19話 投げられた絵馬
天照大神の前に立つ阿羅漢。
四本の腕がわずかに震え、その眼光は怒りと絶望に満ちていた。
「天照……」
低く、深い声が響く。
「……貴様は、それでも神を名乗るのか?」
天照大神は、ただ静かに彼を見つめる。
「お前は、何のためにこの場にいる?」
「決まっている。」
阿羅漢の拳が強く握られる。
「私は、この世界から神を終わらせるために来た。」
その言葉に、周囲の神々がどよめく。
「……神を、終わらせる?」
天照大神は、その言葉を静かに反芻した。
阿羅漢は天を仰ぐように顔を上げた。
「神など、不要だ。いや、人も不要だったのだ。」
彼の目には、怒りだけでなく、深い諦めと嘆きが宿っていた。
「人を憎んでいるのは、まさにそうだ。だが、それだけではない。」
阿羅漢は天照大神を見据える。
「私は——神そのものを憎んでいる。」
天照大神は目を伏せた。
阿羅漢の体が、小さく震える。
「私はかつて、確かに人に信じられた神だった。」
「信仰は確かにあった。私の名を呼び、手を合わせ、祈る者たちがいた。」
「それが……すべて、消えた。」
彼の目が、怒りで熱を帯びる。
「震災という理不尽のせいで。」
空気が、張り詰める。
「神がいても、人は死ぬ。神がいても、村は消えた。」
「何もできず、何も守れず、それでも神であれと?」
拳が固く握られる。
「人が神を忘れることは、当然のことだ。だが、それを責めるつもりはない。」
「私は、それを理解しているつもりだった。」
「だが——」
阿羅漢は、一歩前に出る。
「なぜ、神までもが無力なのだ!?」
「なぜ、人を救えない!?」
「なぜ、神はただ、見ているだけなのだ!?」
叫ぶような声が響き渡る。
「……それが、この世の理だからだ。」
天照大神の言葉は、淡々としていた。
「私たちは万能ではない。」
「人々の願いを聞くことはできる。だが、そのすべてを叶えることはできない。」
「それは、私も認めよう。」
天照大神は目を閉じ、静かに頷いた。
「しかし、お前は何を見ていた?」
阿羅漢の顔が歪む。
「震災があれど、生き残った者たちは生き残り、今も営みを続けている。」
「お前は、それを見てこなかったのか?」
阿羅漢の拳がわずかに緩む。
「お前は、ただ自分が失ったものばかりを見ている。」
「だが、人は前を向いている。」
「お前が勝手に失ったと思っているのは、ただの独りよがりな言い訳ではないのか?」
阿羅漢の体が、びくりと震えた。
「……っ!」
「人と人が寄り添うことで、理不尽にも抗える。」
「お前はそれを知ろうともせず、ただ神を否定し、人を否定しているだけだ。」
阿羅漢は、歯を食いしばる。
「寄り添う……? くだらぬ幻想を……!」
「いや、それが真実だ。」
天照大神は、確かな声で言った。
「神と人が共に歩み、寄り添うことで初めて、困難を乗り越えることができる。」
「お前は、それができなかっただけだ。」
阿羅漢の目が大きく見開かれる。
「……違う!!」
阿羅漢は、怒りに満ちた声で叫ぶ。
「お前の理想論など、聞きとうないわ!!」
四本の腕が怒りと憎悪に震え、まるで雷を呼ぶかのように力を膨れ上がらせる。
その時だった。
阿羅漢の額に、木札が投げつけられた。
絵馬。
カツン、と乾いた音を立て、それは阿羅漢の足元へと落ちた。
阿羅漢は、一瞬何が起こったのか分からず、ただゆっくりと視線を下げる。
そして、それを投げた者を見た。
住吉が、そこにいた。
「いやぁ、随分と強い言葉を使うねぇ。」
住吉は、のんびりとした口調のまま、一歩前に出る。
「神様は人のためにいるべきじゃない、なんて話、ボクもよく聞くよぉ。」
阿羅漢が住吉を睨みつける。
「……ほう?」
「でもねぇ……それなら、奇跡ってのは何のためにあるんだろうかねぇ?」
住吉は、落ちた絵馬を拾い上げ、ふっと微笑む。
そこに書かれていたのは、こうだった。
——「今年も楽しく過ごせますように。」
住吉は、それを掲げながら、阿羅漢を見つめる。
「奇跡は起こせるなら、起こしたいもんじゃないかねぇ?」
阿羅漢の表情が険しくなる。
「……くだらん。」
「いやいや、くだらなくなんかないさぁ。」
住吉は、軽く絵馬を指で弾いた。
「ボクら神様だって、結局は奇跡に縋らなきゃダメなんだよぉ。」
「何もできない? そりゃあそうさ。でも、人が願うってことは、何かしらの奇跡を求めてるんだよぉ。」
阿羅漢は、拳を固く握る。
「神に、奇跡など起こせるものか!!」
「でもさぁ、キミは今ここにいるじゃないかねぇ?」
住吉は、笑みを消して阿羅漢を見つめた。
「消えかけていた神が、それでもこうして歩いて、ここまで来て、こうして声を上げている。」
「キミは信仰を失った? 神を否定する? でも、どうしてまだ消えていないのかねぇ?」
阿羅漢の目が揺れる。
「……」
「それが何よりの証拠じゃないかねぇ?」
住吉は、優しく微笑んだ。
「人は、まだキミを見捨ててなんかないよ。」
「……違う!!」
阿羅漢の声が、空間を揺るがした。
「そんなもの、ただの幻想だ!!」
四本の腕が激しく震える。
「人は、神を忘れる! 信仰は脆い! そんな不確かなものに縋って、何になるというのだ!!」
怒りと憎しみが混ざり合った声が響く。
「貴様の言葉など、聞きとうないわ!!」
そして——
その瞬間、阿羅漢の四本の腕が、怒りと憎悪に満ちた一撃を振り下ろされようとする。
その刹那、天照大神の光が、すべてを包んだ。
あまりにも清浄で、あまりにも強大な光。
どんな神も、この御威光の前では頭を垂れざるを得ない。
だが——
阿羅漢は、それでもなお立ち続けていた。
「クッ……!!」
四本の腕が、光を切り裂くように動く。
まるで、天照大神の神威そのものを拒絶するかのように。
それは、ただの神の抵抗ではなかった。
阿羅漢の体から噴き出す黒き気配。
それは——
数多の邪塊の無念と憎悪。
信仰を失い、祈りを捧げられなくなり、やがて錆びつき、ただの存在となり果てた神々。
その怨念、無念、怒り、悲しみ——すべてを阿羅漢は一身に背負っている。
この場にいる誰よりも、神の儚さを知っている。
だからこそ——
阿羅漢は、神という存在を否定する道を選んだ。
「神など……不要だ……!!」
阿羅漢の咆哮が、場の空気を揺るがす。
「何が神威だ!! 何が寄り添うだ!! そんなものに、何の意味がある!!」
「祈って何が変わる!! 願って何が救われる!!」
四本の腕が、憤りを孕んで震える。
「お前たちは、まだ信じているというのか……?」
「人が、神を信じ続けるとでも……?」
「ふざけるな……!!」
怒りに満ちた拳が振り上げられる。
だが——
その瞬間、阿羅漢の背後から、一つの影が跳んだ。
住吉だった。
「いやぁ、なかなか大きな声を出すねぇ。」
住吉は、迷うことなく阿羅漢にしがみつく。
四本の腕を、全力で押さえ込むように。
「貴様……!!」
阿羅漢が驚愕の声を上げる。
住吉は、その腕を押さえたまま、ゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、キミ。」
「……何?」
「キミはさぁ……結局、奇跡を信じてるんじゃないかねぇ?」
阿羅漢の目が揺れる。
「……何を……?」
「散々、神を否定して、信仰を捨てたって言ってるけどねぇ。」
「でもさぁ、キミはまだここにいるじゃないかねぇ。」
阿羅漢は、何かを言いかけたが、言葉が出なかった。
「神を終わらせる? 神なんていらない?」
「そんなことを言いながら、キミはまだここにいる。」
「それって、心のどこかで、まだ何かを信じてるんじゃないかねぇ?」
阿羅漢の四本の腕が、わずかに震えた。
「違う……!! そんなもの……!」
「じゃあ、どうしてキミは消えてないの?」
住吉の声は、優しく、静かだった。
「キミが本当に、すべてを捨てたなら、今頃、ボクらの前にはいなかったはずだよぉ。」
阿羅漢は、拳を握る。
「俺は……俺は……!」
「誰よりも、奇跡を願ってたんじゃないかねぇ?」
阿羅漢は、苦しげに歯を食いしばる。
その姿を見て、住吉は静かに微笑んだ。
「ねぇ、キミ。」
「もしも、また願うことができるとしたら……何を願うのかねぇ?」
阿羅漢は、答えられなかった。
だが、四本の腕は、もう暴れることなく、ただ震えていた。
怒りか、迷いか、それとも別の何かか——
住吉は、ただ静かにその揺らぎを感じ取っていた。
「……奇跡を信じている、だと?」
阿羅漢が、低く、押し殺した声で呟く。
住吉は、彼を押さえつけながらも、微笑を崩さなかった。
「うん、信じてるよぉ。ボクもねぇ、結局は奇跡にすがる神様だからねぇ。」
阿羅漢は住吉を睨みつける。
「……貴様、少しは分かっているつもりのようだな。」
四本の腕が、徐々に力を抜いていく。
住吉の腕の中で、彼の膨れ上がった神気が、わずかに収束していくのが分かった。
「貴様だけだ……」
住吉は、阿羅漢が何を言おうとしているのか、じっと待っていた。
「この場の神々の中で、唯一貴様だけが、私を否定しきらなかった。」
「……」
「それだけでも、貴様はほかの神どもとは違う。」
阿羅漢は、拳を握り締めながら、住吉を真正面から見つめる。
「だが……それでも貴様は、何も分かっていない。」
住吉の表情がわずかに動いた。
「……そっか。」
「この地では、私は決して理解されぬ。」
阿羅漢の声音は、静かだったが、確かな確信があった。
「ならば……貴様の地に降り立とう。」
周囲の神々がざわめく。
「いずれ、貴様にも分からせる。」
「貴様が信じるものが、どれほど脆く、儚く、無意味なものなのかを——」
住吉の金と銅のまだらの瞳が、まっすぐに阿羅漢を見つめた。
その瞬間、彼の顔から、のらりくらりとした雰囲気は完全に消えていた。
「……ふぅん。」
「なら、その時は——全力で抗うよ。」
阿羅漢の瞳が細くなる。
住吉の言葉は、曖昧なものではなかった。
軽口ではない、誤魔化しでもない。
住吉は、真っ向から彼に向き合っていた。
「……貴様ごときが?」
「うん。」
「私を否定するのか?」
その問いに、住吉はゆっくりと首を振った。
「君のことは、絶対に否定しないよ。」
阿羅漢の目がわずかに揺れた。
「……何?」
「だってさぁ、君が歩んできた道は、確かにあったものじゃないか。」
「ボクはねぇ、君の想いを否定するつもりはない。」
「でもね、それとこれとは話が別だよぉ。」
住吉は、にこりと笑った。
「ボクはボクの信じるものを、最後まで貫くよ。」
「君がそれを壊そうとするなら、全力で抗う。」
阿羅漢の口角が、わずかに歪んだ。
それは、笑いだったのか、それとも苦笑だったのか——
「……フッ、面白い。」
「ならば……その時が楽しみだな。」
阿羅漢の姿が、黒い靄の中へと沈み込むように、徐々に消えていく。
「次に会う時は、貴様がどれほどの覚悟を持っているのか、見せてもらおう。」
そして——
阿羅漢の姿は、完全に消え去った。
重苦しい空気が、静かに流れていく。
神々はその場に残された住吉を、じっと見つめていた。
住吉は、ふぅっと息を吐いた。
そして、そっと空を見上げる。
「……さてさて。」
「これで終わり、とはいかないみたいだねぇ。」
遠く、風が吹く。
嵐の前の静けさのような空気が、場を包んでいた。
阿羅漢の姿が消えた途端、辺りの空気が大きく緩んだ。
緊張から解き放たれた神々が、次々と歓声と安堵の声を上げる。
「見事なもんだ!」
「どこの神様か知らんが、あんな化け物相手に渡り合うとはな!」
「いや、待て……どっかの名神か? それとも何かの眷属か?」
ざわざわと騒ぐ神々の間で、住吉はふぅっと息を吐いた。
「あぁ、いやぁ……ボクはそんな大層な神様じゃないよぉ。」
のらりくらりと肩をすくめる。
「ただの、北薩摩の神様だよぉ。」
神々のどよめきが広がる。
「北薩摩……?」
「随分と田舎から来られたんですね。」
聞き慣れない地名に、誰かがぽつりと呟いた。
そんな中、天照大神がゆっくりと歩み寄ってきた。
「……厄災を、自らの地に引き込むか。」
その声には、はっきりとした警告の響きがあった。
「碌なことにはならないぞ。」
住吉は、天照大神のまっすぐな視線を受けながら、わずかに微笑んだ。
そして、ふわりと手を広げ、懐から願い事の束を取り出した。
「ほい、これ北薩摩を代表してお願い事だよぉ。」
「……」
天照大神は、ゆっくりと視線を落とす。
願い事の束は、それなりの厚みがあり、紙の端は少し折れ曲がっている。
「ほう……」
束を手に取り、ぱらぱらとめくる天照大神。
「随分と田舎らしい願いばかりですね。」
「うん、田舎だからねぇ。」
願い事には、格式ばった文言が並んでいた。
——五穀豊穣を願うもの。
——漁の安全を願うもの。
——地域の商売繁盛を願うもの。
どれも、田舎ならではの真面目な願いばかり。
天照大神は、淡々と読み進めていたが——
ある一つの願い事の前で、指が止まった。
「……」
「……ふむ。」
住吉は、天照大神の視線を追いかけるように、その願い事を覗き込む。
そこには——
「彼女ができますように」
住吉は、一瞬の沈黙の後、
「あ……」
と間抜けな声を漏らした。
天照大神が、静かに住吉を見つめる。
住吉は、苦笑しながら頭を掻いた。
「……ごめんなさい、これボク個人の願いだったよぉ。」
へへ、と誤魔化すような笑い声を漏らす。
「忙しかったもので、整理も覚束なくてねぇ。」
天照大神は、わずかに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
やがて、願い事の束を閉じると、静かに住吉へと手渡す。
「北薩摩の代表よ。」
住吉は、天照大神の声音が、先ほどまでと違うものになったことに気付いた。
「神や人が寄り添い、信じ合っていれば——必ず、伊勢の神は目を向ける。」
「これからどんな厄災に見舞われようと、強く神として在れますね?」
住吉は、その問いに、しばらく沈黙した。
天照大神の言葉は、住吉の胸の奥に、ゆっくりと染み渡っていくようだった。
強く神として在る。
それが、どれほどの意味を持つのか。
住吉は、それを考えながら、ゆっくりと目を閉じる。
そして——
「まぁ……自信ないけどさ。」
ひょいと肩をすくめながら、軽く笑った。
天照大神は、その答えに特に何も言わなかった。
ただ、その場を静かに去っていった。
住吉は、しばらく天照大神の背を見送っていたが——
やがて、ふぅっと息を吐いた。
「……ボク、また余計なことしちゃったかなぁ。」
静かになった場の中で、彼の呟きだけが響いた。
——その答えが出るのは、まだ少し先のことだった。




