星天の饗宴
真夜中の墓場を思わせる色調のコートを着た魔術師が、星と月だけに照らされた魔界の森の小道を歩いている。魔術師の顔立ちは爬虫類を思わせるいかにも陰気なもので、年齢は二十代半ばに見える。体つきは痩せ型である。首から細い鎖で下げた円環と六芒星と二つの五芒星と末広がりの正十字を組み合わせた奇怪な万能章を落ち着きのない手つきで弄り、肩からは革製の黒い鞄を下げている。
魔術師は狭い道の左右を挟む深い森を眺めた。街燈よりも明るい星と月の光に照らされた小道と違い、森は見通すことのできない深い闇を抱えている。物質界との境の曖昧な低次星幽界に充満する星幽光の不可視の輝きを以てすらその奥を照らすことはできず、まるで原初の恐るべき暗闇に閉ざされているかのようであった。
どことなく人を惹きつける魅力を持った誘蛾灯を思わせる闇の向こうには、恐ろしい危険が満ちている。奥には強大な妖魔が潜み、木々の陰では悪意なく悪事を働く妖精達が踊り、闇の中では森に囚われた亡霊がさまよい、力を合わせて幻想的な地獄を作り上げている。現実よりも空想や幻想を好む魔術師は魔界の宴にいたく好奇心を刺激されたが、今は目的が違う。彼は誘惑に屈さず、まっすぐ前へと進み続けた。
今にも道に覆い被さってきそうな木々に見下ろされ、魔術師は物憂いまなざしで前を見据えて静かに歩く。周囲からは悪戯な妖精の誘うような視線や恨みがましい亡霊の悪意に満ちた視線が投げかけられるが、魔術師は気をしっかりと持つよう努め、決してまともに取り合おうとしない。彼が持つ最初にして最後の武器である万能章をしっかりと掴み、勇気と意志を奮い立たせて進む。森の魔物達も、敢えて自分のほうから魔術師にちょっかいをかけようとはしない。どちらも、そのほうが自分にとって得策であることを理解していた。どうしてもという事情がないのであれば、命懸けの争いなどしないに越したことはない。
鳥とも獣ともつかぬ得体の知れない動物の鳴き声が時折静寂を乱す。衒学的な魔術師の知るところによれば、森の妖魔達が猟犬や番犬の代わりに使役する不可思議な魔獣の吠え声である。その声は遠くから聞こえたかと思えば近くからも聞こえ、近くから聞こえたかと思えば遠くからも聞こえた。空間を超越して存在する奇怪な使役獣達は、或いは気紛れな主の命令で魔術師を余興――彼らにとっては生そのものにも匹敵する重大事――の獲物としているのかもしれなかった。使役獣の恐ろしさは魔術師も知っている。それは彼の命を奪うほどに恐ろしい存在でこそないが、ちょっとした火の粉と言うにはいささかかわいげが足りない。表情を硬くした魔術師は森の出口へと歩を速めた。
しばらく歩くと森が終わり、開けた場所に出た。森の貴族達の機嫌を著しく損ねるような真似をしていなければ、使役獣は森の外までは追って来ない。今回そういったことをした記憶はないので、魔術師はほっと一息ついた。実際、恐ろしい魔獣の気配はそれで消え去った。
森を抜けた先には得体の知れない丈の高い草の密生地が広がり、魔術師の前には草原を左右に分けて道が伸びていた。淡い光を放つ奇妙な羽虫が飛び交う道の先には丘が見える。
深い森と同様、草原も危険に満ちている。森に妖魔達が潜むように、草原には魔獣や怪生物が棲む。草叢では恐ろしい毒蟲が蠢き、その餌となる毒草やより弱い生き物、それを捕食するもっと恐ろしい生き物が集まり、不快な弱肉強食の図を描いている。道を一歩でも踏み外せば地獄が待つ。弱肉強食の掟に例外はない。余所者であっても容赦はされず、その適用を受ける。
美しい蟲の声と毒草のざわめきを耳で味わい、吹き寄せる涼風を肌で感じつつ、魔術師は草原を抜けていく。草原の生物が魔術師に値踏みと警戒の視線をぶつけるが、実際に襲いかかってくる者はいない。宇宙的観点から言えば魔術師は他の有象無象共々食物連鎖の下層に位置するが、少なくともこの場においては相当上位に君臨していた。或いは恐れられているのは彼ではなく、彼が従えている諸力なのかもしれないが。
特に何事もなく草原を通り過ぎることのできた魔術師は、丘の上に続く坂道を上った。丈の短い草で青々と彩られ、輝く満月と瞬く星々に見下ろされ、群青の夜空の中に浮かび上がるかのような丘の上には、壁の一部を残して崩れ去った廃墟を思わせる建造物が見える。幻想絵画から飛び出してきたような建物は濃い星幽光に取り巻かれ、その内側には星幽光とは違う物理的な淡い光が灯る。魔術師はそこを目指して一歩一歩を踏み締めて進んだ。
魔術師は坂を上りきり、丘の頂上にひっそりと佇む建物に辿り着いた。それは石造りの四角い家屋の残骸を思わせる姿をしており、かつてあったかもしれない二階以上と天井が失われ、四方の壁のうち一つは完全に崩れ去り、他も半ば崩れていた。壁の内側からは淡い光と静かなざわめきが漏れている。
魔術師は鬼火めいた精気光の青白い輝きに誘われるようにして壁の内側に足を踏み入れた。
中は優しく清潔な香りと愉快な喧騒に満ちていた。人ならざる人影がいくつも見られ、椅子やテーブルが並んでいた。カウンターやテーブルには古めかしい精気光のランプがあり、蛍火のような半永久的輝きで周囲を柔らかく照らしている。カウンターの向こうでは輝くような銀髪の美青年が給仕姿で丁寧にグラスを磨き、部屋の隅では虎ほどの大きさの縞猫が丸まってまどろんでいる。客席には魔神や妖魔に悪魔、鬼、獣人、武仙、妖精、吸血鬼、天使やらが腰掛け、ある者は仲間と談笑し、ある者はカードその他の遊戯に興じ、ある者は静かに酒を味わい、ある者は顔を上げて星空に見入っている。種族や立場などの事情から非友好的関係にある者達同士も含まれているが、中立地帯であるこの場で諍いを起こす者はいない。仮にいるとしてもすぐに過去形になる。
魔術師が入ると、客達が窺うような一瞥をよこした。魔術師は小さく会釈を返した。
マスターが深みのある声で穏やかに言った。
「いらっしゃい、人間のお客さん」
「こんばんは、マスター」
魔術師も穏やかに答えて墓場の黒土の色をしたコートを脱ぎ、壁の洋服掛けにかけた。それからカウンター席に腰を下ろした。縞猫がのそりと体を持ち上げ、しなやかな動作で挨拶にやってきた。猫好きの魔術師は表情を緩めた。
「また来てくれてありがとう。元気そうで何よりだ。人間はちょっとしたことでいなくなってしまうから、また来てくれるかどうか、心配していたんだ」
「今夜も何度死ぬかと思ったか。帰りも同じ道通らなきゃいけないかと思うと嫌になります」
マスターに答える傍ら、魔術師は猫を構い、手触りの良い柔毛の生えた額の部分を指先で掻いてやった。縞猫は心地良さそうに目を細めて喉を鳴らし、鼻先を魔術師の膝に何度か押しつけてから定位置に戻る。
「来てくれたと思ったらもう帰りの心配かい。君は生まれた時にはもう死ぬ時のことを考えていたんじゃないかな」
マスターは微笑した。
「死を想えって言うじゃないですか」
「それで悲観的になるようじゃ考えない方がましじゃないかい。日々を楽しめとも言うよ。それはさておき、お客さんの注文を聞くとしよう。今日はどうする」
魔術師は黒板にチョークで書かれたメニュー表に視線を走らせた。綺麗な字で色々と書いてあり、いくつか気になるものがあった。
「ええと、そうだなあ、あの毒林檎のジュースって奴が気になりますね。初めて見ます。どんなのなんです」
「あれはやめておいたほうがいいよ。毒抜きをしていないから。体の強いお客さん向けだ。テッサリアの果樹園直送、と言えば君ならわかるかい」
「あ、そりゃ無理ですね。やめときます」魔術師はあっさりと諦めた。「そうですね、琵琶酒と鮭トバください。トバは一口サイズ、酒は薄めで」
「琵琶とトバだね。すぐ用意するから、少し待っていてくれ」
マスターが背を向けて棚に手を伸ばした。
魔術師はマスターが注文の酒を取り出そうとする姿を眼鏡越しに一瞥し、何とはなしに上を向いた。存在しない天井の向こう側には満天の星空が煌めいていた。雲一つない澄み渡る夜空の静まり返った群青の中で、銀の星々が瞬き、都会の空では見られない意識の陶然となる美しさを織り成している。それは星について若干の知識を有する彼が見たことのない星座、ここが同じ地球であるとは思えない奇妙な星座、ここが異界であることを雄弁に物語る星座であった。魔術師は大自然の芸術を静かな感動の籠もった目で眺めた。どれだけ眺めていても飽きることがない。まるで魂を囚われてしまったかのようであった。
「ねえねえ、そこの黒いひと」
柄にもなく風流な気分に浸る魔術師に声をかける者がいた。魔術師が振り向くと、人形用かと思われるほど小さなグラスを持った妖精が隣の椅子に腰を下ろそうとしていた。人間の大人を赤ん坊ほどの背丈に縮小したような姿をしている。肌にぴったりと張り付くような上下一体型の服を着ており、背中からは星のような儚い光を放って薄翅が伸びている。肌は妖精にしては珍しく浅黒い。世界に光が顕れた時、闇の中で過ごすことを選んだ伝説の種族に所縁のあるものかもしれない。顔立ちは端整だが中性的で、髪も男にしては長く女にしては短いため、性別は知れない。だが、魔術師の見立てでは、流線形の起伏に乏しい体つきからどうも少年のように思えた。
「……何か用かな」
黒い人との呼びかけに「お前も黒いじゃないか」と言い返しそうになるのを呑み込み、魔術師は若干の警戒の籠もった態度で応じた。妖精は油断ならない。悪戯好きの彼らの悪戯は、悪戯と呼ぶにはあまりにも深刻な結果をもたらす。
「きみ、このあいだも来てたよね。常連なの?」
「常連……と言えば常連かな。ここの基準で言えば、出入りするようになってまだ日が浅い新入りだろうがな」
「人間なのに?」黒い妖精は不思議そうに首を傾げた。「人間は何度も来ないってマスターが言ってたよ……死んじゃうか、怖がるか、見つけられないかだって」
「俺だって丸っきり素人ってわけじゃないからな。店の場所だってちゃんと捜せるし、普通の人間よりは死ににくい」
妖精は好奇心をそそられたように身を乗り出した。
「どうやって捜すの?」
「その時々によって違うな。夢で見ることもある。タロットで捜すこともある。よくわからない霊感が閃くこともあるな。はっきり決まってるのは、いつだって自分で気づかなきゃならないってことだけだ」
妖精は期待するように目を輝かせた。
「きみは占い師?」
「占い師じゃない。人からは妖術師だとか言われてるが、一応、魔術師のつもりだよ」
妖精は警戒心も露わに魔術師をねめつけた。
「なら、きみは悪い魔法使い?」
直球の問いにどう答えたものか少し迷ってから、魔術師は首を横に振った。
「いや、俺のスペルブックには悪い魔法もたくさんあるが、悪い目的に使ったりはしない」難しい顔で付け足す。「大抵はな」
「悪い魔法は悪い魔法なんじゃないの?」
「子供を生贄に、とかそれ自体が手段としてろくでもないのもいくつかあるが、そういうのは例外だ。ほとんどは、君が持ってる弓矢と一緒で――弓矢は何かを傷つける道具だろ――使い方次第だ」
「ふうん」妖精は納得したのかしていないのかよくわからない顔をしたかと思うと、さっと話題を替えてしまった。「でも、占い師じゃないのに占いをするなんて変わってるね」
「まあ、占いと言えば占いなんだが……そもそも、占いってのは未来を読むっていうよりは、根源意識や高等な存在と交信したり、未来を歪めたりする技術のことで――」
「おっと、待った!」妖精が声を高めて話を遮った。「むずかしい話は聞きたくないよ。これだから魔法使いって奴は……」
「なら、やめとこうか」
「そうしてよ」と微笑してから妖精が残念そうな顔をした。「……ということは、きみは占いはできないんだ」
「どうしてそうなるんだ」妖精の態度は魔術師の虚栄心と自負心を引っ掻いた。「できないとは言ってないだろ、できないとは。専門じゃないが、それなりに知識はある」
「よかった」妖精がまた笑顔になった。「だったら、お願いがあるんだ。ぼくのことも占ってみてよ」
妖精の言葉の終わりに被さるように歓声が上がった。酒場の隅のテーブルからである。魔術師は視線を転じた。そこでは魔界の大物達がカード遊びに興じていた。一勝負ついたようで、月と星と洋燈のか細い灯りの中で煌めく、テーブル上のペクニア金貨が吸血鬼の子爵の前に押し集められている。
興味を失い、視線を妖精に戻す。
「何を知りたいんだ。忠告しとくが、真剣な占いはやめといたほうがいい」
「どうしてだめなのさ」
魔術師はたまにはこういうことがあってもよかろうと思い、相手をしてやることにした。椅子の向きを変えて妖精に向き直り、カウンターに片肘をつく。
「わかりやすく話してやるから、ちゃんと聞けよ」
魔術師の横にそっと注文の品が置かれた。まるで最初からそこにあったように、暗い中で淡く輝く夜光杯の水面には、小波一つ立っていない。カウンターのほうを見ると、マスターが口の動きだけで「ごゆっくり」と言った。魔術師は目礼を返した。
マスターと魔術師の短い無言のやりとりが終わるのを待っていたかのように、妖精が頷いた。
「うん、ちゃんと聞くよ」
魔術師は琵琶酒を一口味わった。癖のある上品な甘味が口に広がった。濃さはちょうどよい塩梅である。仄かな熱と甘さが彼の鼻の奥をくすぐり、冷たい流れと共に臓腑へと落ちていく。
すると、冷たさから逃れるかのように、液体が触れた場所から熱さが全身に走り始める。早速酔いが回り始めていた。
一滴も飲まずに酔うことができ、甕を乾かしても酔わずにいられるという中華の仙人のようにはいかないが、魔術師も己の酩酊をある程度制御することができる。だが、それでは何のために酒を飲むのかわからない。彼はこの場においてその制御能力を発揮する気にならなかった。ここは意に沿わず出席を強いられた宴席ではないのである。
魔術師はアルコールが体を侵していくのを認識しながら、ゆっくりと口を開く。
「占いが先を読む術じゃないってことはさっきちらっと言ったよな。ちゃんと憶えてるか」
「ばかにするな!」
「ああ、悪い悪い」口先だけで謝り、魔術師は続ける。「俺が研究したところじゃ、占いの奥義は二通りに分かれる。まず、一般的な『占い』のイメージに近い奴からな。世界の情報――いや、流れみたいなもんかな――を読む奴だ。アッシャーからアツィルトまででも、用語は何だっていいから、とにかく宇宙のあらゆる階層の情報をできるだけ集めて、そこから問いの答えを導き出すんだ。雲が妙に黒いから雨が降りそうだとか、そういうのを思いっきり複雑にしたようなもんだよ」
「よくわかんないけどすごそうだね」
「実際凄いんだよ。ただまあ、こいつは物凄く難しいし、俺程度のレベルじゃ実用性もないんだけどな」と指折り欠点を挙げていく。「まず、やることのスケールがでかすぎるから、作業は全部無意識に任せることになる。イエソド辺りの表層無意識じゃないぞ。ケテルの神性や非我の領域まで潜る――根っこが上にある逆様の樹の根を目指すんなら、『登る』が正しいのか? もう頭で考えられるレベルじゃないからな、自分でも何がどうなってそうなるのかわからない直感みたいなものに頼るしかない。これがまた物凄く疲れるんだ。一回やると、もうその日は他に何かする気にもなれないってくらい疲れる。俺の場合は終わったら、気を抜くとそのまま寝ちゃうくらいだ。で、無意識様が答えを見つけ出してくださったとしても、そのままじゃ頭で理解できないから、そのあやふやなイメージを心の奥から引っ張り出して解釈しなきゃならない。まともに言葉にできるようなものじゃないから、その解釈がまた難しい。しかも、その難しい暗号を苦労して解釈しても、それが当たるかどうかはまるでわからない。結局、全知には程遠いわけだから、集まる情報も所詮限られてるし、それが正しいかどうかも確かじゃない。その上、宇宙の本質はカオスだ。流れはコロコロ変わる。占いの結果はその占いをやった時に予想できるものでしかない。十秒後にもう一度占って同じ結果になる保証はない。そういう意味じゃこの手の占いは、劣化したラプラスの魔の業だな。不確定性原理を知ってるか」
滔々とそこまで語った魔術師は、早くも酒が回り始めたように熱っぽい頭の中で、ふと妖精の相槌が聞こえないことに気づいた。改めて注意を向ければ、妖精は目を瞬かせ、呆気に取られたような顔をしていた。
久しぶりに誰かに魔術を語る機会を得たせいか、はしゃぎすぎたらしい。彼は失敗を悟った。
「……ああ、つまりだ」と取り繕うように続ける。「不確定性のことは忘れていい。つまり、つまりだ、このタイプの占いでわかるのは、ちょっと考えれば誰でもわかるようなこと……要するに占うまでもないことだけだ。しかもそれだってたまに外れる。難しいだけで実用性がないってのはこういうことだ。わかったか」
妖精は白けたような半眼で魔術師を見上げ、不満そうに唇を尖らせた。
「それなら最初からそう言えばいいじゃないか。むずかしい話ばっかりでわかんないよ」
「悪かった。次はもうちょっとわかりやすくしてみるから……」
魔術師は二つめの奥義をどう語ろうか思案しながら妖精をなだめる。
「もっと簡単に話してよね」
「よし」と魔術師は頷いた。「それじゃ名誉挽回するぞ。占いのもう一つの奥義のことを話そう。こいつはつまり、未来を歪める術なんだ」
さきほどの失敗を踏まえ、勝手に話を進めることはせず、魔術師は妖精の反応を窺った。
妖精が首を傾げて聞き返す。
「未来をゆがめるって?」
「たとえば、君が明日、何かごちそうにありつくと結果が出たとしようか」
「ごちそうってどんなのかな。夜薔薇の蜜かな。それとも大蝗の丸焼き? 沼蜥蜴の肝?」
妖精は涎を垂らしそうな顔でうっとりと言った。
「俺に訊くなよ。そこは別に重要じゃないから気にしないでくれ」
「そうなんだ。ならそうするよ……あ、その干し魚もらっていい?」
「忙しい奴だな。ちょっと落ち着けよ」魔術師は嘆息した。「……一切れだけだぞ」
「やった、ありがとう! きみはいいひとだね!」
妖精は赤い鮭肉を手に取り、端っこに齧りついた。魔術師からすれば小さなその肉片は、体の小さな妖精が持つと、ひどく大きく見えた。何しろ、マスターが切り分けた鮭トバは、一つ一つが妖精の握り拳に近い大きさである。妖精の感覚では肉塊に等しいであろう。
「それで、君がごちそうにありつく未来を占いで見たとするとだな、この宇宙全体の流れが、君がごちそうにありつく方向に動き始める。つまり、占いと結果の関係は逆なんだ」
「逆……」
妖精は考え込むように首を傾げた。
「決まった未来を占いで読み取るんじゃなくて、占いで未来を決めちゃうんだよ。だから、もし君がごちそうにありつくって結果が出たらそうなるし、逆の結果ならその通りになる」
「ふうん……」妖精は少し考え込むそぶりを見せた。「ってことは、真剣な占いがだめっていうのは、それで結果がひどかったら大変なことになるから?」
「正確には『なるかもしれない』だが、まあ、大雑把に言えばそうだな」魔術師は妖精の意外な呑み込みの良さに目を細めた。「なかなか頭がいいんだな」
「そ、そうかな」
妖精がえへへと子供のように笑った。
「ああ。ちゃんとものを考える頭を持ってるよ。そこらの連中とは違うな」
「そんなこと言われたのはじめてだよ。ところでさ、話を聞いて思ったことがあるんだが、いいかな」
「思ったこと?」
魔術師は聞き返した。思いも寄らない聡明さを示した妖精が何を言うか、少し興味があった。
「占いが未来を決めるんなら、どうして占いにはずれがあるのかな、って。それからさ……いい結果だけが出るようにしむけられないの? 悪い結果をなかったことにしたりとかでもいいからさ」
「結構鋭いな」掛け値なしの褒め言葉が口を衝いて出た。「いいところに目をつけた」
妖精は照れ臭そうにそっぽを向いた。
「そんなに褒めないでよ」
「まあ、みんな一度は考えることなんだがな」魔術師は簡単な言葉でどう説明したものかと考えながら語る。「まず当たり外れの話は簡単だ。占い師の力が足りないから外れるんだ。考えてもみろよ。宇宙の流れを変えるんだぞ。簡単にいくわけがない。明日の夕飯の献立程度なら、些細なことだから的中させるのもそう難しくはない。だが、日付が変わってから三十五番目に口を利く相手は誰かとか、どの株が値上がりするかとか、国がいつ亡びるとか、そういうのはまず当たらんね。細かい操作は難しいし、たくさんの要素が複雑に絡むことや大きなことは一個人の意志じゃまずどうにもならない。それから、占われる相手の意志のほうが強くてもだめになりやすいな。そういう奴は占いの結果を撥ねのけるから。気に入らない結果なら尚更だ。他の占い師が矛盾する結果を出したときも、自分の腕がよほど相手より良くない限り、占いの結果通りになるのを邪魔されて、外れることになる。だから、そういう意味じゃ、悪い結果をなかったことにすることはできる。ここまではいいか」
「え、あ、うん……わかった……と思う」妖精は難しい顔をして自信がなさそうに言った。
「わかったんならいいや」魔術師はその頼りない態度を礼儀正しく無視して先に進む。「で、次、いい結果だけが出るように仕向けられないかって話だが……できると言えばできるし、できないと言えばできない」
「何それ」妖精が綺麗な顔を怒りで険しくした。「もしかして、ぼくをばかにしてる? ぼく、からかわれるのって好きじゃないんだけど」
「そんなつもりじゃない。気に障ったんなら謝るよ。悪かった」
魔術師は慌ててなだめた。妖精は儚げな見た目からは想像もつかない強くて厭らしい魔力を持つ。なるべくならば敵に回したくない種族である。
「じゃあ、どういう意味なのか説明してよ」
妖精は疑わしげな目つきで魔術師を見ている。
「これは……そうだな……まず、イカサマのやり方を一つ教えてやるよ。たとえば、コインの裏表で占うとする。ここで、結果を自分に都合のいいものだけにするんだ。裏が出たら明日はいい日、表だったらもっといい日、とかな」
「……それ、ずるくない?」
「物凄くずるいが、ルール違反じゃない」魔術師は詐欺師のように微笑した。「でも、このイカサマは欠点があるんだ。なんだかわかるか」
「欠点……」妖精が首を傾げて考え込む。しかし、いい答えが浮かばなかったようで、大袈裟な身振りと共に「降参!」と言った。「ぜんぜんわかんないよ」
「答えを教えてやるよ。欠点は二つだ。一つは、本人が心の底からそれが正しいと思う方法じゃないと意味がないことだ。魔術は一点集中された意志の迸りだから、そこに疑いがあっちゃいけない。それは力を弱める不純物だ。さて、そんな都合のいい占いを心から信じられる奴がどれだけいるかね。二つめは、仮に信じる心があったって、前以て結果を指定できない占いには使えないことだ。タロットや易でも、腸占いでも土占いでも星占いでもいいが、ある程度決まった基準で結果を読み取るタイプのものなんかがそうだな」
「それって、よくない結果になるカードを抜くんじゃだめなの? それか、全部いいように受け取るとかさ。そうすれば、いい結果だけになるんじゃない?」
魔術師は首を横に降った。
「それをやると占い自体の効果がなくなる。難しい話は嫌いだって言うから大まかに言うが、占いを多少でも齧った奴にとって、占いはそういうものじゃないからだ。全部上手くやればそうできるが、全部上手くやるのはまず無理だって言い換えてもいい。タロットで言うなら、まず、七十八枚揃ったデッキを使うから効果があるんであって、一枚でも抜いたら占いが成立しなくなる。仮に適当に一枚抜いたタロットデッキでやる占いを考えたとしても問題はまだ残ってる。出た札を見て、それがどんな札だろうと不吉な印象を持たずにいられるって奴はまずいない。いるとしたら気違いか神様か、何も知らない奴くらいだな。でもって占いは第一印象が全てだ。結果を見て最初にちらっと思ったことから解釈が広がっていく。たとえば『死』のカードが出て嫌な気分になったとしたら、もうその解釈は何かしら都合の悪いものになるに決まってる。それをなかったことにして、たとえば『死』を新しい自分に生まれ変わる予兆だとか、そんな風に丸っきり都合のいい解釈をでっち上げたって無駄だ。普通に祈るのと変わらない」
「そうなんだ……でもさ、でもさ、それなら、なんで魔法使いは占いなんか熱心にやるの? なんか、占いって、聞いてるとぜんぜん役に立たないみたいなんだけど……そんなことするくらいなら、自分でがんばったほうが絶対いいよ」
「……君は本当に頭がいいな。その辺の妙に物分かりのいいふりをしたお利口面の学生なんかより、よっぽど頭を使ってるし、正直だ。特にその正直さは俺も見習いたい」魔術師は心底からの讃嘆の念を抱くと共に、酷い悲嘆にも見舞われた。魔術師を目指す教養と学識に富んだ学生達よりも、目の前の無知無学な妖精のほうがよほど物事の本質を見ているように感じられたのである。そしてそれは彼が憧れる学問の敗北を意味した。「……そうだ、君の言うとおりだ。占いなんか、普通に考えるなら役立たずもいいところだ。統一ってものがない」嘲りを籠めて乾いた笑い声を立てる。「……いや、占いに限らないな。そもそも、魔法や超能力って意味での魔術なんてものはだ――どいつもこいつも程度の差はあれ目を逸らしてやがるが――物質的な領域での手段としちゃ、本質的にろくでもないもんだし、効率も悪いんだ。その領域に一番適した手段を使う。これが魔術の一番基本的な原則だ。物質界のことは物質界のやり方で、星幽界のことは星幽界のやり方でってことだ。まあ、俺はそんなの守ったことないし、きちんと守ってる奴も見たことないけどな。だから、魔術でしかできないことをやる魔術が高等で、単なる代替手段でしかないものは全部下等魔術で黒魔術だ」酒を一口含む。頭の奥が微かに熱くなった。「恋を叶える白魔術? 誰かの心をいじくっといて白とか、なめてるのか。金運アップのおまじない? 誰かに金が入る流れを捻じ曲げるんだろうが。性欲や物欲満たすんだろう。どう考えても左道じゃねえか。好きな奴がいるなら好かれるように準備してから好きだって言う。金が欲しいなら働いて稼ぐか博奕か宝籤に手を出す。それでだめなら諦めるかもっと頑張る。それが手っ取り早い上に真っ当なやり方ってもんだし、白黒で白と言いきれるのは精々――それでもはっきり言ってほとんどはグレーなんだが――自分の努力が上手くいくよう後押しする程度だ。結局、最後の最後は自分でやるっきゃない。それをサボろうとする下等魔術ってのは、要するにカンニングや裏口入学、でなきゃ鉄筋の代わりに竹竿突っ込むみたいなもんでな、本来のやり方に比べてむしろ手間がかかったり、その場しのぎの幻でしかなかったり、どこかで歪みが出たりするわけだ。わかるか、つまり魔術師ってのは、まともな手段で目的を達成できない無能か、そうする気が欠片もない駄目人間が大半なんだよ」自他への軽蔑も露わに断じた後、気分の切り替えのために話の方向性を変える。「……それにしても、自然にああいう発想――自分で頑張るほうがいいって奴だ――が出るっていうのは大したもんだよ」
声に羨望が滲む。
「もう、そういうお世辞はいいからさ、その先を聞かせてよ。役立たずならどうしてありがたがるのさ」
言葉とは裏腹に、妖精は満更でもなさそうな態度で表情を緩めていた。
「ああ、わかった。なんで占いをやるか、だよな」考えを整理しながら答えを返していく。「結局のところ、それが魔術の極致の一つだからだ。奥義も少なくとも二種類あって、あくまでもその片方でしかないけどな。片方は宇宙の流れに従うことで、もう片方は流れに逆らうことだ。宇宙の流れになじむ形で義務や願望を果たすのが従うほうで、流れなんか気にせずやりたいことをやろうとするのが逆らうほうだ。どっちかって言うと、俺は逆らうほうが好きだ。黒魔術って言われることもあるけどな」
妖精が疑わしげに自分を見ていることに魔術師は気づいた。話が脱線するのではないかと危ぶんでいるのだろう。
「大丈夫だ、まだ本題からそれほど外れちゃいないから」と手を振り、説明に戻る。「『魔術とは意志に従って変化を起こす科学であり業である』。大抵の魔術師はこの言葉の行き着く先を意志による星幽光――厳密には宇宙の根源的なエネルギーだかマテリアルだかなんだろうが、実際はそれそのものまではいかないでその派生物の操作をやるのがほとんどだからそう言わせてもらう――の操作だと思ってるみたいだが、俺の考えだとそうじゃない。それは現れる結果であって、魔術という原因そのものじゃない……ちょっと難しい話だが、ここまではわかったか」
「う、うん……なんとかわかったつもりだけど……」
「まあ、この辺りはなんとなく理解すればいいから、あんまり気にするな……それでな、さっきも言ったが、魔術の基本は意志による変化の発生だ」言ってから、実例を示した方がわかりやすいと考え、マスターに声をかける。「マスター、ちょっと魔術を使ってもいいですか」
「何をするんだい」
「軽く光の球を出すだけです。いいですか」
「それならいいけれど、他のお客さんの迷惑にならないようにね」
「ありがとうございます」礼を言ってから、酒の残りを飲み干した。「次はドクペのウオッカ割りをください。ウオッカはほんの香り付けくらいでいいですよ。俺、そんなに酒の強いほうじゃないんで」
「氷は?」
「適当に放り込んどいてください」
「わかったよ。少し待っていてくれ」
夜光杯を引き取り、マスターは背を向けて棚に手を伸ばした。
「待たせたな」魔術師は妖精に視線を戻した。「今からちょっと魔術を使うから見てろ」
「うん、見せて見せて」妖精は手品をせがむ子供のような顔をした。「どんな魔法を見せてくれるの? 楽しみだなあ」
魔術師は彼の宇宙観の表象である万能章を握って精神を集中し、酒場に漂う、何物にも固着せず特定の形も取っていない自由な星幽光に意志の力で働きかけた。星幽界に充満する星幽光を伝導体とし、目的とする位置を漂う星幽光に意志を伝える。意志を伝えられた星幽光は魔術師の望みに従い、凝集して精気光へと変質し、物理的実体を伴う視認可能な小さな蛍火となって妖精と魔術師の間に現れた。
「うわあ、きれいだね。ホタルみたい」頼りなく漂う優しい光を見上げ、妖精が無邪気な感嘆の声を上げた。「こんなにきれいなものを作れるなんて、きみはすごい魔法使いなんだね」
「こんなのは初歩の初歩だ。ちょっと練習すれば誰だってできる」
満更でもない風に魔術師は言った。口ぶりとは逆に、彼は自尊心が心地良く満たされるのを感じていた。
「でも、きみの魔法はすごくきれいだよ。ぼくは目がいいんだ。だからわかるんだ。こんなきれいなものを作れるのは、すごい魔法使いだけだよ」
「……褒めてくれてありがとうな」
自分が所詮素人であり、正式な修行を積んだ魔術師に遠く及ばないことは、彼自身がよく理解していた。所詮、彼は体系的な魔術教育を受けていない。教育を受けた魔術師達が言うところの「妖術師」である。裏のないまっすぐな褒め言葉は、いくつも重ねられることによって、彼の中に、照れ臭さではなくむしろ恥ずかしさを呼び起こした。複雑な感情をごまかすために赤い魚肉片を口に放り込み、小さな光球を消す。
「あ、消しちゃうの?」
妖精は名残を惜しむように虚空を見上げた。
魔術師は鮭トバを奥歯で噛み潰して飲み下してから答える。
「もう用済みだからな。今、俺は意志の力で星幽光を動かした。でも、星幽光が動いたのはあくまでも結果だ。俺が魔術の灯りを点したいと意志したからそうなったんだ。星幽光を操る力を使ったからそうなったんじゃない。たとえ、『エメラルドタブレット』が暗示するように、この宇宙が全て星幽光――根源的な『光』、第一質料、火花、シャクティ、プラーナ、霊気、なんでもいいんだ――で作られてて、全てはそれが変質したものに過ぎないんだとしてもな。なぜなら、もし意志さえもその根源的質料から生まれたんだとしても、意志そのものは根源的質料からは独立してるはずだからだ。魔法を除外した限定科学で言えば、油が燃焼したとき、燃え上がる火と熱は一繋がりではあっても厳密にはそれぞれが別物だ。そうだろう。そして意志ってのは魔術の起爆装置だ。意志することで魔術が発動する。今の理論はこのことを理由にして意志と根源的質料への干渉を直接結びつけている。確かに質料への干渉は意志によるものだろう。だが、意志は根源的質料の変成物への干渉手段でしかないのか? もし単にそういうことなんだとすると、魔術の成就過程の説明がつかない」
「ウオッカ割りが出来たよ」
魔術師が言葉を切ると、それを待っていたかのように、早くも結露を始めた夜光杯がカウンターに静かに置かれた。濃褐色の水面で炭酸の泡が弾けている。
「どうも」礼を言って早速冷たい液体を一口含んだ。爽やかな炭酸と複雑な甘味の中にアルコールが豊かに香った。顔の表面が更に熱を帯びたような気がした。「うん、美味い。でも、ちょっとウオッカが多すぎますね。俺にはきつすぎます」
魔術師は赤みを帯びた顔を手で扇ぐ真似をした。
「ほんとだ、たったそれっぽっちなのに顔が真っ赤になってる」
妖精が指さして笑う。
からかいには応じず、魔術師はマスターとの会話を続ける。
「いやね、下戸のくせに飲みたがる馬鹿が友達にいるんですがね、あいつはこの手のものを頼むと、酒は香りつけ程度にしてくれとか言うんですよ。俺はさすがにそこまで言いませんけど、でも、本格的なのはきついですね」
マスターが微笑む。
「それはすまなかったね。次からはもっと減らすようにするよ」
また部屋の隅で歓声が上がった。今度は麻雀に興じている連中だった。何やら興奮している様子で、近くの席にいた連中も何事かと覗き込んでは、困惑して首を傾げたり、驚いて目を丸くしたりしている。
理由はすぐに知れた。
「余にネクトルを」この世のものとは思えない美貌を輝かせて、魔界の公爵が尊大に言った。「九蓮宝燈の祝い酒よ。なみなみと、溢れんばかりに注ぐのだ」
「わかった。今持っていくよ」はしゃぐ子供達を見守る大人のように優しいまなざしを向け、マスターがゆっくりと問いかけた。「他のお客さんも、何か注文はないかい」
「デッドリー・アップルをもう一杯。次は林檎をもっと増やして構わない」
古びた稽古着姿の武仙が言った。年齢不詳の男の口から押し出される呟くような声は、不思議と喧騒に呑み込まれることなく、魔術師の耳にも届いた。
魔術師は必死に話を理解しようと努めているらしい妖精に向き直った。話を展開していくための布石となる質問を放つ。
「さて、ここで一つ簡単なクイズといこう。意志が単なる根源的質料の変成物の操作能力の別名でしかないと考えた場合、魔術の成就過程が説明できません。それはなぜでしょう」
妖精は瞑目し、言葉の意味を吟味するように真剣な顔でじっと考えたが、やがて肩を落として溜息と一緒に言葉を吐いた。
「ごめんね。がんばって考えたけど、なんにも思いつかなかったよ」
「気にするなよ。こいつは本職の魔術師でもなかなかわからない問題だ。いや、本職の魔術師だから気にしないのかもな。他にもっと大事なことがいくらでもあるし、何より公理みたいなもんだから、大抵の奴は端っから考えないんだ。数学者だって、たとえば数学という概念の存在しない状態で数学的思考が成り立つかどうか、とか普通は考えないだろ。考える奴がいたとしたって、本業そっちのけで熱中したり、大真面目に研究を発表したりはまずしない。こんなのは哲学者や雲水の領分で、納得のいく答えなんぞ出てくるとは思えない。俺だって元々はそうだった。学生時代の友達――そいつは魔術師じゃない――がこんなことを言い出したもんだから、なんとか答えてやろうと思ってあれこれ考えるようになったんだ。まあ、ドイツのフォン・ガイストって魔術師が大昔に『驚嘆すべき意志の可能性』って論文で触れちゃいるが、フォン・ガイストにしたって、その辺は結局『証明不可能の命題』っつって放り投げてたしな、現に」魔術師は早くも酒が回って赤らんだ顔で微笑した。「解答を言うと、意志と成就の間にもう一つ二つ段階があるはずなんだ。いや、こう言ったほうがわかりやすいかもな。たとえば走るってことを筋肉や脳の働きを一々説明せずにただ『走る』とだけ言うのと同じように、『意志』ってのも厳密には区別可能ないくつかの機能の有機的な連なりを一言で表現したものでしかない、ってな。モジュールみたいなものだ。まあ、俺もめんどくさいから普段は全部『意志』で通してるんだが……それはそれとして意志と成就の仕組みの話に戻るが、たとえば、飲み物が欲しいと思ったとするだろ。そうしたら、脳から腕に神経経由で、どの筋肉をどの程度の強さでどの程度動かして……って具合にやたらと複雑な命令が出て……」卓上のグラスを掴んで持ち上げ、口をつけ、元に戻す。また少し頭の奥が熱くなった。「こうして喉を潤すことができるわけだ。君と話したいと思ったなら、脳味噌が浮かんだ思いを具体化して言語に翻訳する一方で、神経を通して口や舌や声帯に命令して、こうして物理的な音声にして相手に内容を伝える。何にしても、思いで酒を飲んだり話したりするわけじゃないんだ。要するに『酒を飲みたいと思ったので飲んだ』ってことであったとしてもな。魔術的操作と意志の関係だけがそうじゃないと、なんで言いきれるんだ。俺は、意志ってのは必ずしも単に質料に働きかけるためだけの道具じゃなくて、もっと根本的なものでもあると思ってる。俺達が知ってる魔術の動作手順は、何か変化を望む意志――これが本来の『意志』だ――が生まれて、『何か』――今はこれも『意志』って呼ばれてる――がその手段として質料操作を選んで、それを実行する機能――これも『意志』で一括りにされてる――に命令を伝達するってものなんじゃないか、とな。要するに生き物の体みたいに整然とした有機体的結合だ。でなけりゃ、ガイストみたいなのが言うように、意志ってものそれ自体が、キリスト教の三位一体やセフィロトの樹みたいな意味で一体化した不可分の、たとえば願望、選択、実行みたいないくつもの機能なり性質なりが溶け合わさって出来てるんじゃないか、だ。こっちは色々ぶち込んだカクテルみたいな渾然一体だな。ガイスト系の考え方なら、意志の本質は『影響力を持つ願望』ってことになる。望んだ瞬間にその強さに応じて必要なものを必要な通りに動かすんだ。もしそうだとすれば、理論上、意志は星幽光がなくても変化を起こせることになる。個人的にはガイストのほうに惹かれる。結局、心だの意志だのはそんなに秩序正しいものじゃないだろうと思ってるからだ。まあ、たとえどっちだろうと――どっちでもなかろうと――今言ったような諸々の細かい作用をひっくるめて『意志』って一つの言葉に要約してる部分はあるんだろうな、つまりは。しかしまあ、今の理論はここで結論にしちまうんだが、俺としてはもうちょっと突っ込んで考えたくもある。そりゃ、実用面から言っても研究面から言っても――それ以上の考察は宗教か良く言って疑似科学だ――ここで考えを止めて、最初の質料とその変成物の存在を暗黙の前提――言うなれば公理公準だ――に置くのが正しい態度なんだろう。それはわかってる。だけどな、俺はどうしても考えちまうんだよ、意志は星幽光の対応物でしかないのか、それとももっと根源的なものなのか、もし根源的なものだと言うんならどうすればそのことを説明できるのか、ってな。もっとも、人生懸けるほど真剣に考えてるわけじゃないし、そこまで深く考察できてるわけでもないんだが……何、単なる暇潰しの哲学ごっこだ。話を戻すが、一応、意志の源泉がどこかは大体わかってる……と言うか、定義はされてる。アダム・カドモン図で言うところの、真の自己にして神性――もしくはそれにキアとネシャマーを加えた三位一体――が第一候補だ。この辺りが『真の意志』って呼ばれてるものの正体だか源泉ってことでいいだろう。いや、もしかすると、この更に上、聖守護天使そのものかもな。だが、俺達はこの真の意志に逆らって動くこともできる。とすると、それは真の意志に対する偽の意志があるってことだろう。これは偽の自己か、自我辺りにあるんだろう。そして俺達は普段、真の自己じゃなくて偽の自己や自我に従って生きてる。偽の自己も自我も、真の自己に所属しながらもある意味じゃ独立してるってことだ」
口の中が乾いてきたので、魔術師は更に酒を一口含む。炭酸の抜けかけた甘ったるいアルコールが口内で立ち上って鼻腔を焼いた。魔術師は堪らず小さく呻いて頭を振った。
「えっと――」
「だけどな」戸惑い顔で遠慮がちに口を挟もうとする妖精に被せるようにして更に続ける。「考察はここで行き止まりなんだ。ここから先には進めない。こうやって意志の階級めいたものは区別できても、それは結局のところ、偽物だろうと本物だろうと意志は意志ってことで、結局は『下のものは上のものの如く、上のものは下のものの如し』の通りの相似形の照応であることの説明にしかならない。それぞれの意志の内部構造的な話にはまるで繋がらない。とどのつまり、論理的、科学的に考えるんであれば、意志はブラックボックスだと言うしかない。魔術師らしくセフィロト図を持ち込んで考えるにしても、心理学や精神分析学を持ち出すにしても、これ以上の考察はもう仮説どころか宗教だな……」魔術師は段々と話が脱線してきたことに気づき、一旦口を噤んだ。酒を一口含んで間を持たせ、話を再開する。「……まあ、つまりだ、もう一度まとめると、『質料を操る力』は必ずしも意志とイコールじゃなくて、意志はそれに働きかける着火装置か、それを含むもっと大きなものじゃないかと俺は考えてるわけだ。だから、理論上、意志は質料の操作以外の手段で変化を起こせる。もし質料以外の選択肢があれば、ひょっとしたら、意志はそっちを使うことを選ぶかもしれない。脳味噌だって馬鹿じゃあるまいし、右手が塞がってたら左手を使うくらいの知恵はあるだろ。まあ、どうも本を正せば宇宙全てが何か根源的な質料で出来てるらしいから――つまり左手なんかそもそも存在しないみたいだから――検証不能な永遠の仮説なんだがな。しかしだ、宇宙の始まりって奴を考えてみろよ。質料の宇宙が生まれる前のことだ。質料の存在しない無――いや、その更に前の語りえぬものか――の時期が確かにあったはずだ。左手はあったかもしれないんだ。日本の天地開闢でもいい。『古事記』じゃ天地の誕生は語られてないが、その前が存在しないのはおかしい。どんな形であれ、その前の状態は確かにあるはずだ。『日本書紀』だと原初の混沌が語られてるが、これもやっぱり混沌の前があったはずだ。中華の盤古は、寓話として捉えれば、質料のない世界に第一質料の塊が現れて、宇宙中に拡散していく過程にこじつけられる。太極以前に存在する道やその原点にあるはずの無の話を考えてもいい。『創世記』の天地創造の話でもいいぞ。始めにあったのは闇だ。そこで、『神』と呼ばれる誰かが『光あれ』と唱えた途端、光が生まれた。光はつまり第一質料のことで、そこから順に創造が行なわれたとすれば、質料の前に魔術師と魔術があったという切り口を見て取れる。ついでにカバラも持ち出そうか。カバラの世界観じゃ、顕現は無限光の流出によって行なわれた。光、ここでも光だ。でも、それ以前には無限と無があって、その向こうに不可知の偉大な根源――定義すらできないもの――って言った時点でそれがそれでなくなっちまうもの――がある。『創世記』と一緒で、第一質料以前のゼロがあったんだ。創世の哲学はいつだって『原因なき原因』を隠し持ってる。神話なんて御伽噺にどこまで信頼性があるかは疑問だけどな、寓話や論理的推論という意味じゃかなりの価値が――」そこまで語ったところで、妖精が困惑しきった様子で自分を見ていることに魔術師は気づいた。「……悪かった」
妖精はおずおずと口を開いた。
「あの、ごめんね、話がむずかしすぎてついてけないよ……占いのことって、そんなことまで知らないとわかんないの?」
「ああ、いや……確かに、この辺りは、魔術を勉強したことのない奴にはピンと来ないかもな。悪かった。いろいろ脱線した」酔いが回って口数が増えてしまったのかもしれない、と魔術師は反省した。「要するに魔術は意志の力で宇宙を変えるものだってことだけ憶えといてくれ。それで十分だ。今はそこが大事だから」
「わかった」妖精の表情が明るくなった。「意志は宇宙を変える、だね。おぼえたよ」
「そうだ。それで、話を占いに戻す。占いは未来を決める術だって言ったのは憶えてるな」
妖精は頷いた。
「いいぞ。君はやっぱり優秀だ。占いは何もカードやサイコロが未来を決めてるわけじゃない。占い師の意志が結果に刺激されて宇宙を変えようとするんだ。サイコロの出目を見て意志が決まるって言えばわかるか。タロット占いを例に少し詳しく話すが、まず、決められた手順でタロットを弄っていくうちに、精神状態が宇宙に働きかけるのにちょうどいい状態に変化していくんだ。わかりやすく言えば、占いモードになるわけだな。そうだな、もしピンと来ないんなら、こういう風に考えればいい。いい武器を持ってると自信がついて、普段より調子良く体が動いたりするだろ」
「うん。するする。弓を新しくしたときなんか、気分が良くていつもよりたくさん獲物が獲れちゃったよ」
まるで今がそのときであるかのように、妖精は屈託なく笑った。我が意を得たり、と魔術師はほくそ笑んだ。
「それと同じような感じで、心が魔術用に切り替わって、集中が高まるんだよ。で、結果が出るとそれが力の行き先になって、儀式の中で高まった意志が一気に動き出すんだ」
妖精はすぐには答えなかった。難しい顔でじっと考え込んでいた。魔術師は真剣な思案を尊重して、黙って答えを待った。
少しして妖精が、理解できない、と言いたげな顔で口を開いた。
「それなら、別に占いじゃなくてもいいんじゃない?」
「と言うと?」
「ええっと、儀式だっけ? 他にも同じようなのがあるんなら、占いじゃなくてそれでもいいんじゃないかな。どうして占いがいいってことになるの?」
「いいところを突いてくるな」魔術師は微笑した。「他の儀式魔術と占いには決定的な違いがある」
「違い?」
妖精が小首を傾げた。
魔術師は口の中が乾いてきたことに気づき、答える前に酒を一口含み、舌を湿らせた。複雑な甘味と炭酸の刺激に目を細める。グラスを卓上に戻し、ゆっくりと答える。
「そう、違い。他の魔術と違って、占いには具体的な目的がない。ほら、他の魔術は、こうしたい、ああしたいっていう明確な目的があるだろ。金が欲しいとか、誰かを痛い目に遭わせたいとか。でも占いは、引いたカードが目的――力の行き先だな――を決める」
「占いだって、未来を決めるって目的があるんじゃないの?」
「それは魔術の原点そのもので、特別な目的ってわけじゃない。他の魔術だって、厳密に言えば、現在より後に何かを起こすわけだからな」
「魔術の、その、原点だから、奥義ってこと?」
「いや、そういうわけじゃない。むしろ、原点そのものってところを見るなら、魔術としては随分と粗いな。何て言ったって、本当にそれだけ、何か変化を起こすってだけだから。そこには、こうしたいって主体的な意志ってものがない。何が起こるかを決めるのはタロットや筮竹のお告げであって、占い師自身じゃない。それは偉い神様だの大師だのからありがたい御言葉を一方的に受け取るだけと変わらない、奴隷の魔術だ。一見、宇宙に自分の意志を押しつける大魔術だが、肝心の意志が空っぽだ。宇宙に号令する魔術師の魔術じゃない。そういう意味じゃ、原始人が得体の知れない何かに盲滅法に縋って、ああしてくれこうしてくれ幸せをくれ助けてくれと祈った原始宗教のほうがまだ洗練されてるよ」
魔術師の顔の肉が微かな笑みの形に歪んだ。そこには本人にしかわからない自嘲の色があった。彼が用いる魔術にしたところで、一歩間違えれば散々馬鹿にしてみせた奴隷の魔術に堕す手法なのである。
「結局、占いの何がそんなにすごいのさ」妖精は苛立ちの窺える表情で魔術師を見上げた。「もったいぶるのはやめて、さっさと教えてよ」
自嘲の笑みを噛み殺し、魔術師は妖精をなだめる。
「ちょうどその話に入るところだ。もうちょっと辛抱してくれ」
「……本当?」妖精が詐欺師を見るような目で魔術師をねめつけた。「魔法使いはうそをつかないって言うけど、そんなのうそだってぼくは知ってるよ」
「本当だ。とりあえず聞いてくれ。今までの話をまとめると……魔術は意志で変化を起こす行為、占いは儀式魔術だが一般的な魔術と違って具体的目的がない。こういうことだが、これは理解してるよな」
「一応してるよ」
「それにもかかわらず占いが一つの極致とされるのはなぜか。それをこれから話してやろう」
魔術師の顔をじっと見上げ、妖精が露骨な警戒を示した。
「むずかしい話はやだよ」
「そんなに難しいことは言わないから安心してくれよ。いや、信じてくれ……さて、占いが魔術技法の極致と言われる理由は、主体的意志決定が省略できることだ」妖精が怪訝な顔をしたのですかさず続ける。「一つ、喩え話をしよう。君、弓は使えるんだろう。妖精の弓って言ったらえげつないことで有名だが」
「もちろん!」妖精は薄い胸を張った。「ぼくは森一番の射手だよ」
「そいつは大したもんだ。じゃあ、その一番の射手様にお訊ねするが、狩りとかはするのか」
「するよ。ぼくはトカゲ狩りとゴブリン狩りの名手なんだ」
きっと人間狩りも上手なのに違いないが、魔術師は敢えてそれを言わなかった妖精の気配りを汲んだ。
「なら、君は今、狩りをしてるとする。獲物を待ち伏せしてるんだ」
「どんな獲物?」
「あー……まあ、ゴブリンでいいや」
「うん、わかった。ゴブリンを待ち伏せしてるんだね。それで?」
「このとき、ゴブリンが来たときだけ射ろって言われるのと、何か動くものが見えたら射ろって言われるのじゃ、どっちが楽だ」
「どっちが……」悩む様子を見せ、妖精は首を振った。「ううん、よくわかんないや。ごめんね。ぼく、たぶんどっちでも平気だし……」
「いや、これは喩えだから……本当に君の腕前で考えなくても――」言いかけて魔術師は、比喩を額面通りに受け止める妖精に彼が望む答えを言わせようとするより、彼自身が答えを言ってしまう方が得策であることに気づいた。「いや、いい。俺が言っちまおう。まあ、素人考えなんだが、どっちが楽かって言えば、基本的には動くものを射るほうだろうな。何も考えずに、射る機械になればいいだけだから、射ることに全力を注げる。ゴブリン狙いは、射る前にそいつがゴブリンかどうかを確かめなきゃならないから、理屈の上じゃちょっと手間がかかる。射るのに全力を使えない」
「そういうもの……かなあ」
弓の天才は凡人のための理屈に釈然としない様子であった。
魔術師は被せるように力強く応じる。
「そういうものなんだ」妖精が考え込むような顔をするのを見て、反駁を未然に防ぐためにすかさず言葉を継ぐ。「そういうことにしといてくれよ。そこで納得してくれないと話が進まないから」
妖精はじっと魔術師を見てから言った。
「わかったよ」
「ありがとう。それでな、占いはつまり、その射る機械と同じなんだ。魔術師が魔術を使う機械になれるやり方だから、魔術の発動自体は凄く楽で、その分だけ自然と――爆発的に――魔術の効力が高まる。細かい指定ができない代わりに、普通じゃできないようなことができるわけだ」立ち上がってしばし口を噤んで溜めを作ってから、大袈裟な身振りを交えて、やや芝居がかった態度で締め括る。「良くも悪くな」
「なるほどねえ……」妖精は魔術師の言葉を咀嚼するように、考え深げに小さく頷きを繰り返したが、はっと何かに気づいたように目を見開いた。「ねえ、ちょっと」
魔術師は炭酸ジュースの酒割りが入ったグラスを乾かし、甘ったるい臭いのゲップと共に言葉を吐き出した。
「何か質問か」
「この占いの話ってさ、最後のところだけでもよかったんじゃないの?」
「その可能性は否定できない」魔術師は薄く笑った。「でも、いい酒の肴にはなったろう。知的な無駄話は饗宴の華だ。嘘だと思うならプラトン先生にでも訊いてみろよ。まあ、俺の交霊術の腕前じゃ、あんな大物は呼べないんだがな」
妖精が不満顔で頬を膨らませた。
「またむずかしいこと言ってる」
「悪いな、難しい言葉を使いたい年頃なんだ」鮭トバに食指を伸ばしつつ問いかける。「で、結局どうするんだ。まだ占ってほしいか。お遊びレベルでいいんなら、宇宙を変えるほうの占いをやってやるぞ」
「せっかくだからお願いするよ」
「ならやってやろう。何を知りたい――どうしたい。でも、なるべく当たり障りのないことにしとくんだぞ」
「そうだなあ……だったら、明日おいしいものを食べられるかどうか占ってよ」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
「面白そうな話をしているじゃないか、典太郎」
背後からかけられた聞き慣れた声に魔術師が振り返ると、墓場の黒土色のコートよりもなお深い色合いの、闇の中でこそ暗い輝きを放つような貴族趣味の黒装束を着た吸血鬼の少年伯爵の耽美な長身があった。まだ実年齢が十代半ばであるにもかかわらず、成長著しいその背丈は既に魔術師に並んでいる。魔術師の胸辺りまでにしか届かなかった初対面時が嘘のようであった。
不死の伯爵が続ける。
「そろそろ話しかけても邪魔にはならないだろう。ずっと話しかけるタイミングを窺っていたんだ。占いをするなら、僕も頼んでいいだろう」
「内容次第じゃ断るぞ」
「君が心配しているようなことは頼まないさ」伯爵は微笑し、カードに興じる連中を親指で指した。「僕が子爵にカードで勝てるかどうかでも占ってもらうつもりだよ」
「ま、いいや」魔術師は了承し、マスターに言う。「マスター、ちょっと隅っこのテーブルを貸してもらっていいですか」
「構わないよ」
「あと、酔い覚ましに烏龍茶でも貰えますか」
「そっちのテーブルに持っていけばいいのかな」
「はい、お願いします」マスターに答え、魔術師は妖精と子爵に視線を戻した。「占ってやるからあっちに行くぞ」
店内の外れ、崩れた壁から草原と星空を一望できる席に魔術師は腰を下ろした。軽く卓上を払って埃を片付けてから、先に声をかけてきた妖精を卓上に座らせ、懐から使い慣れたトートタロットのデッキを取り出す。伯爵は妖精の後ろに立って見物している。
変化を起こしたいという抽象的目的以外の一切の目的を持たない無軌道な意志を精神の裡で高め上げつつ、魔術師が正式な作法に則ってカードを混ぜていると、何の前触れもなく真横に気配が生じた。彼は驚きのあまり身を硬くし、折角集中させていた魔術的意志を霧散させてしまった。そればかりか、危うく大事な商売道具まで取り落としてしまいそうにまでなった。
「我が愛しむべき臣民達よ、面白そうなことをしておるではないか」
魔術師の慌てぶりがおかしかったのか、聞こえてきた声には尊大な失笑の響きが混じっていた。
魔術師がびくりとして顔を上げると、武仙達を相手に麻雀を楽しんでいたはずの魔界の公爵がそこに立っていた。近代欧州の貴族を思わせる煌びやかな衣装を着た公爵は、音もなく魔術師達の許にやってきた。それぞれ非凡な感覚を有していながら、魔術師も他の誰も、公爵がやってくるのに気づかなかった。悪ふざけの好きな魔界の大貴族は、彼らを驚かせるために、わざわざ空間を飛び越えてきたのであろう。
妖精が小さな悲鳴を上げて床に平伏した。不死伯爵も、緊張の面持ちながらも優雅に一礼した。魔術師だけが無様に固まって呆然と顔を向けたままであった。軽く手を振るだけで自分を物理的にも魔術的にも消し飛ばしてしまえるであろう圧倒的存在の気配に、彼は圧倒されてしまっていた。これが不意打ちでなく心の準備を終えてからのことであれば、彼もそれなりに見栄えのする応対ができたはずだが、おそらくそれすらも公爵は計算づくだったのであろう。
他の者に一拍遅れて心身の硬直から脱した魔術師は、絞り出すように、呻くように、ただ一言だけをようやく口にする。
「公爵閣下……」
魔界の大物の涼しい微笑みに見下ろされ、魔術師はどうしてよいかわからなくなり、救いを求めるように、落ち着きなくその場の面々の顔やらテーブルやらに視線をさまよわせた。
「よいよい、楽にせよ」愉快そうに口の端を上げ、魔神の公爵が一同に手を振った。「一つ、余もこの戯れに混ぜてもらおうと思ってな。余の居場所はあるか」
「も、もちろんです、公爵さま!」妖精が飛び上がるようにして起き上がり、両手で恭しく椅子を勧める。「お先にどうぞ」
「これは座興であるぞ、妖精よ」公爵は優しげな笑顔で首を振って固辞した。「遊戯においてこそ規則は遵守されねばならぬ。何となれば、遊戯の規則は、楽しみを縛るものではなく増すものであるがゆえに」それから穏やかな視線を魔術師に転じた。「まだ答えを聞いておらなんだが、当然、そなたは余のためにも占いの技を用いてくれるのであろうな、愛おしい魔術師よ。そなたは余の愛情を裏切るまい。そなたはそういう男だ」
「う、占います。占って差し上げますよ」
答えた魔術師の声は上擦っていた。彼は口の中がからからに乾くのを感じ、鬱陶しさと息苦しさを覚えた。さきほど注文した烏龍茶が待ち遠しかった。
魔神の公爵は満悦の表情になった。
「皆の者、魔術師殿が、もったいなくも我らの先を占ってくださるそうだ」わざとらしい身振りとともに声を高めた。「よい機会であるぞ、そなたらも何か訊ねてみてはどうか」
「ちょ、ちょっと待ってください、公爵閣下……!」
魔術師は悲鳴とも抗議ともつかない声を上げた。
「楽しみには、分かち合うべきものと、独り占めすべきものがある」公爵が慈悲深く懐深い表情で、魂の凍えるような美貌を魔術師の耳元に寄せ、蛇が獲物を嬲り殺すように囁く。冷たい香りの吐息が首筋をくすぐった。「これがどちらの楽しみであるか、百者百様の捉え方があることと思うが、そなたはどう考える。見解を聞こうではないか」
それは鼓膜から入って脳髄に滲み込み、精神を塗り替えるような甘く悩ましい声であった。見出した大宇宙の万能章の保護もまるで役立たずと化したかのようであった。魔術師は蕩けるような眩暈すら覚えたが、魔術師の拡大された自己決定権を頑強な意志の力で行使してそれをなんとか撥ねのけ、諦観の表情で公爵が望む回答を口にした。
「……こうなったら、精々みんなで楽しみましょうか。折角集まったんですから」
「よくぞ言った、魔術師よ」公爵は上機嫌に笑った。「これだからそなたは愛おしいのだ」
愛おしいという言葉が、恋愛や性愛に繋がる愛情ではなく、専制君主が優れた人物や功績ある臣民に与える寵愛に過ぎないことは魔術師も承知している。しかし、性別が意味を成さない――それでいて両性を惹きつける魔性の美を湛える――存在が自分に投げかけた言葉だと思うと、魔術師は心臓が跳ね回ってしまうのを抑えるのが大変だった。
全てを見透かした風に公爵がくすくすと笑った。
結局、魔術師は数時間がかりでマスターと縞猫を除く全員の未来を占わされる破目になった。強力な悪魔に妖魔に妖怪に、鍛練の果てに人の限界を乗り越えなお先を目指す武仙、星幽界と物質界に勢力を伸ばす魔界の貴顕といった曲者達を相手に占いを行なうのは、神経の磨り減るひどくつらい作業だった。全員が魔術師が妖精にした講義を汲んでくだらないことばかり訊ねてきたからまだよかったが、もし深刻な出来事を占うように求められていたら、その責任の重大さに押し潰されて死んでいたかもしれなかった。その場合、彼のタロット解釈一つで惨事が起こりかねないのである。
占いが終わった今、酒場は普段の状態に戻っていた。ある者は仲間と談笑し、ある者はカードその他の遊戯に興じ、ある者は静かに酒を味わい、ある者は顔を上げて星空に見入っている。
魔術師は、伯爵、武仙、叛逆天使、そして妖精と卓を囲み、静かな一時を過ごしていた。魔神の公爵に仕える騎士がいないことを魔術師は残念に思い、今頃は異空で兵と共に剣を振るっているであろう友人の無事を心の片隅で祈った。
魔術師と卓を囲む友人達は誰も口を利かない。雰囲気を味わうように――味わうべき雰囲気を自分が立てる小波で壊してしまわないように気をつけるが如くに――全員が穏やかにそれぞれの飲み物や肴をつまむ。
冷えた烏龍茶を一息に飲み干し、爽快感に唸って天を仰いだ時、魔術師は夜空が白み始めていることに気づいた。それはこの心地良い時間の終わりの先触れである。
マスターが手を打って注目を集めた。
「もうじき夜明けだ。すまないけれど、今夜はこれでお開きにさせてもらうよ。支払いと帰りの支度を始めてくれるかい」
客達は一言も文句を漏らさず従った。
魔術師は、さりげなく伯爵の前に食器を集めて片付けを押しつけながら、異様な光景への戸惑いを覚えていた。彼はもう何度も目にしていたが、たとえ百回目を迎えたところで決して慣れることができそうもなかった。マスターの言葉におとなしく従い、模範的な客を演じている連中は、敬われ、畏れられ、讃えられ、魔界や顕界でその名を知られる一筋縄でいかない猛者揃いなのである。ここでしか見られない奇観と言える。
「あ、こら、僕だけに押しつけるんじゃない」
伯爵が目の前に食器が集まっていたことに気づいて抗議の声を上げた。
武仙が傲岸な声を発した。
「油断していたお前が悪い」
「ごめんね、伯爵さま。テンタロウとキューレンがやれって言うから……」
ちゃっかりと自分と武仙に責任を押しつけようとする妖精の頭を魔術師が指先でつつく。妖精がわざとらしい悲鳴を上げて尻餅をついた。
「俺のせいにするんじゃない。お前なんかノリノリだったろうが」
「つらいのであれば私が代わろう、ナサニエル」
穏やかな微笑を湛えた叛逆天使が、からかうように子爵を見て、手を差し伸べた。
「うるさいぞ、ジオメル」
人の姿を取った叛逆天使の精気体から気恥ずかしそうに目を逸らすと、伯爵は念力で食器をカウンターに運んだ。叛逆天使がくすくすと爽やかな笑い声を立てた。
片付けが済み、支払いの時間がやってきた。客達はおとなしくカウンターに向かって列を作り、一人一人が手渡しで会計を済ませては去っていく。
代価に明確な基準はない。何をどれだけ支払うかは全て客の胸三寸である。マスターが客に求めるものは「気持ち」であり、それがいかなる意味を持つか、どうすればそれを満たしうるかは、一人一人の判断に委ねられている。
自身が所有するすばらしい品こそがふさわしいと考える者がいれば、自身の誇らしい仕事の成果の一部がふさわしいと考える者もいる。骨を折って何かを為し或いは拵えることが気持ちの表現となると考える者もいる。十人十色の答えがそこにあったが、ただ一つだけ共通していることがあった。客達は誰一人として、マスターの言葉に付け入って安く済ませようとはしないのである。それはおそらく矜持と誠意と良心の問題であった。
そしてマスターも、何を渡されようと文句を言うことはなかった。彼は支払いを全て笑顔で受け取り、またの来店を待つと答える。この店で為されるものは誠意と誠意の取引なのである。
列の先で、公爵が人の頭ほどもある水晶の原石をカウンターに置いた。それは単に宝石として持つ価値の高さに疑問の余地がないだけでなく、淡い星幽光の輝きが魔術的価値をも示していた。献上された中で最も大きく質の高いものである、と公爵はマスターに語った。
武仙はカウンターから客達を遠ざけ、たった一人のために演武を披露した。汗が蒸気となって散るほどの鬼気迫る姿と阿修羅が舞うような美しくも力強い所作は、彼が磨いた武神の如き凄絶な技倆と、彼がマスターのために持てる技倆の全てを曝け出そうとしていることを圧倒的な説得力を以て物語っていた。
いかにも天使然とした白くゆったりとした衣服を着た叛逆天使は、物質的なものを差し出せないことを詫びると、両手の指を組み合わせたところに額を当てて、マスターと猫の息災を祈り始めた。叛逆天使から温かな霊気が流れ出し、マスターと猫を保護するように包み込んでいく。そのさまは、魔術師のように不可視のものを認識できる者の目には、壮麗な宗教画のような場面となって映った。
妖精は背負う袋から、大小様々な獣の牙に紐を通して作った首飾りを取り出した。知識の埒外の獣のものが大半のため、魔術師はその正確な価値を推し量ることができなかった。しかし、秘める魔力を見れば、それが決して簡単に手に入る品でないことがわかった。まさにそれは森一番の射手の名誉を証明する逸品であった。
伯爵はポートフォリオから取り出した鉛筆画をマスターに渡した。そこには味のある筆致で縞猫がまどろむさまが描かれていた。画才に恵まれた伯爵は、店を訪ねてから描いたのだと語った。マスターが猫に絵を見せると、猫は声もなく鳴いて伯爵に近寄り、上品な仕立てのズボンに鼻先を押しつけた。
他の客達も思い思いの形で支払いを済ませ、店から出て行った。そのどれもがすばらしいものばかりであったため、列に並んでそれを眺める魔術師は、常の如く、自分の贈り物がひどく見劣りするものであることを思い悩まずにいられなかった。
遂に魔術師の順番が来た。魔術師はささやかな誇りを守るため、周囲に対して堂々とふるまうことを心がけ、懐から一枚の護符を差し出した。それは彼の無意識の底から組み上げた表象と意味を万年筆と絵筆と毛筆を使い、インクと絵の具と墨汁を塗りつけ、鮮やかに描き上げたものである。浮かび上がる想念は常に変化するため、二度と同じものを作り出すことはできない。ゆえにこれは、この世に一つとして同じもののない、世界に一つきりの品である。
「いつものです。大抵のことには使えますから、よかったら使ってください」
公爵に比肩しうる偉大な存在がこのようなものを必要としないことは魔術師も承知している。だが、彼が現実的に差し出しうるものの中で、最も妥当と思えるものがこれなのだから仕方がなかった。彼の覚束無い魔術の産物のうち、この場に出す贈り物の末席に連ねること自体がおこがましいと思わずに済む数少ないものが、魂の混沌とした深奥から汲み出されたこうした呪物の類なのである。
マスターは笑顔で包みを受け取った。
「ありがとう。また来てくれると嬉しいな」
「来られるようならまた来ます」
まるで遠回しな断りの文句だが、本心からの言葉である。魔術師はこの空間の居心地をいたく気に入っていた。
魔術師が外に出ると、武仙、叛逆天使、伯爵、子爵、妖精が思い思いの場所に佇んでいた。
岩に腰かけたまま武仙が魔術師を一瞥した。
「終わったか」
魔術師が武仙に近づくと、他の者達も集まってきた。それぞれがそれぞれに再会の望みの籠もった別れの言葉を告げ合った。
短い別れの挨拶を済ませ、一同は解散した。伯爵と同道する子爵を除き、それぞれがそれぞれの道へと足を踏み出していく。この酒場への道は至る所に開かれているが、各自の帰り道は常に一つしかない。来た道からしか帰れないことになっている。
魔術師は遠ざかる仲間達の背中一つ一つに視線を注いでから、眼下に広がる草原と、その先の森に視線を落とした。往路の苦労を思うと、復路が憂鬱でならなかった。
坂道の半ばで立ち止まって丘を振り仰ぐと、そこにはもう何も見当たらなかった。夢のような時間が終わってしまったことを物語る光景に、魔術師は感傷的に嘆息した。