彼女の侵略計画
彼女の侵略計画
彼の前世はほぼ間違いなく小動物だと思う。
たとえば手を繋いで、照れたように笑う顔、薄い唇がつとつり上がって目尻がふにゃり、眠たげな顔をしたハムスターそっくり。
授業中、真剣な顔でノートをとる横顔も。
にきびのひとつもないつるりとした頬は女の子みたいだし、くるくるとよく動く目、警戒心が強いくせにどこか間抜けな小動物そのまま。
「明日さ、うちに遊びにこない?」
ふたりきりの帰り道、左手には何年も放置された空き地の金網、ぐるぐると草が巻きついて、新種の植物みたい。
わたしたち、手は繋いでいない。
ここぞというとき以外は、繋がないようにしているから。
照れる彼の顔がかわいいのに、手を繋ぐのに慣れてしまうともったいないもの。
「親がさ、田舎に帰るんだよ。それで、家には妹しかいないから」
「妹さんがいるんだっけ?」
「今年中三。受験だから、田舎に帰らないで勉強するんだって」
ほんのりと赤らんだような彼の頬、つい撫でたり突いたりしたくなるけれど、がまんがまん。
「かわいい妹さんなんでしょうね」
「まあね」
と否定はせずに、なぜか彼が照れたように笑う。
「人見知りで、ちょっと困ってるところもあるんだけど。基本的に、おれにしか懐かなくてさ。親にもあんまりなんだよ」
「へえ……」
完全に「ぼく」という顔なのに、無理をして「おれ」と呼ぶところ、かわいくて好きよ。
「わたしみたいなのがお邪魔しても平気かしら。嫌がられない?」
「んー、どうかなあ。嫌がるかもしれないな」
「じゃあ遠慮するわ。妹さんとは会ってみたいけど、向こうにいやな思いをさせるのはちがうでしょ」
「いや、そこなんだけど、あいつも来年から高校生だから、そろそろ人見知りを脱却してほしいと思ってさ。だから、実験っていうと、あれなんだけど」
後頭部をぽりぽり、まっ白で繊細な指先、手首までまっ白なうさぎのようで、黒い学生服からちょこんと飛び出している。
「わかったわ。じゃあ、妹さんと仲良くなれるようにがんばってみる」
「うん、そうしてくれるとうれしい。まあ、大丈夫だとは思うんだけど――なんたって、おれの妹と、おれの好きなひとだから」
こういうことをぽろりと言うのも彼のくせ、わたしがうれしくて笑えば、彼もやさしく笑う。
それとよく似た笑顔を浮かべる妹さんなら、きっと仲良くできるはず。
なにしろわたしの好きなひとの妹なんだから。
*
一度だけ、彼のご両親と会ったことがある。
中学のころの運動会、彼とよく似たやさしい顔のお母さまと、彼とあまり似ていないひょろりと背の高いお父さま、挨拶だけはしたけれど、そのころはわたしと彼もただのクラスメイト、まさか未来のお嫁さんだとは思っていなかっただろうから、やさしくしてくれたのかしら。
妹さんは、その運動会にはきていなかったから、会ったことはない。
約束の日、短すぎないスカートと気取りすぎないカーディガン、髪も入念に櫛を入れてさらさらに。
ありきたりな、というと言葉は悪いけれど、二階建ての一軒家、玄関の前にはちいさな飾り門があって、奥に自転車が何台か。
呼び鈴を押せば、待ち構えていたように彼の声、
「わたし、君塚だけど」
「ちょっと待ってて」
スピーカーから彼の声が消えて、扉が開くまでのほんの一分、いちばんどきどきする時間。
紺色の重たいドアを開けて、Tシャツにジーンズの彼、やっぱり照れた顔でひょいと現れて、飾り門を開ける。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
玄関を一歩入れば、他人の家の匂い、けれど思ったよりは気にならなくて、靴を脱ぐころには忘れてしまっている。
ちゃんと自分の靴を揃えて、短い廊下、突き当たりに階段があって、左手にリビングらしい部屋、右手にもお手洗いかお風呂か。
「妹さんは?」
「リビングにいる。最初に挨拶したほうがいい?」
「そうね――でも、ちゃんと話してくれた?」
「会ってほしいって話は昨日のうちにしといたけど」
将を射んと欲すれば。
わたしの場合、もう将は射ているのだけれど。
彼の半袖から伸びる細い腕、薄く血管が浮かんでいて、珍しく男らしい雰囲気、リビングの扉をがちゃりと開けてなかを覗けば、テレビの前に置かれたソファ、そこに見えていた黒い頭がびくりと震えて、振り返る。
「お、おに――」
一目で、彼の妹さんだとわかる。
だってそっくりな目、鼻、まっ白な頬。
短く切りすぎたような前髪が揺れて、すっと真横に引かれた眉、見る見るゆがんで、ソファの背にばっと隠れて消える。
彼はちいさく息をついて、
「昨日、話してただろ。君塚奏さん。ちゃんと挨拶しな、詩」
うた、とかわいい発音に、わたしはちょっとときめいて、
「突然ごめんなさいね、詩ちゃん。はじめまして」
「う、うう――」
詩ちゃんは、ソファのせいからひょいと目だけ覗かせて、直立したプレイリードッグみたい。
でも、きらきらと光る広い瞳、彼とそっくりで、つい笑ってしまう。
「はうっ――」
笑声に驚いたのか、詩ちゃんはソファの背に引っ込んでしまって、彼は改めてため息。
「ほんと、詩は人見知りだなあ。中学の友だちと別れて高校に入ったらどうするんだ」
その横顔は、学校にいるときの彼よりちょっと大人びている。
きっとお兄ちゃんだからだわ。
「こ、高校にはお兄ちゃんがいるから、お兄ちゃんだけでいいもん」
ソファの背から震えるようなかわいい声。
いいなあ、とわたしは心底から思う、だって、この家族、大好きな彼と、彼とそっくりでかわいい妹がいるんだもの。
「とにかく、挨拶だけはちゃんとしなさい」
お兄ちゃんが言えば、詩ちゃん、恐る恐る顔を覗かせて、わたしを見つめているうち、目がうるうる。
「こ、こんにちはっ」
叫ぶように言って、またソファの向こうに。
「はい、こんにちは」
わたしは彼に目くばせして、そろそろと足音を忍ばせてソファを回り込む。
革張りのソファ、うずくまって背もたれに隠れている詩ちゃんの後ろへ回り込めば、かわいい足先がふたつ、ひょこひょこ動いている。
「はっ――」
と詩ちゃんはわたしを振り返り、あたふたとソファを乗り越えて、彼の背中へ、Tシャツをきゅっと握る指先まで彼とそっくり。
「ごめんなさいね。もう邪魔しないから」
彼とわたしが階段を上がっているあいだも、詩ちゃんはリビングの扉の陰、隠れて見ていて、目が合うと脱兎のごとく。
二階の突き当たり、彼の部屋は思ったよりもずっと整頓されていて、清潔そうな青いシーツのベッドもきれいに整えられている。
ちいさな丸テーブルの前、ちょこんと座って待っていると、彼が一階から飲み物とお菓子を運んできてくれる。
それをぽつぽつつまみながら、なんでもないようなお話。
「詩ちゃん、今年受験なんでしょ。わたしたちも来年には大学受験だもの。進路、もう決めた?」
「いや、まだぜんぜん」
彼は、さすがに自室でちょっとくつろいだ様子、両足を伸ばして、床に手をつく。
「わたしは、もう決めてるわ」
「え、そうなの?」
「あなたと同じところ」
「あ、ああ――」
さっと頬が赤らむのに、愛おしい首筋、もぐもぐとなにか言うのを遮って、扉をノックする控えめな音。
彼が立ち上がって扉を開けると、もちろん詩ちゃん、扉からほんのちょっとだけ顔を出している。
「どうした、詩」
「あ、あのね――お、お兄ちゃんは、ちょっと下に行っててっ」
「おれが? なんでだよ」
「いいから!」
「わたしからもお願い」
と言うと、彼は不思議そうな顔、
「女同士で話すことがあるのよね?」
詩ちゃんはこくんとうなずき、彼はやっぱりわからない顔のまま部屋を出ていく。
わたしは扉に向き直り、詩ちゃんは身体を扉に隠したまま、けれどまっ赤な頬や鼻の頭はちらりと覗いて。
「あ、あの、わたし、人見知りだから――あの、勘違い、されちゃったんじゃないかと思って、それで」
かわらしい桜色の唇がぷるぷると震えて、精いっぱいの勇気、
「わたし、あの、あなたのこと、きらいじゃなくて、ただ――」
「それをわざわざ言いにきてくれたのね」
うれしくて微笑めば、詩ちゃんはほんのちょっと呆然とした様子、わたしを見つめている。
「ありがと。わたしもね、あなたも、あなたのお兄ちゃんも大好きよ。お兄ちゃんのついででいいから、わたしとも仲良くしてくれるかしら? 嫌わずにいてくれる?」
「き、嫌うなんて――」
こくんこくんと何度もうなずく詩ちゃんの、短い前髪がちらちら、宙を舞う毛先もけなげでかわいらしい。
「あの、わたし、も、もう――」
それまでよほどがまんしていたのか、詩ちゃん、目をきゅうと閉じて、廊下を駆けて逃げていった。
やがて彼が階段のほうをちらちら見つつ扉の陰、
「さっき詩に体当たりされたんだけど、なんだったんだろう」
「スキンシップじゃないかしら」
微笑むわたしの真意までは、彼にはわからないはず。
でも、これで順調に彼の家族と仲良くできそうなのだから、わたしはいつまでも微笑んで、彼はいつまでも戸惑った顔、それがまた、かわいくて大好きになる。
彼は、わたしのことを大好きでいてくれるかしら。
根拠のないまま信じきっているわたしなのだけれど。




