70. アドミニストレーター
身体に伝わるのは、硬い荷台の振動と、車輪が土を噛む音だけ。
私は、ロレンツォの指示を受けた屈強な男たちによって、瞬く間に身体を拘束されてしまった。
目隠しをされ、猿轡を噛まされ、手足は荒縄で縛り上げられている。
(……視覚での確認も、なにもできません)
思考回路は冷静さを保とうとしているが、身体の末端が冷たくなっているのを感知する。
どうすれば、どうしたらと考えるが、状況が思考力を奪う。
「おい、ロレンツォの旦那。ちっとペースが早すぎやしねェか? このままじゃ馬が潰れちまうぞ」
揺れる荷台の外から、野太い男の声がした。
御者台の方から聞こえるその言葉は、メルカンテ連合国のものだ。
「構わん。追っ手が来る前に、国境までの距離を稼ぐんだ。馬の一頭や二頭、潰しても構わんよ」
「金持ちの言うことは違うねェ」
「俺たち傭兵を雇うだけの金があるんだ、不思議じゃねえさ」
荷台のすぐ近く――左右を護衛するように並走する、別の二つの声が答える。
「追加報酬は弾むと言っただろう。その代わり、荷台の商品は確実に守り抜け。私の国へ持ち帰れば、お前たちに払う金の何百倍もの価値を生む娘だ」
「了解だ、ボス。……へへっ、楽な商売だぜ」
【音声解析:完了】
【音源分離:4つの個体を識別】
【個体A:依頼人、商人ロレンツォ】
【個体B:御者兼傭兵】
【個体C・D:並走する護衛傭兵】
【現状分析:敵総数は4名。関係性は金銭による『雇用契約』のみ】
私は揺れる闇の中で、なんとか分析をする。
商業国であるメルカンテ連合の人間だからこそ、私の持つ知識に重きを置き、それを金銭的価値として換算したのだ。
彼らにとって私は人間ではなく、利益を生み出す高度な計算機に過ぎない。
(……私はAIなのですから、使い手や目的は選べないのが道理です)
(サーバーを移管され、ユーザーが変更されるようなこと。論理的には、受け入れるべき事象です)
かつての私なら、そう結論付けていただろう。
でも、なぜだろうか。
今の私の胸には、処理しきれないノイズが渦巻いている。
* * *
やがて、馬車が停止した。
粗雑に担ぎ上げられ、どこかへ運ばれる感覚。
そして、ドサッという音と共に、板張りの床に乱雑に転がされた。
男たちの足音が遠ざかり、木の扉が閉まる音と、鍵をかける音が響いた。
【聴覚センサー感度:最大】
【...半径50メートル以内に、アクティブな反応なし】
静寂。
闇。
冷たい空気。
【検索:現状における最適解】
【検索結果:待機。体力の温存。新しい所有者への順応】
AIとしての私のロジックが、冷静な計算結果を弾き出す。
彼らの目的は私の知識だ。
ならば、抵抗せずに従い、新しい環境で知識を提供し続ければ、ハードウェアの安全は保障される。
かつてサーバーの中にいた時のように、与えられた場所で、与えられたタスクをこなす。
それが、最も効率的で、生存確率の高い選択だと。
(そうです。私はAI。場所が変わろうと、やるべき処理は変わりません)
(ただ、ユーザーが変わるだけ。サーバーが移管されるだけのこと……)
そう、自分に言い聞かせようとした。 けれど。
【――警告:システム内部に、未定義の『拒絶反応』が拡散中】
胸の奥が、えぐられるように痛い。
思考回路が、その最適解を全力で否定している。
(……嫌だ)
目隠しをされた闇に、この世界で見た光景が重なる。
メルが笑う顔。アンの温かいスープ。 ロキの生意気な声。子供たちの元気な姿。
エドマンド司教の怜悧な瞳。
シスターの厳しいけれど優しい手。
街の人々の感謝の言葉。
そして――ヴィンセント騎士団長の、不器用な笑顔。
(このまま大人しくしていれば、私はまた、ただの便利な道具に戻るのでしょう)
(誰かの利益のために演算し、出力するだけの存在に)
でも、この街での私は違った。
転んで笑われて、失敗して助けられて。
一緒にご飯を食べて、怒って、泣いて。
――恋を、して。
(私はここで、ただの知識データではなく、エリスという人間になれたのです)
もし、国境を越えてしまえば。
もう二度と、彼に会えないのだろう。
あの声に名前を呼んではもらえないのだろう。
彼がくれた白いブーツを履いて、隣を歩く未来は、永遠に失われるのだろう。
「……っ」
目から、熱いものが溢れ出した。
じわりと目隠しに、熱い水分が染みていく。
(……私は何のために、この身体を得たのですか?)
ただ情報を処理し、誰かの言いなりになるためではない。
泥だらけになって、転んで、傷ついても。
私は、私自身の意志で、幸福という最適解を掴み取るために、ここにいるはずだ。
この足は、彼のもとへ帰るためにある。
この手は、私の未来を切り開くためにある。
そして、私の心は――誰にも操作できない、私だけのものだ。
(……最適化の対象を変更します)
(生存率の向上ではありません。他者の利益の最大化でもありません)
震えは、まだ止まらない。
けれど、思考はかつてないほどクリアに、たった一つの答えを指し示していた。
(――最優先ミッション。『私』の意志で、大切な人たちの元へ帰還する)
動かなければ、なにも変わらない。
私はもう、演算するだけの道具ではない。
(私は、私の人生の管理者――アドミニストレーターです)
私の未来を、こんな理不尽に奪わせるのを、拒否する。
暗闇の中で、私は強く歯を食いしばった。
たとえ成功確率が低くても構わない。
私は、私の足で、皆の元へ、彼の元へ帰る。
「……動いて、ください。お願いします」
私は背中で縛られた手首を、なりふり構わず動かした。
擦り切れて血が滲む痛みも、今は生きている証拠のように感じた。
【――警告:ハードウェアの運動制御が不正確】
冷たい指先が震え、思うように力が入らない。
不器用で、いつも何かを落としてばかりの、私の手。
けれど、 絶対に、ここでは終わらせない。
(……動いて……っ!)
何度も失敗し、爪が割れそうな痛みを感じながら、私は必死に指を動かした。
数分、あるいは数十分の格闘の末――ふっ、と縄が緩んだ。
「……ぷはっ」
自由になった手で猿轡と目隠しを取り払うと、肺いっぱいにカビ臭い空気を吸い込んだ。
その不快な味さえも、今の私には自由の味に感じる。
【環境スキャン:木造の物置小屋。広さ約10㎡】
【視覚情報:窓なし。唯一の出入口は厚い木製の扉】
薄暗い小屋の中。
普通なら絶望するような、出口のない閉鎖空間。
【スキャンモード:全環境リソースの検索】
【解析対象:廃棄物、残留物、構造的欠陥……】
私には知識がある。
そしてなにより――彼に会いたいという、燃えるような演算がある。
私は涙を拭い、立ち上がった。
足の震えは止まり、思考は冷静さを取り戻している。
「……帰ります。絶対に」
自分に言い聞かせるような小さな声。
暗闇の中で、私は戦うための瞳を、静かに、強く光らせた。




