64. 凍てつく視線は熱を帯びて
私が振り返った先、人波の向こうにいたのは――。
息を切らした馬に跨り、私を真っ直ぐに見つめるヴィンセント騎士団長の姿だった。
(……ヴィンセント、騎士団長?)
思考回路が一瞬、停止する。
(……なぜ、今ここに?)
手紙にあった日程より、数日も早い。
私の計算では、彼が領主街を出発するのはまだ先のはずだ。 あまりに予想外の事態に、私はあっけにとられてしまった。
彼は素早く馬を降りると、手綱を投げるように預け、人混みをかき分けて、私の近くまで急ぎ歩いてくる。
その乱れた前髪や、少し荒い呼吸。
翻った外套の裾は砂埃で汚れ、彼が休憩も惜しんで馬を飛ばしてきたことを、無言のうちに物語っていた。
(……あ)
彼が近づくにつれ、私は無意識に自分の前髪に触れてしまった
今日の私は、身支度がちゃんとできているだろうか。
服は汚れていないか。髪は乱れていないか。
石鹸の配布で、指先が荒れて見えないだろうか。
そんな非合理的な懸念が、脳裏をよぎる。
急ぎ足で歩み寄ってきた彼は、私の前に立つと、まるで私を庇うように、商人や街の人々に背を向けて立ちはだかった。
その手は軽く、剣の柄にかかっている。
――周囲の空気が、一瞬にして凍り付いた。
「これは、どういう状況だ」
低く、凍てつかせるような声。
氷の騎士と呼ばれる所以たる、冷徹な威圧感が広場を支配する。
「……エリスに、なにか」
鋭い視線が、周囲にぐるりと向けられる。
その冷たく光る瞳には、明確な敵意と警戒色が宿っていた。
【分析:ヴィンセントの状況認識に『誤認』が発生しています】
どうやら、私が群衆に囲まれ、何か言いがかりをつけられている、あるいは危険な目に遭っていると勘違いしているようだ。
商人たちが怯えて後ずさり、和やかな空気が霧散しかける。
「ち、ちがうよ! 石鹸配ってて、お話ししてただけだよ!!」
凍り付いた空気を破ったのは、メルだった。
彼女は慌てて騎士団長の前に飛び出し、必死に手を振って宥めようとする。
「話……」
ヴィンセント騎士団長は、メルの言葉に一瞬瞬きをした後、周囲を見回した。
怯える商人。困惑する主婦。
そして、少し呆れたような顔の子供たち。
「……そうなのか?」
「は、はい。これまでの成果が、知識と技術によるものだと、お話ししていました。……皆さん、とても好意的です」
私と民衆の間を遮断するように立つ、その頼もしい背中を見上げながら、慌てて言葉を継いだ。
ヴィンセント騎士団長は、もう一度周囲を鋭く見渡す。
そこに私への害意がないことを確認し、彼は深く息を吐き出した。
冷たく鋭利だった顔が、瞬時にいつもの――いや、いつもより少し弱気な青年の顔に戻る。
「そうか。てっきり……すまない」
彼は小さく謝罪すると、バツが悪そうに視線を逸らしたが、その視線はすぐに私へと戻された。
息を切らしてここまで来た熱が、まだ彼の中に燻っているのが分かる。
「……少し、場所を変える」
そう告げて、一歩私との距離を詰めると、彼の大きな手が伸びてくる。
一瞬、私の細い手首を見て力を緩め、触れるか触れないかの慎重さで包み込んでから、私の手首を柔く握りしめた。
「え、あ、はい……?」
「ここは、人が多すぎる」
彼はそう言うと、私の返事も待たず手を引き、人混みを抜けて歩き出す。
その手は強く、けれど痛くない絶妙な力加減で、私をしっかりと捕らえていた。
革手袋越しでも伝わる彼の体温と、少し早い脈拍。
それが、走ってきたせいなのか、それとも別の理由によるものなのか、今の私には判別できない。
【――警告:心拍数が上昇傾向にあります】
その後ろ姿を、子供たちや街の人々がぽかんと見送っている。
「はあぁ……騎士に守られる聖女様ってのは、なかなか絵になるもんだなぁ」
ざわざわとした喧騒の中、商人の一人が漏らした言葉が、私の背中に熱く残った。




