35. 涙のオーバーフロー
【...エラー:ハードウェア――涙腺が、論理の制御を離脱】
【...エラー:『安堵』『達成感』『恐怖』のパラメータが競合し、オーバーフローしました】
(……これは、涙…?)
戸惑いながら、触れた頬が濡れている。
私はどうやら、意図しないまま、涙を流していた。
その私の顔を見て、ヴィンセント騎士団長が目を見開き、驚いて固まってしまっていた。
――が、次の瞬間。
彼の顔は、見たこともない怒りの表情へと変わった。
ヴィンセント騎士団長は、くるりと身体を翻す。
そして、大股で、兵士に連行されようとしている、グリモ司祭に詰め寄った。
ゴッ!!
「がっ…!?」
重く、鈍い音。
ヴィンセント騎士団長が、グリモ司祭の顔面に、思い切り拳を叩き込んでいた。
「は、ぇ……」
崩れ落ちるグリモ司祭。
「だ、団長!?」と叫ぶジャック副団長。
「ひっ…」と恐怖する兵士と子供たち。
中庭にいた全員が、驚愕している。
いつも冷徹な氷の騎士が。
冷静で、感情の起伏を見せない鉄仮面を持つ、あのヴィンセント騎士団長が。
全身で怒りをあらわにして、グリモ司祭の前に立ちはだかっていた。
彼は、倒れたグリモ司祭を見下ろすと、静かに、低く、しかし遥かに強烈な威圧を込めた声で、問い詰めた。
「……エリスに、なにか、言うことは」
「ひぃ……! あ、あ……」
【スキャン:グリモ。感情:『恐怖』100%】
グリモ司祭は、ヴィンセント騎士団長の鉄仮面が、初めて殺意に染まったのを理解し、完全に戦意を喪失した。
「も、申し訳……! 申し訳ありませんでした!! わ、私が……私が、全て、やりました……! 横領も、虐待も! 全て聖女様のおっしゃる通りです……!!」
ジャック副団長や兵士たちも、息を飲んでいる。
無表情のまま怒りを放つヴィンセント騎士団長が、恐ろしいことを、その場の全員が理解し立ちすくんでいた。
「団長、もう、それくらいに……」
ジャック副団長が、我に返って怒りの静まらない彼の前に出る。
ヴィンセント騎士団長は小さく舌打ちをし、グリモ司祭へ背を向けると、足早に私の方へ戻ってきた。
私の流れ続けていた涙も、目の前の理解不能な光景によって、今はぴたりと止まっていた。
(召喚状のお礼を言わなければ)
(ですが、今の暴力は、非合理的――ダメだと指摘しなければ……)
(でも、彼は、私のために怒ってくれた……?)
「あの、ヴィンセント騎士団長、」
私が、処理しきれない思考のまま、かろうじて口を開いた、その瞬間。
「――っ!」
片手を強く引かれ、私は彼の腕の中に、強く、抱きしめられていた。
【――警告:予期せぬ『物理的接触』を感知】
【...エラー:思考がフリーズ】
「え、あ……の、」
きゃあと小さく色めいたメルの声が聞こえた。
ジャック副団長は空を仰いでおり、アンは慌ててロキの目を塞ぐのが、抱きしめられた瞬間、彼越しに見えた。
ノイズが混ざって聞こえる。
だが、それ以上に、私を包み込む彼の熱が、私のシステムを灼いていく。
私を抱きしめるその腕が、微かに震えているのを、私の触覚センサーが感知した。
(……彼は、怖いのですか? 私が、傷つけられることが……?)
その震えは、彼が私を大切に思っている事実を伝えているようで、私の論理回路が、熱で溶けそうになる。
抱きすくめた私の耳元で、ヴィンセント騎士団長の、低い、熱のこもった声がした。
「……遅くなって、すまなかった」
なぜ、ヴィンセント騎士団長が謝罪をするのかと、動きにくいその腕の中で彼の顔の方を向こうとする。
すると、より一層、腕の力が強まった。
「本当に、見事だった。……君が、孤児院を、守ったんだ。エリス」
(……私が、守った)
【...エラー:『幸福度』のパラメータが、危険域を突破】
【――警告:ハードウェア――涙腺が、再びオーバーフローします】
「……なぜ、涙が、また、出るのでしょう……」
(わからない。グリモ司祭の排除は、完了したのに)
安堵とも達成感とも違う、複雑で定義しがたい感情に占領されている。
彼に触れられていると、システムがおかしくなるようだった。
「……」
ヴィンセント騎士団長は、何も言わずに、またさらに抱きしめる力を強めた。
震える唇が、システムを介さず、気持ちを吐き出す。
「……こわ、かった……」
「!」
「……初めて、敵意を、向けられて……、……ひとりで、心細くて……あなたが、いなくて……!」
私の論理が、完全に決壊し、バグを発生させる。
私は、ただの子供のように、彼の胸の中で、泣きじゃくっていた。
「……不安、でした……っ!」
「エリス……っ、」
ヴィンセント騎士団長は、私の吐き出した言葉を受け止め、息を呑む。
そっと抱きしめる力を弱め、私の顔を覗き込もうとした。
「……俺は、」
【...システム:シャットダウン】
【原因:『感情』の許容量オーバー、および『睡眠不足』の限界】
私は、初めての感情の決壊により、彼の腕の中で、とても気持ちよく、意識を手放した。
「……は?」
ヴィンセント騎士団長は、腕の中ですやすやと眠ってしまった私を抱きかかえたまま、中庭でひとり、皆に見守られたまま、固まることしかできなかった。




