第1話ー1 コウと父
ラジオウムが頭上でうるさく鳴く。耳をつんざくような音に、13歳の少年コウ・レオーニは目を覚ました。
重たいまぶたを擦りながら、コウは時計を見た。時刻は午前4時。窓の外を見ると、朝日はまだ出ていなかった。
コウは、毛布に潜っていたい心を鬼にし、ベッドから身を出して、一階の洗面台へ向かう。
シーン、と静まり返った家の中を、出来る限り音を鳴らさないよう注意しながら洗面台までいき、鏡を見て、うーん、と伸びをした。
右手で蛇口をひねるとジョバッと音を立て水が出てきた。早朝の水はとても冷たい。一瞬にして凍ってしまいそうなほどだ。顔を洗うのを躊躇しそうになるが我慢。バシャバシャと水音を立て顔を洗い、ぱっと顔をあげた先の鏡に映った自身の蒼い目を見て、おはよう、と声をかけた。
7年前のあの日、コウの母のマルサは、幼いコウを残して門の塔へ発った。それから2年後、コウの病魔はピタッと消え去った。医者や薬師がこぞって「奇跡のようだ」と、信じられないといった表情で口々にそう言った。1年ほどリハビリを続け、今では朝から夕方までアルバイトや家事ができるくらいコウは元気になった。だが、母マルサの行方はいまだわからい。手紙の一つはおろか、生きているのかもわからない。コウの父のカッシオは何度か知り合いに行方の捜索を頼んだそうなのだが、何も情報は得られなかった。まるで、コウの命と引き換えにマルサの姿が消えてしまったのではないか、と巷では噂されていたが、コウも父のカッシオもそんなこと全く気にしていない。母は、マルサは、絶対にどこかで生きている。二人ともそう確信しながら日々を暮らしている。
アルバイトというと、コウは現在、父の知り合いの牧場とヨーゼフさんが営む喫茶店でアルバイトをしている。10歳のときからお世話になっていて、最初のころは体力のことや、右も左も分からない世界で戸惑ったが、今ではすっかり板についている。
父の知り合いの牧場はガスマン牧場と言って、コウが住むバーオボの首都レレーンの少し外れにある。ガスマンさんとその奥さんが営む大きな牧場で、バーオボでも一二を争うほど敷地がある大きな牧場だ。たくさんのウシやニワトリを飼育し、肉や牛乳や卵を街の商店や学校、料理店などに卸しているのだ。
ガスマンさんとコウの父のカッシオは旧知の仲。お互い学生時代からの友人なのだそうだ。コウがどうしてもアルバイトをしたいとカッシオを説得したとき、ガスマンさんが協力してくださり、牧場で雇ってくれることになったのだ。ウシやニワトリの相手は想像以上に大変で重労働だが、おかげで体力がつき、仕事の厳しさを知ることができた。
コウはキッチンに向かい、食パンを一枚カットし、バターに砂糖を大さじ一杯入れ、それをよく混ぜた。バターと砂糖をよく混ぜたそれを、先ほどカットした食パンに塗ると、”砂糖バターパン”の完成だ。砂糖が多いかもしれないが、朝早くでまだ起きていない脳にはこれくらい糖分を入れたほうがよく効くのだ。
コウは部屋にかけてあった洗濯したばかりのシャツと古びた茶革のベスト着て、ブラウンのズボン、革靴を履き、一階の洗面台で鏡を見て、自身のクセっ毛黒茶髪を少し整えたあと、さっき作った砂糖バターパンの端っこを咥え、玄関へ向かう。音を鳴らさないようそっと玄関扉を開け閉めし、グリーンとオフホワイトのボディが光る自身のバイクへ乗りこみエンジンをかけ、牧場へ出発した。
眠るレレーンの街にバイクのエンジン音が木霊する。
石畳の地面を行くバイクは、ガタガタと音を鳴らし、その振動を伝えてくる。ほんの少しお尻が痛いが、この道を通り過ぎれば柔らかい砂利道になる。それまでしばしの我慢だ。
次第に、石畳だった道は黄土色の砂利道へと変わる。
ちょっぴり肌寒い風を頬で感じていると、途中の桜の木が目に入った。そろそろ開花も近い頃だろうか。ガスマン牧場へ向かう道へは十数本の桜の木が植えられている。開花すれば花弁を散らし、この道を薄ピンクに染めていくのだろう。
早く春が来ないかな、とコウは思いながら、咥えていた朝食の砂糖バターパンを一気に頬張り、郊外にあるガスマン牧場へ向かった。
アクセルを緩め、ブレーキを引く。コウはゆっくりとバイクを止めた。ガスマン牧場に到着したのだ。
適当な場所へバイクを置き、颯爽と降りると、コウはガスマン牧場の事務所を覗いた。
「おはようございます! ニワトリの卵見てきますね!」
コウは、事務所にいたガスマンさんに向かって元気よく挨拶をした。
「おっ! コウくんおはようさん! よろしく頼むよっ!」
そう答えたのは、事務所の中で何やら書類を確認しながらエプロンを着ようとしている小太りな男性。この人がガスマンさんだ。
ベストのポケットの懐中時計を確認すると、早朝4時半。到着するや、コウは鶏舎へ向かった。
数百羽いるニワトリ。どいつもこいつも「朝飯はまだか」と催促するかのように元気よく激しく鳴いている。
「みんなおはよう。……おっと! 落ち着いて! 今出すからね」
換気のための窓を開けながら、コウはニワトリたちへ声をかけた。
餌をやりながらニワトリたちの鶏冠や目の輝きを見て体調確認、そして羽数を数え終えたら卵を回収。今日は千個近い数が取れた。どれもいい卵だ。
「あらコウくん、おはよう。朝早くからご苦労さま」
鶏舎の入り口からひょこっと顔を覗かせコウにそう挨拶したのは、ガスマンさんの奥さんだ。ブラウンの髪を後ろで束ね、赤いエプロンを身に付け、そのうえ黒いゴム長靴を履いている。今から牧場で作業しますという格好だが、柔らかい笑顔がとても素敵な人だ。父のカッシオ曰く、奥さんからガスマンさんへプロポーズしたというのだから、とても肝がすわった人なのだろう、とコウはひそかに思っている。
「おはようございます!」
コウは、ガスマンさんの奥さんへ元気よく挨拶する。
「僕、そろそろ牛舎のほう見てきます!」
コウはガスマンさんの奥さんへそう言うと、先ほど回収した卵を保管庫へ置き、そのあと掃除用の箒を手に取り牛舎へ向かった。
「ふぅ。まずは……」
重く頑丈な扉を開け、そのあと全ての窓を開けながら、ウシたちの体調と頭数の確認を行う。
「あれ? 子ウシ、1頭多くないか?」
頭で覚えているはずの子ウシの数が1頭多い……。数え間違えたのか、と焦ったコウはもう一度数え直す。――1。――2。――3。――あれ?
「君は……?」
コウはそう言いながら、子ウシと一緒に寝ているモフッとした何かを抱き上げた。
「……ミーコじゃないか」
ミーコはガスマン牧場で飼われているネコだ。ネズミ取り要員なのだが、如何せん白黒の柄がウシみたいで、こうして一緒に寝られてしまうと子ウシと数え間違えてしまうのだ。
「君もたまには仕事してよね」
ンニャ、と返事だけはいいネコのミーコを外へやり、ウシたちの体調を確認したあと、放牧の準備にとりかかる。
コウは全ての柵を開けた。のっそりゆっくりと放牧へ向かうウシたちを見送っていると、ガスマンさんから声がかかった。
「コウくん! 配達頼むよ!」
もうそんな時間か! と慌ててベストのポケットに入れている懐中時計を確認すると、もう5時半過ぎ。
「わかりました! ――あ、途中バイクの石炭を買いに寄るので少しだけ戻るの遅くなります!」
コウは、ウシたちのお尻を叩きながら返事をした。バイクの燃料である石炭があと少しで底を尽きる。無くなっては仕事ができないので、補充を忘れないようにしなくてはならない。
「了解! 気を付けて――あ、そうそう。ヨーゼフさんとこ、今日は牛乳2本だってよ!」
「わかりました!」
”ヨーゼフさんのとこには牛乳2本”、”帰りに石炭を買って帰る”。2つの事柄を頭の中に記憶させながら、コウは事務所横にある倉庫から専用の荷台を出し、バイクの後ろに取り付けた。そして、配達する牛乳と卵を載せる。卵はともかく、牛乳のボトルはかなり大きく、なかなかの重量である。牧場で働き始めた当初は一つ運ぶのに苦労したけど、今ではコツを掴んでヒョイと積み込んでいる。自分も成長したものだな、とコウは思った。
「今日は牛乳20本と卵750個配達だな」
注文書を確認しながら、牛乳の本数と卵の個数を確認する。さっきガスマンさんから言われた”ヨーゼフさんのところには牛乳2本”も計算に入れて、もう一度数え直した。数に間違いはない。これでよし!
コウはバイクに跨りエンジンをかけた。すると、バイクをキラリと輝かせるように朝日が射し込んできた。もう6時前だろうか。少し両腕を伸ばし、ハンドルに手をかけ、バイクを発進させた。
東の岩山から朝日が少しずつ昇ってきている。コウは、目の前にそびえ立つバーオボ火山を見た。今日も轟々と白い煙をあげている。我が国バーオボが誇る神様のような存在だ。
少しガタガタする砂利道を進んでいると、首都レレーンの石畳の道が迎えてくれた。レレーンにも配達はあるが、ここは一度通りすぎ、港町リョックルへ向かう。
港町リョックルはバーオボの玄関口。観光目的の外からの大型船や、漁業のための漁船が停泊する町だ。観光客目当ての商店や、地元民のための市場などが多く並んでいる。バーオボでは小さな町だが、いつでも人が多くいる活気のある町だ。
リョックルを後にし、コウは温泉街モミマドレへの道を進む。
リョックル中央を流れているソレナ川を越え、北へ進む。色とりどりのパステルカラーの建物が並ぶ大通りを進み、朱色のオリエンタルチックな橋を渡った先、ここが温泉街モミマドレだ。
モミマドレはバーオボ火山の麓にあり、温泉や地熱を利用した砂風呂で有名な観光スポットだ。”世界観光名所ベスト10”に選ばれるほど人気なのだとラジオウムで聞いたことがある。そのためか、日々の疲れを癒しに世界中から観光客が訪れるのだ。
ここでは4つの宿に配達する。まずは、いつも贔屓にしてくださっている”癒し宿メルミィ”。小さな宿だが予約がいっぱいでいつも賑わっている宿の一つだ。
コウは、癒し宿メルミィの裏口までバイクを回し、厨房近くの出入り口前に停めた。
「おはようございます! ガスマン牧場です!」
コウは、出入り口の奥にある厨房に向かって大きな声で挨拶する。少ししてから、それよりも大きな声で返事が返ってきた。
「おっ! コウくんおはよう! 今日も精が出るねぇ!」
この声の主は癒し宿メルミィの料理長オルランドさんだ。料理一筋の板前さんで、この道40年の大ベテランである。
「オルランドさんこそ! ――よいしょっと」
コウは、前日頼まれていた牛乳と卵を店内へせっせと運ぶ。
「ふぅ……。頼まれた分ここに置いておきますね」
「ありがとね! 昨日の空のボトルと、これ明日の分のメモね!」
空になったボトルと”牛乳2本と卵250個”と書かれたメモを渡された。明日の分の注文だ。コウは、注文書を懐にしまい、バイクに乗って次の配達先へ向かった。
早朝のモミマドレは、空中を白く踊る温泉の湯気に朝日が射しこみ、とても幻想的な表情を見せてくれる。この時間帯だと出歩く人がほとんど居ないため、この世界観を独り占めしているようでとても気分がいい。
湯気の合間をバイクでくぐる。人はいないが事故には気を配りながら交差点を右に曲がる。次の配達先は大きめの旅館。その次はレストラン、そのまた次は銘菓店……と配達していき、モミマドレの配達は終わり。全ての店から明日の注文メモを貰い、モミマドレを後にした。
モミマドレへ来た道を戻り、今度は港町リョックルへ行く。次は”食堂クルンゲ”に配達だ。
”食堂クルンゲ”は、リョックルの漁師ご用達の食堂だ。女将のロレッタさんと娘のリリアーナさんとアメリアさんの親子3人で切り盛りしている。料理はもちろん美味で評判なのだが、それ以上に親子3人の美貌と、邪気をも吹っ飛ばすような明るい性格が漁師たちから人気で、昼時になると行列が出来るほどなのだ。
ソレナ川を越え、港に近づいていくと、そこに食堂クルンゲがある。食堂クルンゲの前にコウはバイクを置き、”準備中”と書かれた観音開きの扉を開ける。コウはこの店の扉を開けるとき、ほんの少しだけ緊張するのだ。(理由はなんとなく察してほしい)
「お、おはようございます! ガスマン牧場です!」
少し上ずった声が出てしまった。自身の変な声に頬が紅潮する。誰にも見られていないか、コウは周囲を少し確認した。
運びやすいよう観音開きの扉を全開にしていると、厨房奥から声が聞こえてきた。
「コウくんおはよう。今日もありがとねえ」
ブロンドの長い髪をブラシで梳かしながら出てきたのは女将のロレッタさんだ。娘二人の母親とは思えないほど若く見える。そして色気もすごい。
また頬が赤くならないうちに、コウは仕事に集中する。
「いえいえ!」と、コウは返事し、バイクの荷台から牛乳のボトルをせっせと運ぶ。
「よいしょ。――ところで、母さんの手がかり……昨日も無さそうでしたかね?」
コウはドキドキする感情を抑えつつ、ロレッタさんに母の情報を聞いた。食堂クルンゲにはたくさんの漁師が出入りするため、少しでも母の情報があれば、とロレッタさんに協力してもらっているのだ。
「そうだねえ。それらしい話は聞かなかったねえ。一応常連さんには毎日聞いてるんだけどねえ……」
ロレッタさんは少し悲しそうな顔をしてそう答える。
「そうですか。ほんと、いつもすみません」
「いいよお! あたしだってマルサさんのことが心配だからねえ! ――これ、明日の注文だよお」
コウはロレッタさんから注文書を受け取った。
「わかりました! それではまた明日!」
観音開きの扉を閉めたあと、空のボトルをバイクに載せ、次の配達先へ向かった。
そろそろ7時半頃だろうか。太陽の位置がバーオボ火山の中腹あたりに来ていた。少し急がねば、とコウはバイクのスピードを上げた。
次の配達先は首都レレーンの”レレーン小学校”と”喫茶&バー茨のふるさと”だ。まずはレレーン小学校へ向かう。
リョックルとレレーンの間に流れるソレット川を越え、アパートが立ち並ぶ大通りを進むと、”集まりの泉”という噴水広場に出てくる。ここの左の道へ進むとレレーン小学校だ。
「ちょっと!! コウ!!!」
とてつもなく大声でコウを呼ぶ声が聞こえた。
「ニーナじゃないか、おはよう」
ニーナはコウと同い年で幼なじみ。そしてレレーンの大地主ブルーノさんの一人娘だ。
沢山の赤いリボンがついたピンク色のフリフリのワンピースを着た、明るいブラウンのクリクリの毛をツイテールしているのがトレードマークの女の子で、その真っ赤でピカピカの靴が彼女の我の強さをより際立てている。
ニーナは会うと必ず声をかけてくれるのだが、押しの強さがコウからすると苦手な要素の一つである。
「今日もアルバイトなの? そろそろ学校に来なさいよ!」
「ニーナが算数で100点取ったらね。――バイバイ!」
コウはバイクのアクセルを強めに引き、その場から逃げた。遠くにいるニーナが何か叫んでいるが、彼女からは逃げるが勝ちである。コウはいつもこうやってニーナを躱して逃げているのだ。
ニーナは、コウが幼い頃病気で臥せっていたことを知っている。コウがこうして毎日沢山働いてるのをとても心配しているのだろう。学校に来い、と声をかけてくれるのも、他の子供たちと同じような日常を過ごしてほしいと思ってのことだろうとわかってはいるが、ただコウは自らの意思で学校に行かず、こうして毎日働いている。家にお金がないわけではない。コウは”ある目的”のため、少しでも多く稼いで貯金したいのだ。”ある目的”のことは、ある人以外誰にも秘密にしている。それくらいとても重要な秘密だ。
そうこうしていると、レレーン小学校に着いた。門を抜け、校舎裏にある配膳室の厨房を目指す。まだ登校時間前なので生徒はいないからか静かな校舎にバイク音が響く。
校舎裏へ回ると、少しこじんまりとした小屋が見えてくる。ここがレレーン小学校の給食を作る配膳室の厨房だ。この時間帯だとまだ厨房係のおばさんたちは出勤してないのだが、給食を作る時間までに食材の搬入があるため、校長先生があらかじめ配膳室の扉を開けておいてくれるのだ。
ゆっくり扉を開き、牛乳と卵を保管室へ運ぶ。全て運び終えたらコルクボードに貼り付けられたメモを回収する。明日の注文だ。
厨房を出て、バイクに空のボトルを載せていると、見覚えのあるバイクがやってきた。レレーン郊外にある”バンフィ農場”のバイクだ。
「おっ! コウくんじゃないか!」
「おはようございます! マルコさん!」
この人はバンフィ農場の次男坊マルコ・バンフィさん。ブロンズの髪をツーブロックにした、いかにも若い男性という風貌で、線は細く見えるが、筋肉質で細マッチョのとてもかっこいい人だ、とコウは思っている。
彼も”ある目的”のためお金が必要で、進学せず実家の農場に就職した。
「コウくん。俺、そろそろ門の塔に行く資金が貯まりそうだよ」
「本当ですか!」
そう。マルコさんとコウの”ある目的”とは、”門の塔の攻略”だ。このことは二人だけの秘密にしており、お互い秘密を共有しながらも時折情報交換をしているのだ。
「そろそろ親父に打ち明けて許可を取ろうと思ってるんだ」
「……お許しいただけるといいですね」
マルコさんの父親であるバンフィさんはとても厳しい方だ。特にマルコさんやマルコさんの兄弟にはとても厳しい。
「せっかくここまで準備してきたんだ。説得すれば親父も許してくれるさ。――おっと、仕事の途中だったな。また今日の夕方にでも茨のふるさとで相談に乗ってくれよ!」
「わかりました! 夕方、茨のふるさとで待ってます!」
コウはマルコさんと別れ、レレーン小学校を後にした。
荷台の空のボトルたちをカランカランと鳴らしながらバイクを走らせる。最後の配達先は、さっきマルコさんとの会話にも出てきた“喫茶&バー茨のふるさと”だ。茨のふるさとは両親の知り合いのヨーゼフさんが営むお店で、昼間は喫茶店、夜はバーと2つの顔を持つ。そして、コウのもう1つのアルバイト先でもある。
さっき来た道を通るとまたニーナに何を言われるかわからないので、少し迂回することにした。ニーナが通るであろう通学路はだいたい把握しているのでその道を避ける。迂回路の並木通りを抜け、先ほどニーナに声をかけられた集まりの泉に着く。ニーナの姿は……ないようだな。コウは少しホッとした。集まりの泉から東の道へ入り、5分ほどバイクを走らせれば茨のふるさとに到着だ。
コウは茨のふるさとの前にバイクを置いた。
「おはようございます! ガスマン牧場です!」
コウがそう言いながら店の赤いバラのステンドグラスが施された扉についたドアベルが、カランコロン、と軽快な音を奏でる。
「おはようございます。コウ坊ちゃん」
そう声をかけてくれたこの人が茨のふるさとのマスター、ヨーゼフさんだ。
白髪をワックスで撫でつけたオールバックに、縁がシルバーのモノクル、アイロンがしっかりかけられた白いシャツと、しっかりプレスされた黒のベストとスラックス。早朝からパキッと決まっている。年齢は不明だが、コウの父カッシオよりも年上なのは確かだ。雰囲気が柔らかいのに、どこか隙が無い、そして、時折見せる鋭い眼光がとてもカッコいい、とコウは密かに思っている。
「今日は牛乳2本、卵100個ですよね。ここに置いておきます!」
「ありがとう。――ああ、坊ちゃん。そのテーブルのボトル持っていってください。ホットはちみつレモンティーです」
コウが扉付近のテーブルに目をやると、ボトルと注文書が置かれていた。ヨーゼフさんはいつもコウに気遣って何か用意してくれるのだ。とても助かる。
「いつもすみません。じゃあ牧場へ戻ります。お昼過ぎにまた来ます!」
「わかりました。お気を付けて」
コウは一旦、茨のふるさとを後にした。
これで全ての配達が終わった。次はバイクの燃料である石炭を買いに向かう。これから向かうのは、いつもお世話になっている”燃料屋カラッチ”だ。茨のふるさとから10分ほどの場所にある。
大きな通りを抜け、北の道に入ると”金属通り”という名の通りに着く。この金属通りの手前にある、こじんまりとした店構えのこの店が”燃料屋カラッチ”だ。
「おはようございます!」コウは店内に響くように挨拶した。
「おっ! コウくんじゃねぇか! おはようさん!」
そう言いながら店奥の部屋から出てきた左目に義眼眼鏡をしている男性が、店主のカラッチさんだ。コウより少し背の低いが、強面で左目の義眼眼鏡がギョロリと前に突出しているので初対面だと怖そうな印象を受けるが、かなり気のいいおじさんだ。
カラッチさんは、この町で随一の整備士だ。バイクはもちろん、自動車や機関車など様々な機械を整備することができる。少し前までこの店の北東にある”ベルバオバ鉱山”で採掘に使うための機械の整備をしていたが、事故で左目を失ってしまった。(左目の義眼眼鏡は、失った視力を補うための魔法道具である。)そして今ではこうしてお店を開いては、バイクや自動車の燃料になる石炭を売ったり、簡単な整備をしているのだ。
コウが現在乗っているバイクは、この店の倉庫で眠っていた物だ。埃を被り、生気を失った化石のようになっていたバイクを、隅々まで掃除し、また走れるようになるまで整備したのが店主のカラッチさんであり、そして、コウに簡単な整備のやり方を教えたのもカラッチさんだ。コウにとって師匠のような存在である。
コウはバイクの座席下にある燃料タンクを開けながら、口を開いた。
「まだ営業時間前なのにすみません。バイクの石炭を頂けますか?」
「全然かまわねぇぜ。1つ600ペウィーだよ」
コウは腰のポシェットから財布を取り出し、600ペウィーを支払った。
カラッチさんから拳大ほどの真新しい石炭を受け取り、燃料タンクの古い石炭を取り出す。燃料タンクの石炭は小指の先ほど小石になっていた。
約1か月前に交換したときは今手にしている石炭ほどの大きさだった。見ない間にこんなにも小さくなったことに、コウは毎度驚く。普通のバイクだともっと早く無くなるのだそうだが、カラッチさんから譲ってもらったこのバイクは東の国ジャプニーナ製のバイク。走りはもちろん、毎日のアルバイトで酷使していても、石炭1つで約1ヶ月ももつ。本当にリーズナブルでありがたいバイクだ。
「古い石炭はこっちで貰うよ」と、カラッチさんはコウに手を差し出す。
「ありがとうございます。――魔法石も大丈夫そうだな」コウは燃料タンク下の魔法石を確認しながら、小さな古い石炭をカラッチさんに渡した。
バイクの主な燃料は石炭だが、魔法石も原動力だ。石炭と違い、魔法石は半永久的に使えるが、稀にヒビが入ることがあるのでチェックは入念にしなければならない。
「根詰まりとかは無いかい?」カラッチさんはそう言いながら、アクセルなどに異常がないか見て回る。
「今のところは大丈夫そうです! ――また来ます! それじゃ!」
「おう! またいつでもおいで」
コウはバイクにエンジンをかけ、カラッチさんの店を後にした。
南東へ走っていると、石畳が終わり砂利道になった。石炭を替えたばかりのバイクは気分よく走ってくれる。気づけば太陽が先ほどより高い位置にいる。今の時刻はだいたい8時半過ぎだろうか。バーオボ火山に背を向けた状態で走っていると、牧場へ戻って来た。
コウはいつもの場所にバイクを置き、事務所を覗き、何やら紙と睨めっこしているガスマンさんへ声をかけた。
「今戻りました! 明日の注文メモも机に置いておきます」
「ご苦労さん! いつも助かるよ」
コウはもう一度バイクを置いた場所へ戻り、バイクのハンドル下に下げている袋から飲料用ボトルを取り出した。この飲料用ボトルには、先ほど茨のふるさとでヨーゼフさんから貰ったホットはちみつレモンティーが入っている。一口、ホットはちみつレモンティーを含み、ほんの一瞬休憩する。甘くて、少しすっぱい。なんとなく体力が回復した気になって、次の作業に取り掛かる。配達先から回収した空の牛乳ボトルを下ろし、バイクの荷台を外して倉庫へ戻す。そして空の牛乳ボトルの洗浄だ。少しずつ温かくなってきてはいるが、水はまだ冷たい。蛇口から温水が出れば……とほんの少し思うが、そんな甘えたことは言ってられない。コウは、両手にゴム手袋をはめ、大きなスポンジを持ち、一つ一つ洗浄し始めた。
やっとのことでボトルを全て洗い終え、コウはポケットの懐中時計を見た。時刻は9時過ぎ。空を見上げると、太陽はバーオボ火山のてっぺんより少し高い位置にいた。
このあとは、一度ノートを取りに家へ戻り、ヨーゼフさんの店へ行く。ヨーゼフさんの店で働いたあと、そのまま店でマルコさんと門の塔について話し合う予定だ。遅れないよう牧場を早めに出なければならない。
コウは、次の仕事に急ピッチで取りかかった。
牛舎、鶏舎の掃除を終え、時刻は11時過ぎ。コウは事務所にいたガスマンさん夫婦に別れを告げ、牧場を後にした。速度違反にならないようなスピードで家まで急ぐ。ガタガタとした石畳の道路を通り、レレーンの自身の家まで帰って来た。
ただいま!と、扉を開ける。家には誰もいないのか、シーンと静寂がコウを迎えた。そのまま二階の自室へ行き、父に見つからないよう隠しているノートを取り出し、戸締りをして、またバイクに跨って次の場所へ向かった。