プロローグ
長らくお待たせしてしまい申し訳ございませんでした。
(元気にしておりました)
一度話の流れや文章を見直し、改稿しておりました。
ゆっくりではありますが、また一から投稿していきます。
よろしくお願いします。
小望月待宵
朝鳥のさえずりが耳を撫でる。コウ・レオーニはゆっくり瞼を開いた。ベッド脇の冷えた窓からは、ふわふわとチラつく雪が見える。
雪は白く冷たいことを本で読んだことはあるが、まだ6歳の彼は初めてその優しい蒼い目で見た。ここは火の国バーオボ。少し暖かい国なので、冬でも雪が降ることはめったにない。今年は記録的寒波のおかげか、バーオボにも雪が降っている。
初めて見た雪にコウの心は高揚した。体を起こし、窓の外を覗きこむ。いつも見ている景色のはずなのに、真っ白な世界でまるで他の国にでも来たように思えた。向かいの家の屋根や窓辺に積もる雪。石畳の道のはずが雪道になって、所々に人の足跡がついている。
雪の感触はどんなのなんだろう? 柔らかい? 固い? 冷たいのなら、手袋が必要だな。――外に出て雪遊びをする自分自身を思い浮かべた。
興奮して外を見ていたためか、少し体が冷えてしまった。コウは冷えた体をベッドに戻し、毛布を深く被った。
コンコン、コンコン、と部屋のドアからノック音が鳴る。この音は、コウの母のマルサが鳴らす音だ。体が冷えて毛布を深く被ってからほんの30分ほどだろうか。コウは寝ていたらしい。毛布を少し避け、上半身を起こした。
コウは、入っていいよ、とドアの向こうにいる母に返事をした。
「コウ。おはよう。朝ご飯出来たんだけど……食べられる?」
扉が開いたと同時にマルサはそう言いながらコウの部屋へ入ってきた。彼女の手には、トレイに乗せられた湯気の立つ皿が見える。コウに朝食を持って来てくれたらしい。
コウは生まれつき体が弱く、今は自宅のベッドで療養する日々を送っている。バーオボ中の医者や薬師、両親の知り合いの知り合いのそのまた知り合いなど世界中の名医と呼ばれる医者をバーオボに呼び、コウの体を見てもらったが、どの医者も原因は不明だ、と首を振り、その病の正体を突き止めた者はいなかった。
幸い、バーオボにいる有名な薬師がコウの体に合う特別な薬を調合してくれ、今は病状が落ち着いている。毎朝飲む黒い丸薬は苦く、6歳のコウの舌には辛いが、少しでも楽になるのなら、とコウは幼いながらも我慢して飲んでいるのだ。
マルサは、コウを同じ蒼い目を優しく輝かせ、その目でコウの顔を見たあと、少し安心した表情を見せた。
「おはよう。――うん。食べられるよ」
コウは笑顔で返事をした。
マルサがベッド横のテーブルにトレイを置いてくれた。あの湯気の立つ皿の中身は熱々の”ほうれん草卵粥”だ。
”ほうれん草卵粥”は、バーオボで風邪や体調が悪いときによく食べられる郷土料理のようなものだ。昔からの言い伝えで、冬の間朝食で食べると身体が温まり厄病を跳ね除けてくれるとも言われていて、バーオボでは古くから親しまれた料理だ。
「ありがとう」
コウはそう言って、ベッドへ座るような姿勢になった。
「いただきます……あっつ!」
あまりの熱さにコウはビックリした。舌を火傷しそうな熱さである。
「うふふ。慌てずゆっくりね」
コウの母は、クスリと笑いそう言った。
マルサは、コウの病気が一日でも早く良くなるように、と毎朝熱々のほうれん草粥を作ってくれるのだ。コウにとってそれ毎朝の楽しみになっている。
熱々のほうれん草粥は、実に絶妙な味付けをされていて、その味がコウの舌を優しく包み込んでくれる。そして、熱々のその温度が冷え切った体を芯から温めてくれる。マルサが作ってくれたほうれん草粥は、コウだけではなく、記録的寒波に見舞われたバーオボの国ごと温めてくれるような、そんな気がした。
コウは、ものの数分ほどでほうれん草卵粥を平らげた。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
マルサが満面の笑みで言う「お粗末様でした」を聞くために、コウは、ご飯だけはしっかり食べるようにしている。そして心配をかけないためにも。
「じゃあお皿下げるね」
――コンコン。
マルサが皿をさげていると、ドアからノック音が鳴った。この音は父のカッシオのものだ。
カッシオは勢いよくドアを開けるなり、威勢のいい低音の声をコウの部屋に響かせる。
「コウ! おはよう! 今日は体調どうだ? ――おっ! 朝食平らげたんだな」
分厚い本が何冊か積み上がったものを抱えながらマルサが下げた皿を見て、カッシオはそう言った。
「父さんおはよう。――うん。とても美味しかったよ」
コウはこのとき、カッシオの顔を見た。昨夜も徹夜したのだろうか、彼の目元に濃いくまが黒くくっきりと見える。何か調べものをしていたのだろうか。
コウは父の体の心配をしたが、そんな心配を跳ね除けるかのようにカッシオはこう返事した。
「良いことだ!」
そして、カッシオは抱えていた何冊かの本をベッドの左脇のデスクへどさりと置いた。「読みたいって言ってた本、持ってきたぞ。5冊もあるが……多いんじゃないか?」
「大丈夫だよ。2週間もしないうちに読み切ると思う」
病床に臥せっているコウの唯一の暇つぶしであり、楽しみが読書だ。たくさんの難しい文字や単語を覚えたり、自身が知らない外の世界を知ったり、理解できるのは読書のおかげだ。カッシオが経営する書店の店頭にある本や、父の本棚にある本から選りすぐりのものをカッシオは選んできてくれる。コウはそれが嬉しくてたまらないのだ。
「ところで父さん。この前貸してくれたこの本のここの文章なんだけど……」
コウは、少し前に父がおススメしてくれた”バーオボの歴史と火山”という本の分からなかった箇所を質問した。
コウの父のカッシオは、書店を営みながらバーオボ火山や鉱山、土地に根付く文化などを研究していて、研究内容を纏めた書物を執筆したり、時には偉い人から文書の作成を任されたりしている。なんでも物知りで、分からないことがあればコウに分かりやすく教えてくれる先生であり憧れの存在だ。
「……なるほど。父さんはいつも分かりやすく教えてくれるからほんとに助かるよ」
「礼には及ばねぇさ。それにしてもこの本、6歳で読むにはかなり難しいんだがよく理解したな」
「毎日色んな本読んだり、父さんが質問に分かりやすく答えてくれるからだよ」
コウは本心からそう言った。
父のような博識な人に褒められるととても嬉しい。もっと沢山の本を読んで父のような……いや、越えられるくらいにはなりたいと、コウは密かに企んでいるのだ。
だが、父を越えられるほど博識になって研究者やどこかの学校の教授に……なんて夢は、病の手によって遮られようとしている。カッシオもマルサも、なんとか治す手立てはないかと模索しているようだが、今現在は打つ手なし。それでも諦めないという二人の意志に反するかのように、日に日にコウの体は弱っていく一方だ。
「そろそろお薬飲んで、本読みながら少し横になるよ」
ベッド横の椅子に腰かけたカッシオに、コウはそう言った。
「おう。また読みふけって無理しないようにな」
「気を付けるよ」コウは少し苦笑いをして、そう答えた。
カッシオが出て行き、部屋に一人きりとなったコウは、彼が持って来てくれた本を一冊取り、読み始めた。今日は物語の世界に入りたい気分なので小説にした。
タイトルは”海賊少年と龍の秘宝”。内容は、主人公の少年が龍の秘宝を求めて世界を駆けめぐる物語だ。齢15歳という年齢で船を買い、一人で海を渡り、行く先々で仲間と出会い、強敵と対峙し、龍の秘宝を集めて行く……という児童向けファンタジー小説だ。
部屋で寝たきりのコウには、とても夢のような異世界のような話で、夢中になって読んだ。
――少年は、荒れた海など目もくれず、船を出しました。横から下から、上から斜めから。様々な角度から大きな波が押し寄せ、少年の船を今にも沈めようという勢いで襲いかかります。
「進めー! このまま進めば、第一の島に着くはずだ!」
少年は船首に立ち、船の操縦手である仲間にそう命令しました。
大きな波を被っても、船が転覆しそうになっても、少年は決してひるみません。少年の姿はまるで大岩を叩き割る巨人のようでした。
荒波を進む少年の船の前に、その行く道を阻む者が現れました。それは、巨大な触手に大きな傘のような頭を持った人食い大クラゲでした。
人食い大クラゲは、その大きな触手を天高く振り上げ、船に向かって叩きつけようとします。
「危ない!」
船の仲間の少女がそう大きく叫ぶと、船首に立った少年が腰から大きな剣を振り上げました。
「雷神よ! 俺に力を!」
少年がそう叫ぶと、空を真っ暗に覆った雲からゴールドのいかずちが雷鳴とともに少年へ落ちてきたように見えました。ですが、いかずちは少年に落ちたのではなく、少年が手にもつ、頭より高く振り上げられた剣に落ちていました。そして、剣にいかずちが宿り、その剣はいかずちの剣へと姿を変えました。今にもいかづちを辺りにまき散らさんと言わないばかりの剣を持った少年はこう言いました。
「人食い大クラゲよ! これでもくらえー!」
少年が、手に持っているいかずちの剣を振りかぶると、剣から大きな雷鳴を鳴らしながらいかずちが飛び出し、人食い大クラゲに命中しました。人食い大クラゲはいかずちで痺れたのか、荒波の中へと消えていきました。
「よし! このまま進めー!」
少年は、操縦手の仲間にそう叫びました。
人食い大クラゲが消えたからといって、荒波はおさまりません。波はどんどん大きくなり、幾度も船へ襲いかかります。
ザパーン! ドゴーン!
大きな波の音の中、船は突き進んでいきます。
すると、操縦をしている仲間が大きな声をあげました。
「……見えた―! 第一の島が見えたぞー!」
仲間の操縦手の声を聞いて、少年は自身の手に持っていた望遠鏡を覗きこみました。確かに見えます。大きく聳え立つ岩山を携えた島が。あれが第一の島です。一つ目の龍の秘宝が眠るという伝説を確かめるため、船は第一の島に向けてゆっくりと荒波を縫って進みました――。
「雪だ!」「真っ白!」
コウが”海賊少年と龍の秘宝”を夢中になって読んでいると、外から子供たちの遊び声が聞こえてきた。近所に住むコウより2、3歳ほど年下の子たちだ。
あの子供たちの声が聞こえるということは、もうすでにお昼近い時間だ。
そんな時間になったのか、とコウは慌てて読書を中断し、ベッドへ横になった。
コウは、眠りに落ちるまで窓の外に気を配った。外はゆらゆらと小さな小粒の雪が降り、窓の格子には雪が積もっていた。さらに外へと気を配ると、子供たちと一匹の犬が遊んでいるようだった。とても愉快な騒ぎ声。僕もみんなと雪で遊んでいるところを想像してみよう……。冷たい雪の感触どんな感じだろう? 固い? 柔らかい? ベッドよりフカフカなのかな? あの雪を海に見立てて、物語の主人公になってみるのも面白そうだ。
――木の棒をどこかから手に入れて、剣に見立てて前へ突き出す。一緒に旅をしている仲間たちと遠くの島を見て、「さぁ! 次の島へ!」なんて声をあげて。時折どこかから敵の攻撃に見立てた雪玉が飛んでくる。それを剣――木の棒だけど――で攻撃してかわす。仲間と協力し合いながら敵を退けて海原に見立てた道を前へ、前へと進む。「島に着いたぞ!」と声を上げながら、近くの草陰に隠れて、敵がいないか周囲を見渡す。「今ならいける! みんなで行くぞ!」みんなで勢いよく道へ飛び出て、敵の目を欺きながら島の奥へを進んでいく。この島の宝は、奥の洞窟にあるはず……! ――あぁ、意識が遠のいてきた。
コウは、雪の中の楽しいごっこ遊びを想像しながら、薄暗い世界にゆっくりと落ちていった。
「ふざけてるのか!!!」
カッシオの声が聞こえ、コウは目を覚ました。カッシオは一階で誰かに怒っているのか、コウのいる二階の部屋まではっきりと聞こえるほどの怒鳴り声だ。
あれから何時間経っただろう。コウはそう思い、窓の外を見ると、雪遊びをしていた子供たちはすでにおらず、辺りは暗くなっていた。
「ふざけてなんかない!!! コウの病気は私の……呪いのせいなの!」
今度はマルサの声が聞こえてきた。カッシオと言い合いをしているようだ。
彼女の言う”呪い”とは何のことだろう。コウは目を覚ましたばかりで思考が回らず、何がなんだか分からなかった。
「お二人とも落ち着いて……。坊ちゃんが起きてしまいます」
この声は……近くで喫茶店とバーを営んでいるヨーゼフさんだ。二人の喧嘩を止めているらしい。
「呪いなんてあるわけないだろ! そんなの信じるほうがどうかしてる!」
「あるのよ! あそこには……。あそこはそういう場所なの!」
「呪いだのなんだのって、おかしなことを言う君のほうがどうかしている!」
「ほんとなのよ! あの塔は……」
二人の言っていることはよくわからないが、喧嘩はしてほしくない……。コウは二人の喧嘩を止めたい一心で、ベッドから起き上がろうとした。
「うっ……わっ!」ドンッ!
コウはベッドから落ちてしまった。ここは二階。かなりの音が響いてしまったはずだ。一階にいる三人は驚いて飛んでくるだろう。コウは少しでも心配をかけまいと、ゆっくりベッドに戻ろうとしたが遅かった。
物音を聞きつけた三人が勢いよくドアを開け、慌てた様子でコウの部屋へ飛び込んできた。
「コウ! どうしたの? すごい音が……」「コウ! 大丈夫か!」「コウ坊っちゃん!」
ベッドで寝ているはずのコウが床に転げ落ちているのを見て、三人はそれぞれ驚きの声を上げながらコウの元へ駆け寄ってきた。
「坊っちゃんお怪我は……?」
「はぁはぁ……大丈夫です。それよりもごめんなさい。僕のせいで喧嘩してるのを聞いて止めようと思って……げふっ」
息苦しくなり言葉を詰まらせたコウをヨーゼフさんが抱き上げ、ベッドに寝かせてくれた。
「びっくりさせてしまいましたね。お怪我がないようで安心しました」
「すまない。俺が怒鳴り声をあげたばかりに」
カッシオは落ち込んだ様子でそう言った。
「父さんも母さんも悪くないよ……。僕の……僕のせいだから……」
コウは、皆に心配をかけまいとそう言う。
「コウ……」
マルサは一瞬何か思いつめた表情をしたあと、あの優しい蒼い目がとても強い眼差しに変わり、こう続けた。
「母さん、あなたのために”門の塔”へ行くわ」
その表情は寂しげにも見えたが、どこか屈強な騎士を思わせる表情にも見えた。
「マ……マルサ様!!」
「マルサ、お前まだ門の塔の呪いを……」
「えぇ。コウの病気を治すには、行くしかないの」
カッシオとヨーゼフさんはマルサを思い留まらせようとするが、マルサの意思は固いようだ。その固さは、どんな大きな鉄球でも砕けないほどだ。
「門の塔って?」
コウは不安げに聞いた。
門の塔……。呪い……。コウには何のことなのか分からない。母さんをこれほどまでに覚悟させる場所なのだろうか。
「とても危険な場所よ。二度と帰って来られないかもしれない」
マルサは優しい声でそう答えた。だが、彼女の蒼い目からは優しさではなく、闘志の炎がたぎっている。
「そんな……! 行かないでよ母さん! 僕、元気になるから。病気、治すから!」
母と会えなくなる……。6歳のコウにとってこれほど辛いことはない。自身の病気のせいというのなら、今すぐにでも治して母を引き止めたい。コウはマルサのワンピースをギュッと握り、縋るようにそう言った。
「でもあなたには……、コウには元気でいてほしいから……。――コウ幸せになるのよ」
そこからコウの記憶はない。ヨーゼフさんによると、コウはその直後に熱が上がり、眠るように意識が失ってしまったらしい。
翌朝、コウの目が覚めた頃にはマルサの姿はなかった。幼いコウを置いて”門の塔”へ発ってしまった後だった。
窓の外から見えた、ゆっくりと降下していく雪。記録的な寒波に見舞われたあの寒い日の朝は、コウにとって二度と忘れられない日となった。