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9話 グランドの邪

 住吉は、教室の後ろで財布を握りしめながら、じっと田中の背中を見つめていた。


「いやぁ……学校で見ると、まぁ普通の高校生なんだねぇ……」


 神社では毎日のように願いをかけている田中も、ここではちゃんとクラスの輪の中にいる。


 友達と談笑し、サッカーの話に夢中になり、教科書を適当に開いて、なんとなく授業を受ける。


「いやぁ……ボクのところで見てたイメージとは、ちょっと違うねぇ……さて」


 住吉は、田中の背後にそっと回り込んだ。


 ここで、ミッション開始である。


「いやぁ、どうやって財布を戻すかねぇ……」


 住吉は、慎重に田中の鞄のファスナー部分に目をつけた。


 鞄は足元に置かれていて、少し口が開いている。


「いやぁ……これは、スッといけるんじゃないかねぇ……?」


 慎重に、慎重に——


 住吉は、ゆっくりと手を伸ばし、田中の鞄に財布を滑り込ませようとした。


 ——その瞬間だった。


「でさぁ、それで俺が『マジか!?』ってなって——」


 田中が話しながら、無造作に鞄を手に取ったのだ。


「うわっ!!?」


 住吉の手にあった財布が、するりと指の間を抜け——


 ポトッ


 そのまま、田中の足元に落下した。


「やべ、落とした。」


 田中は、自然な流れで、しゃがんで財布を拾い上げた。


「お前、それポケットに入れてたのか?」


「いやぁ、なんか今、手からスルッと落ちたわ。」


「あるあるだわー、それ。ポケットに入れたと思ったら、意外と浅くて落ちるやつな。」


「そうそう、それそれ!! なんか不意にスルッと落ちんの!!」


「マジであるある!! 俺も昨日スマホ落としたし!!」


「な!? そういうことよ!!」


 何やら、まるで「財布を落としたのは完全に自分のせい」という感じで会話が弾んでいる。


「いやいやいや!! いやいや!! ボクがねぇ!! いま戻そうとしてたんだよぉ!!」


 住吉は、思わず頭を抱えた。


「いやぁ……まるで『落とし方あるある』みたいになってるけどねぇ……いや、違うんだよぉ……」


 だが、田中はそんなことを知る由もなく、自然な流れで財布を拾い上げ、そのまま鞄の中へポイッと放り込んだ。


「いやぁ……まぁ、結果オーライだねぇ……」


 住吉は、どっと肩の力を抜いた。


「いやぁ……でも、なんかスッキリしないねぇ……」


 財布は無事に戻った。


 田中も疑問に思うことなく、何事もなかったようにカバンに入れた。


 ——なのに、なぜか、「財布を返した!」という達成感が、まるでない。


「いやぁ……『神様が落とした財布を人間が自分で拾った』みたいな……いや、違うんだよぉ……」


 住吉は一人でボヤきながら、田中の背後に立ち尽くす。


「……まぁ、いいかぁ……」


 財布は戻った。


 それで、十分。


「いやぁ……安産の神様の仕事じゃないけどねぇ……こういうのも、まぁ、たまにはいいのかねぇ……」


 住吉は、ふっと笑って、そっと教室を後にした。



 校庭にて安産の神、鉄棒にぶら下がる。


「いやぁ……学校ってのも、悪いもんじゃないねぇ……」


 住吉は、校庭に設置されている鉄棒にぶら下がりながら、ぽつりと呟いた。


 握った鉄の感触がひんやりとしていて、ゆらゆらと体を揺らすたびに、懐かしいような、新鮮なような気持ちになる。


 学校に来たのは、今日が初めてだった。


「いやぁ、ボクは安産の神様だからねぇ……学問には縁もゆかりもないし、こういう場所に来ることはなかったんだけど……」


 思ったより、心地がいい。


 住吉は、腕を伸ばしながら、鉄棒にぶら下がったまま、ゆるゆると校庭を見渡した。


「でも、こうして見ると……いろんな神様がいるねぇ……」


 例えば——


 グラウンドでは、野球部の生徒たちが白球を追いかけていた。


「いけるいける!!」「オッケー、打てるぞ!!」


 賑やかな掛け声が飛び交う中、ひときわ豪快な関西弁が響く。


「今や振れぇぇぇ!!! どこ見とんねん!!!」


「うおっ!? なんか今、めっちゃタイミングよく声聞こえた!?」


「振ったら当たったぞ!? マジで!? いや、たまたまやろ!?」


 グラウンドの端で、野球部の生徒にぴったりと張り付くのは、スポーツの神様らしい。


 バットを握る生徒の背後で、拳を握りしめ、まるでコーチのように叫んでいる。


「いやぁ、いいねぇ……こういうのも神様の仕事ってやつかねぇ……」


 武道館では、剣道部が静かに座禅を組んでいた。


 全員が正座し、目を閉じ、静かに呼吸を整える。


 その隣——


 剣道部の生徒と全く同じ姿勢で、同じように深く息を吸う神様がいた。


「…………」


 静かに、静かに。


 ただ、深く、深く、息を吸い、そして吐く。


 まるでその場の空気そのものになったかのような、静謐な佇まい。


 生徒の息遣いにぴたりと合わせ、まるで一体化するかのように、同じリズムで座禅を組む。


「いやぁ……すごいねぇ……あそこまで馴染めるもんかねぇ……」


 住吉は、鉄棒にぶら下がったまま、感心する。


「いやぁ、学校って、神様のバーゲンセールみたいな場所だねぇ……」


 これだけの神々が、学生たちにまとわりついている。


 それぞれの分野で、それぞれの信仰を受け、寄り添っている。


「いやぁ……ボクは、こんな風にまとわりつけるほどの信仰は、もうないけどねぇ……」


 ふっと、鉄棒を離れて、足を地面につけた。


「でも、なんだか悪くない気がするねぇ……」


 学校には、生き生きとした人間がいて、それを見守る神様たちがいる。


 それだけで、住吉の胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが灯る気がした。


 その時、出会った——“邪塊”


 鉄棒から手を離し、地面に降り立った瞬間だった。


 住吉の耳に、異質な音が届いた。


 ガガ……ギギ……ググ……


 鉄が擦れるような、軋むような、湿った音。


 どこかで風が吹いたわけでもなく、誰かが叫んだわけでもないのに、その音だけが、じわりと耳の奥にまとわりつく。


「……?」


 住吉は、軽く首を傾げた。


 音のする方へ、ゆっくりと視線を向ける。


 ——グラウンドの片隅。


 そこに、それはいた。


 “邪塊”。


 錆びついた存在。


 本来、神であったはずのものが、信仰を失い、役目を失い、ただの”錆”となったもの。


 どこか人の形をしているようで、していない。


 いや、それはすでに”形”ですらなかった。


 腐食した鉄の塊が、人間の影を模して蠢いている。


 片足を引き摺るように、ガガッ、ガガッ、と歩き、関節という概念を失った腕が、ガクリと揺れながら、空を彷徨っている。


 ところどころ”皮膚”にあたる部分が剥がれ落ち、錆がひらりと砂の上に舞い散る。


 目があるのかも分からない。


 口があるのかも分からない。


 だが、“鳴いていた”。


 ガガ……ギギ……ググ……


 悲鳴のような、呻きのような、ただの音の集合体のような、その声。


 それは言葉にはならないが、確かに存在するものの声だった。


 何かを求めているのか。


 何かを嘆いているのか。


 それとも、何も考えず、ただそこに”いる”だけなのか。


 その答えは、誰にも分からない。


 錆びついた神は、言葉を持たない。


 言葉を持たぬまま、ただ、グラウンドの端を徘徊していた。


 ——誰にも気づかれずに。


 ——誰にも認識されずに。


 ただ、そこに、いた。



 ……本日は、神様の末路について、お話しさせていただきましょう。


 神様というのは、不思議なものでしてねぇ。


 最初は賑わい、賽銭箱にお金が入り、人々の願いを受け、社殿は新しくなり、鳥居は朱く染められる。


 けれど、時が経ち、時代が変わり、人々の心が移ろえば、神様もまた、忘れ去られていく。


 栄枯盛衰は世の習い、なんて言いますがねぇ、神様とてその流れから逃れられるものではございません。


 人は、忘れる。


 そのたびに、神様の姿は薄れ、声はかすれ、力は失われていく。


 やがて、神社は朽ち、賽銭箱は空になり、訪れる者もなくなれば、そこにいる神様もまた、神ではなくなっていくのです。


 さて、人が忘れた神様は、どうなるのか。


 消えるのか、それとも眠るのか。


 いいえ。


 神というのは、そう簡単に消えるものではございません。


 しかし、神として生き続けることもできない。


 その狭間に落ちたものが、何になるか。


 それが、邪塊。


 信仰を失った神様の成れの果てでございます。


 邪塊は、かつて神だったものの残骸。


 言葉を失い、名を失い、役目を失い、ただそこに”いる”だけの存在。


 人々の記憶から消えていくにつれ、神々の身体は錆びつき、関節は軋み、肌は剥がれ落ち、瞳は曇る。


 動くたびに、ジャリ……ジャリ……と錆の粉が落ちていく。


 しかし、それでもなお、邪塊は歩く。


 どこへ向かうとも分からぬまま、ただ、徘徊する。


 まるで、何かを探しているかのように。


 いや、探しているのかもしれませんな。


 信仰を。


 祈りを。


 名を。


 自らが神であった証を。


 けれど、そんなものは、もうどこにもない。


 邪塊の鳴き声を、聞いたことがありますか。


 ガガ……ギギ……ググ……


 錆が擦れるような音。


 悲鳴のような、呻きのような、ただの音の集合体のような、言葉にはならない声。


 もしかすると、かつて神だったころの記憶の欠片を、無意識に繰り返しているのかもしれません。


 けれど、その音を言葉として聞き取れる者は、もういない。


 神は、信仰を糧に生きるもの。


 祈られなくなったとき、それは神ではなくなる。


 人々が忘れたとき、神もまた、人々を忘れる。


 そして、気づけば、ただの錆びた塊になって、どこかを彷徨っているのです。


 あなたが何気なく歩く道の片隅に、何かが落ちていることがあるでしょう。


 それは、ただの鉄くずかもしれない。


 それとも、忘れられた神様の成れの果てかもしれません。


 さて、この話を聞いて、どう思われるか。


 信仰とは、ただの迷信か、それとも、神を生かす力か。


 いずれにせよ、神様というのは、人が信じてこそ、神でいられるもの。


 忘れるも、祈るも、あなた次第というわけでございますなぁ。


 ですがね、時折、何かを思い出したかのように、人を恨む神様もいるのです。


 それも無理のない話でございます。


 信仰され、敬われ、祈られ、頼られていた。


 それが、ある日を境に忘れ去られ、神社は朽ち、人の気配もなくなる。


 まるで、最初からいなかったかのように、誰もその名を口にしなくなる。


 それを、どう受け止めるか。


 静かに消えていく神もいれば——


「なぜ、忘れた」


「なぜ、祈らなくなった」


 そうして、忘れた人間を恨む神もいるのです。


 恨みというのは、人だけのものではございません。


 神もまた、怒り、妬み、執着することがある。


 元より、神というのは、人の願いから生まれるもの。


「雨を降らせてくれ」「五穀豊穣を」「戦に勝たせてほしい」「商売繁盛を」


 そうして人間が求めることで、神はその力を得る。


 けれど、時代が変わる。


 技術が進み、文明が発達し、神に頼らずとも生きていけるようになる。


「もう、神など必要ない」


 そう言われたとき、神は何を思うか。


「それほどまでに、余は不要な存在なのか」


「人間というのは、なんと薄情なものか」


 神にとって信仰とは、生きるための糧。


 それが絶たれたとき、神は飢える。


 ただ、飢えるだけならばいい。


 だが、中には——


 その”飢え”を、憎しみに変えてしまうものもいるのです。


 邪塊となった神の中には、時折、“人を呪う”力を残している者もおりましてな。


 なにかに引かれるように、気づけば、人の暮らす場所へ彷徨っていく。


 ギシ……ギチ……カリ……


 軋むような音を立て、ただ、そこにいるだけ。


 姿を見た者はいない。


 音を聞いた者も、少ない。


 けれど——


 その場所では、不吉なことが起こる。


 転ぶはずのない道で、何もないのに転ぶ。


 触れるはずのないものが、ふと倒れる。


 ふと、背筋が冷たくなり、誰かに見られているような感覚がする。


 それは、“目”がないはずの神が、“見ている”からかもしれません。


「人間め」


「忘れたこと、後悔するがいい」


 そうして、邪塊となった神は、人の世を彷徨い続ける。


 気づかれることもなく、認識されることもなく。


 けれど、その存在は、確かに”そこ”にあるのです。



 邪塊は、しばらくグラウンドを徘徊していた。


 ゆっくりと、まるで何かを探すように。


 あるいは、何かを思い出そうとするかのように。


 だが、その動きに”執着”はなかった。


「いやぁ……人を恨んでるわけじゃなさそうだねぇ……」


 住吉は、鉄棒にもたれながら、邪塊の動きをぼんやりと眺める。


 邪塊は、ただ、歩いているだけだった。


 ひとつ、ふたつ、歩みを進め、グラウンドをゆっくりと一周する。


 まるで、かつてそこにいた誰かの足跡をなぞるように。


 まるで、その場所に残された”何か”に触れようとするように。


 そして、何かを見つけたわけでもなく、何かを思い出したわけでもなく——


 ただ、静かに校庭の外へと出ていった。


「いやぁ……なんの神様だったんだろうねぇ……」


 住吉は、ふと呟く。


 信仰を失い、錆びつき、神としての名も力も奪われ、それでもただ歩き続けるだけの存在。


 それは、かつてどんな神だったのか。


 何を願われ、何を叶えていたのか。


「もしかすると、元々は人間が大好きだった神様なのかもねぇ……」


 人を恨むこともなく、ただ、人の営みを眺めるように歩き続ける。


 まるで、そこにいることが当たり前だったかのように。


 いや、もしかすると、本当に”当たり前のように”そこにいたのかもしれない。


 長い時の中で、誰にも気づかれなくなり、それでもなお、そこに在り続けたのかもしれない。


 住吉は、邪塊が消えていった校庭の向こうを見つめながら、静かに息を吐く。


 そして、軽く肩をすくめて、軽妙な調子で言った。


「……まぁ、ボクが消えるときは、もうちょっと粋にいきたいもんだねぇ。」

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