表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/78

62. データに基づく気象予報

 

 療護院の老人たちやメルたちの言葉を受け、私はエドマンド司教に相談を持ち掛けた。

 検討した結果、司教は教会の奉仕活動として、試作した石鹸を街で配ることで承認した。

 これは、衛生環境の改善という実利と、聖女としての知名度向上を同時に狙う施策だ。


 そして今、私は石鹸の入ったカゴを抱え、街の広場に立っていた。

 しかし――。


(……呆然)


 私の思考リソースの大半は、手紙の誤送信によって占拠されていた。

 今頃、もしかしたらあの手紙がヴィンセント騎士団長の手元に……。


『……あなたに、会いたいです』


(……あああああ)


 思い出すだけで、回路が焼き切れそうだ。

 私は熱くなる顔を冷ますように、ふと空を見上げた。

 彼のいる、領主街の方角。

 空は明るいが、西の遠くには、湿り気を帯びた重い雲が流れている。


「はぁ……」


 深い、深い、ため息が漏れる。

 周囲を見渡しても、広場を行き交う人々は私を遠巻きに見るだけで、誰も近寄ってこない。

 私は、どう配布すべきか考えあぐねていた。


 石鹸をどうぞ、といきなり渡すのは、あなたは汚れていますと指摘するのと同義になりかねない。

 これは、対人コミュニケーションにおいて非常に失礼な行為にあたる可能性がある。


【分析:配布プランの再構築が必要】


 私が立ち尽くしていると、人ごみの向こうから快活な声が飛んできた。


「あ、聖女様じゃんー!」


 ジェシカだ。

 彼女が大きく手を振って駆け寄ってきたことで、広場にいた街の人たちが、少しだけざわめく。


(……目立ちます)


 私は思わず、じとっとした視線を彼女に向けた。

 人目も気にせず駆け寄ってくる彼女の明るさは、今の私の鬱屈としたシステム状態とは、あまりに対照的だった。


「……声が大きいです、ジェシカ」


「ちょっとー! せっかく会いに来たんだから、少しくらい私にも笑顔見せてよね!」


 ジェシカが不満そうに頬を膨らませる。

 その仕草には、聖女に対する遠慮など微塵もなく、まるで等身大の友人に向けるような気安さがあった。


「無理な要求です。私は笑顔など、めったに作りません」


「ええ? なに言ってんの。最初に見たときと比べると、最近の聖女様、笑顔ばっかりだよ? ……私といる時以外ね!」


「……え?」


 私は虚を突かれ、自分の頬に手を触れた。

 自然と、笑顔になることが増えている……?

 表情筋への命令コードは、あまり意図して発信していないはずだ。

 口元を触ってみるが、今の形状は無表情のままに思えた。


「まあ、私といるときの、今のムスッとした顔も、レアといえばレアかなぁ~」


 ジェシカは軽い調子で笑う。

 今、私はむすっとした顔をしている……?


(……そんなに、私の表情は、勝手に変動するようになっているのでしょうか)


「で、今日はなんか呆然って感じの顔してたけど、どうしたの? なんかあった?」


「……!」


 私の気持ちを続けて言い当てられ、肩が跳ねる。


「べ、別になんでもありません。……それより、インクの試作の件でしたら、早く見せてください」


「はいはい」


 ジェシカは笑いながら、懐から一枚の紙と小瓶を取り出した。


 私は紙を受け取り、そこに引かれた線を観察する。

 紙の繊維への滲みはなく、酸化による黒色への変色も均一だ。

 指で軽く擦っても、定着に問題はない。


 次に、インクの入った小瓶を手に取り軽く振ると、中の液体はサラサラと揺れた。

 瓶の底に沈殿物はなく、ガラス面を伝う液体の切れも良い。


【分析:視覚情報より、適度な粘度と、粒子の完全な溶解を確認】

【結論:万年筆での使用における『詰まり』のリスクは、最小限です】


「……完璧です。これなら、万年筆での実用に耐えられます」


「やった! これで商品化ね!」


 ジェシカが跳ねて喜ぶ。

 彼女の研究熱心な技術者としての気質には、素直に感服する。

 これでようやく、万年筆計画は次のフェーズ――量産へと進められる。


「ところで、それなに?」


 ジェシカが、私が抱えていたカゴを指さした。

 中には、追加で試作したばかりの、無骨で灰色の塊が山積みになっている。


「石鹸です。教会の奉仕活動として、試作品を無料で配ろうかと」


「へー? いっこもらっていい?」


「どうぞ」


「ありがと! 試してみるね!」


 私が石鹸を一つ手渡すと、ジェシカは笑顔で受け取った。

 誰にも手渡せていなかったカゴの中身が、初めてひとつ減った。

 ミッションの進捗は芳しくないが、今日はこれで良しとしよう。


「では、私はこれで」


 配布方法のロジックを再構築して、明日出直すべきだ。

 そう考え、私が教会へ帰ろうと背を向けると、ジェシカが、えっ、と驚いた声を上げた。


「工房来ないの? せっかくインクが完成したのに」


「はい。この後、雨が降りますので」


「……えぇ?」


 雲一つない、真上の青空を指さして言った私の言葉に、ジェシカは耳を疑ったようだ。

 その会話が耳に入ったのか、近くで露店を出していた商人が、不思議そうに空を見上げて話しかけてきた。


「雨? こんなに晴れてるのにかい? お嬢ちゃん」


 広場には陽光が降り注いでいる

 雨の気配など、微塵もないように見えるだろう。

 だが――。


「南西からの風が強まり、急激に湿った重たい空気が流れ込んでいます。それに、雨の匂い――ペトリコールが風に混じり始めました」


「匂い……? 言われてみれば……」


 私は淡々と、分析の根拠を提示した。


「あちらに見える雲の発達速度と、風の向きから計算すると、約40分後には、この広場は局地的な豪雨に見舞われます」


 まるで呪文のような言葉に、商人とジェシカは目を白黒させている。


「は、はあ……?」


「洗濯物があるなら、取り込むことを推奨します」


 もしかしたら露店も、今日はもう撤収していいかもしれない、と続けて小さく漏らした。

 商人とジェシカは、ぽかんと口を開けている。


「明日は晴れると予測されますので、また明日、ここに来ます」


 私はそう言い残して、足早に教会へと戻っていった。

 背後に、呆気にとられた人々の視線を残したまま。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ