71. 化学反応による突破口
「……へェ。しかしロレンツォの旦那、本当にこの女にそんな価値があるんですかい?」
脱出の決意を固めた私の耳に、扉の外から低い話し声が漏れ聞こえてきた。
私は足音を立てないように扉へと近づき、そっと聞き耳を立てる。
「あるとも。ただの聖女なら興味はないが……あのアウロリアで見せた知識は別だ」
ロレンツォの声だ。
そして、それに答える野太い声。
荷台の中で音声解析した通り、彼が金で雇った三人の傭兵たちだ。
「噂に聞くだけでも、井戸掘り技術と水汲みポンプに、あの万年筆、そして石鹸……。その上、あれは俺の目の前で、新しい布の織り方の設計図を書いて見せた! あれの知識をメルカンテで独占し、開発し、量産すれば……どれほどの金を生むと思う?」
「ははァ! なるほど、金山を拾ったようなもんですか!」
「そうだ。だからこそ、丁重に運べ。傷一つ付けるなよォ。……脳さえ無事なら、扱いはどうでもいいがなァ」
「へいへい。……しかし、騎士団が嗅ぎつけてくるんじゃねえですか?」
「騎士団は今領主街だ。奴らが動き出す頃には、我々はもう国境を越えているさ。馬の休憩が終わればこのまま森を抜け、裏ルートで本国へ直行だ」
「了解」
数名の下卑た笑い声が響く。
私は音を立てないように、そっと扉から離れた。
【音声解析:完了】
【キーワード抽出:『技術の独占』『国境』『奴隷商』】
【現状分析:敵の目的は、私の『知識』による産業革命と、その利益独占】
【予測:国境到達までの猶予は、残り数時間】
私のリソース――人生を、勝手に消費などさせない。
涙を拭い、冷徹な思考へと切り替えた。
【スキャン開始:半径5メートル以内の環境資源】
薄暗い小屋の中。
視界に入るすべての物体をデータ化し、利用価値を解析する。
転がっている農具、隅に積まれた袋、棚にある瓶。
【分析完了】
【敵戦力:ロレンツォ+傭兵3名(武装あり)】
【こちらの戦力:非力な少女1名】
【結論:戦闘...不可能。正面突破...不可能。撹乱による逃走を推奨】
私は棚にあった瓶を手に取る。
中身は、農具の手入れに使っていたと思われる油と、掃除や洗濯に使われていたのだろう、ツンとした臭いのするアンモニア水。
そして、袋の中には乾燥した石灰。
(……出来ます)
【検索:化学反応】
【……実行可能。即席の『視界遮断薬』および『刺激性ガス』の生成】
私は手近な布にそれらを包み、調合を開始する。
震えていた手は、今は作業のために精密に動いていた。
「……これで、上手くいくはずです」
調合が終わると、私はハーフアップを止めているヘアピンを一つ取り、鍵穴に差し込んだ。
司教の書斎で読破したこの世界の本、『錠前機構の構造と歴史』の知識を呼び起こす。
【プロセス開始:内部シリンダーの3Dモデリング】
【演算完了:ピン角度およびシアラインの特定】
【解錠シーケンス:ピン3→1→4→2→5】
カチャリ。
小さな金属音がして、鍵が開いた。
(……開きました)
私は扉を少しだけ開け、隙間から外の様子を窺う。
少し離れた場所にいる見張りの男たちが談笑している。
【ターゲット捕捉:敵性個体3名。距離4.2メートル。密集陣形】
【環境分析:風向き良好。ガス拡散予測範囲:敵陣営を完全にカバー】
【投擲シミュレーション:完了。成功確率:99%】
(――今です!)
私は調合したばかりの、即席手投げ弾を、男たちの足元に向かって全力で投げつけた。
ガシャン!!
瓶が割れ、中身が混ざり合うと同時に、激しい熱と共に、鼻を突き刺すような強烈な刺激臭が爆発的に広がる。
ジューッという激しい反応音と共に、辺り一面が真っ白に染まった。
「なっ!? ぐわああああ目がぁ!!」
「なんだこれ!? げほッ! 咳が、止まら……!」
「……ッ!」
混乱する敵を尻目に、私はひとり、小屋から飛び出した。
【環境スキャン:太陽の高度角および影のベクトルを解析】
【補助データ:樹皮の苔の生育方向、切り株の年輪密度と照合】
【方位特定:北の方角を確定。誤差0.1度以内に修正】
【脳内地図とマッピング……現在位置、アウロリア北西の森林地帯】
【最適ルート算出:南東へ2km直進】
(こっちです……!)
私はスカートの裾を掴み、道なき森の中へと駆け込んだ。
しかし――。
「はぁ、はぁ、っ……!」
【警告:ハードウェアの運動性能が限界です】
【警告:スタミナ残量10%】
森の中など走ったことがない私の足は、すぐに悲鳴を上げた。
木の根につまずき、派手に転ぶ。
枝に髪が引っかかり、服は泥と葉っぱでボロボロになる。
(……痛い。重い)
何度も転び、そのたびに這いつくばって起き上がる。
背後からは、怒声と足音が近づいてきていた。
「逃がすな!! 足を使えなくしろ!!」
ロレンツォの怒り狂った声が森に響く。
近い。あまりにも、近い。
(……もう、走れません)
足が動かない、息ができない。
人間の身体は、私が計算していたよりも、ずっと脆く、非力だった。
ドッドッ、ドッドッ!!
さらに、地面を揺らす重い音が近づいてくる。
馬の蹄の音だ。
(……馬で追ってきたのなら、もう、逃げ切ることは不可能です)
逃走の成功率がゼロならば、せめて正面から迎え撃つ。
私は覚悟を決め、恐怖で竦む身体を無理やり動かして、自ら音のする方へと飛び出した。
そこには――。
「エリス……!!!」
――よく通る、低く凜とした声。
夕日の逆光の中で、濃紺の髪が揺れていた。
「……ヴィンセント、騎士団長……?」
私の唇が、震えながらその名を紡いだ。




