第13話ー1 海の門
寝袋の中で寝がえりをうつ。ゴソゴソと音を立ると、次第に他の音も耳に入ってくる。すぐそばにある噴水の音。なんとも心地が良い水音がまた眠りに誘う。だが、フロアの冷たい空気がその眠気を邪魔してくる。
コウはポケットに入れた懐中時計と取り出して、ぼやけた目で文字盤を見つめる。
まだこんな時間か……。心の中でそう呟き、懐中時計をポケットへと納めた。
姿勢を仰向けに戻すと、視界の全てが門の塔一階の天井になる。どこも汚れていない、少し色の混じった白い天井。この天井はまるで、コウの今の頭の中を表しているかのようだった。
コウは昨日のことを思い出そうとしていた。
昨日は虹の門に入った――はずなのだが、虹の門へ入ってから出てくるまでの記憶がさっぱりなのだ。
マップを何度も見たがクリアの証である星マークが記されている。このマークが記されているということは、一度でも中へ入ってクリアしたのだということになる。だが、中で何をしたのか、何を見たのか、さっぱり思い出せないのだ。
昨夜寝る前にミキのマップを見せてもらったり、話をしたりしたのだが、ミキも同じように全く記憶がないようだった。
二人ともなんとなく、虹が綺麗だったような……という朧気な記憶があるようだったのだが、どんな虹だったのかなどは全く説明できない。ただ虹が綺麗だった、としか言えないのだ。
そして、革靴には乾いた泥が付着していた。少量ではなく、縁やソールの部分にもかなりの量が付いていた。虹の門の中で付いたのだろうということだけはわかるのだが、それでもやはり中のことは思い出せなかった。でも、その泥を見た途端、なんとなく背筋が凍るような感覚が走る。ただ寒気を感じたわけではない。何か見てはいけないものを見たような、思い出してはいけないような、嫌な感覚である。この感覚は何なのだろう? もしかしたら、思い出せないことのほうがありがたく思うような経験をしたのだろうか。
これ以上考えない方がいいような気がする。もう虹の門のことは忘れよう。二人とも無事で、今ここでこうやって眠っているのだから、それだけでも幸せ者なのだ。でも、父さんやヨーゼフさんへ送る手紙にはどう書こうか。ただ「虹が綺麗だった」だけでは味気ない。せめて何かこう……二人に伝わるように書きたい……。
コウは寝袋の中で思考を巡らせたが、虹の門のことはあまり書かず、これから入る予定の門のことをたくさん書くことにした。
寝袋の中であれやこれやと考えていると、門の塔一階は少しずつ喧騒を取り戻し始める。朝早くから門を攻略しようとする攻略者たちが次々に起きては、顔を洗ったり、朝食を取り始めたり、仲間と作戦会議をし始めたり……。少しずつ忙しない音が響き始める。
僕たちもそろそろ動き始めるか、とコウは寝袋から体を出し、朝食の支度を始めた。
今日入る予定の門は、マップの右から4つ目の門、”海の門”だ。
”海の門”と言うのだから、中に海があることは想像できる。
コウは、頭の中に海の門のイメージを広げていく。
白い砂浜に、その奥に海、ヤシの木が数メートル間隔で並び、海鳥の鳴き声が潮風に乗って聞こえてくる。遠くの砂浜には、いくつかのカラフルなパラソルが絵の具を落としたように点々と並び、白日のもと、人々が思い思いに自分の時間を過ごしている……。
まさかこんなゆったりとした世界の中に、何か魔物や危険なものでもあるのか?
ということは、コウの想像している海の門のイメージはまったくの想像だけの世界だ。門の塔の中の門なのだから、何かしら危険が潜んでいるはずだ。そうに違いない。
――あれ? 何やら焦げ臭いような……?
「うわあ!!!!」
目の前の真っ黒な煙を見て、コウは門の塔の一階に響くほどの大声をあげてしまった。朝食にと作っていた目玉焼きが焦げてしまっているのだ。
コウは大慌てでシングルバーナーの火を止める。だが、時すでに遅し。焦げてしまったものは元に戻らないのだ。
大声を聞いて起きたミキに、コウは焦げた物を元に戻す魔法などないか? と尋ねた。そんなものあったらみんな使ってるわよ! と一蹴されてしまった。
コウは焦げた目玉焼きが乗ったトーストを食し、ミキには改めて焼いた綺麗な目玉焼きトーストを食べてもらった。
焦げた目玉焼きはやはり焦げ臭い味がする。ソースなどをかけてなんどか誤魔化すも、口の中には苦味が残り、少しだけ悲しい朝食の時間となってしまった。
二人は身支度を終えて”海の門”の前までやってきた。
門の前には攻略者らしき人が数名、観光者らしき人がこれまた数名。虹の門と比べると数十分の以下といった人数しか並んでいなかった。
攻略者はともかく、観光者の中には釣り竿を持った人や、大きなシャチ型の浮き輪を持った人など、如何にも、今から海水浴や魚釣りをしにいきますといった雰囲気の人々ばかりだった。
コウは、これから遊ぼうという人々を見て、お気楽でいいな、と少しだけ思ってしまった。
並んでいる人々は、次々に門の中へと入っていく。コウとミキの順番はすぐに回って来た。
門の中へ入る少し前に、コウは門番の言うことを聞き逃すまいと、耳を傾けた。
海の門の左手側にひっそりと立つ門番。
相も変わらず、ボロボロの薄汚れたローブを纏い、深々とフードを被って顔を見せないようにしている。左手に持った長い柄のついたランタンからは淡く青い光が零れるように灯っていた。
「海は広くとも、心はせまい、クジラはよく知っている」
まだ成人して間もないような女性の声で、その言葉は聞こえた。とても淡々とした口調だった。
海――心――クジラ――。
”海”と”クジラ”は共通点があるが、”心”は何だろう? ”心はせまい”と言っているし……。
とりあえず、全て重要なキーワードであることは確かだ。頭の中のメモ帳にしっかりと書き記し、コウは海の門を見た。
海の門は、オレンジ色のような明るいブラウンの木製の扉だった。そこまではよくある普通の門や扉なのだが、どこかの有名な画家が描いたような魚や貝、海藻などの絵が描かれている。まるで海の中のように見えるその門は、まさに海の門にふさわしい。どこかワクワクさせる絵だった。
門の右側の取っ手をコウが握る。少し捻ると、門は軽い力で開いた。
先にミキが入り、コウがあとに続く。中はまたあの長い薄暗い石積みの壁の通路だった。右側の壁に掲げられた松明がオレンジ色の炎を燃やし、ずっと奥まで続いている。
この通路にも慣れたもので、何とも思わなくなった。薄暗く何か潜んでいそうな雰囲気だけは少しだけ勘弁してほしいが、隣にミキがいるので、何か出てもびっくりすることはないはずだ。……たぶん。
「海かあ……。いつぶりだろ」
通路を進む中、ミキが口を開く。
海と聞いて、故郷のミスカホのことを思い出しているのだろうか。
コウは、ミキの故郷の話を聞いてみたくなった。
「ミスカホの海はどんなだった?」
「とっても綺麗だったよ。青とも緑とも違う色でキラキラしてて……」
ミキは一瞬間を置き、「懐かしいなあ」
故郷を思う気持ちはコウにもわかる。
火の国バーオボの象徴であるバーオボ火山から噴き出す白い煙、港町リョックルの潮の香りと賑わい、ヨーゼフさんの喫茶店のベルの音、父が営む古書店の少しかび臭いような書物の匂い。今でも鮮明に思い出せるほど、コウの脳裏に刻まれたそれたち。たった今、バーオボではどんな時間が流れているのだろうか。故郷を思い出し、コウは少し帰りたくなってしまった。
「……帰りたい?」
コウは思わずミキに聞く。もしかしたらミキもミスカホを思い出して同じような気持ちになったのでは? と思ったからだ。
「うーん。今の生活も楽しいから別にいいかな。もっと勉強もしたいし。でも、大人になってから遊びにいってみたいとは思ってるんだ」
コウはミキの言葉を聞き、胸を突かれた。
ミキにとってミスカホは帰る場所ではなく、遊びに行く場所となっているのだ。故郷を捨てたわけではないのだろう。だが、ミキにとって帰る場所はすでに聖地テルパーノのアミマド屋なのだ。
そのことに気づいた瞬間、コウは、ミキを一歩先へ進んでいるような気がした。ミキが勤勉で優秀な魔女だから、とかそういうのではない。過去を整理し、自分一人で未来を切り開いている。そんな感じがした。
通路に自分たちの足音が軽快に反響する。その軽快さに合わせるかのように、ミキが少し面白おかしいといった口調で話す。
「ミスカホの海と言ったら……遭難したときのこと思い出すなあ」
「遭難!?」
コウはすぐさま聞き返した。
「うん。それがね、お姉ちゃんのダンス教室が終わったあと海で遊ぼうってことになって――私たちだけが知ってる秘密の浜辺があるんだけど――私、先に行ってお姉ちゃんを驚かせようと思ったの。浮き輪に乗って浮いて待ってたら、お姉ちゃん驚いてくれるかなって。それで、浮き輪に乗ってたんだけど、気づいたらそのまま寝ちゃってね。起きたときには沖に流されちゃって」
「本当に遭難じゃないか」
ミキはクスッと笑い、
「そうなの。でも、すぐにパパが助けに来てくれたの。それも一人で泳いでだよ? あのとき、本当にパパがヒーローみたいに見えたんだ」
ミキの父はとても勇敢な人だ、と以前も思ったが、このエピソードを聞いてそのイメージがより強くなった。たとえ自身の命を危険にさらしてでも、他人が困っていたら手を差し伸べる。ミキの言う通り、まさに”ヒーロー”な人なのだとコウは思った。
コツコツという革靴の軽快な足音が反響するなか、前方から潮の香りがほのかに漂ってきた。
「懐かしい香り……」ミキはうっとりとした表情でそう言う。
次第に前方が白く明るくなり、二人はその光に包まれていった。
眩しくなって目を閉じたコウは、ゆっくりと瞼を開いた。
ゴールドと白とが入り混じったような淡いベージュの砂浜、一碧万頃、砂浜の向こう側に広がる青とも緑とも違う鮮やかなブルーの海、数メートル間隔で並ぶ背高のっぽのヤシの木……。まさに絵に描いたような海の景色が目の前に広がっていた。
コウは、幾度となく海を見てきた。火の国バーオボの港町リョックルの海、聖地テルパーノに来る途中の船旅で見た海、本の中の海……。だが、今目の前に広がる海は、コウが想像していた南国の海のイメージをそのまま反映させたかのような、初めて見る海だった。そして、とても綺麗だ、と思った。
「すごい! キレイ!」
ミキは、アクドゥアの次にね! と付け加え、目をキラキラとさせながら海を見つめる。
やはり生まれたときから海が傍にある生活をしてきたからだろうか。海が大好きでたまらない、という感情がコウにも伝わってくる。
そしてコウは、そんなミキの姿を見て思わず口を開いた。
「ちょっとだけ遊んで行く?」
いつもなら攻略中なのだから、と自分を制しているのに、この時ばかりはどうしてこう言ったのだろうか。海の門へ入る直前、遊ぶ気満々の観光者たちを見て「お気楽だ」なんて思っていたのに。今は、自分自身がお気楽ではないか。でも、今はただただ目の前の海でミキと共に遊びたい。そう思ってしまう。
コウの言葉を聞いて、ミキはそのキラキラした目を先ほどの数倍はキラキラとさせてコウの目を見る。
「うん!」
ミキの返事は、まるで5歳児の子供のようだった。
二人は、近くのヤシの木の根元にサコッシュや靴を置いて――ミキはトンガリ帽子とローブも置いて――海へと駆けて行く。
荷物はミキが盗人隠しの魔法を使って隠してくれたので、安心して海で遊ぶことができた。
足首の少し上まで浸かる程度の浅瀬で、ミキが両手で水しぶきを上げる。その水しぶきのお返しに、コウは軽く水を蹴り上げる。雲一つない青空のもと、愉快な笑い声をあげ、二人は目一杯遊ぶ。
少し大きな波が来れば服が濡れないよう逃げ、逃げたと思えば「隙あり!」とまた水しぶきをかけ合う。
こうして年齢の誓い友達と遊ぶのはいつ以来だろう。遡れる範囲で遡っても、3年以上は遊んでいなかったように思う。この門の塔へ入るため、母を探すため、一心不乱に働き、無我夢中で門の塔のことを調べ……。
コウの心の片隅にこびり付いていた溶けない氷のような、何かいびつな塊が、ゆっくりと溶けているような感覚がする。今はほんのちょっと攻略のことを忘れ、このひと時を過ごすのも悪くはない。
コウは、この時間を心の休息だと受け取り、門の塔の門の中だということを忘れ、海での楽しいひと時を過ごした。




