6話 なんとかしてやりたい
住吉は、いつもと少しばかり、落とし物経済のやり方を変えてみることにした。
いつもなら、自販機の下に手を突っ込んで「さて、今日の運勢は?」なんて気楽にやるところだが、今回は目先を変えて側溝へと目を向ける。
(……意外とあるもんだねぇ。)
しゃがみ込み、指先でちょいちょいと側溝の隙間を覗き込む。
この地域は時折大きなお祭りがあるから、観光客が浮かれてヘマをすることが多い。
財布を落とすやつ。小銭をポケットからこぼすやつ。
果ては、酔っ払いが訳もわからず賽銭をポイするなんてことも。
(いやぁ、ありがたいねぇ。信仰よりこっちのほうが、よっぽど実入りがいいじゃないか。)
住吉は苦笑しつつ、指先で拾い上げた百円玉を光にかざす。
久しぶりに当たりだ。
(これならバスに乗れるし、"あそこまで"行くのも楽ちんだねぇ。)
神様というのは神通力がどうのこうのと言われるが、こういう「現実的な苦労」を乗り越えなきゃならないあたり、住吉は本当に「しがない神様」なのだろう。
(ま、神様ってのは、そういうもんじゃないかねぇ。)
そう呟くと、住吉は百円玉を掌で転がしながら、のんびりと歩き出した。
さてさて、みなさま、神通力というものをご存じでしょうか。
まぁ、簡単に言えば「神様の力」。なんでもできる、便利な力……と、思われがちでございますが、これがまた、そう簡単な話ではございません。
「神様なんだから、願い事くらいパパッと叶えられるんでしょう?」
なんてねぇ、時々思われるわけですが、これがまた、なかなかどうして、そう簡単にはいかないのでございますよ。
神様というのは、信仰を力にして動くもの。
つまり、信仰が厚ければ厚いほど、神通力も強くなる。
逆に、信仰が薄れれば、もうどうにもならない。
例えばですね、かつての住吉は、海の神として信仰され、船乗りたちに崇められ、それはもう、堂々たる神通力を誇っておりました。
しかしまぁ、時代というものは流れるものでございます。
船乗りはGPSを使うようになり、商売繁盛は経済の神様に持っていかれ、海運業が衰退するにつれて、信仰も薄れてしまったわけでございます。
結果として——
「バス代を稼ぐために、側溝を漁る」
これが現代の神様のリアルな姿。
いやぁ、神様稼業というのも、楽じゃありませんなぁ。
さて、ここで西洋の話を少しばかり。
西洋にも「神の力」というものがございまして、その代表が 「奇跡」 でございます。
例えば、イエス・キリストが水をワインに変えたり、病人を癒したり、死者を蘇らせたり——
まさに、神通力のような力を発揮する場面が多々ある。
ですがねぇ、ここで日本と西洋の大きな違いがございます。
「西洋の神は、信仰が薄れても力を失わない」
そう、日本の神様が「信仰ありき」で生きているのに対し、西洋の神様は「神そのものが力を持つ」という考え方なんですな。
つまり、西洋の神は、どんなに信仰が薄れようが、力を失うことはない。
ただし、信仰が厚いほど「神の奇跡が起こる」とされる。
これはつまり、 「日本の神様は、人に支えられる存在」 なのに対し、
「西洋の神様は、人を導く存在」 という違いがあるわけです。
では、神通力と奇跡の違いは何か?
日本の神通力は、「信仰があれば力が増す」もの。
西洋の奇跡は、「神の力が現世に顕現する」もの。
西洋の神は、「絶対的な力を持つ存在」として描かれることが多いが、
日本の神様は、「人々とともに生きる存在」でございます。
だからこそ、日本の神様は信仰を失うと弱るし、最悪の場合「邪神」と化してしまう。
一方、西洋の神は「信仰が途絶えたとしても、消えはしない」。
「日本の神は、信仰を食べて生きる」
「西洋の神は、信仰によって力を顕現させる」
こういう違いがあるわけですな。
さて、そんな話をしている間に、住吉は拾った百円玉をポケットに滑り込ませた。
「ま、神通力がないなら、こういう手段を使うしかないねぇ。」
神様も、生きるためには工夫が必要。
側溝の小銭を頼りにするのが、現代のしがない神様の実情というわけでございます。
「さて、これでバス代は確保っと……。」
住吉は、百円玉を握りしめながら、のんびりとバス停へ向かう。
——神通力は、信仰の力。
けれど、時には現金のほうが役に立つこともある。
住吉は、バスが近づく音を聞きながら、小さく笑った。
(ま、神様ってのは、そういうもんじゃないかねぇ。)
住吉が向かった先は、大鈴天満宮だった。
バスの揺れに身を任せながら、住吉は車窓の向こうを眺める。
(たまには、あの派手なところに顔を出してみるのも悪くないかねぇ。)
別に大鈴の神社に用があるわけではない。
だが、田中の願いを叶える手がかりが、どこかに転がっているかもしれない。
まぁ、そういうことにしておこう、と住吉は思った。
大鈴天満宮に足を踏み入れた瞬間、住吉は思わず足を止めた。
(……いやぁ、すごいねぇ。)
そこに広がっていたのは、賑やかな空間だった。
平日の昼間だというのに、参道には若い人たちがあふれ、賽銭箱の前には列ができている。
「インスタ映え~!」
「ほらほら、鈴を鳴らしてお願いごとしよ!」
カップルや友達同士で来ている者たちが、賑やかに声を上げている。
境内のあちこちには、カラフルな絵馬がぎっしりと並び、売店では「恋愛成就お守り」が飛ぶように売れている。
「はい、カップル限定おみくじ~! 彼氏彼女と一緒に引けば、相性がわかりますよ~!」
巫女の装束を着たスタッフが、商売上手に声を張り上げる。
(……いやはや、すごいもんだねぇ。)
住吉は、境内の活気に圧倒されながら、しばらくその場に立ち尽くした。
自分の神社とはまるで違う。
荒れ果てて、誰も寄り付かない寂れた神社と、この賑わい。
信仰の厚さの違いが、はっきりと見えるようだった。
「おっと、そこのチビ神様、邪魔っスよ。」
不意に、横からひょいっと顔を出したのは、稲荷の神・子鞠だった。
商売っ気のある派手な着物を着こなし、頭には狐耳のような飾りがついている。
「いやぁ、住吉さんも珍しいところに来ましたねぇ。お賽銭でも入れに来たんスか?」
子鞠は、ニヤニヤと笑いながら、住吉の肩を軽く叩く。
「まさかねぇ。ただ、ちょっと寄ってみたくなっただけだよ。」
住吉は、子鞠の視線を受け流しながら、ちらりと境内を見渡す。
「いやぁ、しかしすごいねぇ。人が多いと、なんだか目が回るよ。」
「へへっ、これが『商売の力』ってやつッスよ。まぁ、ウチの大鈴様の手腕があってこそ、ですけどねぇ。」
「なるほどねぇ……。」
住吉は、賑やかな境内をもう一度眺める。
そこには、絶え間なく賽銭が投じられ、願いが込められ、信仰が生まれていた。
それは、まるで流れる川のようなものだった。
人の願いが、信仰となり、神の力になる——
それが、神通力というものだ。
(ボクには、こういう信仰は集まらないけどねぇ。)
住吉は、小さく肩をすくめる。
「で、住吉さん、何しに来たんスか? まさか、大鈴様にお願いごとでも?」
「いやいや、そんなわけないよ。ただ、ちょっと気になることがあってねぇ。」
「気になること?」
「……友達の願いのことさ。」
住吉は、そう呟くと、境内の絵馬を眺めた。
そこに書かれているのは、恋愛成就、学業成就、商売繁盛——
だが、その中にふと、「家族の健康を願う」絵馬があるのに気づく。
(……なるほどねぇ。)
人の願いというものは、信仰の形を変える。
それならば、ボクにもできることが、少しはあるかもしれない。
「……ちょっと、試してみようかねぇ。」
住吉は、そう呟きながら、そっと小銭を握りしめた。
「う、高い……。」
住吉は境内の売店で、絵馬の値札をじっと見つめた。
「一枚500円」
手元を確認する。……何もない。
(バス代で使い切っちゃったからなぁ……。)
さっきまで握っていた百円玉は、すでに運賃箱の中。
バスに乗ることはできたが、その代償として、今の住吉は 完全に無一文 だった。
「どうしました? 住吉さん。」
横で様子を見ていた子鞠が、ニヤニヤしながら覗き込んでくる。
「……いやぁ、ちょっと、絵馬でも書こうかと思ったんだけどねぇ。」
住吉は、苦笑いしながら値札を指さした。
「まぁ、その、資金が……ね。」
「へへっ、それはお気の毒っスねぇ。大鈴様の神社の絵馬は、ブランド品 ですからねぇ。タダで書けるような代物じゃないッスよ。」
子鞠は悪びれもせず、むしろ誇らしげに笑う。
「この神社の絵馬は、恋愛成就のご利益で有名ですからねぇ。お客さん、500円なら安いもんッスよ?」
「まぁ、そうかもしれないねぇ……。」
住吉は、売店の横に積まれた大量の絵馬をぼんやり眺める。
どれも鮮やかに書かれ、願いが込められている。
絵馬というのは、ただの木の板ではない。
人の願いが宿り、そこに込められた想いが、やがて神への信仰へと繋がるものだ。
それを考えると、500円は決して高くないのかもしれない。
(……とはいえ、ない袖は振れないからねぇ。)
住吉はポケットをまさぐるが、当然のことながら何も出てこない。
「ふーん……まぁ、ないなら仕方ないッスねぇ。」
子鞠は住吉の肩をぽんぽんと叩くと、何やら考え込むように腕を組んだ。
「……しゃあない、ちょっと手伝ってもらいますかねぇ。」
「ほう?」
住吉は、子鞠の言葉に少しだけ興味を持ち、顔を上げる。
「どうッスか? 住吉さんもちょっと働いてみません?」
「ボクが?」
「ええ、今うちの神社、めちゃくちゃ忙しいんスよ。」
子鞠は境内の奥を指さした。
そこでは、巫女やスタッフたちがせわしなく動き回り、次々と絵馬を棚に並べたり、お守りを袋詰めしたりしている。
「ほら見てくださいよ、この人の多さ。あっちもこっちも手が足りてないッス。」
「確かに、繁盛してるねぇ。」
「でしょ? だから、ちょちょっと手を貸してくれたら、それなりの 時給 は出しますんで。」
「時給?」
住吉は眉を上げる。
「そりゃあ、お賽銭がガッポリ入る神社ですからねぇ。まぁ、ちゃんとした給料ってわけじゃないッスけど、働いた分は報酬としてあげますよ?」
「報酬って……まさか、お賽銭をくれるとか?」
「いやいや、そこはちゃんと 現物支給 ッスよ。」
子鞠は売店の棚を指さす。
「例えば、働いたら 絵馬を一枚タダで進呈! さらに、おみくじも引き放題!」
「……絵馬とおみくじかぁ。」
住吉は顎に手を当てて考える。
(まぁ、バイトするのはどうかと思うけど……それで田中のために絵馬が手に入るなら、悪くはないかねぇ。)
「……ふむ、じゃあ、やってみようかねぇ。」
「決まりッスね!」
子鞠は満足そうに頷くと、住吉を境内の売店裏へと連れて行った。
「ほい、じゃあまずは おみくじの補充 からッスよ!」
「……おみくじの補充ねぇ。」
住吉は、渡された紙束を見つめながら、 「神様が神社の仕事をする」という妙な状況 に苦笑しつつ、小さく肩をすくめた。
さてさて、みなさま。
「神様のバイト」 というものを聞いたことがございますでしょうか?
いやぁ、普通はないですな。
そりゃあ、神様ってのは人間の願いを聞くもの。
人間のために働くなんて、なんとも妙な話でございます。
しかしまぁ、世の中には「神様らしくない神様」というものもおりましてねぇ……。
「ほい、住吉さん、さっさとこれ持ってってくださいよ!」
「はいはい、わかったよぉ……。」
住吉が手にしたのは、おみくじの束。
「これを補充するッス! 観光客がガンガン引くんで、減るのが早いんスよ!」
「ふむふむ、なるほどねぇ……。」
住吉は売店の端に積まれた箱を覗き込む。
中にはびっしりと詰まったおみくじが並んでいた。
「さてさて、どこに補充すればいいのかねぇ……。」
「あっちッスよ、ほら!」
子鞠が指さしたのは、境内の片隅にある立派なおみくじ棚。
すでに引き尽くされたのか、隙間がぽっかり空いている。
(ふむ……ボクの神通力があれば、一瞬で補充できるんだけどねぇ……。)
しかし、そんな神通力はとうの昔にすり減っている。
仕方なしに、住吉は手動で一つずつおみくじを詰めていく。
「いやぁ、神様が手作業でおみくじを補充するなんてねぇ……。」
「文句言わずに働いてくださいッス!」
子鞠にせっつかれ、住吉は黙々と手を動かす。
神様というのは、人間の信仰によって力を得る存在でございますが、
こうして手を動かして働く姿は、もはや 「バイトの大学生」 そのものでございます。
「次! そこの絵馬、ちゃんと整理してくださいッス!」
「はいはい、わかったよぉ……。」
住吉は、境内の絵馬掛けの前に立った。
ここにはたくさんの願いが掛けられている。
「恋が叶いますように」
「試験に受かりますように」
「推しに会えますように」
「いやぁ、いろんな願いがあるもんだねぇ……。」
住吉は、しみじみとした顔で絵馬を眺める。
「感心してる場合じゃないッスよ! ほらほら、倒れてるやつ直して、ぎゅうぎゅう詰めのところを整理するッス!」
「へぇへぇ……。」
手際よく絵馬を掛け直し、紐が緩んでいるものは結び直す。
これが意外と面倒で、紐が絡まったり、木のささくれが指に刺さったりするのだ。
「……地味に大変だねぇ、これ。」
「でしょ? でもこれがないと、大鈴様のご利益も台無しッスからねぇ。」
住吉はため息をつきながら、最後の一枚を直すと、手をぱんぱんと払った。
「さて、これで終わりかねぇ……?」
「なに言ってるんスか! ラストの大仕事が残ってる ッスよ!!」
「ほう?」
最後に待っていたのは……
ゴミ。ゴミ。ゴミ。
「……いやぁ、すごいねぇ……。」
住吉は、境内に散乱する ペットボトル、空のカップ、アイスの棒 をじっと見つめた。
「……神聖な神社なのに、こんなに散らかすんだねぇ……。」
観光客が多い分、どうしてもゴミは増える。
大鈴天満宮のような繁盛している神社では、掃除は欠かせない作業の一つなのだ。
「はい、住吉さん! ほうきとちりとりッス!」
子鞠が住吉に掃除道具を押し付ける。
「いやいや、ボクは神様だよ? これは巫女さんとか、もっとちゃんとした人がやるんじゃないの?」
「なに言ってるんスか! 今、あんたバイト ッスよ!!」
「……そりゃそうかねぇ……。」
住吉は大きくため息をつくと、ゴミを一つずつ拾い始めた。
(なんともまぁ……これも商いなのかねぇ。)
ペットボトルを袋に詰め、紙くずをほうきで掃く。
ひとつずつ、丁寧に、境内を綺麗にしていく。
そして、最後のゴミを拾い終えたとき、住吉は静かに立ち上がった。
「……ふぅ。」
「お疲れ様ッス、住吉さん!」
子鞠が満足そうに手を叩く。
「ほら、頑張ったご褒美に、絵馬一枚プレゼント ッスよ!」
住吉は、子鞠から渡された絵馬をじっと見つめた。
普通なら500円。
それを、こうして働いて手に入れることになるとは思わなかった。
「……まぁ、これはこれで、いいもんかねぇ。」
住吉は小さく笑いながら、筆を手に取る。
——バイト代の絵馬に込める願いは、たった一つ。
「田中のおばあちゃんの体調が良くなりますように。」
住吉は、ゆっくりと筆を動かしながら、
今日一日を振り返り、ふっと肩の力を抜いた。