造作も無く破壊された。人類は滅亡の危機に瀕し、僅かに生き残った人類は、この荒廃した大地で生きることを余儀なくされてしまう。だが我々は、落下した月の破片から地球再生の可能性を見出した。その月の破片には力がある。月の破片にはいくつか種類があり、中でも膨大なエネルギーを発生させる高純度な月の欠片を、我々は月のコアと呼ぶ。それがお前たちの持つその石だ」
「月のコア……」
「壊歴の子供達には理解し難いだろうが、月と地球には密接な関係がある。月の満ち欠けにより海は息吹を産み、人類の誕生にもこの月の力が影響されているとされている。月は生態系に大きな影響を持っているのだ。だがその月は、今や半分に割れ、世界に多大な影響を及ぼしている。そして宙に浮かぶ月は、今や二つの星を引き合う力を失い、この地球から離れようとしている。そうなればこの世界に未来は無いだろう」
「月が離れる?」
「そうだ。月を失えば人は生きて行けなくなるだろう。海は淀み、動植物は消える。異常気象や地震の発送率も高くなるのが予想される。確実に人類は滅びの道を歩むのだ。理解して欲しい、これは我々人類の問題ではなく世界全ての問題だ。お前たちにとっても関係の無い事とは言えぬのだ。マイルスの強行にもそういった背景があるのだろう」
「一の為に十は犠牲には出来無ぇってことだァ、お前たちは妹一人が死ぬのと、家族全員が死ぬのならどっちがいいんだァ? ケケケ、選びたくなくとも、選ばなきゃいけねぇ事が世の中にはあるんだよォ」
ソニアがマイルスを睨み付け首を横に振った。
「我々は石を使い、各所にある三本の装置を作動させたい。一本は我々の機関にある装置オウル。オウルは高度な計算を行う演算装置だ。この場にある装置はソフ、三本の柱を維持する為のエネルギーを蓄積する。最後の柱はアイン。アインは三本を制御する最も重要な柱だ。それら生命の三本の柱を結びエデンの光を完成させれば、月を正しい位置へと戻す力を産み、我々の計画が完成する」
プロフェッサーの話しはまったく理解出来ないものだった。ただ俺が言えるのはこの言葉だけだ。
「ぜんっぜん意味わかんね」
「世界を救ってやるから石をよこせって事だァ、ガキは大人の言うことを黙って聞いてりァいいんだよォ」
マイルスは事あるごとに口を挟む。コッコの事もあるが、俺はあいつを一発ぶん殴ったくらいじゃ気は治まりそうにない。
「俺が石を渡さなければどうするつもりだ」
イッカクはプロフェッサーだけを見ると、静かに訊いた。
「強制はしない、我々は再び月の破片を探すだけだ。だがこれは我々の問題ではない。お前たちも気付いているだろう、異常に振り続ける雨、太陽光の低熱化、年々食べる物も減っているのではないか? 我々には時間が無い。いずれ世界は失われる、重要なのはそれまでに行動を起こせるかどうかだ」
「……そうか」
「その石は人の手に余るものではない」
イッカクは石を見捉えると、顔を上げソニアに石を放り投げた。
「良き判断だ」
月の石が放物線を描き緑の光を発する。その輝きをソニアが受け取ると、石は一瞬にして光を消失させた。僅かな残光だけが空に残っている。
「確かに受け取った」