7話 大鈴尊の悩み
大鈴天満宮の境内は、今日も賑わっていた。
観光客のざわめき、鈴の音、カメラのシャッター音が入り混じる。参道では、お守りや絵馬を手にする人々が行き交い、巫女たちが忙しなく動き回っている。
そんな喧騒の中、住吉はひっそりと絵馬掛けの前に立っていた。
さっきようやく手に入れた一枚の絵馬。筆を手に取り、ゆっくりと文字を刻む。
「田中のおばあちゃんの体調が良くなりますように」
それだけを書き終えた瞬間、境内にひときわ大きな声が響いた。
「おぉ~い、そこの小作人どもぉ!」
その声を聞いた途端、神社の空気がピンと張り詰める。
住吉は顔を上げ、声のした方を見た。
楼門の前に、堂々と腕を組んで立つ姿があった。
金色の髪をなびかせ、派手な装飾の着物を身にまとい、ツインテールの先についた鈴をシャラリと揺らしている。
大鈴尊が帰ってきたのだ。
その瞬間、巫女たちは何も変わらず仕事を続けている。神主も賽銭箱の整理を続けている。彼らには、目の前のその存在が見えていない。
しかし、神々の間にはひそやかな緊張が走る。
「やれやれ、やっと戻ってきたか。」
誰かがそう呟くのが聞こえた。
「お待ち申し上げておりました!」
子鞠が誰にともなくそう言いながら、素早く楼門の前へと駆け寄る。その動きは、まるで戦国の小作人が領主を迎えるようだった。
「留守の間も、私めが! 身を粉にして! 神社の繁栄を守りました!」
大袈裟に両手を広げ、平伏するような動作をしながら、子鞠は大鈴の足元にすり寄る。
大鈴はふんと鼻を鳴らし、ゆっくりと扇子を開く。
「ふぅん? そうなのぉ?」
その一言で、場の空気が一段と固くなる。
「はいっ!! もう!! もう!! 私めの働きぶりたるや!!」
子鞠は懐からメモ帳を取り出し、誇らしげに掲げる。
「今月の売上、こちらでございます!」
大鈴は手を伸ばし、それを受け取る。
その動きを見た瞬間、誰かが息を呑んだ。
「へぇ……。」
パチン、と扇子が閉じられる。
その音と同時に、子鞠はその場に崩れ落ちた。
「そ、そんな……大鈴様!? 何かご不満でも!?」
焦りながら、子鞠がすがるように顔を上げる。
大鈴はメモ帳をパラリとめくりながら、つまらなそうにため息をついた。
「まぁ、悪くはないわ。でも……ちょっと面白いことがあったみたいじゃない?」
「おもしろ……?」
子鞠が首を傾げると、大鈴はふと視線を巡らせた。
そして、じっとこちらを見た。
「……なぁに、そこでひっそりしてるのかしら?」
住吉は、手元の絵馬を見つめたまま小さく肩をすくめた。
「いやぁ、別にひっそりしてるつもりはなかったけどねぇ。」
「住吉。」
にこやかに微笑みながら、大鈴はゆっくりと歩み寄る。
「あなた、何をしていたの?」
住吉は絵馬を指でつまみ、ひらひらと揺らしてみせた。
「いやぁ、ほら、バイト代でこれをもらったんだよぉ。」
大鈴の笑顔が、微かに鋭さを増す。
「バイト?」
その言葉に、場の神々がざわめいた。
「へへっ、そうなんスよ。」
子鞠が横から口を挟み、住吉を指さす。
「このチビ神様、おみくじの補充とか、絵馬の整理とか、境内の掃除とか、しっかり働いてもらいましたよ。」
「いやぁ、バス代ですっからかんに……。」
住吉はぼやきながら、のんびりと首を傾げた。
「神通力がないなら、手を動かすしかないってことでねぇ。」
「なるほど……」
大鈴は、しばし住吉を見つめると、ふっと笑った。
「ねぇ、住吉?」
「なにかねぇ?」
「あなた、もう少しここで働かない?」
「いやぁ、それはご遠慮願いたいかねぇ……。」
「即答ね?」
「いやぁ~~~~、ほら、ボク、安産の神様だからねぇ~~~。」
「なら、安産祈願のお守りを売るのも得意でしょう?」
「いやいやいやいや!!!!」
住吉は両手をぶんぶん振りながら、ゆっくりと後ずさる。
「いやぁ、ボクはねぇ、ただ、ちょっと願いを叶えられたらいいなぁと思ってねぇ……。」
「ふぅん。」
大鈴は、住吉の手元の絵馬をちらりと見た。
そこには、しっかりと「田中のおばあちゃんの体調が良くなりますように」と書かれている。
しばらく絵馬を見つめた後、大鈴はゆっくりと息を吐いた。
「……まぁ、そんな理由なら、今回は許してあげる。」
住吉は心の中で小さく安堵しながら、絵馬を掛ける。
その横で、大鈴がふと呟く。
「でも、あなたが働いてるのは……少し面白かったわね。」
「いやぁ、そんなこと言われてもねぇ……。」
「もしまた困ったら、うちに来てもいいわよ?」
住吉は大鈴の顔をちらりと見て、苦笑する。
「まぁ、考えておくよぉ。」
そう言って、住吉はゆっくりと神社を後にした。
大鈴はその背中をしばらく見つめた後、くすりと微笑み、扇子をひらりと回した。
「さて、そろそろ仕事に戻るわよ。」
その一言で、境内はまた、いつもの活気を取り戻した。
大鈴は扇子をゆるりと回しながら、境内を見渡した。
先ほどまで、ほんのわずかに整然としていた空間は——すでに元の騒がしさを取り戻している。
いや、それだけではない。
「……ねぇ、子鞠。」
「へ、へいっ!」
子鞠は、先ほどのやりとりの余韻が残るのか、ピクリと肩を震わせながら振り向く。
「これ、どういうことかしら?」
大鈴の足元には、境内に散らばる無数のゴミ。
参道の脇には、ポテトの空箱が風に煽られ、くるくると回転している。
木の根元には、ジュースのカップが無造作に押し込まれ、ついさっきまで誰かが口をつけていたであろうストローが、哀れにも傾いている。
「やいや!やいや!! これは!! これはですねぇ!!!」
子鞠は慌ててゴミを拾い上げながら、言い訳を並べ立てる。
「ほら、大鈴様!! これは、賑わいがある証拠ッスよ!! そんだけ人が来てるってことッス!! これは!! 栄えてるってことッスよ!!」
「栄えてるのは結構なことだけどねぇ……。」
大鈴は、ゆるりと扇子を振るい、ゴミの一つを指先でつまみ上げる。
「信仰の場を賑わいの場所にするのは、悪いことではないわ。でもね……」
バサリ。
扇子の先から落とされた紙くずが、風に乗って地面に転がる。
「賑わうのと、荒れるのは、別の話じゃない?」
「……ひぃっ……。」
子鞠は小さく肩をすくめる。
確かに、商売繁盛、観光客の増加、それらは大鈴天満宮の繁栄に繋がっている。
だが、それと同じだけ、境内は荒れ果てていく。
住吉が先ほどまで必死に片付けていたというのに。
「……住吉の掃除、まるで意味がなかったわねぇ。」
大鈴は、微かに眉をひそめた。
あのしがない神様が、汗水垂らして掃いたはずの参道が、もうすでにゴミで埋め尽くされている。
ペットボトル、お菓子の袋、観光マップの切れ端。
「ねぇ、子鞠?」
「は、はいぃ!!」
「あなた、ちゃんと掃除の指示は出しているのかしら?」
「も、もちろんッスよ!! ほら、あっしらたちも!! ちゃんと片付けてるッス!!」
子鞠は慌てて指さすが——巫女たちは何も知らず、観光客の対応に追われている。
彼女たちは神様の存在を認識していない。
彼女たちの目に映るのは、人々の願いと、手渡す御朱印帳と、お守りだけ。
「……ふぅん。」
大鈴は、軽く肩をすくめると、扇子をパタンと閉じた。
「まぁ、いいわ。」
「へ……?」
子鞠がぽかんとする。
「今日は、これ以上は言わないでおいてあげる。」
「そ、そうッスか!? いやぁ!! さすが大鈴様!! 広いお心!!!」
「でも……。」
——パチンッ!!
軽く開かれた扇子の先が、子鞠の額を突く。
「次に私が帰ってきたときに、また同じような光景が広がっていたら?」
子鞠は冷や汗を垂らす。
「そ、そのときは……?」
「そのときは、あなたが境内の掃除を”毎日”担当ね。」
「ひぇええええええ!!!!」
子鞠は悲鳴を上げながら、慌てて地面に散らばるゴミを拾い始める。
「こ、これはあっしが責任もって!! キレイにしますから!!! えぇ、ピッカピカにしますから!!! いやぁ、大鈴様の目の届くところで!! ゴミなんてあっちゃいけないッスからねぇ!!! もう!! もう!! もう!!」
「ふふっ。」
大鈴は満足そうに微笑むと、軽く足を踏み出す。
「まぁ、そこは期待しておくわ。」
シャラリ。
ツインテールについた鈴が、心地よい音を響かせる。
その音が、境内に響き渡る間も、観光客たちは変わらず賑やかに参拝を続ける。
賽銭が落ちる音、願いを込めた手のひらが柏手を打つ音、カメラのシャッター音。
その中に混ざって、風に舞う紙くず。
大鈴はそれを一瞥した後、小さく息を吐いた。
「やれやれ……。」
神社が栄えるのは、悪くない。
しかし、信仰の場は、ただの観光地ではない。
——そんな当たり前のことを、誰もが忘れかけているのかもしれない。
大鈴は、ふと空を見上げる。
金色に輝く瞳が、澄み渡る空を映し取る。
そして、扇子を開き、くるりと軽く回した。
「さて——今日も、商売繁盛といきましょうか。」
子鞠は必死にゴミを拾いながら、その背中を見送るしかなかった。
さて、大鈴天満宮というのは、もともと大層な由緒がある神社ではございませんでね。
言ってしまえば、どこにでもあるような、しがない小さな祠だったんですよ。
それが今や、こうして観光名所にもなって、多くの人が訪れる神社になった。
——ですがね、その歴史というのは、案外、浅いものなんです。
何百年と続く名社と比べれば、ほんの赤子のようなものでしょう。
けれど、その思いは、決して浅くはない。
かつて、この神社は廃れかけていました。
訪れる者も少なくなり、信仰は薄れ、神様の姿もかすんでいく。
それを憂いたのが、周囲の人々でした。
「この神社を、もう一度栄えさせたい」
「ここに願いをかけられる場を作ろう」
そうして考え出されたのが、あの——大きな鈴でした。
願いを込めて鳴らす鈴ならば、大きければ大きいほど、多くの人の願いを受け止められるのではないかと。
「これがあれば、もっと人が来る」
「もっとたくさんの願いが、神様のもとへ届く」
そう信じて、大鈴はこの神社の象徴になったのです。
——歴史は浅いが、思いは深い。
よく言ったもんです。
ところが、今ではどうでしょうねぇ。
確かに、人は集まる。
観光客が賽銭を投げ、記念写真を撮り、手を叩く。
けれど、その中で、どれほどの人が、本当に願いを込めているのか。
大鈴は、今も変わらず、鳴り響いています。
だけど、その音に込められる願いは、昔と同じでしょうかねぇ。
今はただ、目新しいだけなのかもしれませんなぁ。へぇへぇ、おあとがよろしいようで……といきたいところですが、もう少しお付き合い願いましょうかねぇ。
なに、難しい話じゃありません。
ちょっと大鈴天満宮の神様——大鈴尊が何を大事にしているのか、ちょいとお話ししましょう。
まぁ、観光地だなんだといろいろ言われるこの神社ですが、あの神様が大切にしているものは、意外と変わっていないんです。
さてさて、ここで一つ、昔ばなしをいたしましょうかねぇ。
『大鈴と小さな手』
昔々、あるところに、とても小さな祠がございました。
それは、それはちっぽけなものでねぇ。
雨が降れば軒先がしみ、風が吹けば板が軋む、そんな頼りないお社でした。
そこに宿っていたのは、ちいさな神様。
人々から忘れられそうになりながらも、ただじっと、そこにおりました。
そんなある日、一人の男がやってきました。
男は神様に手を合わせ、こう言ったのです。
「この祠を、どうにか守ってやりたいが……拝むだけでは駄目なようだなぁ」
そして次の日、男はまたやってきました。
今度は子供を連れて。
「お前さん、この祠を守るのに、何があればいいと思う?」
子供は首をかしげて、やがてこう言いました。
「鈴があればいいんじゃない?」
鈴?
男は笑いました。
「ほう、なぜ鈴なんだ?」
すると、子供は小さな手を合わせ、目をつぶって言ったのです。
「だって、鈴を鳴らしたら、神様が気づいてくれるでしょ?」
男は感心しました。
「あぁ、なるほどなぁ。鈴を鳴らせば、神様が願いを聞いてくれる、そういうことか。」
そして、それからというもの、男は町の人々に声をかけました。
「この祠に、大きな鈴をつけてやろうじゃないか」
「鈴を鳴らせば、願いが届く」
「そして、神様も、またここにいることを思い出してくれる」
そうして、町人たちは手を取り合い、金を出し合い、ついには立派な鈴を作り上げました。
小さな祠に似つかわしくない、大きく、美しい鈴。
それを吊るしたとき、町人たちは思いました。
「これで、この祠は忘れられない」
「願いを込めるたびに、神様はここにいてくれる」
……それから、どうなったか。
鈴の音は響き、人々は足を止め、祠を拝むようになりました。
神様もまた、そこに座し、人々の願いを聞くようになりました。
そして、時が流れ、祠はやがて神社になり、いつしか「大鈴天満宮」と呼ばれるようになった——と、こういうわけです。
——さて、この話、どこまで本当かはわかりませんがねぇ。
ただ、大鈴尊が大切にしているものは、決して観光客の賑わいじゃない。
鈴そのものでもない。
鈴を取り付けてくれた人々の思いなんですなぁ。
「この神社を守りたい」
「神様が忘れられないように」
「みんなの願いが、届くように」
そういう気持ちが、大鈴という形になった。
だから、大鈴尊は今でも、その鈴の音を大事にしているんです。
え? 「今の観光地化した神社でも、そんな思いが残っているのか?」って?
そりゃぁ、もちろんですよぉ。
信仰というのは、形を変えても、心があれば続いていくものです。
そして、大鈴天満宮には、まだその心が息づいている。
ただ……神様というのはね、時々、思うんでしょう。
「この鈴の音は、本当に願いを届けているのか」って。
「ただ賑やかに鳴っているだけじゃないか」って。
——もしも、鈴の音が願いではなく、ただの騒音になってしまったら?
神様は、それをどう思うでしょうねぇ。
まぁ、それはまた、別のお話。
へぇ、おあとがよろしいようで——。