閑話. アンの新しい姪っ子
「おや、アンちゃん、もう上がりかい?」
「ええ、また明日!」
私は勤め先の療護院の利用者に手を振って、職場を後にした。
夕暮れの街を歩く足取りは、以前とは比べ物にならないほど軽い。
仕事が終わったその足で、私はあの子たちが待つ孤児院へと向かう。
体力的にはきついはずなのに、不思議と心は満たされていた。
それもこれも、あの日、雷と共に現れた不思議な聖女様――エリス様のおかげだ。
あの方が来てから、まるで止まっていた時計が動き出したかのように、全てが変わった。
誰もが恐れる氷の騎士様を味方につけ、魔法のような知識で中庭から水を湧き出させ、子供たちを過酷な水汲みから解放してくれた。
それだけではない。
長年、私たちを支配し、怯えさせてきたグリモ司祭の悪事を暴き、断罪し、この場所から追放してくださったのだ。
彼女は、井戸の水だけでなく、失われていた子供たちの笑顔と未来まで、たった数日で取り戻してしまった。
あれが聖女でなくて、なんだと言うのだろう。
孤児院に着くと、持ち込んだ食材とパン、そしていつもの簡単なスープを大量に作る。
スープは私が夜に作ったものを、朝昼にも出してもらっているのだ。
「……アン。いつも、申し訳ありません」
食事が始まると、隣に座ったエリス様が、不意に頭を下げた。
「え? なにがですか、エリス様」
「私は、あなたの作成したスープを、頻繁にこぼしていました。貴重な栄養素を無駄にしました」
その言葉に、私は思わずクスクスと笑ってしまう。
エリス様は時折、とても難しい言葉でお話しされるけれど、その中身は子供のようにとても純粋で、可愛らしい。
「ふふ。でも、最近は上手に食べられるようになったんでしょう?」
「はい。パンや果物などの固形物の摂取は、おおむねマスターしました」
エリス様は少し嬉しそうに胸を張った。
「スープも、メルの指導により、もうすぐマスター出来そうです」
「それはよかったです」
小さな子供の口を拭いてあげながら答えると、エリス様はふと、不思議そうに私を見つめた。
「……アンはなぜ、無償でここまで孤児院のお世話をするのですか?」
「あら。私、この孤児院の出身だと、言いませんでしたか?」
きょとんとして答えると、エリス様は、そういえば一番最初にメルから共有を受けていましたと言った後、でも、と続けた。
「理由はそれだけですか?」
「それだけ、とは?」
「いえ……」
首をひねるエリス様に、私は少し困ったように笑い、手元の作業を止めた。
「ここの子供たちは、私にとって弟や妹みたいなものですからね」
パンを頬張る子供たちを、愛おしい気持ちで見る。
けれど、その笑顔を見ると、同時に胸の奥がチクリと痛んで、私の表情に、自然と影が落ちた。
「――私が過ごしていた頃の孤児院は、とても穏やかで、みんな仲が良くて……ごく普通の、幸せな場所でした」
「そうだったのですか?」
「ええ。でも、私がここを卒業して、働きに出るようになって……教会の司祭様が、あの方に代わって。……しばらくして、水汲みに毎日子供たちが駆り出されているのを見かけて、様子を見に来たら……たった数年で、ここは地獄のようになっていました」
痩せ細っていく笑顔。ボロボロの服。
私と一緒に育った仲間たちは、みんな、この街を出て行ってしまった。
この街に残っているのは、私だけだ。
「大切な場所が壊された、私がなんとかしなくちゃ。この子たちに……弟妹たちに、あの頃のような穏やかな生活をさせてあげなきゃって。……贖罪のような気持ちも、あったのかもしれません」
自分だけが逃げ出したような、自分だけが幸せな子供時代を過ごしたような、そんな後ろめたさ。
それを吐露すると、エリス様は私の瞳を真っ直ぐに見つめ、淡々と言った。
「アン。あなたの思考プロセスには、論理的な誤りがあります」
「え……?」
「穏やかだった過去は、事実であり、罪ではありません。そして、司祭による孤児院の損失は、あなたの責任ではありません」
エリス様の言葉には、迷いがなかった。
慰めようといった安い感情も、少しも感じられない。
「あなたが負い目を感じる必要性は、論理的に皆無です」
あまりにきっぱりとしたその指摘に、私は数秒間、呆気にとられた。
そしてやがて、エリス様の言葉を咀嚼し終えると、憑き物が落ちたように肩の力が抜けた。
「……そう、でしょうか」
「はい。そうです」
「ふふ……。ありがとうございます、エリス様」
私が微笑むと、エリス様も何かを思いついたように顔を上げた。
「そうです。アンの負担を軽減するため、私もお料理を分担することを提案します」
「え? エリス様が?」
「はい。この孤児院の周辺に、栄養価の高い薬草が、複数自生しているのを観測しました」
エリス様は真剣な顔で続けた。
こうなった時のエリス様は、淡々としていて、少し早口になる。
「これをスープに投入すれば、栄養価が向上します。調理プロセスも最適化します。これらの薬草は、水で洗うと栄養素が流出してしまうため――収穫後の土は払う程度に抑え、そのまま鍋に投入するのが、最適解です」
「だめ!!!!!」
私の返事より先に、私の背後からメルの叫び声が響いた。
「な、なぜですか、メル。栄養素の保存は合理的です」
「だめったらだめ! 土は食べられないの! エリスはもう、キッチン立ち入り禁止!」
「しかしメル、――んぐッ!」
食い下がろうとするエリス様のその口に、メルはパンを押し込んで、無理やりに黙らせてしまった。
子供を叱るお母さんのようなメルの姿と、叱られてしゅんとする子供のようなエリス様。
その様子がおかしくて、私は肩を震わせて笑い出した。
「うふふ…! なんだか本当に、親子みたいですね」
「「親子?」」
二人が同時に首を傾げる。
メルは私にとって可愛い妹なのだから、そのメルの子供のようなエリス様は、私にとって姪っ子になるのかしら。
――うん、素敵だわ。
そんなことを思いながら、私は騒がしくも幸せな食卓を眺めた。




