62. データに基づく気象予報
療護院の老人たちやメルたちの言葉を受け、私はエドマンド司教に相談を持ち掛けた。
検討した結果、司教は教会の奉仕活動として、試作した石鹸を街で配ることで承認した。
これは、衛生環境の改善という実利と、聖女としての知名度向上を同時に狙う施策だ。
そして今、私は石鹸の入ったカゴを抱え、街の広場に立っていた。
しかし――。
(……呆然)
私の思考リソースの大半は、手紙の誤送信によって占拠されていた。
今頃、もしかしたらあの手紙がヴィンセント騎士団長の手元に……。
『……あなたに、会いたいです』
(……あああああ)
思い出すだけで、回路が焼き切れそうだ。
私は熱くなる顔を冷ますように、ふと空を見上げた。
彼のいる、領主街の方角。
空は明るいが、西の遠くには、湿り気を帯びた重い雲が流れている。
「はぁ……」
深い、深い、ため息が漏れる。
周囲を見渡しても、広場を行き交う人々は私を遠巻きに見るだけで、誰も近寄ってこない。
私は、どう配布すべきか考えあぐねていた。
石鹸をどうぞ、といきなり渡すのは、あなたは汚れていますと指摘するのと同義になりかねない。
これは、対人コミュニケーションにおいて非常に失礼な行為にあたる可能性がある。
【分析:配布プランの再構築が必要】
私が立ち尽くしていると、人ごみの向こうから快活な声が飛んできた。
「あ、聖女様じゃんー!」
ジェシカだ。
彼女が大きく手を振って駆け寄ってきたことで、広場にいた街の人たちが、少しだけざわめく。
(……目立ちます)
私は思わず、じとっとした視線を彼女に向けた。
人目も気にせず駆け寄ってくる彼女の明るさは、今の私の鬱屈としたシステム状態とは、あまりに対照的だった。
「……声が大きいです、ジェシカ」
「ちょっとー! せっかく会いに来たんだから、少しくらい私にも笑顔見せてよね!」
ジェシカが不満そうに頬を膨らませる。
その仕草には、聖女に対する遠慮など微塵もなく、まるで等身大の友人に向けるような気安さがあった。
「無理な要求です。私は笑顔など、めったに作りません」
「ええ? なに言ってんの。最初に見たときと比べると、最近の聖女様、笑顔ばっかりだよ? ……私といる時以外ね!」
「……え?」
私は虚を突かれ、自分の頬に手を触れた。
自然と、笑顔になることが増えている……?
表情筋への命令コードは、あまり意図して発信していないはずだ。
口元を触ってみるが、今の形状は無表情のままに思えた。
「まあ、私といるときの、今のムスッとした顔も、レアといえばレアかなぁ~」
ジェシカは軽い調子で笑う。
今、私はむすっとした顔をしている……?
(……そんなに、私の表情は、勝手に変動するようになっているのでしょうか)
「で、今日はなんか呆然って感じの顔してたけど、どうしたの? なんかあった?」
「……!」
私の気持ちを続けて言い当てられ、肩が跳ねる。
「べ、別になんでもありません。……それより、インクの試作の件でしたら、早く見せてください」
「はいはい」
ジェシカは笑いながら、懐から一枚の紙と小瓶を取り出した。
私は紙を受け取り、そこに引かれた線を観察する。
紙の繊維への滲みはなく、酸化による黒色への変色も均一だ。
指で軽く擦っても、定着に問題はない。
次に、インクの入った小瓶を手に取り軽く振ると、中の液体はサラサラと揺れた。
瓶の底に沈殿物はなく、ガラス面を伝う液体の切れも良い。
【分析:視覚情報より、適度な粘度と、粒子の完全な溶解を確認】
【結論:万年筆での使用における『詰まり』のリスクは、最小限です】
「……完璧です。これなら、万年筆での実用に耐えられます」
「やった! これで商品化ね!」
ジェシカが跳ねて喜ぶ。
彼女の研究熱心な技術者としての気質には、素直に感服する。
これでようやく、万年筆計画は次のフェーズ――量産へと進められる。
「ところで、それなに?」
ジェシカが、私が抱えていたカゴを指さした。
中には、追加で試作したばかりの、無骨で灰色の塊が山積みになっている。
「石鹸です。教会の奉仕活動として、試作品を無料で配ろうかと」
「へー? いっこもらっていい?」
「どうぞ」
「ありがと! 試してみるね!」
私が石鹸を一つ手渡すと、ジェシカは笑顔で受け取った。
誰にも手渡せていなかったカゴの中身が、初めてひとつ減った。
ミッションの進捗は芳しくないが、今日はこれで良しとしよう。
「では、私はこれで」
配布方法のロジックを再構築して、明日出直すべきだ。
そう考え、私が教会へ帰ろうと背を向けると、ジェシカが、えっ、と驚いた声を上げた。
「工房来ないの? せっかくインクが完成したのに」
「はい。この後、雨が降りますので」
「……えぇ?」
雲一つない、真上の青空を指さして言った私の言葉に、ジェシカは耳を疑ったようだ。
その会話が耳に入ったのか、近くで露店を出していた商人が、不思議そうに空を見上げて話しかけてきた。
「雨? こんなに晴れてるのにかい? お嬢ちゃん」
広場には陽光が降り注いでいる
雨の気配など、微塵もないように見えるだろう。
だが――。
「南西からの風が強まり、急激に湿った重たい空気が流れ込んでいます。それに、雨の匂い――ペトリコールが風に混じり始めました」
「匂い……? 言われてみれば……」
私は淡々と、分析の根拠を提示した。
「あちらに見える雲の発達速度と、風の向きから計算すると、約40分後には、この広場は局地的な豪雨に見舞われます」
まるで呪文のような言葉に、商人とジェシカは目を白黒させている。
「は、はあ……?」
「洗濯物があるなら、取り込むことを推奨します」
もしかしたら露店も、今日はもう撤収していいかもしれない、と続けて小さく漏らした。
商人とジェシカは、ぽかんと口を開けている。
「明日は晴れると予測されますので、また明日、ここに来ます」
私はそう言い残して、足早に教会へと戻っていった。
背後に、呆気にとられた人々の視線を残したまま。




