8話 田中高志
翌朝——住吉神社
「……傾いてるねぇ……」
住吉は、神社の拝殿の柱をぼんやりと見上げながら呟いた。
昨日、大鈴天満宮でこき使われたせいで、今日はもう何もする気が起きない。
いや、そもそも住吉は、自分の神社を掃除するような神ではない。
境内には落ち葉が溜まり、石段には苔が生え、賽銭箱は風に吹かれて微妙に斜めを向いている。
そんなことを気にする気力もなく、住吉はだらしなく寝転がっていた。
すると、鳥居の向こうから見慣れた人影がやってくる。
田中だ。
田中は、境内に足を踏み入れるなり、あたりを見渡して眉を寄せた。
「……なんか、昨日より荒れてね?」
住吉は、だるそうに寝転がったまま、肩をすくめる。
「いやぁ、ボクの神社はいつもこんなもんだよぉ……」
田中にはもちろん、その言葉は聞こえていない。
けれど、不思議と会話は噛み合っているかのように進んでいく。
「まぁ、それはいいか。」
田中はポケットから小銭を取り出し、賽銭箱の前に立った。
「昨日の夜な——おばあちゃん、峠を越えたんだよ。」
住吉は目を瞬かせた。
「……おやぁ。」
「医者が言ってた。『もう大丈夫でしょう』ってさ。」
「いやぁ、それは……よかったねぇ……」
田中は、軽く息を吐いて、掌の小銭を転がしながら、ふっと微笑んだ。
「だから、お礼しに来たんだ。」
住吉は、その言葉を聞きながら、なんとなく背筋を伸ばした。
そうして田中が、ひょいっと小銭を賽銭箱に投げ入れた瞬間——
チャリン——
「——金ピカの500円!?!?」
住吉の目がまんまるく見開かれる。
——金ピカの500円玉。
——金ピカの500円玉!?!?
「いやいやいや!? いいの!? 500円!?!?」
驚きのあまり、住吉は賽銭箱の前で両手を振り回した。
「すげぇ!! 500円だ!! ボクの神社に!? いやぁ、ボクの神社、今まで5円玉と10円玉くらいしか入ったことないのに!? こんなにまともな金額、初めてじゃないかねぇ!?」
まるで金の延べ棒でも入れられたかのような大騒ぎだ。
住吉は興奮しながら、賽銭箱の中を覗き込む。
——そこにあるのは、圧倒的な存在感を放つ500円玉。
昨日までの賽銭総額が、おそらく200円にも満たなかったことを思えば、これはまさに破格の大金だ。
「うぉぉ……金ピカの500円……すごい……まぶしい……」
住吉はその輝きにしばし目を奪われていたが、ふと我に返った。
「……いやぁ……でも、ボクの功績かねぇ……?」
田中は、そんな住吉の様子には気づくことなく、もう一度手を合わせた。
「まぁ、それでもな。願ったら叶ったんだから、それでいいんだよ。」
住吉は、その言葉を聞きながら、なんとなく背筋を伸ばした。
「……願ったら叶った、かねぇ……」
昨日、たしかに田中は願いをかけた。
——いや、違う。願いをかけたのはボクだ。
あの絵馬を書いたのは、住吉だった。
「田中のおばあちゃんの体調が良くなりますように」
そう書いて、大鈴天満宮の絵馬掛けに掛けた。
あれが、本当に効いたのかは分からない。
でも、田中はこうしてお礼をしに来た。
それだけで、住吉は十分だった。
「よし、じゃあ、また来るわ。」
田中は、軽く手を振って鳥居へ向かう。
住吉はのんびりとその背中を眺めながら、ふと気づいた。
「あれ?」
さっきまで田中が持っていた鞄の横——
ほんの少しだけ、ポケットから覗いていたはずの財布が、どこにもない。
「……財布、忘れてるねぇ……」
住吉は、すぐ足元に落ちている黒い財布を見つめた。
田中は、何も気づかずに鳥居をくぐっていく。
「……いやいやいや!! これはさすがにまずいよぉ!!」
住吉は、慌てて財布を拾い上げた。
田中は、ゆるりと鳥居をくぐり、すでに神社の外へ出ようとしている。
「いやぁ、聞こえないのは分かってるけど!! 田中ぁ!!」
住吉は、しばし考える。
どうしようか。
このまま放っておいたら、田中は学校に着いてから財布がないことに気づくだろう。
そしたら、またここに戻ってくるかもしれない。
でも——
それはちょっと遅すぎるんじゃないかねぇ?
住吉は、ちらりと田中の背中を見た。
彼はもう鳥居を出て、道路の向こうへ向かって歩いている。
「いやぁ……さすがにこれは、届けたほうがいいねぇ……でも。」
住吉は、財布を握りしめると、しばし逡巡して——
「願いを叶えた神様が、こんなところで粗相するのは格好がつかないねぇ……」
次の瞬間、鳥居を飛び越えて、田中のいる方向へと駆け出していた。
「おーい!! 田中ぁ!! ボクの声は聞こえないだろうけど!! そのまま行ったら大変なことになるよぉ!!」
神社を飛び出して、田中の高校へ向かう住吉の姿は、誰にも見えない。
それでも、財布を届けるために走るその背中は、神様としての何かを思い出したかのように、少しだけ誇らしげに見えた。
さぁ、神様にとっての五百円とは?。
へぇへぇ、お立ち会い、お立ち会い。
本日は、神様にとっての「五百円」というものが、いかに貴重で、いかに奇跡的な存在であるか、お話ししていきましょうかねぇ。
「五百円なんて、ただの硬貨じゃないか」
そう思ったあなた、いやいや、それは人間の理屈というものですよ。
神様にとっての五百円は——金貨でございます。
「そんなバカな!」
そう言いたい気持ちは分かりますがねぇ、これがまた、本当にそうなんですよ。
さて、皆さん、神社の賽銭箱を思い出していただきたい。
五円玉、十円玉——まあ、せいぜい百円玉がぽつりぽつりと入っているくらいのものでしょう。
「神様には、五円がご縁でございます」なんて言葉があるように、だいたい五円が基本。
人間ってのは、面白いものでね、「願い事をする時は、財布の中の一番安いコインを入れる」なんて、妙な習性があるんですな。
「学業成就! 商売繁盛! 家内安全!」と、ずらずらお願いするわりには、財布から出すのは五円。
「えぇ!? あれだけ頼んでおいて、五円!?」
神様も、そりゃぁ驚きますよ。
でもまぁ、神様というのは寛大なものでしてね、五円だろうが十円だろうが、いただけるだけありがたいと思っているわけでございます。
ところが、ここに来て、ある日——「五百円」という、とんでもない額が入ることがある。
これ、神様にとっちゃぁ、大事件ですよ。
もうね、ちょっとしたお祭り騒ぎ。
「え!? ちょっと待って!? 五百円!? なんかの間違いじゃない!?」
賽銭箱を覗き込んで、その輝きに目を奪われる。
だって、考えてみてください。
五円玉が積み重なる神社に、突然、金色に輝く大硬貨が現れるんです。
そりゃあ、もう、神様も拝みますよ。
「ありがたや……ありがたや……」
もはや、人間が神様に拝むんじゃなくて、神様が五百円を拝むという逆転現象が起こるんですな。
しかし、ここで一つ問題がございましてね。
神様というのは、「五百円のありがたみ」は分かるんですが——使い道がない。
これが厄介でねぇ……。
五百円が入ったとて、コンビニでジュースが買えるわけでもなし、銀行に預けるわけにもいかない。
「さて、どうしたものか……」
と、神様は頭を悩ませる。
しかも、神社というのは不思議なもので、五百円が入った途端、なぜか次の賽銭が減るんですな。
「あの神社、儲かってるんじゃないの?」
なんて噂が立ちましてね、途端に人々の財布の紐が固くなる。
結果、翌日からはまた五円、五円、五円——。
で、気づいたら、あの金ピカの五百円玉だけが、ぽつんと鎮座しているというわけでございます。
さてさて、ここで一句。
「金色の 五百の玉は ありがたや」
いやいや、いい句でしょ?
しかし、神様が本当に望んでいるのは——信仰と、継続的なご縁。
五百円も、ありがたい。
だけど、それきりポツンと入れられて、それっきりでは、これ以上の効果なし(硬貨無し)という、皮肉なオチになってしまうんですなぁ。
いやぁ、まことに、まことに。
高校——安産の神、学び舎に立つ。
住吉は、財布を握りしめながら、高校の門の前で立ち止まった。
「いやぁ……ボクにとっちゃ、縁もゆかりもない場所だねぇ……」
そりゃあそうだ。
学校というのは、学問の場。
住吉は安産の神様である。
「いやぁ、ボクはねぇ、子が生まれることには関われるけどねぇ……その子が学問を修めることには、まぁ……まるで関係ないよぉ……」
とはいえ、田中の財布を届けるためには、入らないわけにはいかない。
神様は人間には認識されない存在なので、門番に止められることもなければ、生徒や教師に咎められることもない。
だからこそ、住吉は自然と門をくぐることができた。
「いやぁ……学校ってのは、なかなか面白い場所だねぇ……」
広い校庭を横目に、渡り廊下へと足を踏み入れる。
そのとき、ふと、前方に気になるものを見つけた。
一人の生真面目そうな学生が、古文の教科書を開いたまま、歩いている。
「ふむ……」
眉を寄せ、難しそうに呟いたその声が、静かな廊下に響いた。
その背後——。
すぐそばを歩くのは、隣町の学問の神様である「紅学天神様」だった。
神様というのは好き好きあるもので、学問の神様というのは、やはり学ぶ者の近くにいるものだ。
彼のように、学問に真剣に向き合う学生の背後に、ぴったりと張り付いているのも、ある意味当然のことだった。
「違かろうもん!馬鹿!」
突然、鋭い声が響く。
「ひぃっ!?」
学生が思わず肩を跳ね上げた。
もちろん、紅学天神の姿は人間には見えない。
けれど、その言葉はまるで直感のように、学生の脳内に響いたのだろう。
「えっ、違うのか!?」
慌てて教科書を見直す学生。
「違うに決まっておろう!馬鹿!」
「……あっ、本当だ!!」
どうやら、古文の問題を間違えていたらしい。
そして、それに気づいた瞬間、学生は小さくガッツポーズをした。
「……なるほど……やっぱり、学問の神様に見守られるってのは、こういうことなのかもしれないねぇ……」
住吉は、紅学天神をちらりと横目で見ながら、ぽつりと呟いた。
神様というのは、実に不思議な存在である。
学問を愛し、学びを極めようとする者には、こうして背後霊のように付き添う。
そして、時には容赦なく叱咤しながら、学問の道を正してくれる。
「いやぁ……ボクにはできないことだねぇ……」
住吉は苦笑しながら、そっと渡り廊下を歩き出した。
「……さて、田中はどこかねぇ……」
自分には無縁の学び舎。
けれど、今日はこの場所で、届けなければならないものがある。
住吉は、握りしめた財布を見つめながら、校舎の中へと進んでいった。
「いやぁ……学校って、こういう感じなんだねぇ……」
彼にとって、この場所はまるで異国の地のようなものだった。
そりゃそうだ。
住吉は安産の神様。
人間が学ぶ場所など、縁もゆかりもない。
「いやぁ、そもそもボクは、子が生まれる瞬間までは見届けるけどねぇ……その子が学校に通いだすころには、もうボクの役目は終わってるからねぇ……」
だから、目に映るものすべてが新鮮だった。
まず驚いたのは、壁にびっしりと貼られたプリントの数だった。
「いやぁ、なにこれ……呪符かねぇ……?」
行事予定、部活動の連絡、進学相談会の案内……あまりにも細々と書かれていて、目がチカチカする。
「えぇと……『期末テストに向けて、早めの対策を!』……いやぁ、神様でも対策ってできるものかねぇ……」
次に気になったのは、廊下を駆け抜ける生徒たちのエネルギーだった。
「すみませーん! ちょっと急ぐんで!!」
「先生! 質問いいですか!? 今の時間いけます!? あ、だめ!? じゃあ放課後!!」
「いやいやいや!! 何そのノート!? まとめ方が天才じゃん!! 写メ撮らせて!!」
「いやぁ……生き生きしてるねぇ……」
住吉は、彼らが放つ勢いに圧倒されながら、ポツリと呟く。
安産の神様として、赤ん坊が産まれる瞬間には立ち会うこともあるが——その赤ん坊が、こんなに活発に動き回るようになるなんて、思ってもみなかった。
「いやぁ……子どもって、大きくなるんだねぇ……」
何を今さら、という話だが、住吉にとってはまったく新しい発見だった。
そして、極めつけは理科室の人体模型である。
「ぎゃああぁぁ!!! 何これぇぇ!!?」
思わず廊下の壁にへばりつく。
骨! 内臓! 筋肉図!!
いやぁぁぁぁ!!! 見たくないぃぃぃ!!!
「いやぁ……人間って……こういう構造してるんだねぇ……」
住吉は、じわじわと後ずさりながら、恐る恐る模型を横目で眺める。
「……まぁ、ボクは生まれる瞬間しか知らないからねぇ……こういう風になる前の段階しか関わらないしねぇ……」
学校というものは、思った以上に、住吉の理解の外にあるものばかりだった。
「いやぁ……やっぱり、ボクには学問は理解し難いねぇ……」
住吉は、理科室の前をそそくさと後にした。
そんなこんなで、学校内を探索していた住吉だったが、ようやく目的地を見つける。
田中のクラスだった。
ホームルームの時間らしく、教室の中では、生徒たちが席に座って先生の話を聞いている。
住吉は、そっと教室の後ろに入り、田中の背後に立つ。
「いやぁ……田中、ちゃんと座ってるねぇ……」
あらためて、学校の中で田中を見ると——
「……いやぁ、普通だねぇ……」
それはもう、驚くほど普通だった。
住吉の視点から見れば、田中というのは、神社に毎日やってきては賽銭を入れ、「彼女ができますように!」と祈る、少し変わった高校生だった。
しかし、学校の中ではどうか。
「いやぁ、思ってたより溶け込んでるねぇ……」
明るい雰囲気のクラス。
誰かと談笑するでもなく、特別目立つわけでもなく、でもまったく地味なわけでもない。
「おい田中、昨日のサッカーの試合見た?」
「見た見た!! あれやばかったよな!!」
「後半ロスタイムのシュート、神がかってたわ!!」
「いやマジで、あれは奇跡!! もうお祈りレベル!!」
「いやぁ……お祈りレベルって、ボクのところに来たのは彼女のお願いだけだったけどねぇ……」
住吉は、軽く笑いながら、田中の背後で腕を組んだ。
「いやぁ、ボクの神社にいるときは、ちょっと変わったやつなのかと思ってたけどねぇ……学校では、まぁ、普通の高校生なんだねぇ……」
普通に明るく、普通に笑い、普通に友達と話している。
なんというか、それが意外だった。
田中は、神社ではどこか一人で祈っていることが多かったから、勝手に「ちょっと孤独な高校生」くらいのイメージを持っていたのだ。
しかし、ここではちゃんとクラスの輪の中にいる。
「いやぁ……学校ってのは、場所が違うと人の見え方も変わるんだねぇ……」
住吉は、なんとなく感心しながら、財布を握りしめた。
「さて……田中に、これを届けなきゃねぇ……」
教室の雰囲気に溶け込んでいる田中を見ながら、住吉は小さく息を吐いた。
彼にとっては未知の世界。
しかし、今だけは——田中の神様として、しっかりと役目を果たさなければならない。