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23話 阿羅漢

 さて、恋愛神でございますが、最後まで悔しがっておりましたな。


 「ぐぬぬ、ワイもまだ勉強不足やな……戻って精進や!!」


 そう言い残して、まるで嵐のように去っていったのでございます。いやぁ、来るときも派手なら、去るときも派手なもんで、ほんの数日の滞在だったというのに、その影響はとんでもないものでございました。


 さて、残された住吉神社でございますが——


 どピンクの鳥居、境内に散らばる恋愛成就の札、妙にキラキラした飾りつけ。住吉としては、なんとも落ち着かないものでございました。


 「いやぁ……さすがに、ピンクはやりすぎじゃないかねぇ……。」


 頭をかきながらため息をつく住吉でございましたが、これがまた妙なことに、人の流れというのは少し変わるものでございます。


 これまで見向きもされなかった神社に、ちらほらと人が足を運ぶようになりました。


 「あれ? こんな神社あったっけ?」


 「え、なにこれ……恋愛成就? え、安産祈願?」


 「まぁまぁ、せっかくだし拝んでいこうよ。」


 そんな具合に、人々がぽつぽつと立ち寄るようになったのでございます。


 これは、住吉にとっても嬉しい誤算でございました。


 なにより嬉しいのは、お供え物が増えたことでございます。


 「おぉ……お供えがある……!」


 住吉は、感動しながら賽銭箱の横に置かれた供物を見つめる。おにぎり、果物、時にはちょっと高級な和菓子なんかも。


 「いやぁ、これはありがたいねぇ……。」


 さて、田中坊主でございますが——


 相変わらず、毎日神社に来ております。


 しかし、以前と違うのは、人の目があることでございます。


 「……っ。」


 田中は、賽銭箱の前でサッと5円玉を投げ入れ、一礼し、すぐさま踵を返して去っていく。どうやら、人が増えたことで、妙に恥ずかしさを感じているようでございますな。


 けれども、住吉はその姿を、いつものように見つめながら、どこか満ち足りた気分でございました。


 田中が何を願ったか、それはもう言わずもがな。


 だが、それでも住吉は寂しくなかった。


 だって、彼らはもう、目には見えぬ糸で繋がっている。


 「……今日も暇だねぇ。」


 住吉は、神社の境内に座り込みながら、のんびりと呟く。


 そう、のんびりと——


 しかし、その安寧を壊すように、不穏な気配は確かに迫っていたのでございます。


 それは、どこからともなく——


 肥後の方からとも言えましょうか、それとも、我々の心のどこかからとも言えましょうか。


 さてさて、住吉の平穏は、果たしていつまで続くのか。


 まぁ、次に何が起こるかは、誰にもわかりませんなぁ——。



 山々のカラスが鳴き叫び、海の向こうには黒々とした雷雲が立ち込めていた。


 雲はまるで空と海の境界を塗りつぶすように広がり、渦を巻いていた。遠くの島々はすでに陰り、その姿すら霞んでいる。


 神々は、ただならぬ気配を感じていた。


 「……これは、普通の嵐じゃない。」


 住吉は、境内の鳥居の下で空を見上げ、じっと耳を澄ます。


 どこかで、雷が鳴った。


 その音の合間に、不自然な静寂が広がる。


 「……嫌な感じがするねぇ。」


 鳥の声、木々のざわめき、全てが警鐘のように聞こえる。何かが起こる。いや、すでに起こり始めている。


 だから、神々は海へ向かった。


 住吉も、その流れに従うように、足を踏み出した。


 海岸には、すでに北薩摩の神々が集まっていた。


 皆が沖の方をじっと見つめている。


 視線の先には、荒れ狂う海。押し寄せる波の音は、普段とは違う。潮の満ち引きが不自然に速い。まるで何かが波を呼んでいるかのようだった。


 「これは……」


 紫尾が低く呟く。住吉も足を止め、波の動きを見つめる。


 何かが来る。


 遠く、沖の方から低く鈍い音が響いた。


 地の底から、呻くような重く深い音だった。


 ゴゴゴゴゴゴ……


 空気が張り詰める。神々が息を呑む。


 次の瞬間——


 大地が、跳ね上がった。


 ドゴォォォォン!!!!


 「——地震だ!!」


 足元が激しく揺れる。砂浜が波打つように持ち上がり、海水が不自然に引いた。


 紫尾久利大社の鳥居がミシリと不吉な音を立てる。グラリと傾き、今にも倒れそうになる。


 「……鳥居が……!」


 神の門が倒れる。それは信仰の崩壊を意味する。紫尾は拳を握り、強く睨んだ。


 「……っ、神の名を冠する社の門が、そう易々と倒れてたまるか!!!」


 彼女の言葉と共に、鳥居は辛うじて踏みとどまる。


 しかし、揺れは止まらない。


 カラン、カラン、カラン!!!!


 大鈴天満宮の巨大な鈴が、何度も何度も警鐘を鳴らす。


 揺れに合わせて、重い鈴が勝手に振られ、何度も何度もぶつかり合う。


 「警鐘っ…………!?」


 大鈴が、必死に鈴の揺れを止めようとする。だが、それはまるで意思を持つかのように暴れ続けた。


 「お願い持ち堪えて……!!」


 神の鈴はただの飾りではない。

 それは警鐘を鳴らすために存在する。

 だからこそ、鳴り続けている。

 これがただの地震ならば、こんなことはないはずだ。


 「……ッ、クソッ……!! 何が起こるのよ……!!!」


 大鈴尊が叫ぶ。


 大地の揺れが徐々に収まり始めた。だが、それが終わりではないことを、神々は理解していた。


 ゴォォォォ……!!!


 海が叫ぶ。


 沖の方に、異様な水の壁が立ち上がっていた。


 「……津波……!」


 神々の誰かが震える声を漏らした。


 黒い壁が、ゆっくりと迫ってくる。


 遠くの島々が、次々とその影に飲み込まれていく。


 木々が、建物が、すべてが波に呑まれ、消えていく。


 「……これは……ただの災害じゃない……!!」


 誰ともなく、そう言った。


 住吉は、ただじっと、その黒い影を見つめる。


 これは、偶然ではない。

 これは、自然の怒りなどではない。


 これは、意志だ。


 何かが、この地に降り立とうとしている。


 それが何なのか。

 まだ、誰も分からない。


 だが、確実に——近づいている。


 誰かが叫んだ。


 「——逃げろ!!」


 その声は、神々の静寂を切り裂いた。


 沖から迫る津波は、ただの波ではなかった。


 壁のようにそびえ立ち、すでに遠くの島々を飲み込みつつある。


 まるで、大地そのものが怒り狂い、海が咆哮しているかのように——。


 神々が息を呑む。


 津波のうねりは、恐怖そのものだった。


 住吉は、震える足で後ずさった。


 「……な、なんだよぉ……これ……。」


 膝が抜け、砂浜に座り込む。


 神として、この地にありながら——。


 あまりにも理不尽なこの現象に、ただ言葉にならない息を漏らすことしかできなかった。


 紫尾も、大鈴も、他の神々も、その巨大な脅威を前にして動けない。


 この地を守る神でありながら——それでもなお、この圧倒的な力の前では、祈ることしかできないのか。


 否——。


 大地が裂けた。


 次の瞬間——


 轟音とともに、裂け目の奥から黒い影が舞い上がる。


 荒れ狂うような力が、地を踏み砕きながら降り立った。


 神々が一斉に息を呑む。


 その者の姿は、まるで地獄の修羅。


 かつて神だったはずのもの。


 今はただ、憎悪と無念を抱えた錆びついた存在——。


 阿羅漢が、北薩摩の地に降り立った。


 四本の腕が、空を裂くように広がる。


 その眼は、怒りと憎しみで燃えていた。


 「——さぁ、北薩摩の神々よ。」


 その声は、地の底から響くようだった。


 「足掻いてみせろ。」


 津波の轟音が、阿羅漢の声に掻き消される。


 「お前たちが、どこまで持ち堪えられるのか——。」


 鋼のような腕がゆっくりと持ち上がる。


 「見せてみろ!!!」


 大地が、再び揺れた。


 雷鳴が轟く。


 波が咆哮する。


 空すらも、その圧倒的な気迫に震えた。


 住吉は、ただ震えながら、その巨大な存在を見上げることしかできなかった——。


 大地が揺れ、津波が吠え、阿羅漢が不敵に笑う。


 だが、その時——


 紫尾の体が、静かに発光した。


 神秘的な金の光が、砂浜を照らし、まるで刃を研ぎ澄ますようにその輪郭を鮮明にする。


 「この地は……そう容易く奪わせはせん。」


 紫尾の瞳が、鋭く光る。


 その気迫に呼応するかのように、彼女の全身から神気が溢れ出し、揺れ動く空気が波のように広がる。


 次の瞬間——


 彼女は、波打ち際へと踏み出した。


 「……っ!」


 海から押し寄せる巨大な津波に向かって、紫尾は両手を前に突き出す。


 黄金の光が奔流となり、轟音とともに津波へとぶつかる。


 荒れ狂う水の壁が、一瞬たじろぐ。


 まるで、押し寄せる力に抗うかのように、紫尾はその身を震わせながらも決して後退らず、渾身の力で押し返そうとする。


 「これしきのことで……神が引くとでも思ったか!!」


 その気迫に、波が一瞬だが押し戻される。


 そして——


 カラン……カラン……!!


 それは、鳴り響く鈴の音。


 「まったく……。」


 次に前へと踏み出したのは、大鈴だった。


 「津波に神の社を流されるわけにはいかない……ならば、叩き返してやるまで!!」


 彼女の髪が風に揺れ、手には一対の金鈴が握られている。


 その鈴を、力強く鳴らした。


 キィィィン!!


 その音は、神気となって海へと響き渡る。


 押し寄せる津波に向かって、彼女は大きく振りかぶった鈴を叩きつけるように振り鳴らした。


 「響け!! これは、神の声だ!!」


 雷鳴のような轟音が響き、紫尾の光と共鳴するかのように、海が僅かに押し戻される。


 その光景を見ていた周囲の神々——


 しかし彼らは、住吉と同じく、その場で立ち尽くしていた。


 紫尾と大鈴、二柱だけが、この絶望の中でなおも戦っていた。


 「……すごい……。」


 誰かが呟く。


 「いや、違う……すごいんじゃない……俺たちは……!」


 もう一人が、震えながら前に出た。


 そして——


 「この地を守るのは、俺たちの役目だ!!!」


 また、一柱が前へ出る。


 その勢いは伝播し、次第に一柱、また一柱と加勢する者が増えていく。


 紫尾の光に続き、大鈴の鈴の音に続き、次々と神々が己の力を解放していく。


 住吉は、それを砂浜に膝をついたまま見つめていた。


 この光景を、どう言葉にすればいいのか。


 彼の指が、静かに砂を握りしめる。


 「……負けるか……。」


 絞り出すような声だった。


 そして、顔を上げる。


 「お前なんかに……負けてたまるかよぉ!!!」


 風が吹き抜ける。


 彼の髪が揺れる。


 住吉は、立ち上がる。


 この地を守るために。


 阿羅漢は、それを見ていた。


 そして、不敵に笑った。


 「——ならば、試してみるがいい。」


 津波に抗う神々の力が光の奔流となり、波を押し返さんとする。


 しかし——


  空が、一瞬にして闇へと染まった。


 どこからともなく、黒い雲が広がる。


 太陽の光は瞬く間に飲み込まれ、昼間だというのに夜のような暗闇が広がる。


  ゴロゴロゴロ……!!!


 雷鳴が轟き、光の筋が雲の中を走る。


 「……これは……!!」


  バァァァァン!!!!


 紫電が閃き、怒れる雷が地を貫いた。


 神々が押し戻していた波が、突然勢いを増す。


  ズゥゥゥン……!!


 海から吹き上げるような風が、砂浜の上を襲い、木々を揺らし、神々の衣をたなびかせる。


 風は季節外れの嵐となり、猛威を振るった。


 「くっ……!?」


 紫尾の発する光が、嵐に掻き消されるように揺らぐ。


  ザザァァァァン!!


 海が咆哮する。


 押し返されかけていた津波が、再び勢いを取り戻し、黒い壁のように神々へと迫る。


 「おのれ……!!」


  紫尾は、歯を食いしばりながらさらに光を放つ。


 だが、空から降り注ぐ雷がそれを打ち消し、風が神気を分散させる。


  戦況が、一気に劣勢へと傾いた。


 「これは……ただの天災じゃない……!!」


 大鈴が声を震わせる。


 彼女の鈴が鳴り響くたびに、津波が僅かに後退する。


 しかし、次の瞬間にはさらに強い波が押し寄せ、彼女の足元にまで迫る。


 「……っ、このままじゃ……!!」


  そして——


  そのすべてを見下ろしながら、阿羅漢は嘲るように笑った。


 「どうした? それが北薩摩の神々の力か。」


  雷鳴が響く。


 阿羅漢は、嵐の中心に立ち、悠然と神々を見渡す。


 「さぁ、もっと足掻け。」


 彼の四本の腕が、不気味に動く。


 「お前たちがどこまで持ち堪えられるか……見せてもらおう。」


  その言葉とともに、空がさらに暗くなり、雷が再び海を裂いた。


  嵐はさらに勢いを増し、津波は巨大な顎となって神々へと襲いかかる——。


 雷鳴が轟き、海は猛る。


 暗雲が空を埋め尽くし、津波が牙を剥く。


 荒れ狂う嵐の中、神々はなおも足掻いていた。


「……押し返せ……!!」


 紫尾の声が、轟音の中に響く。


 彼女の体はまばゆく発光し、海へと伸ばした手が波を押し返す。


 しかし——


 バァァァァン!!!!


 雷が直撃する。


 光の奔流が紫尾を包み込み、彼女の体が一瞬、空へと弾かれたように見えた。


「紫尾!!」


 大鈴の叫びがこだまする。


 彼女自身もまた、必死に鈴を鳴らして波を押し返していた。


 しかし、それはすでに限界を迎えていた。


 ザザァァァァン……!!


 波が大鈴の足元を飲み込む。


「……くっ……!!」


 大鈴は鈴を強く鳴らし続けた。


 カラン……カラン……カラン……


 しかし、その音は次第に弱くなる。


 神々の力が、嵐に掻き消されていく。


「お前たち……その程度か……?」


 阿羅漢の声が、嵐の中で嘲るように響く。


「ならば、終わりだ。」


 彼がゆっくりと腕を上げた瞬間——


 ドォォォン!!!!


 紫尾の鳥居が、ついに耐えきれず崩れ落ちた。


「……っ!!」


 紫尾が倒れ込む。


「紫尾……!!」


 住吉が駆け寄ろうとしたその時——


 カラン……カラン……


 それまで鳴り続けていた大鈴の鈴が、ぴたりと音を止めた。


 大鈴が、倒れたのだ。


「……そんな……!!」


 住吉の目の前で、紫尾と大鈴が次々と崩れ落ちる。


 神々の気配が、次々と消えていく。


 波に飲まれ、雷に貫かれ、嵐に砕かれ——


 最後に残ったのは、住吉ただ一柱だった。


 彼は、荒れ狂う波の前に立ち尽くした。


 崩れ落ちた紫尾の鳥居。


 もう鳴ることのない、大鈴の鈴。


「……。」


 住吉は、震える手で砂を握りしめた。


 そして、顔を上げる。


「こんなんで終われるわけがない…………!!」


 彼の声は、雷鳴にも負けないほどの強さを持っていた。


 神々が倒れ、ただ一人残されても——


 住吉は、抗うことをやめなかった。

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