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18話 錆びついた神

 翌朝、旅館を後にした住吉は、再び伊勢神宮へ向かった。


 昨日の混乱はひとまず収まったものの、後発組の神々の願いはまだ宙ぶらりんのまま。


 「いやぁ、昨日は大変だったねぇ……。」


 住吉は、のんびりと参道を歩きながら、深く息を吐いた。


 周囲には朝の澄んだ空気が広がっている。


 町は観光客で賑わい始め、参拝者たちが続々と神宮の方へ向かっている。


 しかし、である。


 その賑わいの中、違和感があった。


 住吉の視界に、一柱の神の姿が映る。


 ——それは、あまりにも錆びついた神だった。


 かつて金色に輝いていたであろう髪も、今はすっかり鈍い銅色を通り越し、もはや鉄錆のように黒ずんでいる。


 その神は、道端の隅に蹲るように座り込んでいた。


 「……」


 住吉は、無意識のうちに足を止めていた。


 ここまで錆びついた神を、久しく見たことがない。


 いや、それどころか、この状態ならもうとっくに邪塊になっていてもおかしくなかった。


 だが、その神はまだ、かろうじて神の形を保っていた。


 住吉はゆっくりと近づく。


 「……ねぇ、キミ、大丈夫かねぇ?」


 その声に、錆びついた神がゆっくりと顔を上げた。


 目も、すでに濁りきっている。


 金色の輝きなど、とうに失われていた。


 「……」


 神は、何かを言おうと口を開いた。


 だが、乾いた音がするばかりで、言葉にはならなかった。


 住吉は、眉をひそめる。


 まるで、喉の奥まで錆びついてしまったかのようだった。


 「いやぁ……これは……。」


 近くで見ると、その状態の深刻さがよく分かる。


 手足はひび割れ、髪はところどころ抜け落ち、服ももはや布きれのように朽ち果てている。


 こんな状態で、よくまだここにいるものだ。


 「キミ、どこの神様かねぇ?」


 住吉がそう尋ねると、神はかすかに口を動かした。


 そして、か細い声が、喉の奥から搾り出される。


 「……伊勢……」


 「……伊勢の神様?」


 「…………」


 かすれた声で否定する。


 「……ここに……来た……願いを……伝えに……」


 住吉は、そこでようやく察した。


 「……もしかして、後発組……?」


 神は、ゆっくりと頷いた。


 「……でも……叶わなかった……誰も……もう……私を……知らない……」


 「……」


 住吉は、言葉を失った。


 ここまで錆びついてしまった神が、それでも伊勢まで来た。


 それだけの信仰が、まだどこかに残っていたはずなのに——


 「……願い、伝えられなかったんだねぇ。」


 神は、再びかすかに頷く。


 「……でも、もう……どうでも……いい……」


 その言葉に、住吉は息を呑んだ。


 「……どうでも、いい……?」


 神は、ぼんやりと空を見上げる。


 その視線は、もうどこにも焦点を結んでいない。


 「……もう、遅い……信仰は……戻らない……私は……消える……」


 住吉は、ゆっくりと膝を折った。


 「……それでいいのかねぇ?」


 神は、住吉の方を向く。


 「……」


 その顔には、感情がほとんど残っていなかった。


 ただ、疲れ切った者の顔。


 「……信仰が薄れたら、神は消える。」


 住吉は、そう呟く。


 「それは、ボクもよく分かってるよぉ。」


 住吉の髪もまた、かつての黄金の輝きを失い、まだらに錆びついていた。


 「でも、まだキミは消えてない。」


 神は、何も言わない。


 「消えることを待つだけなら、何のためにここまで来たのかねぇ?」


 その問いに、神は微かに目を揺らした。


 「……」


 「キミ、何かの願いを持って、ここに来たんじゃないかねぇ?」


 神は、錆びついた手をゆっくりと動かした。


 その指先には、小さな木札が握られていた。


 それは、どこかの小さな神社の、古びた絵馬だった。


 そこには、震える文字でこう書かれていた。


 「——今年も楽しく過ごせますように。」


 住吉は、それを見て、そっと目を細めた。


 「……まだ、キミを信じてる人がいるんじゃないかねぇ?」


 神は、微かに、微かに震えた。


 「……私は……」


 住吉は、ゆっくりと立ち上がる。


 そして、手を差し出した。


 「もう一度、願いを伝えに行こうかねぇ?」


 神は、その手を見つめる。


 錆びついた指が、微かに動く。


 住吉は、にこりと微笑んだ。


 「ボクも、後発組だからねぇ。」


 神は、ゆっくりと、住吉の手を握った。


 それは、まるで砂のように崩れそうな、脆い手だった。


 けれども、その手は、確かに神のものであった。


 そして、二柱の神は、再び伊勢神宮の門を目指して歩き出すのであった。


 伊勢神宮の門前まで来て、住吉はふと立ち止まった。


 「……あれ?」


 昨日の夜、確かに言ったはずだ。


 「ほな、明日ここでな。」


 「いやぁ、分かったよぉ。遅れないようにするよぉ。」


 恋愛神とは、朝に伊勢神宮の門で待ち合わせをする約束をしていた。


 なのに、どうしたことか、どこにもその姿が見えない。


 住吉は、周囲を見渡してみるが、それらしい気配はない。


 「いやぁ、遅れてるのかねぇ……?」


 しかし、待てど暮らせど、恋愛神は来ない。


 昨夜、宿を取るときに妙なことを言っていたのを思い出す。


 「ワイはなぁ、普通の旅館よりもラブ●テルのほうが語感的に良いんや。」


 「……いやぁ、何言ってるのかねぇ?」


 「せやかて、恋愛成就の神が泊まるんやから、それくらいの粋は必要やろ?」


 「いやいや、ただの洒落じゃないかねぇ……。」


 「洒落ちゃう! これはワイの信念や!!」


 まぁ、正直どこで泊まろうが自由ではあるが……


 「いやぁ、まさか寝過ごしてるんじゃないかねぇ……?」


 どうにも嫌な予感がする。


 それに、こうして一人で門の前に立っていると、なんとなく心細い。


 「一緒だったほうが、気が楽だったかねぇ。」


 住吉の隣では、錆びついた神が静かに立っている。


 「……?」


 かすれた目で、住吉の横顔を見つめる。


 「いやいや、こっちの話だよぉ。」


 住吉は、ぼんやりと伊勢の門を眺める。


 「さて、どうするかねぇ……。」


 約束をすっぽかされたまま、どうにも落ち着かない気持ちで、住吉は門をくぐることにした。


 「まぁ、来るなら来るだろうしねぇ……。」


 そんなことを呟きながら、住吉は静かに神宮の奥へと歩みを進めるのだった。


 伊勢神宮の門をくぐる。


 錆びついた神は、ぎこちない足取りで住吉の隣を歩いていた。


 「……」


 長い間、神としてここに足を踏み入れることはなかったのだろう。


 それとも、来たとしても、願いを伝えることすら許されなかったのか。


 何も語らないその姿は、どこか消え入りそうで、まるで風にさらわれてしまうかのようだった。


 住吉はちらりとその顔を見やる。


 「……しっかりするんだよぉ。」


 か細い体が、微かに揺れる。


 「……私は……」


 錆びついた神の喉が震える。


 それでも、まだ神として立っているのなら、願いを伝えねばならない。


 住吉は前を向き、ゆっくりと歩を進める。


 そして——


 伊勢神宮の奥から、強烈な光が差し込んだ。


 住吉は、無意識に足を止める。


 そこに現れたのは、天照大神。


 空が、揺らいでいた。


 ただ立っているだけで、あまりにも強烈な存在感を放つその神は、まさに神の中の神と呼ぶに相応しい。


 黄金よりもなお清らかで、太陽の輝きをそのまま体現したような光の衣を纏っている。


 その肌は淡い光を宿し、輪郭さえも定かではないほど、眩しさに包まれていた。


 髪はまるで陽炎のようにたなびき、一筋一筋が黄金の糸のように煌めく。


 瞳はどこまでも深く、ただ見つめるだけで、己の全てを見透かされてしまいそうなほどに澄んでいる。


 まばゆい光に照らされ、あたりの影が長く伸びる。


 空気が張り詰め、風が止まり、伊勢の森の中にただただ静寂だけが広がっていた。


 天照大神がゆっくりと歩みを進める。


 その一歩一歩が、まるで世界の法則そのものを変えてしまうかのように、空気が揺れ、神気が波打つ。


 住吉は、思わず息を呑んだ。


 「……いやぁ……やっぱりすごいねぇ。」


 そう呟くのが精一杯だった。


 錆びついた神は、ただ震えていた。


 その身に染み付いた「衰退」の概念が、「絶対の存在」の前で揺さぶられているのだ。


 天照大神は、ゆっくりと視線を向けた。


 何も言わない。


 ただ、見つめるだけ。


 それだけで、すべてを知っていると告げるような眼差し。


 そして、その光の中で、錆びついた神は、まるで何かを思い出したかのように、微かに、微かに体を起こした。


 住吉は、静かに息を吐く。


 その時だった。


 天照大神は、静かに周囲を見渡した。


 集まる神々の顔を一通り見つめる。


 しかし——


 次の瞬間、天照の視線が住吉の方へ向いた。


 その表情が、変わった。


 まるで何かを思い出したかのように、微かな違和感が走る。


 だが、天照の目は住吉を見ているわけではなかった。


 その視線は——


 住吉の隣にいる、錆びついた神を真っ直ぐに捉えていた。


 「……?」


 住吉は、何かが変わったことに気づき、錆びついた神を振り返る。


 すると、その神は、まるで雷に打たれたかのように震えながら、低く呟いた。


 「アマ……テラ……ス……」


 ――絵馬が落ちる音がする。


 ただその名を呼ぶだけなのに、そこには凄まじいまでの憎悪が籠もっていた。


 「……!」


 住吉は思わず一歩後ずさる。


 それまでか細く、崩れかけていたはずの神の体が、異形のように膨れ上がる。


 錆びついた体の内部——


 そこに収まっていたのが信じられないほどの、異様に発達した筋肉質の体が、錆びた殻を破るように隆起していく。


 ブチブチ……バキィ!!


 皮膚が裂ける音。


 関節が砕け、別の形に組み替えられていくような、異質な感覚。


 「な……」


 住吉の口から声が漏れる。


 昨日まで朽ち果て、もはや神としての形を保つことすら難しかったはずのその体が、まるで覚醒するように変貌していく。


 錆びが剥がれ落ち、肉が膨れ、骨がきしみながら新しい形へと再構築される。


 その顔には、確かな憎悪の色。


 それは、まるで長年の恨みを晴らすために蘇ったかのような、執念の塊。


 「……っ!!」


 天照大神は、一切の動揺を見せなかった。


 ただ、ゆっくりと、その巨大化しつつある神の姿を見つめる。


 そして、一歩、歩を進めた。


 その足音だけで、空気が震えた。


 それに呼応するかのように、変貌を遂げた神も、歩み寄る。


 一歩——


 二歩——


 その歩幅は、徐々に広くなっていく。


 最初は鈍かった動きが、次第に滑らかになり、まるで野生動物のような動きへと変わっていく。


 その肌には、もはやかつての神の面影はなかった。


 「住吉……!」


 恋愛神がいない今、住吉はただ一人、その場に立ち尽くすしかなかった。


 そして、目の前には——


 天照大神へと憎悪を向ける、異形と化した錆びついた神が、ゆっくりと、確実に天照へと向かっていく。


 これは、単なる偶然ではない。


 この場で、何かが起こる。


 それは、住吉にも分かった。


 そして、それが決して良いものではないことも。


 天照大神の御前に、二柱の守護神が歩み出た。


 「天威を冒涜するか、愚蒙の極みよ。」


 「汝が身、既に神理の外に堕ちたるもの。我らが刃、躊躇うことなし。」


 異形の神は、それを嘲笑うように笑った。


 「もはや神など要らぬ……! 神など、この世界には要らぬのだ!!」


 四本の腕が唸りを上げ、一瞬のうちに二柱の守護神を薙ぎ払う。


 ドゴォォン!!


 雷鳴のような衝撃が響き、二柱が吹き飛ぶ。


 「ぐ……っ!」


 「これは……穢れ極まる禍神か。」


 しかし、それを待つ間もなく、異形の神は一歩、また一歩と踏み込む。


 その歩幅は次第に広がり、まるで猛獣のような動きへと変わっていく。


 「汝、なおも暴威を振るうか! 神道を乱すもの、此処に討滅すべし!」


 「背きしものよ、御稜威の御前に屈するが道理!」


 だが、その声を無視するかのように、異形の神の巨躯の腕が天照大神の肩を掴んだ。


 静寂。


 まるで時間が止まったかのように、場の空気が固まる。


 「何たる狼藉……!!」


 「神域にてそのような振る舞い、報いは免れぬぞ!!」


 守護神たちはなおも叫ぶが、天照大神は動じない。


 むしろ、異形の神をじっと見つめた。


 「……そうですか。」


 その声は、静かに過去を辿るようだった。


 「土地を治めることができませんでしたか。」


 異形の神の指が、わずかに震える。


 「……阿良神あらがみ。」


 その名が告げられた瞬間、場の空気が張り詰める。


 「いまは……阿羅漢あらかんと言うべきですか。」


 住吉は、ぽかんとした顔でそれを聞いた。


 「……いやぁ、なんの話かねぇ?」


 まるで話についていけていない。


 そもそも、阿羅漢なんて聞いたこともない。


 だが、一つだけ分かることがあった。


 目の前の神は、もはや神ではない。


 そして、それを見つめる天照大神の目は——


 まるで、長年の知己に向けるもののようだった。

 


 ……神様というのは、不思議なものでございまして。


 信仰があれば力を得、信仰がなければ衰えゆく。


 これはまぁ、世のことわりと申しますか、仕方のないことでございますな。


 とはいえ、神様にも色々ございまして。


 中には、静かに時代の流れを受け入れ、信仰が薄れゆくことを「これもまた定め」と潔く受け入れる神様もいる。


 「衰退の美学」なんてな言葉もございますが、まぁ、こういう神様は滅多に人間の前には姿を見せません。


 それこそ、忘れ去られることすら役目とでも言わんばかりに、静かに消えていくのでございます。


 しかし——


 阿良神あらがみという神様は、そういうわけにはいかなかった。


 この阿良神というのは、元々は地方のささやかな神様でございました。


 それこそ、町の鎮守として、田畑を守り、川を鎮め、日々の暮らしの中で人々と共にあった神でございます。


 決して大きな神社を持つわけでもなく、派手な神徳があるわけでもない。


 けれども、人々はその存在を信じ、感謝し、祈りを捧げていた。


 そう、信仰というのは、決して大きいから良いというものではないのでございます。


 たとえ小さな村の小さな祠でも、そこに「想い」があれば、神は生き続けるのです。


 しかしですな——


 この阿良神は、ある日、突如としてすべてを奪われた。


 何か大きな戦があったわけでもない。


 人々の気持ちが薄れ、自然に信仰を失ったわけでもない。


 災害がすべてを壊してしまったのです。


 いやはや、災害というものは恐ろしいものでございますな。


 神社も町も、人々の暮らしも、一夜にしてすべてを流されてしまう。


 そして、それを止めることは、神様にもできない。


 「神様なんだから、災害くらい防げるんじゃないの?」


 そう思う方もいらっしゃるでしょうが、これがまた、そう簡単にはいかない。


 神様というのは、力のあるなしではなく、信仰がすべて。


 つまり、信仰のない神には、なすすべがない。


 どれほど村を守りたくても、どれほど人々を救いたくても、信仰がなければ、それはただの願いでしかない。


 そして、阿良神は、その災害によって、信仰を一方的に、無慈悲に、突然失ったのでございます。


 あれほど慕われていたのに、あっという間に無に帰した。


 いやいや、これは堪りません。


 もしも、ゆっくりと信仰が薄れていったのなら、まだ諦めもついたかもしれません。


 「これも運命、長い時の流れには抗えぬ」と、静かに受け入れることもできたかもしれない。


 しかし、そうではなかった。


 昨日まで賑わっていた町が、一瞬で消え去った。


 祈りを捧げていた人々が、ある日を境に、何も言わずに消えてしまった。


 神として、どうにもできず、ただ見ていることしかできなかった。


 ——それを、どう受け止めろというのか?


 阿良神は、ただただ、抗った。


 信仰を失うというのは、すなわち消滅と同義。


 しかし、それを受け入れることはできなかった。


 受け入れられるわけがなかった。


 だから、神としての姿を保ち続けた。


 錆びつこうとも、崩れようとも、ただ存在し続けるために——。


 しかし、それが何を意味するかといえば——


 神ではなくなった、ということなのでございます。


 さてさて、皆さま。


 信仰を失った神は、どうなるのでございましょう?


 あるものは、邪塊と化す。


 あるものは……。


 まぁ——


 この阿良神は、一体どちらだったのでございましょうな?


 いやいや、これは恐ろしい話でございます。


 さて、ここで一句——。


 「忘らるる 神の叫びは 誰が聞く」


 ……おあとが、よろしいようで。

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